はてなキーワード: 射幸心とは
http://plagmaticjam.hatenablog.com/entry/2018/01/09/202659
個人的に「パチンカス」に近い感じの言葉だと思うのは「珍走団」です。
「珍走団」はご存知の通り暴走族の蔑称ですが、「『暴走族』ではなくもっとかっこ悪い呼び方で呼んだ方がいい」という自覚的提唱の下に作られました。何故そんな提唱があったかと言うと、暴走族をかっこいいものとして賞美するコンテンツやメディアがあったからです。
違法であり危険であり多大な迷惑行為に過ぎず参加者にも悪影響しかない(暴走族が暴力団のリクルート畑になっていた)暴走族を賞美する勢力があったので、その対抗策として蔑称を創造したのでした。
「パチンカス」も同じです。「パチンコ愛好者はかっこ悪い呼び方で呼んだ方がいい」という意図の元に作られた蔑称です。パチンコについても「健全で文化的な遊戯」などと欺瞞的な賞美をする勢力・資本・メディアがあったからです。
ギャンブルには元々他のことを忘れてのめりこませて生活すら破壊する性質がありますが、ましてパチンコやスロットは生理的な反応と射幸心を操り中毒のように機械の前に座り続けさせるように研究・開発されている悪質な産業です。
発端となった「生活保護を抜け出したい」というブログの自称メンヘラ無職31歳氏も20代の頃にパチンコ・スロットにはまって心身がボロボロになった末に300万円の借金を背負い家族から疎まれて生活保護受給者に落ちたという経歴を語っています。
彼の思考はかなり他罰的で自身を取り巻くさまざまなものを非難し家族のことも憎む一方でパチンコ・スロットには非難を向けません。未だに「生活保護受給者にもパチンコぐらいは認めてあげて欲しい」などと言っています。客観的にどう見たって彼の転落の主因はパチンコ産業の様々な悪にあるにもかかわらず、です。
パチンコは巨大資本による美化・自己正当化・賞美を繰り返す悪質な産業であり、その餌食になった被害者達までその問題に向き合えず、パチンコ中毒の自分を批判することがで傷、「健康的で文化的な最低限の生活」の娯楽にパチンコが入るなどという妄言を繰り返しているのです。
そのような美化と糊塗に対抗するために「パチンカス」という蔑称が作られています。「いじめ、かっこわるい」のスローガンとかわりません。まず自分がやってるのはかっこわるいこと、自分自身を害するうえに親しい周囲にも迷惑をかけ悲しませる行為であることを自覚してもらう。そのために「パチンカス」というのです。
生活保護で映画や飲食やゲームや読書を楽しむのはよいことです。存分にやればいい。しかしパチンコを打つ権利などありません。
覚醒剤愛好者は断じてかっこいい呼び方など認めず「シャブ中」「ポン中」と呼ぶべきなのと一緒です。落ちるところまで落ちたポン中だからこそ更生が始まるのではないですか。かっこいいんだ、そのままでいいんだ、と許す風潮があれば深みにはまる一方です。(大麻文化を見ればわかる)
中毒から抜け出そうとする人を社会から排除せず支援すべきです。しかし自己肯定しようとする中毒者のことは断じて「パチンカス」「ポン中」でよいのです。
洗脳に関する話を読んでいてふと気がついた。
ゲームには人間をマインドコントロールする仕組みが備わっている。
たとえばフレンド機能、繋がりによって離れにくくする。
たとえば多人数対戦時の責任のなすりつけ合い、ゲームの上手さが人間としての優秀さとイコールだと思い込まされ社会性が崩壊する。
たとえば予習必須のレイドボス、ゲームにのめり込んでいない事は罵倒の対象となり恐怖によって人格が一度破壊される。
たとえばレアドロップなどの報酬、ゲームによって痛めつけられた心が射幸心に酔って飼いならされ脳内においてゲームの優先順位が徹底的に高められる。
先日、友人が金を貸してくれと言ってきた。
どうしてそこまで金がなくなったのか聞いてみた。貸す側としても理由は聞いておきたい。
最初は躊躇ってたが、しばらくしてソシャゲに金をつぎ込んだと言う。
あれほどやめろと言ったのに身を滅ぼしたのだ。
そんな友人を見て思ったことがあった。
私の友人には、スロットを遊ぶ友人と前述のソシャゲを遊ぶ友人がいる。その中間の私はどちらも遊ばない。
互いの友人が同様のことを言う。
『ソシャゲはギャンブルと同じ。金が手に入るか、優越感を得られるかの差』
本来のギャンブルは金銭を用いて金銭を得ると思うが、そちら側の友人がギャンブルと変わらんよというのは分かるが、
ソシャゲ側の友人がギャンブルと変わらないという。普通ならギャンブルとは違うと主張すると思ったのだが、違うようだ。
昨今のソシャゲは、可愛いグラフィックなどであるにも関わらずターゲットは常に大人のみへ向けられている気がする。
そのターゲット層の中に少数の子供が混じっている程度に見えるのだ。
ゲームといえば、ファミコン世代、スーパファミコン世代、PlayStation・SEGA SATURNなど色々な世代がいると思うが、
大抵はソフトが5000~12000円くらいだった。万を超えるのは徐々に減ってきてはいたが、昨今でも8000円くらいは標準だろう。
そんなソフトを大人にねだり、子供は買ってもらい遊ぶ…だけだったのが、現在は変わった。
大人もゲームを遊び続けるようになり、その中でソシャゲというものが手軽で遊びやすいという事で人気を得るようになった。
そのソシャゲは1回300円程度のクジを引き、いい性能のキャラを手に入れ強くしていくという仕様だ。
クジであるということは、当然当たりハズレがある。
問題はそこだ。
当たりハズレがあるのは良い。しかし、300円という金額は少額なようで少額ではない。
子供から見ても、それは300円という部分だけでみれば少額に見えるが、3回も引けば1000円近くになってしまう少額にはならなくなる。
まして子供は金銭の管理を大人にされている。自由に使える金額も多いものではない、小遣いの中でのやりくりになるだろう。
毎月1万だ2万だと万単位でもらっている子供など、そうそう多いものではないだろう。
完全無料であれば良い、しかし大半は有料だ。当たり前である。開発するにも金はかかる。都合のいい話ばかりではない。
そんな中で人気のあるソシャゲは、TVでもCMが流されていれば、子どもたちは興味を持つ。
最近では天井を作ってくるようになったが、それでも下手をすれば9万というありえない金額を天井に設定している。
さて、ソシャゲの年齢層はどこをターゲットにしているのだろうか。
ソシャゲの天井は前述したように9万という金額もあれば天井無みたいなソシャゲもある。
天井があるソシャゲは多少良心的だが、10万近い金額で良心的もクソもない。
「普通に20円のスロットをやって天井があるとしても、一般的に5万~6万もあれば到達できる。ソシャゲの9万はおかしいよ」
まして、ランダムで手に入れるキャラなどは欲しいものは手に入らないとしても、似たようなレアなキャラは手に入るのだろう。
そう考えれば…と思ったが、それでも天井の設定額はおかしいと私は思う。
『自制心があれば問題ない』
自制できれば問題はないだろう。間違いない。
しかし、現に天井がないようなソシャゲで10万だ20万だと使い、果ては100万越えというプレイヤーもいる。
おかしいだろう。
いくらそこまで使う人なんて稀だ、といってもそこまで金をつぎ込めるような仕様になっているのは変ではないだろうか。
昨今では射幸心がうんたらかんたらとギャンブル業界でも注意を訴えかけられ、さらに規制が厳しくなり廃れている一方で
ソシャゲは違う。今もどんどん勢いが増している。
課金も1万越えた程度では微課金という。微課金?いや大金だろう???これが普通の金銭感覚ではないのだろうか?
5000円でも多い気がするというのに、1万越えた程度では微課金という扱いに困惑する。
しかし、それが現在のソシャゲというゲームの常識になりつつあるのだ。恐ろしい。
それを当たり前のように展開していくソシャゲメーカーは、どうしても私には良心的なメーカーに見えない。
いくらコンシューマーでのソフトの売上が落ちていく一方だとしても、ソシャゲで荒稼ぎをしていくというスタイルがどうしても良いと思えない。
そして思うのは、どのソシャゲもある程度の表現は違っても同じという所。
ガチャを引いて、レアキャラを手に入れる、レア装備を手に入れる、そして好感度をあげる、キャラと装備を育てる、クエストをクリアする、
デイリークエストをクリアする、ウィークリークエストをクリアする、イベントに参加する。
やることはどのソシャゲも同じだ。
やることは同じなのに、それぞれのソシャゲにユーザーがついていく。
そこには子供も大人も関係ない不思議な魅力が存在するのだろう。
それは良い。
大人に重課金させようという魂胆のソシャゲメーカーが、子供をCMに起用するというのは…なんだかなと思う。
どの時代も子供をだしに使ってメーカーは金を手に入れてきたのは分かる。
もちろん子どもたちに夢を持ってもらいたいという考えでゲームを作ってきた人も少なくはないと思いたい。
しかし、今の時代はどうも金しか目を向けてないメーカーばかりにしか見えない。
メーカーに見えているのは、大人の姿と手に持っている財布だけだ。
もう片方の手につながれている子供の姿は見えていないのだろう。それは悲しい。
何にしても、現在のソシャゲと呼ばれるゲームは大金を使用する事を前提とされすぎている。
自制を持てば良い、大人は子供の管理をきちんと行えば良いと意見する人も少なくはないだろう。
しかし、大人の自制のなさは自業自得としても子供は難しいのではないだろうか。
現在は子供もネットを使うのは当たり前だ。知識をネット普及前以上に情報の正誤は別と手して得られるものが膨大だ。
大人が子供に金銭の使用の抑制をしても、子供はネットで自制を失った大人の課金額を見て羨む。
そこで大人になるとお金も自由に使える…程度なら良…くはないが良いとして、そうではなく自制を失った大人を見て
子供もそれを真似してしまったらどうだろうか。繋がる道は悪事かもしれない。
大人が管理管理といっても、子供はどこからか情報を手に入れてきてしまう。
自分たちが子供の頃にもあっただろう、大人に秘密にしている事が。これは大人が管理できない部分なのだ。
そうして知ってしまった課金を子供が反面教師として理解できれば良いが、難しいかもしれない。
ソシャゲを作り運営する企業は、今一度金銭のあり方を考え、それと同時にプレイヤーも考える必要があるのではないだろうか。
一番良いのは運営側が天井という設定に対しての考え方を変える必要ではないだろうか。
天井額を3万…でも多いが、3万程度とし、月に2回まで天井は可能とする。これでも問題は多いが、少しは緩和されるだろう。
またそうしてしまうことで起こる弊害としては企業収入だったりプレイヤーの育成などの優劣の差かもしれないが、
企業収入に関しては、まず似たようなシステムばかりで構築している部分を改善するべきではないだろうか。
同じようなシステムで作っておいて、新しい新しいという企業の主張は企業としてのゲーム制作能力のレベルの低さを顕にしているだけだ。
ベースから改善が必要だし、これからも使い古しのベースで作るのであれば、その程度の企業しかないということだ。
次にプレイヤーの育成の優劣は、天井だろうが関係ないだろうとも思える。
キャラ自体は多くいるソシャゲが多いのだから、問題はプレイヤーの大半がおおよそ同じような編成になってしまったりするゲームバランスだろう。
結局はゲームシステムがモノを言うのだ。
今の金銭システムを根本から変えるには、そもそものゲームシステム自体から変えていかないと今後も変わらないと思われる。
だとしても、甘い汁をすすりつけた企業が変化する可能性は皆無に等しいが。
何にしてもこのような状況が続いていくと、昨今のように経済状況が芳しくない日本で収入もさして多いわけではないのに
ソシャゲによって身を滅ぼすというプレイヤーが少なからず増えていってしまうだろう。
自制云々のは当然必要だが、自制を崩そうとしているのも企業である。
それは企業としては少々やりすぎではないだろうか?
私は今回の件でそう思ったのだ。
長文乱文で申し訳ない。
アプリゲームのガチャを見ていて、これまで日本が生んだ悪しき文明だと思っていたけど、ゲームの中身をよく見ると課金のロジックはマジック・ザ・ギャザリングと同じなんですよね。
どこが同じかというと、
このようなゲーム性だと、ゲームにはまる人は自分のデッキをできる限り理想に近くするために、ランダム要素のあるカードパックにお金をつぎ込むし、かつ、自分の頭を使う要素もあるので、飽きることなくゲームを続けられる。(自分の頭で最強のデッキを考えたら、その考えを実現するために、自ら進んで課金するといういい方もできる)
しかも、お金をつぎ込んでもゲームの際に出るカードにランダム性を入れることで、弱いデッキが強いデッキに買ったり、運に大きく左右されるデッキを組んだりできるので、勝者が固定され切らないので、新規参入も継続的に期待できる。
また新しいカードを入れたりすることで、ゲームバランスを変えると既存ユーザもカードをさらに買う必要が出てくる。
こういうゲーム性は、日本だけに限らない普遍的なものだったという発見は、日本だけが悪いわけではないという点では救いだけど、そういったオリジナルなシステムを作れておらず、結局は成功例を真似して、データ分析で射幸心を最大化して課金をしやすくしただけでしかないという絶望的な面もあり、なかなか割り切れない。
型月は儲け第一主義の会社ではないはずだし、奈須も武内もいまでもプレイヤー目線を保っている(と信じている)。
ガチャがプレイヤーの射幸心を煽って法外な金銭をせしめる悪徳商法であることは明白である。
なぜ購入ではいけないのか。
☆5を一万円で売ればいいだろう。
それなら売上がそこまで落ちることもあるまい。
プレイヤーごとに手札に差をつけたいなら、入手にある程度の運が絡むようなイベント限定サーヴァントを用意すればいい。
先日のように新聞で悪し様に取り上げられたこともある。
いま、むしろ型月が率先してガチャをやめるべきなのではないのか。
スマホゲー業界を健全に変えるために勇気を持って踏み出すべきではないか。
そうすれば評判が上がると同時に、今後のカードの値付けなどでも業界に影響を及ぼしていけるはずだ。
そしてモバゲー、グリー、mixi、ガンホー、コロプラ、そういったところもいずれはガチャをやめていくべきではないか。
まさか今のままのビジネスが永遠に続いていくとは思っていないだろう。
各社の奮闘に期待している。
ガチャはいらんゴミが出ることがあるが、シャブはイラン人からもらうことがある。
目的のものが出ないのがガチャの問題点、目撃されると困るのがシャブの問題点。
ガチャは幻想を追い求めることになるが、シャブは幻覚を追いかけることになる。
ガチャはアイドルが出ることがあるが、シャブはアイドルがやることがある。
消費者庁に苦情が来るのがガチャ、消費したら救助が来るのがシャブ。
ガチャはコストがかからないが、シャブはホストがハマることがある。
ロシアンルーレットのようなのがガチャ、ロシアルートがあるのがシャブ。
ガチャは勝てると偽られることがあるが、シャブは痩せると偽られることがある。
打つ前に目がギラギラするのがガチャ、打ったあと目がギラギラするのがシャブ。
ふうむ。実に似ている。実際問題、気持ちいい射精というのは幸福以外の何者でもないわけだから。
射幸心の検索結果からは、人は常に幸福を願い続けているらしいことも判明した。
そこもまた実に似ている。人は常に既存の射精を超える快感を求めていくからである。
妄想よりもAV、AVよりも手コキ、手コキよりもデブスとのまぐわい、デブスよりもブス、ゴムより生。
射幸心はとまらない。飽いたならば逆行すらもいとわない。綺麗な乳より汚い乳を求めることもあるだろう。
だが、このちんぽの欲望をどうにかしなければ、いずれそれが生命の限界を規定しうる天井となりうる問題ではないかと危惧しているのは私だけなのだろうか?
童貞の先輩方、教えてください。
基本無料だとゲーム中に集金という目的が生まれるから、絶対に大きなストレス、または射幸心を煽るポイントが生まれる
例を上げると、イベントによるギルドポイントランキング報酬や、そもそもの難易度を高く設定する事によって足切りする
普通のゲームとしてみると、明らかにバランスを歪めるものでありストレスの原因
そして本質に立ち返ると、基本無料のゲームを作るということはゲーム制作の根本が集金ということになってしまい、構造が歪になる
一昔前から(パズドラブームの雨後のたけのこが終わったあたりから)3Dアクション系のゲームも増えてきた
当時はスマホゲーと言えばカードゲーム(非DTCG)とパズル系、テーブルゲーム系ばかりだったので、スマホゲームでも3Dアクションゲームできるんだなと感動した
だが、スマホのタッチパネルとコントローラーでは操作性に雲泥の差があり、リッチなゲームになればなるほど操作性から生まれるストレスは顕著になる
スマホゲーと切っても切り離せないのがキャラクターの強化だが、これがとにかく運営にコントロールされる
ガチャで強いキャラクターや武器を出す行為自体もそうだが、キャラクターを強化する素材を手に入れるために曜日イベントという足かせを課せられることになる
少ないコンテンツを引き伸ばすということは、薄いということ
最近はちょくちょくRPG的なゲームも増えてきたが、データ容量の肥大化を防ぐためにとにかく世界が狭い
世界が狭いということは世界観が小さい、浅いということだ(そこに住んでいる人間や歴史が少ないんだから当たり前)
・基本無料のゲームはストレスを与える=金を集めることから始まるから駄目
・容量を小さくせざるをえないのが駄目