はてなキーワード: 学問とは
預金額を全額現金で持ってるわけではないので、預金の2~3割ほど1日で引き出されると資金ショートしてしまう
ところが、同じ程度の財務内容の銀行であっても、取り付け騒ぎにならなければ、潰れない
その「取り付け騒ぎが起きるか否か」の違いって世間のほんのいっときの空気の違いでしかないんだけど、
じゃあ取り付け騒ぎで預金を引き出そうとした預金者は「非合理的なバカ」なのかというと、そうじゃないよね
というか、そういう「非合理的に見える行動」も学問的に研究できるんじゃないかということで、経済学なんてものがある
経済学における様々な研究や理論が正しいか間違ってるかはさておき、
人間はそうして「わからないこと」をなんとか理解しようと努めてきた歴史がまがりなりにもあるわけです
一方、「原発事故で発生した汚染物質で汚染された水を処理した処理水を海に流す」というイベントに対する、いろいろな立場の人々の行動について、
「非合理的な行動である」と切って捨てる人って、「なぜそういった、一見、非合理的に見える行動を人々は行うのか」ってとこまで思考しようとしない
彼は、「自分の理解できる範囲のこと」だけ語って終わりにしたいだけなんだよね
でも、そもそも原発がなぜ必要で、なぜ動かすのかといえば、社会に参画する個々人の利便性に供与するため、という理由づけがあって原発を管理運営し発電するわけです
別に「物理学の理論通りにエネルギーが発生するのを証明する」ために原発動かしてるわけじゃない
原発事故後の対応も、同じく個々人の利便を最大限考慮し、地域ないし日本ないし地球上の諸国家、諸国民にとっての全体に資する結果を最大化するための最適解はどうすればいいか、という目標のために原発事故後の対応を行っているわけで、
「理論科学的に正しいのを証明するために処理水の放射性物質の量を測定してる」わけじゃない
で、その目標においては、当然ながら、それぞれの人々の経済活動も、心理的な幸福も、全部が「最大限の結果」の計算の内に入れなきゃ話にならんのよね
なぜなら、そもそも原発を建てること、運用すること自体が、そういう目標のために作られてるはずだからさ
「科学的に正しい」なんて題目は、そういう目標を達成するなかの一要素でしかないのに、そこに囚われ続けて、目標を見失う人っているよねと
「銀行の取り付け騒ぎで預金を引き出そうとパニックを起こす連中はバカだ」としか言えない
その先を、その先の先を、その先の先の先を考えるとこまで学問の領域はとっくに到達してるのにさ
なんなんだろうね、ああいうの
それな〜〜僕はバリバリ人文系の修士からマスコミに就職した者なんだけど
研究の内容とはあんま関係ないことやってるよ。新聞の記事書いてる
記事も、読みやすさのために取捨選択をしたり、方向性を決めたりするし、”ニュースバリュー”が重要だから
例えば、ある事柄にA・Bそれぞれの可能性があって、仮にBが致死的なものであれば、それを大きく取り上げざるを得ない
そういうのを「知的誠実さを欠くのではないか」と、最初は迷ったりもしたな
でもまあ、そういうのが作法なんだなと理解したから気にならないよ
そろそろ大学の連中も、好き勝手やって国が金出してくれるのが社会的に正しいみたいな意味のない甘えは捨てた方がいいよな
そういうこと言ってる教員や院生を見ると鳥肌が立つようになった
前なんか東洋大学とかのやつが「日本は院生に厳しい(給料が出ない、就職がない)」とか言ってて笑っちゃったけどさ
そもそも、彼らの主張の本質は「こんなに良い大学を出たのに/高等教育を受けたのに、給料が安いのはおかしい」というものだから
文化を尊重しない国は衰退する(キリッ)とか言っちゃって、でも君ら社会のために何かしようとかないでしょ?
どんな小さな研究も学問的蓄積に貢献していると言えるかもしれない(裾野を広げるという意味でも)。でも、なぜ社会が君の面倒を見て当たり前だと思うのか
なぜ、今や全入状態の大学院なんかに入って手遊びやっただけで、労働者階級から吸い上げた資本で(何より「君が」!)高等遊民でいられるべきだと思うのか
ちょうどお盆に法要的なやつ地方都市(30万-50万都市)で言ってきたけど、そんな感じのことあったな。
数少ないバーが、音楽推しのところで、来る常連さん20代50代の知識の深さと幅の広さがすごかった。
田舎の方が趣味や個人的な探求するにはいいのかも。40代ー70代の収集癖ある知り合いも、大体地方民だし。
東京とかの大都市圏は、仕事(芸術も学問も)としてアウトプットと効率求める人が住むのかもね。
バーの話も他に話せる場所と人がいないから、そこに集中するだけかもしれないし。
個人的には田舎に住んでた時は、大都市圏は美術館・博物館生き放題で、いろんなグルメがあって、飲み屋があって、
そこに対して渇望感があったけれど、
何者病は、自分は他の誰かしらが知ってることしかしらないことに対する不安や不満に通じるものがあるように感じる。
図書館にある本は一番高度なものでも学部生の教材扱いされるレベルのものしかない。図書館にいくら通い詰めてもせいぜい博士課程終了直後のひよっこ研究者レベルの知見かそれすら得られない。かと言ってネットも、ネットで真実といわれるように図書館以下の情報しかないだろう。
そんな中で大学や機関の研究者以外の人間はどうやって他人の誰もが知らない知識に到達すればいいのか。
もちろんここでいう知識というのは小学生でもできるような新種を発見したとか、どっかの誰かの下着の色みたいな一問一答的な知識事項を言っているのではない。
既存の理論や定理を駆使して相当の知性をもってしなければ発見あるいは証明できないようなことを言っている。
しかし研究者以外の人間がいくら頑張ってあることを新たに示した気になってもすぐ車輪の再発明ではないかと不安に駆られることになるだろう。
学ぶモチベーションとは何かと言えば、誰も知らないかつ半端な知性では辿り着けないような科学的事実に到達することだと思う。そんでもって知ったことを他の研究者のように論文に発表するということはしないことで、知見を独占している優越感、それがアイデンティティにもつながって動機になっていると思う。
どんなに学んでも誰かが知ってることしか知ることしか知らずどまりになるなら、学ぶ意味なんて見出せないのだ。一番とれなきゃアスリートになる意味ないってのと同じ思考と言えばわかりやすいか。学問においてもそうでないと時間を無駄にしてるだけのようで虚しくしか感じない
20年くらい前は大学の研究者の人達とか大学院生とか、実験の気分転換と称して、スラドとかいろんなところに書き込みしてたじゃん。
「初めて米国学会で発表するので超緊張してる。寝不足と時差ボケで口の中カラッカラ」みたいな書き込みとか「院生だけど5時間睡眠ですが何か?」みたいな若々しい書き込み横目でみながら「あーわかるわかるー」「みんながんばろう!」とか思ったもんだよ。
15年くらい前は、「いまベンチャーに入社してシリコンバレーに来たところ、これから投資家向け技術説明会だ、頑張るぞ」みたいなブログとか結構あったような気がする。(気がするだけだけど)なんかこの数年くらいで一気に学問系、(技術力のある)スタートアップ系の人影が「その辺」から消えてみえなくなって
代わりにいわゆる常駐系の人達の背景知識見識のないクソコメントで埋まるようになってきた。ここ1,2年は素人さんのおもいつきデマつぶやきがまとめられてブクマされて(これはひどいという晒し上げなんだろうけれど)流れてくることが増えた。
チャットGPT関連のネタは流石にまあ専門性あるかな、って位だけどこれもトレンドモノで
きちんとバックグラウンド抑えた基本的な話があんまりなくて、AIで萌え絵やポルノかいた!やったー!(それはそれでいいけれど)みたいな話であふれている。世の中カテには毎日女性が痴漢された盗撮されたレイプされた胸を揉まれたみたいなエントリが並んでいて啓蒙活動員の皆様の活動にうんざりする。結論としては日経電子版とかフェイスブックとかに戻るしかないのかな、って感じです。
これが売れている理由は分かる。
世の中には、YouTube広告のダイエットサプリとか、金運が上がる方法とか、そういうのに金を落とす連中がいる。
この本の内容は、古今の自己啓発書に書いてあることの、ほんの表面だけをさらったようなもので、何の新規性も無い。
で、そういう誰でも書けそうな薄っぺらい内容を、全く無関係な学説や史実で権威付けしている、ソーカル論文みたいな本である。
適切なデータを示さずに学説の奇抜さを競ってる社会学系の学者・評論家とか
疑似科学でも何でもいいから児童に自分たちの思う道徳を押し付けたい教育業界の人など
数年前に結婚した妻を観察した結果をどこかに殴り書きしたく、結論のない文章を投下してみる。
良い国立大学の文系出身なので勉強はできたはずなのだけど、勉強自体にコンプレックスがあった様子。
まぁお互い30歳を超えているので、いい年の大人が高校の勉強どうだったのかなんて話すのはアレな気はするが、
思春期の記憶は強く人格形成に影響するらしく、数学っぽい話をすると拒否反応みたいなのが起きてしまう。
自分は理工学部の出身なので結構楽しく数学の話をする時があるが、そういうのを見て自分との差を感じて一人で辛くなってしまうらしい。
思い切って教科書取り扱いのある販売店に行き、数学の教科書を買ってみた。
ちなみに高校の教科書はすべての書店にあるわけではないが、教科書取り扱いの販売店なら一般の人にも売ってくれる。アマゾンでも買える。
買ったのは数研出版の高等学校シリーズで、教科書によって難易度の差があるのは知っていたが、何でもいいかなと思って目についた標準っぽいのを買った。
妻の数学理解度を確認してみると、数学1の二次方程式の解き方・不等式の解き方についてはかなり鮮明に覚えていた。
躓きポイントは数学2からの三角関数・指数・対数のあたりっぽい。
観察の結果、定義を定義として受け入れるときに、なぜそうなっているのか?というのを真っ先に考えてしまい、
あまり無味乾燥と感じる状態では理解を拒否反応を示してしまう、というのがあった。
例えば指数関数で、 (a^x)^y = a^{xy} なんだよ、というのを理解するのにどうして?というのが真っ先に思い浮かんでしまう。
初学者はまず定義を受け入れて、いろいろな練習や思考を重ねていくうちにどうしてその定義になっているのか、という順序で考えたほうがいいと思うのだが、
この順序でなかなか物事を考えられない。
定義がどうしてそうなっているのか、はある程度それ自体に親しまないとわからなかったりする。
こういう時は具体的な例を列挙して、これがただしそうだよね?という話をしてあげる。
こういうときは、実験を観察を繰り替えす自然科学のようなアプローチがいいと思っている。数学はもちろん論理的に厳密な学問なので定義の積み重ねの上だけでも議論できると思うのだが、高校の基礎レベルの理解だと体で納得できないといけないこともあると思う。
たとえば(a^x)^y = a^{xy} の正しさの確認なら、
(a^2) ^ 3 は a^2 * a^2 * a^2 = a * a * a * a * a * a = a^6 みたいに具体的な数をあてはめて、合っているねというのを見ていく。
なんとなくこの定義でいいんだ、というのがつかめてきたらそれを定着させるべくたくさん練習問題を解いてもらう。
大切なことは、一度挫折している人なので、事あるごとにほめること。
たすき掛け早い!理解が速い!いいね、合ってる、などとにかくポジティブにほめる。
逆にどれだけ学生時代に自信を失わせるようなことがあったんだと想像してしまう。
女子学生は昔から勉強してない自慢したり、集まってヤバイヤバイと言い合って安心する、みたいなことがあったと思う。
出来なければテストで悪い点を取り、親から・先生から怒られて、自信を無くすとどんどん数学自体に向き合えなくなっていってしまう。
数学に向き合えないと、勿論数学ができなくなっていき、授業も何言っているのかわからなくなり、ついていけている子から日を追うごとに差をつけられてしまう。
計算ミスが多いから、本質的な問題の理解に時間を割くことができず、学びもうまくいかない。
最初に数学が得意になるかどうかの分かれ目は、少しワーキングメモリーが大きいとか、少し注意深いとか、少し計算が速いとか、そういう差なのかもしれない。
とりあえず数2の範囲については章末問題が全て解けるようになった。
こころなしか、最初のころは私に「トラウマに向きあえ~~」と言われてイヤイヤやっていた感じがあったけども、自分ができるようになる過程を楽しんでいる感じがある。
別に彼女の仕事には今更高校数学を振り返っても役に立つわけではないが、週末には数学をやるのが定着してきた。
そのうちどこかの大学の入試問題を一緒に解いてみようか。自信にもなるだろう。
何歳になっても学ぶことは良い。