はてなキーワード: 「母」とは
母子家庭で育った。
勉強する意味もわからず勉強に励んでいた。おかげで中学時代は成績自体はそこそこだった。
たが高校時代、思春期の頃に自分の将来についてちゃんと考えることが出来なくて
成績は急落、一浪した。母子家庭で一浪、それを許してくれる母親に感謝し心を入れ替えて勉強した。
全ては自分のため、そして家族の一員として期待に応えるためだった。翌年、志望校には合格できた。
以前の自分は家族の期待には応えるように行動していた。実際自分は、自分自身よりも他人のために行動するときのほうが集中していた。
だがその結果、自己肯定する能力は人より劣ってた。就活も苦労した。拠り所を家族のためだと思って頑張った。やがて内定は得られた。
自分には趣味があった。他人には話しにくい趣味だが自分の思春期の言いようのないストレスのはけ口として
何度も心の支えとして機能していた。生憎 お金はそこまでかからないので中高大になってもそれを続けていたし
就職してからは、友人とも会うこともなくなり益々のめり込んでいた。どこかで常人の閾値を超えてしまっていたようだ。
数年前にその知見を活かして本を出さないかと出版社から打診があった。あの日の青天の霹靂のような瞬間を今でも覚えている。
二つ返事で執筆開始。好評だったのかその一冊以外にもその後も何度か仕事があり、現在はリーマンと二足の草鞋で活動している。
その当時の話だが、出版したことが嬉しくなって母親に話した。しかし母は別にその趣味に理解は示さなかった。それ自体は別に良いのだ。
それよりも今度帰ったのなら一緒にゴルフでもしないかと誘ってきた。どうやら一緒にコースを周るのが夢だったそうだ。
執筆があるからと断った。生憎 ゴルフには全く興味がなかった。母親の思い通りに、家族に帰属意識を持たない故の行動だった。
母は兄弟姉妹のなかで唯一 このようなわけの分からぬ趣味を持った自分が理解できなかったと思う。母の描く理想にはなれなかった。
家族を離れ地方に就職し一般的な社会の荒波に揉まれた自分は、いつしか家族に感謝はしても併合する気持ちが無くなっていた。
話は変わるが自分は進撃の巨人のエレンに非常に共感している。自分の自由のためになら何だってする精神は日々の生活で活かしている。
例えば自分は会社で、献立が決まった弁当を頼むことがない。必ずコンビニで買う。理由は自分で食べるものは、自分で選びたいからだ。
献立の決まった弁当は、考えることを止めた人間の選択だと本気で思っている。もしその日死んだら絶対にその事で自分は後悔すると思う。
たとえ自分が選んだ事で不幸が生じても、その選択を選んだ事自体に後悔はしない。同僚にこの話をして理解してもらった事はないが気にもしない。
冒険の反対が「母」というのは正しいと思う。家族という帰属組織の中で生きていた自分にとっては15年くらい
住んでた6畳半のアパートは正に牢獄のようなものだったと振り返れる。敢えて嫌味のようにその事を告げるつもりはない。だが未だに牢獄の中で
生活せざるを得ない母には同情している。せめて役割めいた母ではなく、本名で向き合えたらもっと話せるのになと思う。難しいんだけどね。
人生に疲れている。
癒しがほしい。
しかし40が見えた今、癒しは「女」であるかもしれないがけっして「セックス」ではないと感じている。
柔らかなおっぱいの中で何も考えずに眠りたいのだ。
話は飛ぶが、私は母親が嫌いだ。
詳細は省くが、とにかく両親ともにモラハラ親な家庭だった。
命の心配まではなかったが、崩壊した家庭の中で虐げられながら私は育った。
だから母親が嫌いだ。絶縁まではいっていないが、18歳を越えてからまともに顔を見て会話をしたことはない。
話を戻すが、男が、というか僕が求める「癒し」、
僕を優しく温かく包んでくれる柔らかなおっぱい、というものは世間一般では「母性」に近いものとして認識されている。
私は「癒し」がほしい。
しかし「母性」というものは私にとって敵だ。「母」を連想させるものは全て敵なのだ。
ここに私の苦しみがある。
温かく柔らかなおっぱい。そこに「癒し」を求めた私はいつも「母性」に刺される。
私に癒しが与えられる日は来るのだろうか。
人生つらいです。
英語と違い日本語は主語を最初にする必要がないのに、主語を最初に置くよう指導している学校教育が悪い。日本語の文章は主語と述語の間が離れるほどに理解が困難になるからだ。
1番目の文章を例にして説明する。主語の「母」が先頭に、述語の「見送った」が末尾になっているので、間の文章が何の修飾語になっているかで解釈が分かれることになる。このような文章は良くない。句読点を用いることで2番目や3番目のように読み手に解釈させることができるが、そもそも句読点を使わずに済む文章を心掛けるべきだ。
2番目の文章は以下のようにすべきだ
笑いながら学校に行く娘を母は見送った
同様に3番目の文章も以下のようにする
主語はできるだけ文章の後半に置き、述語との間を空けないようにするのが良い。また、句読点は多ければ良いというものではない。
母は、笑いながら、学校に行く娘を見送った
2番目と3番目の両方の句読点を用いた文章だが、「笑いながら」が母と娘のどちらにかかっているかがわからない。これなら句読点を入れないほうがまだましだ。文章に句読点を用いるときは、本当に句読点が必要なのか、句読点が無くても理解できる文章に書き換えることはできないのかを念頭に入れるといい。
先日、友人から聞いた話。それがあまりにも面白かったから、別の友人らにそのまま話したら、新たな視点も加わって、さらに面白かったので、ここに記す。あ、ちなみに、全部嘘なんで、そこんとこよろしくね。
パッと思いつくのは、M崎、T野、A野だろうか。MもTも、どうやら学生時代、本当にモテなかったらしい。結果、M作品に出てくるのは「女」になる前の少女や老婆、または「母」ばかりとなる。
一方、モテなかったTは、とにかく「女」が分からなかった。結果、Tの作品世界に登場する女性は不可解な行動原理に基づくヤバい人物が多くなる。
他方、学生時代よりモテまくったA野作品においては、「女」はつねに何かしらセクシャルに主人公を狙うような配置で描かれている。それゆえ、主人公は「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…」と言いながら踏み出して、しかし「キモっ」と言われてしまう。
それぞれの作品世界に現れる「女」の描き方に、無意識の人間理解が表明されているように見える。もちろん、作品と人格をつないで考えるのはアレがアレでアレだからね。それは前提のゲスパー解釈ね。
で、そんな代表的アニメ監督のM崎に対してマウントを取れるのが、T畑監督。この二人を並べてヒヒョーしたO塚によれば、M崎の「森の中に昔から住んでる」作品の場合、駆け抜けた道の先には大きな毛玉がいる。しかしT畑作品の場合、そこには人の死体があった。
M崎作品では、煤玉の妖しをパンッと手で叩くとファンタジーが広がるが、T畑作品では、虫の命の光が奪われている。
M崎の最近の作品だと機械狂オタクに付き合わされた「女」は赦しの方便として描かれていた。一方、昔話を再構築したT畑作品では、容姿だけに価値を置かれて主体性を奪われた「女」の救済は「月へ向かうこと≒死」のみである。
とまあ、こんな話をネット仲間にしたら
唾液にこだわりを見せた「異常性癖」の若手最有力のS海はどうか、と聞かれた。果たして、この並びに置けば、どう見えるだろうか。
以上、架空の国の、架空の代表的アニメ監督を「女」で読むゲスパーなお話である。
解散!
趣旨に同意しつつ、この文章の中で自明とされている主体と客体がこの類の絵で混同されやすい時代性においても言及したいと思う。
絵画を専門的に習ったことがある人なら、あの絵の構図が客体的であるというのはすぐ分かることなのだけれど、見ている人たちにとってはそれは必ずしも自明ではなかったりする。
それは萌え絵に限らず、漫画絵がフォロワーとして(前例の模倣)成立する部分があるからで、それは描いている人が意識的かどうかだけでなく、鑑賞者がそれらを当たり前のことだと分かった上での表現だと言うことだ。
なので、鑑賞者はそれらが元々を遡っていけば、性的記号を女性から抽出したものであるという意識が薄くなりやすいのではないか。
「母」という漢字の成り立ちを知らないまま、「母」という漢字を使用しているようなもので、そこを指摘されても、という当惑も(特に成り立ちから離れてしまった世代にとっては)受けやすかったりもするんじゃないかと。
それと、YoutubeやTiktokのような動画投稿だけでなく、携帯やスマホのように「自撮り」表現になれてしまっている世代(時代)にとって、主体と客体は渾然としている場合が多い。
自分が見せたいものを見せる「主体」と、世間に受ける(バズりやすい)「客体」とが、自分にとってさえ解け合って分かりづらくなっている。
バカッターなどは、そういった中で出現する現象の一つ(全てがそれで説明できるワケではないけど)でもあるだろうと思っている。
趣旨に同意しつつ、この文章の中で自明とされている主体と客体がこの類の絵で混同されやすい時代性においても言及したいと思う。
絵画を専門的に習ったことがある人なら、あの絵の構図が客体的であるというのはすぐ分かることなのだけれど、見ている人たちにとってはそれは必ずしも自明ではなかったりする。
それは萌え絵に限らず、漫画絵がフォロワーとして(前例の模倣)成立する部分があるからで、それは描いている人が意識的かどうかだけでなく、鑑賞者がそれらを当たり前のことだと分かった上での表現だと言うことだ。
なので、鑑賞者はそれらが元々を遡っていけば、性的記号を女性から抽出したものであるという意識が薄くなりやすいのではないか。
「母」という漢字の成り立ちを知らないまま、「母」という漢字を使用しているようなもので、そこを指摘されても、という当惑も(特に成り立ちから離れてしまった世代にとっては)受けやすかったりもするんじゃないかと。
それと、YoutubeやTiktokのような動画投稿だけでなく、携帯やスマホのように「自撮り」表現になれてしまっている世代(時代)にとって、主体と客体は渾然としている場合が多い。
自分が見せたいものを見せる「主体」と、世間に受ける(バズりやすい)「客体」とが、自分にとってさえ解け合って分かりづらくなっている。
バカッターなどは、そういった中で出現する現象の一つ(全てがそれで説明できるワケではないけど)でもあるだろうと思っている。
ぶっちゃけ、向こうにしたら、自分のテリトリーに異物の「若い雄」がいるだけでイラッとするわけだよ。おまけにのんびり過ごしたい休日の朝から示威行為とかしてさ。しっぽ丸めて最大限に自分が「雄」だってこと隠して片隅でぶるぶる生きてる病気同然の様子ならまだ見逃してもいいが、平然とまるで自分のテリトリーのような顔をしていい年した雄が居座っているんだろう?そんなの追い出すしかなくないか?
動物で考えればすぐ分かる話だが、要するにお前は、いい年して稼ぎもせずごろごろしてたせいで自分のテリトリーを奪われたわけ。今まではカーチャンが一所懸命テリトリーを守ってたんだよ。いずれお前が成長して一緒にテリトリーをまもるパートナーになるかもと期待してな。でもダメだった。期待外れだったんだ。息子はカーチャンに全部任せて、何もしないできた。カーチャンいい加減疲れちゃったんだよ。そんな時、流れ者の雄がカーチャンに「一緒に守ってやるぜ」ってきたわけだよ。分かる? それが今なわけ。
お前にワンチャンあったとすれば、カーチャンが再婚話したときに全力で反対する、これしかなかった。「今まで心配かけて悪かった。俺が必死に働くから、カーチャンも再婚とか考えないでくれ。今まで通り家族で暮らそう。」と。でもお前はスルーしたよな。カーチャンが壮年の雄引き入れるのを認めた。もう終わりだよ。相手の雄にしてみたら、せっかくメスとテリトリーを手に入れたら、子供の振りした気持ち悪い若い雄がいて、そいつがいる限りメスは「母」のようにふるまうわけだ。邪魔で仕方ねえ。
多分、これまでに百回くらいカーチャンは言われてると思うぜ、「あいつを自立させたらどうだ?」ってな。カーチャンはそれをお前に伝えてない。お前の異様にのんびりした対応(仲良くやっていきたい)とか含めてなんか事情があるんだろうけど、正直危ないと思うわ。貯めこんでとことんまで行って爆発するやつ。
悪いこと言わないから、奪われたテリトリーからは、さっさとしっぽ巻いて逃げ出せ。もうそこは「お前の」家じゃない、他人の家だ。じゃないとそのうち殺し合いになるぞ。比喩でなく。感情というのは理性より強い。つーか、なまじ理性を働かせて感情を抑え込んでる現状が一番やばいんだって。
家族として義父と「仲良く」やりたければ、よそにテリトリー作って、別のメスとそのテリトリーを守ってる姿を見せろ。離れるだけじゃ、そういうオスは安心しない。疑心暗鬼になって、なんのかんのと干渉してくるぞ。二度とここには帰ってこない、と全身で示すぐらいでやっと「他人同士のように」仲良くなれるかもしれない。「家族になりたい」?
特に根拠はないものの、もう連絡は来ないような気がしていたので、正直ちょっと驚いた。
文面は簡単な挨拶と、実家の所有権を母へ譲渡予定という連絡、そしていつもの仕事の発注。
こういうことに相場というものも無いのだろうけど、一気呵成に勢いで進めるようなものなのかと勝手に考えていたこともあり、
どうもこのテンポにはついていけないところがある。
どこまで進んで、どこで止まるのだろう。
着地地点も見えぬまま、ためらい傷を重ねていくような、後味の悪さ。
「将来のことについては、母とも少しずつ相談して」、なんて書いてあるけど、「将来」を「母」と少しずつ「破壊」してるんだよな、「父」は。
「私はよく佐藤と間違われますが、私の隣の席にいるのが佐藤です」を「『私』は佐藤である」と誤読する人がどうやって文脈を理解するの?
「私の父は昔から暴力を振るっていた。昨日、とうとう私の子供に手を上げた。私は父を殺した」から
「私は父を殺した」という文を抜き出して「『私』が殺したのは誰ですか?」と聞いた時に
「母」と答えた人がいたとして、その人が正しく答えを導けないのは前の文が無いせいなの?
文脈を重視してる人に限って
「短い文から、短い文の内容だけで読み取れる情報を適切に判断できなければ、より長い文も読めない」
という文脈を読み取れてないのはなんで?
「短い文を読めるようになれればそれでいい」なんて誰も言ってないし
「長い文を読めるようにまず短い文を正確に読み取れるようになろう」という趣旨が理解できないの?
いやードエロかったですね!
「性」と「母」が繋がることをまったく隠すことなく見せつけてくる話でした。
大きな、生命の尊さみたいなものの上に「性」と「母」をどーんと乗せて同列に扱い、なんかイイ感じの素敵なお話にまとめ上げる手腕は流石だなと思いました。
すごいよマリィ。
茅野さんのキャラクターがまあとんでもなくエロいんです。唐突にブチ込まれる寝取られ展開には大興奮しました。
直接的な性表現がないにもかかわらず、妊娠しているお腹を撫でるだけでこんなにエロさが表現できるのかと。
またキャラクターの造形的に身体的な性的アピールが乏しく、服装は露出が少なく、胸部も臀部も特に主張はない分、
やや膨らんだように見えるお腹を愛おしそうに撫でるという行為を引き立てていましたね。
まあこのキャラクターは作中、人生めちゃくちゃになるんですが、望まぬ性行為を受け入れ、望まぬ妊娠を受け入れて母になる強さが描かれていました。
そうして母になったにもかかわらず母らしいことは一切させてもらえず、産んだ子にも会えずでとにかく悲惨でした。
自分を助けに来たかつての彼氏が目の前で殺され(たと思っていた)てからは病みっぷりが進行し、抱くだの抱かないだのでヒスっている姿がかわいそうでとても可愛かったです。
やっぱり天真爛漫でハツラツな女の子が汚され堕ちていく様は魅力的だなと思いました。
このめちゃくちゃな人生の中でどのように望まぬ性行為、妊娠を受け入れていったのか、その過程が見たい。具体的にいうと薄い本で見たい。
そして梶さんのキャラクターが輪をかけて病んでいくんですが、病みすぎて原理主義的なことを言い出すわけですよ。
でもね、それも仕方ないですよ。
自らの手の中にあったあんなにかわいい彼女がさらわれ妊娠させられ、助けに行けば子のため行かないとか言われればそれもやむなしですよ。
それは母として強くなった彼女との対比としてそう描かれているわけですけど哀れでしたね。
後半には生と死の対比みたいなシーンがあるんですが、そこで夜空に響き渡る日笠さんの喘ぎ声とても良かったです。
母が言った。
「本当はいい人を見つけて、結婚して、その人を頼って生きて欲しい。最後に『いい人生だった』って思ってくれたら、それでいいんだけど」
「いい人生だった」
って思うの、本当はすごく難しいことなんじゃないかな?と、泣きながら話す、母の言葉を聞きながら、少しだけ思った。
ここから先は少し昔話になるけれど、私の父は私や妹には優しいけど、母や店員さん、「自分より下」だと彼が思っている人間には、凄く横柄な人間だった。「DV」という言葉が出来る前からずっと、父は怒ると母に手をあげて、家の物を壊して、暴れた。
基本的には父が好きだったけど、そういう面がずっと苦手だったし、怖かった。
そんな父を相手にいつの間にか母は鬱になってしまって、暫く精神科(心療内科、という言葉はまだ耳馴染みのない時代だった)に通うようになった。
少しだけ母の様子が落ち着いてきた頃、父はパーキンソン病になった。
若年性パーキンソン病の患者さんって、すごく「ギャンブル」や「アルコール」に依存する可能性が高いらしくて、礼に漏れず、父は今までほとんどしなかった、パチンコをするようになった。
「あと数年で動けなくなる、だから今のうちに遊ぶ」とでも言うように、父は、何年も何年も、湯水のようにお金を使った。何を言っても聞かないし、暴れて、怒鳴って、「自分だけが可哀想」なのだと言う。病気のせいだし、薬の副作用のせいだと最初の頃はわかっていた。けれど、いつの間にか、そう納得することも出来なくなった。父を憎く思い始めて、もう何年も経った。
ここまでが前置きで、心身のバランスを崩した母、初めて人に対して「憎い」という感情を抱かせた父、そんな二人を見て育ってきた私(なんとか社会人として慣れてきて、ギリギリの生活を送っている)が、「結婚」に対していい印象を持てるだろうか。
って思えるかとか、思ったより色々考えてしまって、本当に「楽しい人生」なんか送れるのかなって、一瞬遅れてめちゃくちゃ不安になっている。
多分、こんなこと誰にも相談できないけど、相談できないから、こんなところに吐き出してるんだと思うけど、私、自分の家族がちょっとした弾みで「不良品」になってしまったと、思ってるんだと思う。
その「不良品」になった瞬間が、例えば私が社会人になってからだとか、30を越えてからだとか、立派な「大人」になってからなら、まだ受け止められたんだろう。
ただ、それを受け止めるには私はまだまだ小さい子供だったから、抱えきれずに「家族ってこんなもんなんだ」とか、「好きになって、結婚して、子供が出来たって結局これなんだ」って色々思うし、結局のところ、
っていうのが今さらよくわかんないのだ。
そういう像を思い描くことは出来るけど、めちゃくちゃ他人事で、自分が「母」としてその中心にいることは考えられないし、「子供」だった時分の事を思い出すには、余りにも時間が経ちすぎていて、もうわからないのだ。
楽しかったし、幸せだったはずなんだけど、その上に重なった「家族」への別の印象が、余りにも大きすぎるのだと思う。
結局私は何とか大人になったけれど、中身はまだ幼い子供とさほど変わらないのだろう。
最近「機能不全家族」という言葉を知って、「あ、うちの家じゃん」と、ものすごく思った。
家族の形として、人間として、うちの家は不良品の集まりだと思う。勿論、私自身も、自分の事を「不良品」だと思っている。めちゃくちゃ情緒不安定だし。
不良品の中で育った「不良品の子供」が、「幸せな家族」なんか、作れるのだろうか?
っていうのが、まず、大きな疑問。
不良品の子は結局不良品だと、思う。なら、その不良品がまた子供を産んだら、その子も「不良品」になってしまうんじゃないだろうか?
なら、「不良品」になってしまうことがわかっていて、態々産んでしまうなんて、その子がかわいそうなんじゃ?いらない苦労をさせてしまうんじゃないだろうか?生まない方が、結婚なんかして、元を辿れば「ただの他人」に不良品の人生まで背負わせるなんて、どうかしてるんじゃないだろうか?
色々ぐるぐると考えた結果、「不良品」が母の望む普通の人たちの「幸せな人生」を送るのって、めっちゃ難しいことなんじゃないか?って、思ってしまったのだ。
ここまで書いたけど、多分、母は私が自分の事を「不良品」、自分の家族も「不良品」だと思っていることを知れば、多分、また泣くと思う。
読みにくい文章でごめんなさい。