はてなキーワード: モラトリアムとは
いつか無かったことにされる。
その前に、「硝子ドールだけは人類史に残すべき」と伝えるために俺はここにやってきた。
俺は音楽のことはあまりわからないのでメタルだとかディストーションだとかの話は誰かがやってくれると信じてひたすら歌詞の解説をする。
硝子ドールは、鏡に映した自分に問いかけるようにして紡がれる詩である。
その本質は「変革を望む気持ちと拒む気持ち、変革への確信と普遍への確信の矛盾、自己憐憫と自己批判、そんな自分を客観的に見ているつもりで、自分の思い込みに縛られる様子。モラトリアムの中で戸惑いながら、終わらない日常を願いながら、昨日までと違う明日も同時に願う少女の姿」である。
アイカツは対象年齢を幼児向けとしながらも、音楽やテーマは若干背伸びさせてジュブナイルに仕上げているが、その中で最も痛烈に「青臭さゆえの痛々しさ」を描き出しながらも、それを「永遠の時間を生きる設定の吸血鬼美少女」に重ねることで「耽美的」とも言える絶妙な痛快感に仕立て上げているのがこの硝子ドールである。
幼少期の知りうる世界の狭さをもってしか生み出すことの出来ない1人セカイ系とも言える感覚の原体験がここに詰まっている。
紛れもない名歌である。
鏡越しに見ている人とは誰か。自分で鏡の前に立ってみると分かる。自分である。ではなぜ眼差しが乱反射するのだろうか?それは自分が自分に対して焦点を合わせることを躊躇っているからである。人は元来、自分の姿に気恥ずかしさを感じるものだ。自分を鏡に写したとき、自分を直視するのは難しい。まして、自分に自信がなければ。
ビロードと聞いて最初に浮かぶのは「手触りのイメージ」。これによって聞くものは空に手を触れる感覚を持つ。手を触れられるほどに低い空は陰鬱なイメージを。それと同時に、もっと強く手を伸ばせば突き破れるほどの低さを感じさせる。心の中に浮かぶ自分だけの夜の世界。ガラスの天井は突き破ろうとすればいつでも破れる。その空の低さが「なぜここにいつまでも留まるのか?」を問いかける。もちろん、自分の心に広がるセカイの狭さも。
今日こそは変化が起きる。モラトリアムに揺れ動いた日々、いつもどこかでそう思っていた。それは夜になるほどに強くなり、「今、もしも布団に潜らなければ、今日こそはセカイは変わるのに」と強く思い込みながらも、社会に迎合することを選んで眠りについた日が誰にでもあるだろう。
誰かが連れ出してくれると信じている。自分が踏み出すのを助けてくれる誰かを待っている。自分だけでは不可能だと。ここは自分だけの世界。それならば本当に待っているのは、自分を助けることが出来る強さを持った自分自身。今ココにいる自分では駄目だと感じ。それでも、どこかに強い自分がいてきっと自分を助けられると信じたい。
鍵が壊れているからそっと押すだけで開くのか。壊れた鍵が噛み込んでもう開くことは出来ないのか。重ね合わった2つの可能性。果たして実際に試したのか。それとも、ただ心のなかで思うだけで扉に触れてもいないのか。
昨日と同じ明日が永遠と繰り返されているような感覚。無限大の過去を遡ってもずっとそうだったような気がする。無限大の未来を見ても、ずっと変わることはない気さえする。長いのではなく、永い。命が尽きるまで終わることがないのなら、我が身が吸血鬼ならばそれは永遠を意味している。
誰かに尋ねても貴方はもう自由だと返ってくる。それでも自分はここから動けない。自分を縛っているものが確かにある。他人にはそれがわからない。もしもこれが自分の心にしか無いのなら、自分はずっと夢の中にいるのと変わらない。夢の外にたどり着くことその日が来るまで、自分で生み出した鎖からは逃げられない。
硝子=鏡。硝子の瞳=硝子に映った自分の瞳。自分自身が自分に対していい加減に終わりにすることを望んでいる。夢から醒めることを待っている。終わりのないこの夢に退屈している。それでも辞めることが出来ない。鏡を覗けば自分でさえも呆れ果ているのは明白なのに。
そうしてもまたモラトリアムは繰り返される。
現実は容赦なくやってくる。心は夢に閉じ込められたままでも、体は現実を生きなければならない。自分の夢にだけ引きこもれる夜が終われば、夢と現実が重なりあった時間が始まる。
ゆっくりと時間をかけて現実へとチャンネルをあわせていく。夢の世界が閉じていく。今日もまた夢の中の自分は鳥籠から出れないままに、現実の自分を布団からゆっくりと起き上がらせていく。醒めない夢は、心の奥でまだ続いている。それでも現実に向けて歩みだしていかなければいけない。
誰かが扉を開けている。終わらないはずの夜が外の世界の向こうへと誰かがそっと抜け出ていく。扉を開けているのは自分自身。扉を締めてまた暗闇の世界に戻っているのもまた自分。自分の中でとっくに夢を抜け出ている自分がいる。夜の世界に居続けることを選んでいる自分はそれを見送っている。本当は今ここで鎖に繋がれている自分も抜け出せるのだろうか。
こうして私が夢の中に閉じこもり続けることを選び続けることを世界もまた望んでいる。同時に夢の外に出て生きることもまた望まれている。重なり合って矛盾にまみれている。だけどその矛盾の重なり合いに身を委ねるなら、どちらでもないままで居続けることが許されている。それに苦しみながらも、それに助けられながら、それを恨みながら、それを望んでいる。
終わることのない矛盾を終わらせることを投げ出してただこのまま全てを終わりにしたい。変わることを願いたいと思う自分に満足したまま、変わらないで居続けられるままで。永遠にただ今のままであれば、選択する必要もなく、選択しようとしたことだけを残し、何者でもありえるままにいられる。
それでも、いつか変わる日が来るのだろう。変わろうと思わずとも変わることになる。きっといつかその日が来る。でもそれは今日じゃない。明日かも知れないけど今日ではない。確信だけがそこにある。まだ何も始まらないままに、何かがいつか起きることだけを知っている。鏡の中の私は硝子の瞳でそれを待ちわびている。待ちわびたままでじっと動かない。硝子で作られた動くことのないお人形。硝子ドール。
ふむふむ
こんだけ頑張れば異例の正社員登用されるはず!とか
モラトリアム延長してやり過ごすとか、思い切って海外行くとか。
いっそのこと起業でもしちまえば良かったじゃんか。
切り替えて地道に実務経験積んで手に職をつけるとかしなきゃ。
まあ鶏が先か卵が先かみたいな話になっちゃうけど、
救いようのない奴だからそういう状況に陥るんだろうな。
そんな奴、何歳だろうと何処からもお呼びがかかるわけない。
てか中高生の時点で分かってたっしょ。
なんて奴は産業廃棄物以下の扱いされるって。
起業狙ってそのまま最底辺を歩むことになったやつもそれなりにいるだろうね。
だって絶望的に弱い立場だから。売れない苦しみと足元を見てくる重みで奈落に沈むのが起業だ。
にも関わらず起業が増えれば日本が復活だというバカと、弱くて食える餌がほしいという獣の狂想曲が起業煽りだ。
労働者は景気が良くて労働需要が強いときに嫌なら転職すると強い立場になれるんだ。ついでにいうとひよっこ起業家が悪いやつの食い物にされずに軌道に乗るにも景気が良い必要がある。
まあマクロ経済はどうにもならんし、ベストな立ち位置は狙うべきだし方向転換は必要だろう。
しかし、デフレでも緊縮財政を狙ったり、資金循環を悪くする新自由主義を熱狂的に指示したのも氷河期世代だから、小泉とか竹中を信奉してアイツラの代弁者となってたアホは反省する必要があるな。
僕がまだ大学生だった頃に先生と出会った。先生と言っても大学や学校の教師ではない。私がそう呼んでるだけだ。ど田舎の裕福な家に生まれた僕は故郷の親や教師、同級生たちの俗物さに呆れ、期待を抱いて大学に進んだ。父は「息子が大学に進んだ」という誇らしさと「学問をやらせると小難しくなってろくなことがない」という相反する思いを抱えていたようだ。期待して進んだ大学でもまた学生や教師たちの俗物さに呆れていた。夏休み、やることもなくて鎌倉でぶらぶらしていた時に先生と出会い、そこから交流が始まった。
先生は私と同じ大学の卒業生だった。生まれが資産家の家らしく、30代前半だったが仕事はせずに洋書や論文を読んでブラブラしていた。先生の家には奥さんとお手伝いさんがいた。奥さんは先生よりもかなり年下で、裕福ではないものの、しっかりと躾られてきたお嬢様だった。2人に子供はいなかった。先生は学問に造詣が深く、俗っぽさもなく、僕は先生と共に人生最後のモラトリアムを過ごした。
大学の卒業が決まる頃に先生が若くして亡くなり、故郷の父も病気で亡くなった。
僕は父の財産と、遺言により先生の財産も相続した。大学の教授と友人の伝手で官吏の職に就き、若くして未亡人となった先生の奥さんと結婚し俗物な役人として暮らしている。
最近、非モテだとか、喪女、コミュ障といった属性をタイトルにいれる文章が多いとふと思った(最近といってもここ10年くらいのスパン)
これって、物語にスッと入ってもらうにはとてもいいキーワードではあるんだけど、
読み手に対する予防線でもあるんだよね。「不器用な人間ですから。そっから先は聞かないでください(高倉健)」みたいな。
自虐的な自称は、80年代の「オタク」、90年代の「ニート」が最初ではなくて、もっと遡れば1960-70年代のノンポリ。
そのほか、もっと広くとらえれば、モラトリアム世代、フーテン、ヤクザ、浪人、渡世人と、江戸時代までさかのぼる。
とりあえず非モテで考える。
タイトルで自称するということは、非モテのイデオロギー的な主体を読み手に受け入れさせ、非モテのイメージでコーティングされた主体だけを提示し、物語を展開する、ということ。
非モテという言葉に違和感なく入り込める、まず読者の選別をする。
さて、先の6月23日より、「AV出演被害防止・救済法」、いわゆるAV新法が試行された。法の骨子としては、AV出演契約の際に契約関係を明文化し、その内容を出演者に説明すること、撮影における同意のない行為の禁止、契約から撮影、撮影から販売までの間に一定のモラトリアムを設けること、出演者は契約から1年間は無条件に契約を解除できる権利を持つこと、などというものであり、成人年齢の引き下げに伴って、責任能力に不安のある新成人を中心とした、女性のAVにまつわる被害を防止することを目的としている。
私の考えるこの法制の問題点は、法が実際のAV業界の実態に即しておらず、法の施行に伴ってAV業界で働くセックスワーカーの雇用を奪うだけにとどまらず、「AVの被害者」を増加させかねないというところである。
第一に、AV業界のセックスワーカーの雇用が奪われる問題についてである。AVに出演する女性は、非常に流動的であり、この法で定める1年間の契約解除期間を必ず守るであろう女性を見極めるのは、当然メーカーにとっては困難である。そして、実際にAVの販売前に契約が解除されてしまった場合、メーカーは撮影コストをはじめ広告宣伝費、プロダクトの製造費用等を回収することはできず、丸損となる。また、AV女優の中で、ひとりで作品に出演することができるほど人気のある女優は全体の20%に満たないとされ、その他の女優は、複数女優が出演する作品の女優の一人としてAVに出演する。このうち後者の場合、新法適用後、メーカーにとっては、ひとつの作品に出演する女優が多ければ多いほどその作品が「だめになる」可能性は上昇するため、必然的にそうした作品の撮影を避けることになり、先に挙げた残り約80%のAV女優は雇用を失う可能性がある。すでにそうした動きはメーカーにみられ、撮影の中止が相次ぐなど、先行きは芳しくない。法案を提議した政治家やそれを支援した人権団体は、本当にAV業界のクリーン化を目指しているのか、あるいは実際にはAV業の排除を目指しているのか、定かではないが、少なくとも前者をスローガンとして掲げている以上は、現場のAV女優にベネフィットがある形での法制化を検討することはできなかったのだろうか。法制化という実績にかられて、セックスワーカーの権利を置き去りにした、政治家・人権団体の身勝手を体現した法であるというように思えてならない。
第二に、新たな「AVの被害者」を増やしかねないという点についてである。近年、にわかに数を増やしつつある「似非」AVとして、アンダーグラウンドでペイ・パー・ビュー方式により販売されているものがある。これは、国内法の規制の届かない海外に本拠を置く日本語プラットフォームにおいて、素性のわからない個人・法人が独自に撮影したAV等を出品するというもので、当然風営法に違反するものであり、同プラットフォームにおける出品者からは逮捕者が複数出ていながらも、依然として出品数は増え続けている。このようなAVが増えている原因としては、法制の施行前から、煩雑な契約手続きをすっ飛ばして撮影・販売が可能であることから、AVの撮影者・出演者の双方に一定の需要があったことや、国内の法規制では不可能な映像表現が可能であることなどがある。そして、AV新法の施行により、先に挙げた「雇用を奪われた」AV女優がこうした危険なAVに流れ、新たな被害を生むのではないかという指摘がなされている。政策立案に携わった人々にAV業界への十分な理解があれば、あるいは現場への十分なヒアリングなどが行われていれば、こうしたアンダーグラウンドのAVに対する規制を強化していく案を盛り込むなど、実際にAV女優を被害から防ぐ法整備につなげることができたはずだが、そうしたヒアリングなどはほとんど行われることはなかったという。
近しい知人に複数セックスワーカーを持つ身として、こうした性産業に関する政治動向には強い関心を持っていたのだが、今回のAV新法についてはただただ残念である。この法案の成立の背景には人権団体による強い後押しがあったといい、私なりにそうした団体について調べることもしたのだが、その関係者には元セックスワーカーもおり、それではどうしてこのような現場の実情を無視した法案が提出されることとなってしまったのか、理解に苦しむ。そうした人権団体が掲げる「女性の権利向上」というスローガンには、もちろん私は賛成なのだが、AV新法から見て取れるように、一部の人の意見のみを取り上げることによって、男女間の分断どころか、女性間での分断も招きかねないということを、法整備に携わる方々には十分に考慮していただきたい。
周りの友人に「なんで彼女作らないの?」「いない暦年齢もあれだし一度作っとけよ」と言われるも、出会いが無い。
これは、言い訳だ。マッチングアプリで恋人を作る男だって今は沢山居る。
彼女が欲しいか欲しくないかでいえば、欲しい。しかし俺は金が無い上に、出不精で、かといって金がなくても一人で静かにそこそこの幸福感を味わいながら一人で過ごせる術を身に着けてしまった。
高校生の頃、自宅に直帰マンで同級生から放課後の遊びに誘われても断って家に帰っいた。固定の友達やグループに属さなかったが、誰かに固執することもなく、誰にでも愛想が良かったせいか、多からずとも異性から告白されることが多かった。
当時から俺は本当に働きたくなくて、このモラトリアムが終わったら社会に出るという現実に抑うつ気味になっていて、家に帰っては寝てるだけの、本当に夢も希望ない、活力の欠如した日々を送っていた。その為、告白されても断り続けていたので、同級生の女の子たちからホモ説を流された事があった。その当時は彼女が欲しいと思えなかった。学校で誰かと他愛もない話をする。それだけで満足だった。
高校生の頃は勝手に誰かに好意を寄せられ、彼女を作るチャンスはいくらでもあったが、社会に出るとそんな機会が全く無くなった。正直なんとも思わなかった。
遊びに出かけた先で仲良くなった子とセフレ化するも、出不精で、恋愛感情に乏しくて、日々の生活を静かに送ってるだけの俺は「おじいちゃんみたいだよね」と揶揄されて、飽きられるようになった。セフレと行為中に「好き」と言われた。「ありがとう」と返した。それから連絡が来なくなった。
恋人を維持するには、相手を飽きさせず、楽しませ、一緒にいて楽しいと思わせる技量が必要だ。俺にはそれがない。そして、それを身に着けようと思える意欲もない。
朝に10kmランニングして、シャワーで汗を流して、美味しい和食を食べて、部屋の掃除をして、観葉植物を日当たりの良いところにうつし、温水で選択をし、シャツにアイロンをかけ、近所の特売をやってるスーパーを何軒か把握し、とりわけ安い日に洗剤などの日用品を買いだめ、和室を改造した倉庫にストックし、窓際で資格の参考書や、kindleで買った本を読み、昼寝したり、ドルコスト平均法で購入した海外株の推移を確認したり、書類整理をしたり、不要になったものを捨てたり、ストレッチをしたり、瞑想したり、こんなことしていると、あっという間に一日が終わる。
じゃあ、俺が恋人に求めるものってなんだろう。きっと、日々の他愛もない話ができるコミュニケーション相手が欲しいんだと思う。友人らはみんな結婚していって、家庭を持ち、忙しい日常に溶けていった。頻繁に連絡が飛んできた友人からの連絡も途絶えるようになって、時々飛んでくる友人からの連絡と、友人の子供の写真。俺は、友人達が幸せな家庭を築けているのを見ると、心の底から嬉しく、幸せな気持ちなれる。俺の周りの人たちがうまくうまく、全てが続いて行ってほしいと思う。
異性が恋人に求めるものに、きっと俺の要素は含まれていない。と少なくとも俺は思う。
俺はこれからも「彼女作らないの?」「結婚願望ないの?」と聞かれ、作る意欲もないくせに「出会いがない」という聞き苦しい言い訳を並べて、一人で生きていくんだろう。
7/1
夏になると思い出す。
多分この頃の私はまだ頑張って学校に行こうと必死になっていて、起きた時の良くわからない感覚を引きずったまま制服を着ていたと思う。
授業の内容も友達との会話も何一つ覚えていないけど、その感覚だけ異常に頭にこびりついていて、寝たのに寝ていないような、夜明かしして正常に働かない時の頭でずっと生きていたから、自分が自分じゃないような、いつでも陣がどこにいるのか何をしているのか何を話しているのかわからなかった。
夏服を着て身軽になったけど学校の前の横断歩道、あそこに立っていると木の葉の影のはずなのにじめじめと暑くて、ベストを着るのはやめればよかったと毎日思っていた気がする。
入学して3か月ほど、学校に行けることが普通になっていて、私もようやくまともになれたと思っていた。勉強も人間関係も何も困っていなかった。行きたくないとも思わなかったのに、夏休みが明けた日から私はまた家を出られなくなった。
今となればあの時の私が何を考えて生きていたのか知りたくなるほどに記憶がなくて、ただ死んだように生きていたことだけがわかる。
すべてが憎しみの対象で、理解を示してくる人間の浅さとわかっていることばかり教えを説いてくる人間の多さに常に気が経っていると同時に、悪意のないそれを素直に受け入れることの出来ない自分にも絶望していた。
終わりが見えず、気づけば朝、お母さんが先生と話す電話の声から逃げるように眠って、気持ちばかりの明日の準備を起き抜けの夜にしていたけど、結局は行きたいのに行けないというポーズのための安易な行動でしかなくて、本当は何の気休めにもならず、制服はほとんど新品のようにきれいなことが私を責めるための存在に見えて、わざとしわをつけたり、リボンのパッチン留めを壊したりと、ささやかな犯行で自我を保つことが精一杯の日々を、結論2年半送ったが、今の私はその時の私と変わった気がしなくて、なぜかというと厳密にいえば多少はましになったけれども、時折あの頃の私が顔を出して、お前の本質はこちらだと言い聞かせてくるので、そのたび私は引っ張られて、こんな文を書きなぐる羽目になるのだから救えない。
恋も友情も私にとっては取るに足らないことで、別にそれ自体に何かを左右されたりはしない。ただもっと奥深くの人間としての在り方が根本的に違うことを感じるたびに、絶望するあの瞬間をこれまで何度も繰り返してきて、人と関わることそれはすなわち私にとって絶望だと思わされて、そうなると私は他者の存在がすべて私を苦しめるためだけのものに思うから、となると誰の言葉も、声も、姿も、感情も、どれにも触れたくなくて、行きつくところは持って生まれた破壊衝動に従うしかなくなってしまう。
けれどもそんな自分をこんな言葉で表現できる時点で私も結局その程度の人間でしかなくて、要するに私はずっと自分という人間のくだらなさ、つまらなさに振り回されているだけの生き物で、私以上に面白みのない人間も存在しないだろうと思いいたるのが常である。
苦しまないと何も生み出せない私のような凡人は、自分から傷付きにいかなければ何一つとして形に残すことも出来ず、その割に心を削って書く、描くことは自分を空っぽにすることと同義であるから、私は何も埋まらない、満たされないまま生きていくだけだとわかりきっていて、底の見えた入れ物に価値はないのに、私自身が一番そうだなんて、どれだけ皮肉は私を好くのだろうかと思う。
私以外の誰かと共有した歌を、絵を、作品を、私に語るな。
私だけで完結する世界を求める無謀さ、無知さ、その点に関してだけは私はいつも人一倍底が知れない。
醜くても、目も当てられなくても、恥でも、形にすれば芸術になることが唯一救いだった。自分に酔っていると言われても、肯定出来た。自分を表す、曝け出すなんて正気では出来ないから、それなら私は自分に酔っているだけの馬鹿者でよかった。
だから私は早く私を完成させたくて、こんな言葉ではなく、もっと頭以外に響くものを作りたくて生きてきたのに、私という人間は生きれば生きるほどつまらなくなっていて、思春期特有のモラトリアムというような、あの頃が私の人生の、まさしく春だったのだと気付いて、それはまた青春なんて輝かしいものではなくとも、私もそんな時期を過ごしていたのだと、呪いだらけの日々が少しだけいとおしく思える一瞬が、時たま訪れたりする。
学校までの各駅電車、3駅分も乗っていられなくて、泣きながら電車を降りる惨めさ、どうしても「普通」をこなせない焦り、しかし同時にそれがアイデンティティとなっていく歪み、どこにも当てはまらないのに形だけ集めたパズルのピースの群れ。
あの時の私も今の私も、ただ気持ちが追い付かず、心だけがずっと学校の教室の一番後ろに取り残されたまま、大音量で流したロックのギターの音や、行き場のなかった寂しさだけがいまだに私を縛り付けている。
誰かに理解されたら、私は私の苦しみの価値がなくなると信じて生きてきたから、一人でいい。孤独こそが私の救済だと思っていたのに、今私は人を理解しようとももがいたり、人と向き合うことを選んでいて、それは私の今までの生き方や人生を否定することになるのではないのかと思う気持ちより、人と触れ合うことのうれしさ、喜び、たとえ傷付いてもそれさえも大切なことだと認識し始めていて、
悔しい。プライドの高さも、見合わない才能も、すべてが。それだけだった。
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7/2
いつも最後に行きつくのは悔しいという感情一つなのに、それに気づくまで時間がかかりすぎるのはいつだって自分の分析に夢中で主観的なその時抱いた気持ちを無視してしまうから、自分を理解しようとするあまり、結果的にいつも遠いところに答えを探そうとしてしまう。
他人のことで悩めるうちはまだ余裕があるけれども、自分の持っている内面的な孤独や自他との境界線の曖昧さ、他者に対する意識について考え始めると、私は家族、友達、恋人すべての関わりを持つ人たちを無視して全くの一人になりたくなる。
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7/3
器用だねと言われることもあれば、不器用だねと言われることもある。
冷静だねと言われることもあれば、落ち着きがないと言われることもある。
堂々としていると言われることもあれば、おどおどしていると言われることもある。
行く先々や関りの人々の中で、自分の印象や性格がことごとく極端に言い表されることの多さに私は悩んでいて、これはつまり、どちらにも属していると同時にどちらにも属していないと言うことが出来、また人と関わるうえで、その人に都合のいい人間を演じているから、こうして私という人間のイメージが極端になるのだと思うと、それは私のいじめを受けた過去が大きく影響していると思われて、私は今でもまだあの時期に取り残されているようで、そのたび、本当に心に影が落ちる感覚を味わう。
私の存在の一貫性のなさ、本質、どこにでもありそうでどこにもなく、見つけようとすればするほど何かを演じてしまい、結局のところ私はそういう生き方しか出来ない、芯もなく、他者という存在を常に意識しながら、囚われもがくことを背負って生まれてきたような、そんな果てのない人格を求めるだけの生き物に思われて仕方がなく、苦しみ、最後に自分を傷付けるのは誰でもなく私自身だと気が付き腹が立ち、また同時にむなしさ、やるせなさ、悲しみが襲ってくる。
誰にでも優しいようで優しくない自分がまとわりついてくる。
救急車のサイレンに、道のホームレスに、汚れたペットボトルに、路地裏の殴り書きに、胸を痛められない人間がなぜ博愛主義を気取って生きられるのか。
シャットアウトすることを覚えなければ生きていけないと、その夜の苦しみや怨念を線引きして根拠のない基準で優劣をつけて身を守るそのずるさ、汚さ、私には何一つ許せない。
私はすべての苦しみに、怨念に敏感でありたく、また鈍っていく感受性をそのたび研いで、心の中に隠し持ち、いつか尖らせてナイフのようになったそれで誰かを刺したい。
意味のないことに、意味を見出そうともがく人生は嫌いではなく、すれ違った学生、隣の席のサラリーマン、もう二度と会うことのない人間たちの生活に思いを馳せて、そこに私という人間が溶け込み交わって生きることの出来る隙間を探して、その繰り返しで私は明日も生きていく。
「なんで貧乏から抜け出したい子が実家が太くて真剣に金稼ぐこと考えなくてもいいボンボンがモラトリアムしにいく芸術系に行くんじゃアホ」
とブクマカからボコボコにされてるが、自分はこういう子あまり責める気になれないのよね。
「お前が親から配られた不利な手札でも勝利(人並みの経済状態・平凡で幸福な家庭)を手に入れられる最適戦略はこれだ!」
と正しい人生の戦略を教えてくれるまともな大人なんて誰もいなかったことが簡単に想像できるから。
思うに、親ガチャ外れの辛さって、
1. 引いた手札が外れだらけ
という一般的に言われる不利よりも、
という不利の方が大きいのではないかな?
この子が挑んで挫折した「芸術系ダンジョン」は「太い実家★4」と「親から受け継いだ文化資本★4」の持ち物検査を通れない人間にとっては報酬がゼロどころかマイナスになりかねない糞コンテンツだよ。
★1だらけの自分の手札の中では輝いて見えた「芸術センス★2」に人生を賭けたのだろうけど、経済力と文化資本の★4無しに芸術系で勝ちたいなら「芸術センス★4」以上と「幸運★4」以上を神から配られてないと無理。
必死に勉強して高校は特待生で大学は給付型奨学金というのは立派。この「勤勉さ★3」こそがこの子の最強の手札だ。
その手札を活かして貧困から抜け出したいなら挑戦すべきは「看護系ダンジョン」あたりではないかな?
勤勉さデッキで十分進める難易度で、報酬は女一人が生きていくには十分過ぎる収入、子供産んでも楽に復帰できる需要の高さと、コモンだがSR相当の性能の手札だ。
生涯年収の期待値を考えれば、「勤勉さ★4」と「実家の太さ★3」を持ってるからと下手に「文系大卒総合職ダンジョン」で戦うことを選んだ女よりも賢明であろう。総合職ダンジョンは女デッキで挑むとバッドステータス「子持ち」を食らった後の対策が極端に難しいクソゲーと化して生涯年収が激減するんだよね……
高校で「看護系の大学・専門学校に行け」と進路指導してくれる先生はいなかったのかな? いなかったのだろうね……
とりあえず、ブクマカみんなアドバイスしてるように、デッキに入れてるだけで毎ターンHPが減るバッドステータス毒になる親を切るところから人生の立て直しを始めるのが良いと思う。
頑張ってください。
大学を卒業して就職したのが15年前、同じ頃にデビューした作家がまあ当然いるわけだがソイツらへの嫉妬が止まらない。
とにかく就活を成功させて、生活を安定させることを求めながら俺が就活をして、卒論を書いて、ストレスはマスかきで解消していた頃に奴らは代わりにシコシコ作品をしたためて応募していたのだ。
酷い裏切りだ。
だけど実家が細いから、頭もよくないしコミュ障だから、とにかく社会から一度ドロップアウトしたら再合流できる自信がなくてひたすら就活を目指して生きていた。
就活を目指してバイトをし、就活を目指してサークルに入り、バイトと勉強のバランスを待ちがえて単位が不足してバイトを辞め、サークルで人間関係を築けなくてサークルを辞め、最後に残ったのはボロボロでギリギリな単位とゴミのような卒論、それにふさわしい就職先。
いつだって脳内では「いつか作家になって辞めてやる」と思っていた。
一発勝負で一気に突き抜けるしかないと思い込んだ俺のペンは強張り何も作れなくなっていた。
心のなかではいつだって、自分が就活で苦しんでいた頃に実家の太さに甘えて小説を書いては応募して「◯歳の天才!新たなる才能!平成の!令和の!新時代の!」と褒め称えられた同級生作家達への憎しみばかりが渦巻いていた。
そんな中で彼らに負けずに活躍している自分を妄想し続けるうちに、俺は遂に星雲賞 長編・短編同時受賞を3年連続で果たすのだった。
このままでは来年も俺が星雲賞を取ってしまい他のSF作家が腐ると危惧し私は星雲賞震災委員会と競技して自分を星雲賞殿堂入り作家として受賞対象から除外するように決めた。
何を言っているだ俺は……。
ちなみに俺の作家としての必殺スタイルは「序盤必殺<ブリーチング・ロケッティア>」「終盤滅殺<クロスファイア・チェーホフ>」「竜頭龍尾(ダブルドラグーン)」だ。
恐ろしいだろ……俺はもう社会人15年目だ。
何をしてきたんだろうか俺は……。
俺はこの人生を一体どうしたいんだ。
もう若くもない。
青春を歩めず、朱夏もあらず、白秋も望めず、黒冬にたどり着くこともなく死ぬ。
無限に続く土用の狭間、人生の季節は唯一つ永遠のモラトリアム。
助けてくれ……
最初に言っておくけど俺は音楽的センス0で音楽は完全に「情報を食う派」だからな。
以下目次。順番は思いついた順なので特に意味はない。食える情報の系統が違いすぎて順位はつけられねえや。
・硝子ドール
・アカシア
・Constan Moderato
・群青
・CROSSING
・夏の記憶
・Gの閃光
・硝子ドール
データカードダス・アニメ『アイカツ!』より藤堂ユリカ様(ヴァンパイア設定アイドル)の持ち歌。女児向けでまさかのプログレッシブメタルを!更にはピロピロギターソロを完備。個人的に特筆すべきは「永遠の時を生きる吸血鬼少女」という設定から産まれた『超・少女趣味・耽美的・モラトリアム語り』な歌詞である。「ビロードの重い空」、「鍵が壊れた鳥籠」、「自分だけに見える鎖」などなどの歌詞によって浮かび上がる永遠の暗闇の中に自ら引き籠もりその悲観的な世界に酔いしれる姿。それを「いつまでも少年時代のトラウマに引き込もったまま人間関係を構築しなくて良い趣味やフィクションの世界に籠もり続ける」オタクが勝手に自分に重ねてガン刺さりである。人目を恐れて締め切った暗い部屋の中で人生に絶望しながら聴きたい曲。
・アカシア
ポケモンのMV『GOTCHA!』テーマソング。MVを見ればそこにはポケモンの20年分の歩みが。目を閉じればBUMP OF CHICKENの25年の歩みが。
バンドってのはときに「メンバーAがメンバーBに音楽をやらせ続けるために存在し続けている」なんて表現されることがあるが、BUMPもそういうタイプのバンドだと思ってる。最高の仲間と出会い仲間を輝かせる中で自分も輝く道がある。ウッチャンとナッチャン、ピカチュウとサトシ、オタクとオタク趣味。まあ俺みたいな消費オンリーオタクは一方的に貰うだけでは誰かに何かを与えたことはないが、心の中で出しもしないラブレターはいくらでも綴ってきたから輝きを見出してきた回数じゃ負けてねえぜって気持ちで聞いてるぜ。
歌:fripSide
TVアニメ『とある科学の超電磁砲S』の後期OP。でももっとずっと重要なのはfripSideが小室哲哉の作曲した歌を歌ってるってこと!オタクソングの中には一定割合でコレもろに小室の影響を受けているなって曲が存在する。I'Veが一時期量産したエロゲソングに代表されるように!それが、今、遂に、交差する!伝説との共闘。始祖との共演。夢のクロスオーバー。内容それ自体よりなんかもうそこが凄い!fripsideのクロスオーバーだと『escape -crossroads version-』という白詰草話(大槍葦人のガンスリンガーガールっぽいやつ)のOP(元はresetの曲)をfripsideが歌ったバージョンが個人的には激推しなんだが、だが、eternal realityは……小室とのクロスオーバーは圧倒的すぎる……俺たちがずっと心のなかで思ったことが具現化してんだぞ……。
歌:堀江由衣
アニメ版『シスター・プリンセス』のOP。ある日突然12人の妹ができることで知られるあのシスプリを代表する曲。「lovelovelove」に「アイアイアイ」とルビをふる歌詞は一度見聞きすれば忘れられない。内容自体は「ほ、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!!」で長年愛される堀江由衣が歌うバリバリの純愛ソング。とにかくシスプリは凄かった。いま流行りのラブライブと設定を考えたのが同じ人(公野櫻子)だと言えば、その凄さの片鱗が少しは想像できるかも?一時期インターネットの個人日記でどこもRO(ラグナロクオンライン)とシスプリの話をしてる時代が確かにあったんだ。KANONかROかシスプリの話を皆してたんだ。最近だとシスプリのキャラが20周年を記念してVtuberをやっていてまたちょっと話題になった。そのVのバーチャルライブの最中でこの曲のイントロが流れた時、どこからか「きょええ~~~~~~」という叫びが聞こえた。その時「わかる。」と思ったもんよ。だって本当に心拍数が凄い上がって、まるで初恋の人に夢で再開したみたいになって、さすがは運命の恋を歌う超名曲だなって。美化された思い出の完成形なんだよ。
歌:KOTOKO
OVA『マリア様がみてる』ED。オタク的にマーティと言えばももクロかコレ!本当にきれいな旋律なんだなコレが。その綺麗さがマリみてのイメージと最高に噛み合って神々しい清涼感がある。聞いている間だけはどんな汚いオタクも静謐な気持ちになってしまうのだ。この曲を聞いてるときに必要な語彙力は「きれい」の3文字だけで十分だ。
oblivious
歌:Kalafina
劇場版『空の境界』第1章OP。あの頃の日本に漂ういよいよ駄目なのではという閉塞感、自分の価値を高めて生き残るしか無いという焦燥感、そうはいっても俺には無理だろという絶望感、そこから逃げるために広がる妄想膨らむ悲観の非現実感。そういったロクでもないものが心のなかで混ざり合ううちに、都会の暗黒へと魂が霧散していくような浮遊感。青く光る闇が広がりがちなビジュアルイメージとの噛み合いが最高だぜ。梶浦由記は名曲まみれな中でコゼットの肖像から始まり.hackやまどマギやら脳内で次々トーナメントで戦わせていった結果最後にはコレが残った。研ぎ澄ましてもしょうがないオタクのペラペラな感受性が尖らされた挙げ句にセンサーが無限の虚無の中に落ちていく感じが好き。
作曲:mozell
フリーゲーム『遺跡島と7つのまほう』等で使われているフリー楽曲。数多くのアレンジが存在し、その中でも『バンバード ~Piano Version~』が特に有名。ノリノリでテンポのいい民族風の音が非常に軽快で楽しい。とにかく「音」が「楽」しい。うわーい「音楽」だ―。鼓膜に気持ちの良い周波数が次々叩き込まれて脳が快感に揺られる気持ちを味わいたい欲求を満たす能力が非常に高い。
Constan Moderato
作曲:ミツキヨ
スマホゲーム『ブルーアーカイブ』タイトルBGM。タイトル画面にふさわしい柔らかさをベースとして軽快にピッコピッコと音を叩いていくエレクトロな曲調に妙な安心感がある。これは……GBCとかGBAのゲームでありがちだったアノ感じや……なんちゅうもんを食わせてくれたんや……。強めの味付けでスパイス聴かせて音を立たせていくレトロさは健在。そこにGB時代と比べ物にならないスマホゲーの豊富な容量が実現する当時にはなかった柔らかさを追加。古臭さは感じさせずに圧倒的に懐かしい全方面にあったっけえ音。これぞまさに実家のような安心感。デジタルの羊水よ。
アーケードゲーム(家庭用もあるけど)『電脳戦機バーチャロン』の主人公ステージBGM。知ってる人なら一発で分るレベルの自己主張抜群のイントロを聞けば魂が当時のゲーセンへと帰っていく。対人ゲーというストレス憎しみ発生装置から産まれたとは思えない爽やかさと前向きさ。それでいてピリピリきてる神経とのくっつきの良さ。いつしか意識は画面の中へとシンクロし機体と痛覚がリンクするのだ「痛っ」「食らったのお前じゃないだろ」
群青
歌:YOASOBI
ブルボン『アルフォート』のCMソングらしいが、オタクからすると漫画『ブルーピリオド』イメージソング。八虎の「好き」が受け入れられた感覚を手拍子やコーラスで表現する発想が天才すぎる。コーラスパートの明るさによって今度は1人で歌っている時の孤独さが加速する。芸術というコミュニケーションを通して不安を抱えながら恐る恐る胸襟を開く怖さ、伝わることの喜び、ブルーピリオドの世界観がよく表現されてるぜ。そんな姿に漫画家と音楽家の間でもグッドコミュニケーション成立してるなと俯瞰視点で古参面だ。ブルーピリオドが本当に面白いって皆が知ってくれて俺も鼻が高いよ。
CROSSING
作曲:Funczion
歌:Marica
18禁ノベルゲーム『CROSS†CHANNEL』ED。「絶望でよかった」から始まる歌詞が自己や社会への失望感を語りながらも、それでも結局は人と関わる道を選ぶことを歌う。聞き手の社会不適合度が高いほどに何度も何度も頷いてしまう。同じように社会への不適合を嘆く歌詞の歌は世の中に数あれど多くはメタルなオッサンがヘドバンしながら聞き手を責めるがこちらはゆったりとその懺悔を復唱するかのように歌ってくれるので非常にメンタルにいい。社会が怖くて仕方ない夜でも何度も聞いているうちになんとか社会に戻ろうと思わせてくれるので助かっている。このゲームにインスパイアされたらしい岸田教団の『84』もオススメ。
夏の記憶
TVアニメ『スケッチブック』の最終話前回の限定OP。どこまでも広がる夏草の真横でママチャリ漕いでるような光景が浮かぶ曲。シットリとしていながらも爽やかな夏限定の青いノスタルジー。まったりしたいときに聞くとちょうどいい。
歌:ハセガワダイスケ
TVアニメ『ガンダム Gのレコンギスタ』ED。散々鬱っぽいことを繰り返してきたガンダムシリーズながらもまさかの超前向きソング。と思わせて2番では「リアルは地獄」と言い出し、3番にいたっては「出来ると思ってない」なんて語ってしまう躁鬱の激しさ。富野監督が今までの人生の中から『やらないと始まらないからやるしかない』という答えを導きそれを若者へと伝えようとするある種の説教ソング。でも富野がそこまでいうならまあ地獄の中であがくしかねえなって気持ちになれる。
歌:SHIHO
18禁ノベルゲーム『未来にキスを-Kiss the Future-』テーマソング。歌詞で叙述トリックかけてくる歌でこれ超えてるの俺はまだ知らない。OPでネタバレしてたアニメやゲームは知ってる。叙述トリック仕込んでる恋愛ソングも知ってる。でも曲単体で叙述トリック成立させつつゲームの設定とも絡めてきててやってることのスケールが作品世界の根底全部ひっくり返してくるようなのは自分が知る限りこれだけ。それ以上にやってることのテーマが好き。気持ちのいいリリックで気の狂ったトリックしかけてくるし作曲は高瀬一矢で全部好き。なにより今の世界だと「まあ人類って結局何度もピンチを乗り越えられてるからそうそう滅びなくね?」が蔓延してるけど、その直前の「本当にピンチになったとき人類は遂に滅びるのでは?」に神経をとがらせることがまだ出来た時代の名残とかデジタル技術の指数関数的進歩への盲信とかが加わってこの曲の展開に対してコレマジであり得るんじゃねみたいなノリがまだ可能でさ……つまりは失われた技術、オーパーツだよ。