はてなキーワード: ピーとは
せっかく買ったSwitchでゼルダでリンクと冒険したいんだけど、
森から先に進めなくなって、
右に行ってもずっと森
左に行ってもずっと森、
上に行っても下に行っても同じような森の画面が続いて次に進めないんだけど、
これって一体。
森から延々と抜けさせないまま
でね、
もしかしたら甥っ子ちゃん姪っ子ちゃんとお正月にSwitchで遊べるかなと期待してるんだけど、
今ちびっ子には何が人気なのかしら?って
バーチャレーシングなんて渋いところついても絶対に子ども喜ばないし、
私だって喜ばないわ。
姉に聞いてみたら
初見で甥っ子ちゃんや姪っ子ちゃんをボコボコに出来るわけないから、
きっと彼らの方が腕は上よ。
年の功という大人の見知や知見をもってしても
スプラトゥーン買うかー!って思うんだけど、
クリアする前にどんどんゲームを買っちゃうのも罪悪感極まりない極刑に処される覚悟がないとダメなので
いろいろとやるゲームが多くて忙しいわ。
まあそんなこんなで
寝不足だけにはならないように、
気を付けないとね!
そうそう!
覚えてる?
やっと先週整骨院終了!で腰パワー王からしっかりと腰パワーを授かって
腰異常ステータスは解消よ!
腰パワーには充分気を付けないとね!
まだまだ全快ぶっちぎりというわけではないけど、
若干フルパワーが出せないわ。
あとは日にち薬よ。
時が治してくれるわ。
一つ一つクリアよ!
うふふ。
それは理想としておいておいて、
珍しく今日は
意外とチキンが重くなくて、
結構満足感満足よ!
温まるわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
2月のピークは大邱の宗教施設が原因で、わりと明確だった。今月はソウルとその郊外の京畿道で感染者が拡がってて7割くらいそこに集中してて、やはり感染経路不明が多い。ほんとわからん。
なんというか、感動してしまった。
22年前、俺は中学生だった。その頃のインターネットはまだ電話回線を経由したダイヤルアップで、ピーガガーという音が世界の向こう側へ行くときの合図だった。
ご多分に漏れず、当時の俺にとってはインターネット=エロサイトだった。深夜、寝静まった親の目を盗んでパソコンを開いてはいそいそと欲望の旅に出た。
毒々しい色をしたテキストリンクばかりの荒海を巡り、表示に時間のかかる画像を別ウィンドウで開く間に、また新たなお宝を探す冒険を繰り返したものだった。
そんな回線速度の遅い世界で流行っていたのはアイドルコラージュ、略してアイコラと呼ばれる加工画像だった。画像編集によってエロ画像の顔をアイドルに差し替えるというシンプルなものだ。
中でも広末涼子はぶっちぎりで人気があり、その名前を見ない日はなかった。ブラウザ画面が真っ白になってから、ジリジリと少しずつ表示されていく広末は愛おしくさえあった。
スクリーン越しに今日も会えると思っていたのが別人だった時には「誰だよオマエ!」と激しく憤った。欲望に突き動かされながらも騙されずに品定めする冷静さがないと渡り歩けない世界だった。
Deep fakeで広末の動画を見たとき、20年の時を経てあの頃の人々の夢が叶ったんだと思った。みんなこれを求めていたんだ。右手に熱い情動を感じながら目の前が真っ白になった。
俺はデジタル・ネイティブ一歩手前くらいの世代で、10歳くらいからこっちインターネットを利用してずっとエロビデオを観まくってきたんだが、最近わりと勃たなくなってきた
よっしゃあシコるぞ!と思ってポルノサイトにアクセスするんだが、そこに並んだ三次元の女、とくに日本人女性の顔を見てるとウッという感じがしてチンポがシナシナになる まだ20代前半なのに!
思うに、いろんな女性のセックスを見過ぎたんだと思う シコるたびに5〜10、ヘタすると30人とかの映像を見ているわけで、たぶんこれまでにセックスを見た女性の数は1000人を超えている
俺は別に性豪ではないのに、1000人なんて帝王みたいな人数の裸どころかセックスを見てしまったのだから、そりゃあ性欲も擦り切れるというもの
モノホンのセックスには映像にない良さがあるというのには同意するけど、アレだって普通に飽きるし、ただスピーディに気楽に性欲を処理するんなら映像+右手が一番いいのは確か
なんとなくだけど、男の性欲は今後どんどん減っていくと思う 減るというか、ポルノコンテンツに吸われて現実社会に発露しなくなる
押井守ね。
鬼滅について今がピークなだけの作品って感じで語ったんだけど、
じゃあ押井守の作品が語り継がれてる?って話になるとそうでもない。
例えば『うる星やつら』なんかあの監督が作ってある程度話題にはなったけど、それは単にあの頃は娯楽が少なく話題になったのは『高橋留美子』が描いた作品だったから面白かっただけなんだよね。
んで、今もうる星やつらの話が出てくるとオンリー・ユーやビューティフル・ドリーマーが話題になりがちだけど、数が少ないから『それ』が出てくるだけで別に完結編でも良かったわけ。
それがビューティフル・ドリーマーが売れたせいか、自分の言葉に力があると思いこんじゃって今のあの人がいる感じ。
そんな監督さんが鬼滅を語って今がピークという。なんかなーって。
まあそういう『ピークを実際に経験してピークが過ぎ去った人』だから言えるのかもしれないけど、鬼滅は個人的にしばらくは伸びると思うけどね。
絶賛しているだけの人のコメントもどうかと思うけど、最初から最後まで気に入らないというようなスタンスでのコメントは胸糞悪いんだよね。
監督という立場であれば、作品の良し悪しをもっと細かく分析できると思うんだけど、そういう視界の広さは持っていないんだなって感じた。
オンリー・ユーの時は好きだったんだけどなぁ…。
0904 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/11/29 19:27:21
ことの発端は、彼が2019年8月22日に投稿したYouTubeからでしたが、
これをアメリカのオンライン紙「International Business Times(4月4日付)」
彼は『2019年11月から2020年4月に世界が直面する危機』というタイトルの動画の中で、
● 2019年11月からウィルスによるパンデミックが発生する
● 2020年3月~4月にピークに達し、世界は非常に困難な時期を迎える
● これは、5月29日以後徐々に収束していくが、6月末までは良いニュースがない
を見事に言い当てていました。それだけでなく、それ以降の予言もしているのが問題で。。
● 2020年12/20~2021年3/31までの期間は、スーパーバグ(超耐性菌)が現れる
その恐ろしさとは
・1~2日、または数時間以内に死亡
アナンド・アビギャ君が去年8月に預言していた動画:https://m.youtube.com/watch?feature=youtu.be+ID%3ARDGsYbZV%2F2%29&v=nZyNhpqMIHY
お前ッ……~! それで面白いことを言ったと思っているのかッ……。いや思っていない! 本当に自信があるなら「強い理由な」の時点で言い切って切り上げるはずッ……!
「ここテストで出るぞ」みたいな定型文をさしはさんで締めにしてしまう辺り……ネタの完成度に照れがあるッ…迷いがあるッッ……!!! だから付け足してしまったんだよォッ!@@!!!@~ピピーガガガー!!!
ほら……どうだ……無駄に付け足すのは……………みっともないだろう…………………よく俺を見ろ………………………恐れず……引き算で……繰り出せよ……今度から……な。
再感染あるでこれ
つーか感染・非感染が完全な2値じゃなくウイルス量が少ないと超軽症・無症候のまま何度でもマイクロ感染・回復して終了する
高濃度で一気に吸い込むと発病というか免疫が負けて自覚症状が始まる
抗体があれば軽症で済むかもしれんが免疫があってもウイルス量が多いとダメというかピークが重くなる
恐らくワクチンが無事完成・大量供給されて一定の性能が証明されても全世界の総ウイルス量というか感染能が十分減るまで人と人の接触を発病しないレベルに低く保ち続けないとダメ
満員電車に乗ってる奴らはみんなマスクに助けられて超超軽症無症候で徐々に市中に広まってると思う
一般人に説明する時の感染症のモデルは「免疫があればすぐにやっつけられるので感染・発症しません。免疫がないと抗体が出来るまで不利な戦いなので発病してから治癒します(何でも治癒するとは言っていない)」というのが多いがこいつはそんな風にハッキリと分かれない
ソースはすべて俺
「コロナはとっくにピークアウトしたんです!!!!だから旅行してもいいんです!!!」みたいなツイートしてて
「またピーク時に逆戻りしないように気をつけよう」じゃなくて
「ピークアウトしたからもう安心だ」って緩んでいいもんなのかなって思っちゃった
その辺どうなの増田
https://anond.hatelabo.jp/20201219095651
(出来事)
1856 日米修好通商条約締結
1860 横浜の外国人居留地において、競馬が行われる(居留地競馬)
1869 戊辰戦争終了
1870 東京招魂社(現・靖国神社)において、初めて洋式競馬が行われる(招魂社競馬。1898年まで)
1874 台湾出兵
1877 西南戦争開始~終了
1894 日清戦争開始
1905 日露戦争終了
桂太郎内閣による馬券発売の公認(黙許)(公認競馬。中央競馬のルーツ)
馬政第一次計画の制定(第一期:1906年~1923年、第二期:1924年~1935年)
帝室御賞典(東京)創設
1907 小岩井農場が種牡馬インタグリオーと20頭の繁殖牝馬(小岩井農場の基礎輸入牝馬)をイギリスより輸入する
1910 韓国併合
改正競馬規程(閣令)を根拠として、産牛馬組合による競馬が開催されるようになる(地方競馬のルーツ)
主要競走に騸馬(せん馬)が出走不可に。芦毛、月毛、河原毛が出走不可に(毛色の制限は1928年まで)
帝室御賞典(阪神)創設
1911 優勝内国産馬連合競走(連合二哩)創設(ラングトンが第1回の勝馬となる)
宮崎競馬場において、商品券付き勝馬投票が実施される(事実上の馬券)。1914年までに全ての競馬倶楽部が実施するようになる
1914 第一次世界大戦開始
1918 第一次世界大戦終了/シベリア出兵(1922年まで)
1922 帝室御賞典(札幌)創設(1937年秋まで。1922年~1924年は春のみ。1925年~1937年は秋のみ)
帝室御賞典(福島)創設(春のみ。1922年春~1937年春)。帝室御賞典(函館)創設(秋のみ。1922年秋~1936年秋)
1923 関東大震災/旧競馬法制定(馬券発売再開)/馬政局廃止
帝室御賞典(函館)創設(春のみ。1923年春~1937年春)。特殊ハンデキャップ競走創設
1925 濠抽混合創設(当初の名称は各内国抽籤濠州産馬混合競走。1932年より目黒記念)
下総御料牧場が2頭の繁殖牝馬(種正・稙道)をアメリカより輸入する
1928 横浜特別創設(1943年秋まで)/連合二哩(牝馬)創設(1928春~1941秋)
1931 満州事変
下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星旗・星若・星友)をアメリカより輸入する
1932 東京優駿創設(1950年より「日本ダービー」の副称が付く。ワカタカが第1回の勝馬となる)
下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星濱・星谷・星富)をアメリカより輸入する
1934 中山大障害創設
1936 二・二六事件
1937 日中戦争開始
天皇賞(帝室御賞典)創設(連合二哩並びに各競馬倶楽部で行われていた帝室御賞典を統合。当初秋2600m、春2700mで施行され、第3回からは春秋共に3200mで施行。ハツピーマイト(ハッピーマイト)が第1回(1937年秋・東京)、ハセパークが第2回(1938年春・阪神)の勝馬となる)
連合二哩はこの年限りで廃止。各地の帝室御賞典はこの年春限りで廃止
菊花賞(京都農林省賞典四歳呼馬)、優駿牝馬(オークス)(阪神優駿牝馬)創設
1939 皐月賞(横浜農林省賞典四歳呼馬)、桜花賞(中山四歳牝馬特別)創設(五大クラシック競走が成立)
1941 太平洋戦争開始/セントライトが初のクラシック三冠を達成
1944 競馬開催の一時停止。この年の競馬は能力検定競走として施行される(戦前の競馬はこの年限りで終了)
2歳(旧3歳)競走が競走体系に加わる
1949 朝日杯3歳ステークス(1991年から牡馬及び騸馬(せん馬)限定のレースとなる。現・朝日杯フューチュリティステークス)創設
阪神3歳ステークス(1991年から阪神3歳牝馬ステークスとして牝馬限定のレースとなる。現・阪神ジュベナイルフィリーズ)創設
1951 中央競馬における重勝式馬券の発売(1961年廃止)
トキノミノルが無敗で二冠を達成
日本中央競馬会(略称は1986年までNCK。1987年からJRA)発足(国営競馬時代の終了)
啓衆社(競馬予想紙を発行)が啓衆賞を設け、各年に活躍した競走馬を表彰することを始める(1972年から『優駿』(日本中央競馬会の機関紙)の主催による優駿賞、1987年から日本中央競馬会の主催によるJRA賞となる。最初の年度代表馬はハクリヨウ(ハクリョウ))
1955 日本中央競馬会が英国ジョッキークラブとの間に騎手に対する制裁の相互実施協定を締結する(国際交流の始まり)
東京大賞典(秋の鞍)創設
1958 ハクチカラが戦後の日本調教馬として、初めて海外に遠征する
1956 有馬記念(中山グランプリ)創設(メイヂヒカリが第1回の勝馬となる。八大競走成立)
1963 中央競馬において8枠制が導入される
メイズイとリユウフオーレル(リュウフォーレル)の2頭が年度代表馬に選出される
1965 シンザンが天皇賞秋・有馬記念を制覇し、五冠を達成(当時牡馬が出走できる大レースを全て制覇)
1967 栗東トレーニングセンター開場
1968 中央競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される
1970 大阪万博
スピードシンボリが初めて有馬記念を連覇し、1967年以来2度目の年度代表馬に選出される
1971 ニクソン・ショック
貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策が実施されたことにより、持込馬が有馬記念を除く八大競走への出走権を失う
トウメイが天皇賞秋・有馬記念と連勝し、牝馬として初の年度代表馬に選出される
1972 沖縄返還
地方競馬における騎乗速歩競走はこの年限りで廃止される(中央競馬では戦前限り廃止)
ハイセイコーが中央競馬に移籍し、好成績を挙げ、国民的人気を集める(1974年の有馬記念2着(勝馬はタニノチカラ)を最後に引退)
1974 単枠指定制度の導入(1991年10月5日廃止。最初の指定馬は同年の皐月賞におけるキタノカチドキ。最後の指定馬は1991年のセントライト記念におけるレオダーバン)
1977 テンポイントが有馬記念でトウショウボーイとのマッチレースを制し、年度代表馬に選出される(3着はグリーングラス)
1978 美浦トレーニングセンター開場