はてなキーワード: かいじとは
https://anond.hatelabo.jp/20230427000424
これを見て思ったのは、差別とかいじめのような人権侵害行為ってやっている人はそれが正当な行為だと思っているということなんですよね。
どこぞのハカイダー(95年版)のように「貴様が正義なら俺は悪だ!」という認識でいじめ(人権侵害)やっている人なんてほとんどいないと思います。
例えば今も差別扇動を続けている暇アノンの連中も「俺たちは身の程知らずの女性にこの世の摂理を叩きこむ」みたいな虚妄を信じ込んで仁藤さんなどへの人権侵害を続けていますし。
暇アノン自身は女性差別を「正当」だと思っているのは火を見るよりも明らかです。
それにいじめとか人権侵害の理由などというのも理屈と膏薬は云々でしかないんです。
仮に元増田がバッシングしている「被害者」の人格が変わり聖人君子になったとしても、多分増田の娘とかは新たな理屈をつけていじめを続けると思います。
特に学校の教室の人間関係というのは一度固定化されるとそれが覆ることはないですし。
身もふたもないことを言うと、どんな理屈があれ集団で相手を痛めつけた時点でもう言い逃れができないレベルでアウトです。
世の中には自分とは全く合わない人も大勢いますが、そういう人と時には自制とかもしながらなんとか落としどころを探ることが必要ですな。
まあすべての人がそういう処世術を身につけるようにするような方法を体系化して、それを教育現場で提示するのが必要だと思います。
増田は幼い頃から容姿のせいで何度かいじめられたことがあり、明らかにバカにされて見下されたり、不細工なキャラクターに例えられたり、見た目を揶揄するようなあだ名をつけられたり、色々だった。
正直、当時は何とも思っていなかった。というか思わないようにしていたんだと思う。いじめられているという事実に悲しんだりするということは、自分がいじめられているということを認めることに繋がってしまうから。
当たり前にカーストは低い方だったけど、まあそれなりに友達もいたし、部活も楽しくやってたし、不登校とかにはならなかった。
それでもやっぱり年齢を重ねるにつれて自分の容姿の醜さが気になってきて、垢抜けるための努力をしたり、整形というほどのことではないけど色々やったりもした。
そのおかげかは分からないけど、周りにあからさまに舐めた態度を取られたり、バカにされるようなことはほとんどなくなった。
でも、人と比べてお前は劣っていると評価されることへの恐怖が未だに消えないし、主にいじめてきたのは男子同級生だったのでどれだけ優しくされても男への恐怖感が消えないし、恐怖感があるから嫌悪感もある。今でも同世代くらいの男性グループとすれ違う時は容姿ジャッジをされて何か言われるんじゃないかと怖くて心臓がドキドキしてしまう。自分への自信は全くないし、自己肯定感も皆無。そのくせ自分を守るためのプライドだけはエベレスト級に高くて、性格も信じられないくらいに消極的な内向型で、もうどうしようもない。
結局、自分のような容姿コンプのある人が本当に欲しいものは、綺麗な顔よりも綺麗な顔に付属する周りからの丁寧な扱いとか、そのおかげでつく自信とか、自己肯定感とか、そういうものだと思う。少なくとも自分はそう。
もう手に入れられないけど。
自分は顔面に○○○万円課金しましたとかそのレベルではないけど、多分そういう人たちも本質的には同じだと思う。
見た目が綺麗なら、幼い頃から周りから丁寧に扱われるし、丁寧に扱われればひねくれることもなく、性格も良く育つことができる。
一方ブスは幼い頃から周りに雑に扱われるから当然ひねくれるし性格も悪いし、こうやって言い訳ばかりして何かのせいにするような人間に育ってしまう。
見た目が綺麗な人は中身も綺麗っていうのは、多分そういう仕組み。
丁度男児である事の加害性が話題になっていたので、関係ないけど思い出した事を書く。
私の母は性差別主義者の父(※1)に虐げられたことで心を病み、生まれてきた私が「欲しかった方」じゃない事を理由に殴ったり蹴ったり刃物を向けたり、時には心中を持ち掛けたり自殺させようとしたりしながら育てた。
一見するとこれは虐待のように思われるかもしれないが、これは母の中では筋の通った「裁き」なのである。
母は男が憎く、夫が憎く、それらに復讐したかった。しかし父には敵うべくもない。当時はSNSもないので社会を呪う術もない。(※2)(※3)
そしてしかし、ある時気付いたのである。彼女の手元に憎い男に似た、自分が生殺与奪を自由にできる、「将来の加害者」である私がいる事に。
「お前も女は馬鹿だというのだろう」「男は失敗しないんじゃなかったのか」そんな事を言いながら母は私を嬲った。
もちろん私は一度としてそんな事を言った事が無く、その発想も無いのだが、どうも父なりがそう言っていたらしく、つまり母に向けられたそれらの言葉は男性優位社会の罪なのである。
そしれ私は将来その男性優位社会の存在になるのだから、裁かれて当然…そういうロジックであったらしい。
暴力や暴言は年月を経るごとにエスカレートし、教科書やノートは破られて庭に撒かれたからテープで繕う必要があったし、喋れないように口に布を入れてからテープでふさいで殴る蹴る等された時は意外と息ができなくて死にかけた。
跪かせた子供に蹴りを入れて「ごめんあそばせ!おほほほほ!」とかやる人間は母しか見た事が無く、正直これまで対面したパワハラ上司達をも超えている。
背中に枝切りバサミや包丁を突き付けられながら宿題をやらせてもらったり経験のおかげで倫理観とやらもグチャグチャである。
よくミソジニストにならなかったなと思う。(それでも親に愛されたかったなどの背景から性別を否定すると都合がよかったので性別が嫌いな人間になった)
ーーーどうでもいいゾーン終わりーーー
まあ私の不幸自慢はともかく、「将来の加害者である」という罪で裁かれる経験は、(申し訳ないのだが)個人的にはあまり快適とは言えなかった。
自分のした訳ではない罪を問われ、「お前もいずれそうなるであろうから」と詰られるのはあまりにも「自分を見てもらえていない」。
暴力を振るわれない時でさえ辛かった。
私が親に自分を見て欲しがるような出来損ないのクズだから辛かっただけかもしれないが、正直普通の人でも辛いのではないだろうかと思う。
また、親の方にしてもそういう「万能の剣」を持つ事自体が危険でないかとも思う。
パワハラとかいじめもそうだが、「なんでもそれで黙らせられる理由」「あいつを攻撃していい理由」を持ってしまうと、人はエスカレートするのである。
母の場合は、最初は一応「失敗に対応した叱責」の体で私を攻撃していたのだが、途中からはかなり楽しんでおり、「お前は罪人だからサンドバッグに使っていいのだ」くらいのノリで私の本来の罪(※3)とは関係ない、親戚の娘に反抗的な態度を取られたのは父の弟である叔父の血がどうとかそういうこじつけじみた理由でも私を攻撃するようになっていった。
私はどうにか母の気にいる返事をしてやり過ごしていたが、そのような拡大解釈に応じるのはもはや完全にプレイであり、あの時の私は明らかに母のオナホ状態だったと思う。
…まあ私は性別がもたらす文化それ自体を嫌うように育ったので、試みとしては正解だったのかもしれない。あるいは母が異常者なだけで、100人に99人は失敗しないのかもしれない。
だが男児原罪論で子供を「裁ける」快感は、段々と拡大解釈を生じさせ、ラインをヤバい方にズレさせていき、やがて決定的な破局を誘発する危険性を孕んでいるのではないかという気がしてならない。
「息子を属性で裁く」という試みに100人の1人が失敗した時、生まれてしまった「出来損ないの男」がもたらす負債はどれほどのものだろうか?(※5)
私は高校に上がった頃母をぶん殴って(暴力を振るわれて育ったので「力ずくでわからせる」事が親子間で普通に通る理屈だと認識してしまったのである)殺しかけた事があるが、正直大してまずかったと思っていない。私の痛みの1000分の1にも足りないし、もっと苦しむべきだとすら思っていた。子供をそんな冷酷なバケモノに育ててしまってはおしまいなのである。(※6)
※1…だったらしいがよく知らない。父も私の首を絞めていたので正直両方敵だった。
※2…父が転勤続きで母に友達があまりいなかった事も災いしたように思う。
※3…父は仕事が忙しくて家にあまりいなかった。透明化する父親だ。
※4…男であるという事
モラトリアム期間に慣れ親しんだオタクコンテンツから離れて早10年。久々に時間ができたので話題の「ぼっち・ざ・ろっく!」を見ました。
驚きました。面白い。
ストーリーやギャグの魅せ方が上手い。作画もクオリティが高くて、何より音楽が良い!これが現代アニメか……(「Hot knows...」 や「私の恋はメガラバ」みたいな二次創作が見当たらないところにも時代を感じました)。もちろん手放しで礼賛できるコンテンツなどこの世にはなく、作品独特の違和感・矛盾は存在します。それらのほとんどは「脱臭」の一言に集約され、きらら系コンテンツの宿命か、すでに論考がいくつも転がっていたので論をそれらに譲るとして、私がここで語りたいのは曲中歌の歌詞。メロディーラインや編曲のクオリティの高さはリョウ先輩が天才だからで済みますが、ぼっちちゃんが悩んだ末の自分らしさにしては歌詞の踏み込みが足りない。経験に裏付けされたリアリティがない。フレーズがふわっとしていて、今の流行りにおもねったファッションみを感じる。真のぼっちは、ロックは、孤独は、そんなものではないはず。
久々に孤独に浸りたくなったおじさんが、酒に酔った勢いで自分の好きなぼっちな曲を残します。おじさんは自分語りが宿命なので仕方ないね。なぜ全てボカロ曲か? 10年前の孤独なオタクは友達がいないのでロックを知る機会がなく、ボカロしか聴かないんです(偏見)。
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/25096.html
作詞:nyanyannyaさん
ぼっちちゃんがぼっちをこじらせてリスカしだしたら書きそう度:★★★★
さっそくロックではない曲から紹介。ほぼ同名の梨本Pの曲とは別です。どっちも知らない? 10年前寝てました? ぼっちは精神が崩れるし、不健全なオタクなので、自分の気に入った自傷フレーズをメモして歌詞に並べてしまいます(偏見)。厨二病感あふれる歌詞の中で最高に孤独を感じる一節が
『生まれる以外何か悪いことした?』
彼女(彼)は自分なりに他人に迷惑をかけないように人生をかけて頑張って、努力して、その終点がこれだったのでしょう。作者の生き様が透けて見えるところがお気に入りです。「善いことをしてきたはず」というエゴが、最高に孤独ですね。
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/25140.html
作詞:Neruさん
作者のNeruさんは「ロストワンの慟哭」や「脱法ロック」が有名なのでみなさんご存知ですよね。知らない? 初等教育受けました? ぼっちは常に厨二病で、人から見られることを気にする自意識過剰な異常者なので、人生を劇場に例えがちです(偏見)。人生の一番底感あふれる歌詞の中で最高に孤独を感じる一節が
『教室の隅で読書をする 凛とした長髪のあの子は 僕が恋してると囃し立てられて いじめに遭いました』
歌詞は基本的に抽象的・婉曲的なのに、ここだけリアリティが突出しています。これ絶対作者の体験談だろ。いじめた方かいじめられた方か、傍観者か。ぼっちは社会と無関係でいることすら許されない。他人が傷つけられて自分が傷つき、孤独を深めていくところが最高に孤独ですね。容姿端麗な作中のぼっちちゃんは絶対に書かない歌詞ですが。
https://w.atwiki.jp/utauuuta/pages/3300.html
ここでいきなり重音テト(≠ボカロ)曲を紹介。UTAUはジェネリックボーカロイド? 死にたいようだな? ぼっちは常に社会的弱者で、虐げられているのに反抗できない精神的弱者なので、いじめエピソードに事欠かない(偏見)。色とりどりのヤンキーヘイトの中でも最高に孤独を感じる一節が
『法律が許すのなら 何度だって殺してやる 大げさに聞こえるなら 君は今も理解ってない』
「怒ってない」から「許されてる」わけではないのは作中の歌詞のとおり。前段だけなら「ファッション孤独」でしょう。後段の独特な凄みがこの歌詞の真骨頂。加えて1:36からの歌詞はとても辛くてとても好きな歌詞なので、ぜひ動画で確認してください。
結局のところ作中のぼっちちゃんは設定上、いじめや「病み」と無関係な美人さんなのでこんな歌詞は書かないでしょう。ただ、歌詞はもう少し、作詞者の「ぼっち」な実体験、言ってしまえば「こじらせ」がにじみ出た方が好みです。私の。ちなみに私が結束バンドに10年後に歌って欲しい曲は「ナンセンスの塊」(はるふりさん)です。
https://w.atwiki.jp/utauuuta/pages/3699.html
もっと孤独を感じたいので、みなさんの好きな孤独な歌詞があればジャンルに関わらずどんどん教えて下さい。「生きてる」を実感しましょう。
きのう、かいしゃでえらい人たちが、もっとえらい人たちのまえで、これからのもくひょうとかをはっぴょうする会がありました。
ぼくはえらくないので、かいじょうにいって、うしろのほうのいすにすわってきいていました。
いろんなところの、いろんなぶちょうさんが、いろんなことを話していました。
おとこの人はみんな、だいたいはおかねの話をしていました。もっともうけますと口をそろえて言っていました。
おんなの人はみんな、じぶんがつらいときにうちのせいひんを食べてすくわれたので、そんなせいひんをもっとつくりたい、みたいなことを言っていました。
おとこも人はだれも、みょうなからげんきがあって、なにかというとウケようとしているように見えました。ウケている人もそうでない人もいました。
おんなのひとはそろってつかれているように見えました。
ぼくはでんわをかけないといけないしごとがあったので、さいごのしゃちょうの話はきかずに出ていってしまいましたが、出て外のくうきをすって、ぼくもなにかつかれていることに気がつきました。
そしてみじかいでんわをおえて、とてもあぶらっこくてあじのこいラーメンをひるごはんにたべました。はんチャーハンもつけました。
こんなせいかつをしているとながいきできないなと思いました。
当該シナリオプレイしたけど、ゲームというファンタジーにおけるいじめ問題の落とし所としてかなり上手くやってると感じたけどなあ
大本のいじめっ子たちは学校から退場済み、いじめから身を守るためにつるんで少々おいたをやらかしたいじめられっ子たちは反省のための奉仕活動と共に居場所を残すことを許される、ってオチ
いじめを知っててなんで放置したの?とかいじめに気づかない学校はだめじゃんって話に普通なりそうだけど、そこはいじめっ子が退場したあとにあたる今から数年前に校長含め教師陣全員が入れ替えられた上、新しい教師陣にはいじめが隠蔽されていたという形で解決してる
さらに新しい現校長は、自らとんちきな仮装までして生徒や関係者から聞き取りを行って隠蔽されていたいじめについて把握した上で、事情も知らずただ排斥しようとしたことについていじめられっ子集団に謝罪までする
ゲームやアニメじゃ、ハイ仲直り!あるいは勧善懲悪になりがちないじめ問題を、限られた尺の中でうまくデフォルメして解決してて感心したよ
車椅子ユーザーの言う「歩ける人は階段使って」なる暴論を、支持している人の多さにびっくりだ。主張している人が可愛い女の子だからか?
これって我が儘とかそういうレベルではなく、もはやいじめに等しいと思うんだけど…?
何故ならば、「歩ける」という言葉は「階段が上れる」という意味を当然には内包していないからだ。平らな場所を歩く分には全く問題がなくとも、階段を上るのは体力的にきつい人も世の中には大勢いるからだ。歩けると階段に上れるはイコールではない。何故「階段使える人は階段使って」としなかった?
歩くのと階段を上るのでは身体にかかる負担が全然違うよ。その証拠に踏み台昇降が体力テストに使われてたりする訳だし。個人が健康のためになるべく階段を使うようにするのは良い事だと思うけれど、他人がそれを強要しちゃ駄目でしょ
「歩ける人は階段使って」って、「歩ける人は泳いで」くらいに無理難題の押し付けだと思うんだけど、疑問に思わない人が多いのが不思議…。みんなそんなに体力有り余ってんの?
ていうか自分はエレベーターって滅多に使わないし、「歩ける人」がエレベーターを使うのって普通は階段だったら疲れて無理なような高い階だと思うので
自分の場合デパートの6、7階までなら、使うとしてもエスカレーターだよ…エレベーターなんて使うのは大体8階以上だよ…その高さを階段はきついよ…
何故普通に「階段かエスカレーターを使って」と言わず、わざわざ体力の要る階段に限定するのか。それを支持する人達がいるのか。違和感しかない。