はてなキーワード: ぬことは
ナシ側は「人が死んだり健康害したりする可能性をコストと割り切るなんて人でなし」
っていうのが論理的にも感情的にもメインの足場のようなんだけど
「そうだ、自動車も廃止しろ!」ぐらい乗ってくるかも知れないけど
自動車を廃止したら流通も社会も経済も全部死ぬことは多分考慮の埒外。
ドラマや漫画だと必ず悪役ポジションで、人情派の主人公に鉄拳制裁されちゃうけど
そういう善悪対立とかニヒリズムとかじゃなくて、計算は計算でやらないといけない。
というかもうやってる。
社会を不便や不景気に退歩させる・貧乏人や自殺者を増やす感じの声は絶対に採用されない。
言ってる人達が反対した結果を責任持って想定してないっていうのも理由だけど
もし全部を想定してわかった上で反対しても、大多数の人はその覚悟にはついていけない。
高二でうつになってから再発六回目。もうつかれた。今博士課程。研究何もしてないし働いたってどうせまたうつになるだけだし。
苦しい。なんで苦しいのかわからないけど苦しい。死にたい。今すぐにでもベランダ(11階)から飛び降りたいけど事故物件になるから耐えてる。近くの公園の公衆トイレで吊ろうと思ってる。電気コードとフック用意した。
話す友人もいないし、いのちの電話に電話してもつながらないし。いのちの電話に掛けてる人は生きて、俺は死ねばいいのか。俺が死ぬことで今電話してる人が生きられればいいな。そもそも何話せばいいかわかんないしな。ただ苦しいだけだし。「苦しい」「はいそうですか」で終わりだしな。
葬式代いくらかかるんだろう。貯金全部募金してから死にたいけど、葬式代とか、片付け代とか、いくらかかるんだろう。
不死や不老や不病を目指す科学はどんな世界を切り開こうとしているのか。
恐ろしい考えが浮かんだ。まさか、科学は「認識できる世界」を塀で囲い、そこから人間を出さないように閉じ込めようとしているのではないか。
死ぬ、ということは科学では絶対に解明出来ない。だから、科学は病的に死を遠ざけようとしている。
それが不死や不老や不病だ。これらを突き詰めていくと、人間は死から解放される代わりに生に縛り付けられることになる。死ぬことが許されなくなる。
かつて死とは日常に当たり前のように存在していた。それは不可解なものでありながら、絶対的なものであった。しかし、目に見えるものしか扱えない科学は死を認められない。死体は見えるが死んでどこかにいなくなった精神と呼べる何かは決して見えない。
死を病院に閉じ込めてからも、見えない死がなくなるはずはなく、たどり着いたのは人間を「死なせない」ということではなかったのか。
科学に洗脳された人間は、「死ぬことが出来ない」を「死ななくて済む」に置き換え、素晴らしいことであるかのように錯覚し続けてきた。
しかし生の世界に縛り付けられることが本当に幸せなのか。人間は死から逃げ続け、だが一体この世で何をしているのか。何もしていないのではないか?
科学技術は発達し続けても、人間は幸せにはならない。時間を圧縮し続けてもやることが増えるだけ、娯楽が世界に溢れても、それは一時の気休めでしかない。生活が便利になればなるほど、人は何も考えなくなる。生活とは人間が生きるための生命維持活動に過ぎないからだ。このまま発展させ続ければ、人間は生きているんか死んでいるのかよくわからない状態になるだろう。生命維持があまりに快適に、そして自動的に行われる未来社会において、一体人間は何をしているのか。不死や不老などなくても、その時には既に人間は「生きていながら死んでいる」状態になってしまっているのかも。中間に永遠に閉じ込められる存在。恐ろしいことではないのか?
あのさ、いま東京で買いだめしてるバカっていったい何なの? ほんともう、ムカつくんだよ。
地震当日はさほど混乱はなかったんだ。停電しなかったせいか、店がある地域は落ち着いてて、多少物は散乱したものの営業不可能な程ではなかったから続行。退勤直後に地震にあった俺も、いくらか片づけを手伝って家に帰った。結構揺れたにもかかわらず、また余震が続く中、いつものようにお客さんが買い物していて、「おいおい平常心ありすぎだろwww」って思ってたくらい平穏な日常だったわけ。でもそれが、翌日一変する。
翌土曜日は遅番午後出勤。店の前の駐輪自転車の数にただならぬ気配を感じ、あわてて店に入ると水とパンが完売、カップ麺と米が飛ぶように売れるという状態の結果、通常の1.5倍の売り上げ。昨日日曜日はさらに悪化して、レジ待ちの列が途切れぬことなく、完売した米やパンの在庫を聞く客多数(パンがなければおかしをry)で、2倍の売り上げに達する。週明けの今日も昨日と変らず酷いままだ。今日入荷したものの多くは地震前に発注したものだからいつもどおりの量なわけで、カップ麺が即完売するなど供給が足りない状態。入荷はあるのに売れるから品薄になってしまい、それが更なる買いだめを引き起こしてしまっているような気がする。
そして明日、今一番在庫を問われている米が入荷する可能性がある。入荷したらどういう状況になるのか分からない。パニック? 怖い。入荷しないでほしい。
今日配送のトラックドライバーさんと話をした。ガソリン入れられなくて困っているらしい。もともと冷蔵車だからガソリン食う上に、渋滞で更に燃費が悪くなっていると。 誰が東京に食い物をもってきてると思ってんだよ。お前が買いに来る店に、誰が食い物をもってきてると思ってんだよ。車で買い出しにくんじゃねえよ。買い出しのためにガソリンなんて入れんじゃねえよ。物流に迷惑かけるなんて、手前で手前の首絞めてんじゃねえか。バカか。
状況が状況だけに、集団ヒステリーになるのは理解できないこともないんだけど、でもさ、もう一度震災のニュースをじっくり見て、今被災民がどういう状況に置かれているのかを想像して、その上で自分の姿を振り返って見てみろよ。満足に食料が行きわたらないまま不安な日を過ごす人たちのたった数百キロ南で、生きて行くには十分な食料がすぐ手に入る環境ながら必死に買いだめしているおのれの姿は、お前らにはどう見えるんだよ。
醜いよ、お前ら本当に醜いよ。
今日は晩飯を抜いた。ひもじさをかかえて寝る。
# # # # #
3月15日 補足
書き捨てようかとも思ったけど、少なからず話題になっているようなのでいくつか補足しときます。
ひょっとしたら誤解されている方もいらっしゃるかもしれませんが、品薄になっているのは、買いだめのせいだけではありません。工場が被災したとか、配送できないとか、そういうのがあるのは事実。だから一切の買いだめがなくなっても、地震前の品揃えには戻りません。地震以前と全く同じ買い物ができるようになるわけではありません。それだけの規模の災害です。ただ、地震前と同じではなくても、十分に豊かな生活ができるだけの物資はあるでしょう。
今日はオープンから数時間は混んだものの、昼すぎにはだいぶお客さんも減り(とはいえ休日並みの数)、戦いにも終わりが見えてきました。食パンが入らず、牛乳と卵に数量制限がかかっているのは痛いところですが、米やカップ麺などは問題なく入っており(即完売)、買いだめ自体はそろそろ落ち着くかと思います。
2012年ではなく2011年が世界の終りだったのかと思ったがどうやらそれほどでもないようだ。
津波に流された民家を見る限り木造だし、流されていない病院とかもあることを考えると、単純に「防災に対する意識」が足りなかったんだろう。
都市で生きるなら防災システムの不備に憤っても当然だが、「津波さんどうぞ壊してください」って家が壊されたんだから、当たり前のことが当たり前のように起こっただけだ。
都市に住む人類は「津波で家が壊れてもしょうがない」とは考えない。津波で壊れない家、地震で壊れない家を創ろうと考える。今まで自然に抗う術をほとんど持たなかった過去の人々でさえ、やはり脅威を軽減しようと努力していた。
だからこそ、一層都市化をすすめるべきなのだ。今手にしている技術こそが、人類を自然から切り離すための大きなツールなのだから、これを大いに活用しなければならない。
木造の家や過去人(老人)は津波にのみこまれてしかるべきだ。地震や津波は自然の側が「こっちへおいで」と言っているようなものなのだから。自然と共に生きると決意した人間ならば当然あっさりと死ぬべきだし、死ぬことが本望だろう。
厄介なのは、自然と共に生きるようなフリをしながら、実際は心の隅々まで「都会化」してしまっている人々だ。彼らの歪んだ身体はテレビとネットによって作り出されたものだろう。暮らしは自然に接していても心はテレビやネットなどが映し出す「都市」と接続されている。彼らは不幸な人々だ。そのような捻じ曲げられた精神は、津波によって流されてしまったほうが良かった。これからどうしたらいいのかと泣く姿はあまりにも哀れだ。彼らは肉体を自然に持って行かれたが、心だけが残ってしまった。彼らには「都市の肉体」が必要だろう。の大災害によって少しでも「歪んだ身体」が浄化され、あるいは正常な形に戻ることを願う。
入学おめでとう。
本当は新しく大学生になる青年たち全員に向けて書くべきなのだが、とりあえずわたしにできることとして、母校について書く。
君は同志社が第一志望だったのかも知れないし、本当は他の大学に行きたかったのかも知れない。何故かよく分からないままこの大学に辿り着いてしまったのかも知れない。どんな経路でここに入学することになったにせよ、まずは、おめでとう。それはきっと、何かの縁だったのだろう。わたしがこうやってこの文章を書いていることも、君がたまたまこの文章を目にするようになったことも。
君が入学することになったこの大学は、基本的に学生を放置する大学だ。学生は好きなことを好きなだけやれば良し、そういう思想を持っていると思う。パンフレットか何かで既に見たかも知れないが、創立者はこんな言葉を残している。
わが校の門をくぐりたる者は、政治家になるもよし、宗教家になるもよし、実業家になるもよし、教育家になるもよし、文学者になるもよし。かつ少々角あるも可。奇骨あるも可。ただかの優柔不断にして安逸をむさぼり、いやしくも姑息の計をなすがごとき軟骨漢には決してならぬこと。
この大学は奇骨のある青年を求めている。勉強せずに卒業しようと思えば、それも可能だ。授業に一回も出なくても、試験答案さえ良ければいい、という先生も数多くいる。逆に徹底して学問をしたいという人間には、真摯に向き合ってくれる先生もいるだろう。
君は四年間で何をするつもりだろうか。サークル活動だろうか。テニスか、軽音か、環境に興味があるか。ビジネスか。友人と徹夜で騒ぐのもいい。せっかく大学に行っているのだから、本を多く読んでみるのも良いかもしれない。何をするにせよ、しかし、自分の頭で考えて決めることだ。自分に何ができるか、そして、何をすべきか。
それも、走りながら。
京田辺の別館が、ローム館が、そしてキャンパス内にある様々な穴場が。今出川の明徳館が、寒梅館が、そして近くにある天下一品が、君の生活の一部になることに、わたしは興奮している。わたしもまた、あの場所で人生のひとときを過ごした人間だからだ。これから様々な発見があるだろうが、君の世界がこの四年間で大きく広がることを願う。
呆れてきたので原因を考えてみようと思った。
日本における、一票の格差は恒常的に最大5倍に達したままである。先の参院選で高知の広田一氏は13万7千票で当選したが、神奈川の千葉景子法相(民主)は69万7千票を集めて落選している。全体にとって不利益な政策がとれられたとしてもフェアな競争がなされていないのであればいたしかたないというものだ。
政治への新規参入はほとんど成功しない。政治家家業の大抵は世継ぎかのれん分けだ。
有権者は投票すべき政治家がいかな人物であるのかという品定めを行う機会というものをほぼ得ることができない。政見放送は粗さえ出さなければ話題にもならないし、見られもしない。文書図画は決められた枚数しか配ってはならないし、選挙カーは名前の連呼しか許されてない。選挙期間中はWEBの更新はダメだとか本当に意味がわからないが、そうした現状を是とするのは既存の政治家だ。新規参入を防ぐための策はきちんと機能しているといっていい。
選挙前に配られる官報?には学歴と略歴とがんばりますぐらいのことしか書いていない。しかもみんな自由形式で書きたいことしか書かないから比較もできない。地獄の業火に焼かれろ的な「とんでも」は発見できても、普通の候補者だと違いがわからない。ネットショップで価格もスペックも比較できず写真だけで選べという店であたり商品が引けるわけがない。この場合消費者がとりうる選択肢は限られる。どこかの既知のブランド品から無難な商品を買うか、さもなくば買わないかだ。
結果、約半数が投票に行かないし、地方の首長選挙は現職が9割の勝率となる。保守的なのではなく、新規が得体が知れなすぎるのだ。誰に投票していいかもわかっていない有権者など、確率的な数でしかない。だから当選するために確実に投票してくれる組織を囲い込むことに政治家は腐心する。そのために地盤やお金が必要となり、結果、特定の組織に利益誘導的にならざるを得ない。たとえその組織の利益が大多数の利益を損ねるものだとしてもだ。バラバラに動く有権者は特定の利益のために組織だって行動する人たちのまえに為す術などあろうはずがない。
もっといえば罪刑法定主義なのかも怪しいところだ。判例主義といったところで検察と裁判の判検交流に代表されるように三権分立など建前になってしまっている。厳密にしてしまえば、物事なににつけても対立がうまれ滞ってしまうので、そのような体制のほうがいいこともあるだろう。だがバランスは重要だ。現状は人治が法や道理を押しのけるまでになっているのではないかと思う。
例えば先日可決された東京都の青少年保護育成条例の改正に代表されるように、法は立てるが、運用するのは、お目こぼしをするのは我々だという暗黙の権力行使を許していてはそもそも政治家は必要ではない。議会も必要ではない。
政治家自身、何を議論して、何を決めて、それがどんな結果を及ぼしているのかにまで想像力が働いていないのだろう。やはり局所利益誘導的なのだ。決定には関与しても、立ち上げにも、運用にも、またそれが為されているのかの確認にも公正に関与できていない。政治家がただの多数決要員なら無差別に選出された陪審員でやったほうがよほどいい。
以上の原因と仮定から、スキャンダルや醜聞にまみれ、日本の政治の質が低かったとしても致し方ない。
自浄効果も期待できず新規参入も無理なら当然の帰結だ。絶望した!
ほにゃららでふがふがな社会に絶望した!と、いうところで思考を停止して右派左派同様ギャーギャー騒ぎたてるのも無理からぬこと。実際、じゃあ他に何か手立てあんの?と聞かれてもお手上げだ。誰か政治家の代わりをやれよといわれても、多分同じことをやらざるを得ないだろう。日本の政治はもはやこれで完成品なのだ。アラブでは、民主化民主化と騒いでいるが、日本には閉塞感はあっても打ち倒すべきシンボルもテーマもない。やはり行き止まりだ。
基本に立ち返る。
最大数の幸福を追求したいと考えるならば、人ではなく仕組みに裁量を持たせたほうがよい。そのためには公正な競争がなされなければならない。公正な競争がなされるためには、新規参入や撤退に自由度をもたせればいい。
既存の仕組みでも運用する人さえ違えば充分なのかもしれない。既存の政治市場と、並行稼動で仮想市場をつくっておいて、実際の議員の投票はこうだったけど、その地域の有権者の実際の意見はこうでした!的な仕組みがあるだけで、何がおかしいのか評価はできるようになる。というわけでYouつくって。
「もしも」
もしも、あの時、こうだったら
もしも別れなければ
もしもたった一言「好きだ」と言えていれば
もしも抱きしめてなんかいなければ
もしも何も話さなければ
もしも死んでいれば
都合のいいように塗り替えて、前提なんて消してしまえ
泡のように中身のない「もしも」を重ねても、何も戻ってこないのに
「もしも」で目の前を塗りつぶすしか出来ない
「死にたい」
もう理由なんて見つからない
別に普通でなくたっていい、平凡であってもいい
良くても悪くても、優れてようが劣ってようが関係ない
別に、どうでも良い
奪えるものなら、洗いざらい奪っていけば良い
それが代償になるのなら好きに持っていったらいい
たった一つの大切なものが手に入るなら、他のすべてを諦めたって良い
そう願っても、叶う筈もなく
金も、能力もない
そして何より気力がない
こうなったのは何のせいなのか考える
運のせいとしか言いようがない
まあ、当たり前さ。遺伝子も環境も自分では決められないんだから
それにたとえ遺伝子や環境に影響されないものがあったとしても、それがどっからきているかわからないから運次第じゃないか
強者になりたかった。何もしなくても、馬鹿にされても、優越感に浸っていられる強者に
このまま劣等感にまみれて生きているよりは自殺したいと思うけど怖くてできない
だらだらと親に飼われている。
気づかぬうちに死ぬことができればどんなにいいだろうか
でも叶わない。たぶん今日の願いも叶わないだろう
どうしようもない
個人情報を明らかにしたくないという理由で自分のブログには書けないので、ここに書かせてもらう。
現役京大生だが、今回の入試不正問題で感じたことを書く場がほしかった。
自分が思ったことを書きつづるだけなので、論理とか矛盾とかあまり気にせずに書く。
だからもし読んでくれる人がいれば、あまり重く受け止めず読んでほしい。
2度ほど誤報もしたマスコミは馬鹿だと思ってるが、逮捕は正統だと思っている。
でもそれは、自分も京大入試を経験したってのが大きいのかもしれない。
4大学の中では同志社も受験したが、俺が書きたい話にはあまり関係ないので今回は触れない。
受験当時の俺は、とにかく京大に行きたい、京大以外の大学には行きたくないと思ってた。
今になって振り返ると、そこまで京大にこだわる必要なんてないだろって自分でも思うけど、当時は京大しか目に入ってなかった。
その理由は話すと長くなるから、要点だけ書くけど、
俺は高校生の頃、高校がすごく不自由な場所だと感じていて、とにかく息苦しいし生きにくいと日々思っていたので、
おそらく「自由の学風」で「放任主義」、おまけに「変人が多い」と噂の京大に入りさえすれば、自由が手に入ると信じきっていたんだと思う。
(これは今になって思うのであって、当時はまだそこまで自分を客観視できていなかったけども。)
現役で落ちたときは悔しい思いをしたし、受かってた滑り止めには行かず、浪人することに決めた。
浪人のときは、aicezukiもそうだったようだけど、センターで点がとれず、D判定だったときは、追い詰められた気持ちになった。
俺は模試でもD判定のことが多くて、二次試験で挽回できる見込みも低かったし、受かる自信はほとんどなかった。
それでも上述のように、京大へのこだわりは異常だった。
滑り止めも受かってたけど、京大に行けないなら死ぬと決めた。
センター試験後に決めたというと語弊があるかもしれない。
心の中で、可能性としてずっと考えていたものを、確信に変えたという方が正しいだろう。
(余談だが、だから俺は、aicezukiが自殺の方法を質問していた日時がセンター2日目終了後だと知って、ものすごく納得したし共感した。)
二次試験までは、勉強の間、ノートの余白に「死にたい」と書きまくっていた。
二次試験が終わった後、合格発表までは、後期試験の勉強の傍ら、遺書の下書きや自殺方法を真剣に考えていた。
そして迎えた合格発表の日。俺は受かっていた。
その瞬間のことは今でも鮮明に思い出せる。
自分の番号を見た瞬間、涙がグワッと溢れてきた。
そして、「あ、俺、生きてていいんだ」と思うと、涙が止まらなかった。
俺は信仰心とか全然ないんだけど、そのときだけは神様から「死ぬな、生きろ」って言われたような気がした。
それまで死ぬことしか考えてなかったのに、いきなり「生きる」という道が目の前にバーッと、それこそ白い強烈な光みたいに開けてきた。
なんだかこれ書いてる今も涙出てきた。あのときほど強く「生きよう」と思ったことはない。
今だからこんな風に言えるけど、俺は京大入試に文字通り命をかけていた。
俺の例は極端かもしれないけど、京大に限らずどこの大学でも、入試を受ける一人ひとりに、いろんな思いがあると思う。
そしてその思いは、極論かもしれないけども、実際に入試を体験しないとわからない部分もあるはずだ。
「追い詰められていた」っていうのは、カンニングの理由にはならない。
追い詰められてる人間なんていくらでもいるし、俺やaicezuki以上に追い詰められていた受験生もたくさんいるはず。
京大入試の特異な点は、試験を受けるほぼ全員が第一志望だという点だと思う。
在学生や受験生の人には申し訳ないし、今から書くことに悪意は全くないんだが、
早稲田や同志社ですら、東大・京大などの国立大志望者からすれば、滑り止めとしか見ていない場合も多い。
けれども京大は違う。ひやかしでもない限り、全員が並々ならぬ決意と共に受けに来る。
「京大じゃなかったらマスコミがここまで騒いでない」「京大は大騒ぎしすぎ」という意見もよく見るけども、この点を考えれば、京大だから大騒ぎになっているのは当然のことだと思う。
俺は、入試は人生に大きく影響し、人生を変えるものだと思っている。
けれどもそれは、「良い大学に入れば良い就職ができる云々」という意味ではない。
大学なんてものは、「どこに入るか」よりも、「入ってから何をするか」の方が重要だと思う。
特に、京大なんかだと、「京大に入ること」が目的になってしまい、
いざ入った後に何をしていいかわからなくなり、無気力になってしまったり、受験からの解放感が強すぎて、授業にも行かず毎日家でダラダラと過ごしてしまったり、という状況に入学早々陥る人も珍しくない。
就職活動でも、聞かれるのは「大学『で』何をしたか」ということだ。入るまでの努力の日々なんか聞かれやしない。
じゃあ俺が「入試は人生に大きく影響する」と思うのはなぜかといえば、
それは、「勉強の末、第一志望に合格した達成感」や「頑張ったのに第一志望には入学できなかった挫折感」を感じるという経験は、非常に大きなものだし、人間の生き方や考え方にも影響を与えるものだと思うから。
挫折感を味わった人は、その後奮起して、負けず嫌いな努力家になるかもしれない。また反対に、虚無的になり、努力を放棄する道を選ぶかもしれない。
入試での体験をどう受け止めるにせよ、その体験があることで、その人の人生は間違いなく深みを増すはずだ。
しかし、達成感も挫折感も、カンニングをし、他力に頼って入試を切り抜けた者には味わえないだろう。
もちろん合否という結果は出るのだから、ある程度の達成感や挫折感は得られるはずだ。
しかし、完全なる達成感、完全なる挫折感は、自力で入試にぶつかっていった者にしか感じることはできないと思う。
繰り返しになるが、俺は一個人としてはaicezukiの逮捕は妥当だと思ってる。感情論だと自分でもわかってはいるが。
このことについて、「カンニングを偽計業務妨害にするのはおかしい」という意見の人も多い。
実際に2chやTwitterでも、そのような議論が数多く見られる。
でも俺が気になることが、ひとつある。
それは、そのような議論をしてる人たちの中には、罪状について「業務妨害」「業務妨害」と、「偽計」の部分を略している人が非常に多いということだ。
俺は、このことに強い違和感を感じている。
「カンニングされたのは大学の監視体制が悪かったからだ、だから自業自得であり、業務妨害にはならない」という意見の人も多いのだけれども、
みんな「偽計」の部分の重大さを忘れているように感じる。
今回の件で真に重大なのは、「業務妨害」の部分よりも、「偽計」したという事実だと思うのだが。
「偽計」の省略され具合から見ても、みんなその点を忘れてるんじゃないだろうか。
でも、カンニングは罪に問われてもおかしくない行為だと信じているし、
もしカンニングを罪に問える適切な法律が現時点で存在しないのならば、早急に作るべきだと考えている。
小学校というのは優秀な人間を選別するところ。小学校に入ったのに、無能な人間が排出されると、社会に害悪を与えることになる。
無能な人間は生まれつき無能なのだ。生まれてきたこと自体が罪なのだ。
無能な人間は優良な人間をたたえつつ、自分が生まれてきてしまったという罪をあがないながら生きなければならない。
無能な学生が何人か死んだところで大した問題にはならないので、他人に迷惑をかけない方法なら死ぬことも許される。
小学校自体が優良な人間の選別装置なので、小学校教員には無能と選別した人間には「死ね」という権利があると思う。
殺人は罪になるが、「死ね」という言葉を発すること自体は罪にならない。無能な人間を排除することは、むしろ社会の発展に貢献しているとすら言える。
世の中こういうものだと思っておけば、いかなる低偏差値小学校でも乗り越えることができると思う。
おい、お前ら。コレで満足か?
高校というのは優秀な人間を選別するところ。高校に入ったのに、無能な人間が排出されると、社会に害悪を与えることになる。
無能な人間は生まれつき無能なのだ。生まれてきたこと自体が罪なのだ。
無能な人間は優良な人間をたたえつつ、自分が生まれてきてしまったという罪をあがないながら生きなければならない。
無能な学生が何人か死んだところで大した問題にはならないので、他人に迷惑をかけない方法なら死ぬことも許される。
高校自体が優良な人間の選別装置なので、高校教員には無能と選別した人間には「死ね」という権利があると思う。
殺人は罪になるが、「死ね」という言葉を発すること自体は罪にならない。無能な人間を排除することは、むしろ社会の発展に貢献しているとすら言える。
大学というのは優秀な人間を選別するところ。大学に入ったのに、無能な人間が排出されると、社会に害悪を与えることになる。
無能な人間は生まれつき無能なのだ。生まれてきたこと自体が罪なのだ。
無能な人間は優良な人間をたたえつつ、自分が生まれてきてしまったという罪をあがないながら生きなければならない。
無能な学生が何人か死んだところで大した問題にはならないので、他人に迷惑をかけない方法なら死ぬことも許される。
大学自体が優良な人間の選別装置なので、大学教員には無能と選別した人間には「死ね」という権利があると思う。
殺人は罪になるが、「死ね」という言葉を発すること自体は罪にならない。無能な人間を排除することは、むしろ社会の発展に貢献しているとすら言える。
博士課程というのは優秀な人間を選別するところ。博士に入ったのに、無能な人間が排出されると、社会に害悪を与えることになる。
無能な人間は生まれつき無能なのだ。生まれてきたこと自体が罪なのだ。
無能な人間は優良な人間をたたえつつ、自分が生まれてきてしまったという罪をあがないながら生きなければならない。
無能な学生が何人か死んだところで大した問題にはならないので、他人に迷惑をかけない方法なら死ぬことも許される。
博士課程自体が優良な人間の選別装置なので、大学教員には無能と選別した人間には「死ね」という権利があると思う。
殺人は罪になるが、「死ね」という言葉を発すること自体は罪にならない。無能な人間を排除することは、むしろ社会の発展に貢献しているとすら言える。
世の中こういうものだと思っておけば、いかなるブラック研究室でも乗り越えることができると思う。
自分は無能であるという罪を負っており、罪をあがないながらでなければ生きて行くことが出来ない。そのあがないが研究なのだ。だから、研究は辛く苦しくて当然なのだ。
私立では一応高学歴だと思う。
書きたくなったから書かせて。
就活に失敗して親が破産してIT系のバイトして食いつないでいたが、
感想など
・すさまじい負け犬気分
・死にたい
・「◯◯したら死のう」と思っている
・人と会うのが怖い
・電話が怖い
・「職」の字を見ると裸足で逃げ出したくなる
・親への罪悪感がヤバい
・この先どうすれば…と考え、安心出来ない
・いやまだなんとかなる! と外に出て駅まで歩くがそれまでに気持ちが折れる
・とにかく眠ることでしか心の平穏が訪れない
・一日が終了するたびに自分がなんのために生まれてきたのかと問い直す
・あの人もあの人もがんばってるんだ! と自分を鼓舞しようとしてfacebookを開くと裕福で内定と友達に恵まれたリア充の友人がアメリカあたりで卒業旅行を楽しんでいるのを見て自分は何をしてきたんだと考える
・バイトに応募しようとしてFamilyMartの下見しておばさんが金髪のジャニーズっぽい子いじめてるの見て社会こわくなる
・あらゆる企業が、裏では社員や顧客から搾取していると思い込む
・1000円以上使うと「もうすぐ死ぬ自分が…ニートの自分が…もったいない…」と思う
・「こころの病気」「病んでる」とかいってるリア充を見ると殺したくなる。自分のほうが病んでるって思いたい
・外面はものすごく装うので会った人はだれも自分がネガティブになってても気づかない様子で少しさみしい
・文庫本など安いものは買える。そんなとき自分は存在していることを実感する
・スーパーで300円くらい買い物をして、前に並んでたこんなおばちゃんでも何千円も買って社会に貢献しているのに、と無駄に自責の念
・やっぱり死ぬしかない
・以下無限ループ
とにかく死ぬことだけを考えている。
バイトでも何でも就職してお金の心配を立つしかないんだろうなあ。
バイトやめた日、
会社の鍵を返しに行って気まぐれにみた映画『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』面白かったなあ。
あの瞬間だけは生きててよかったと思えた。
成功したところで虚しさは変わらない。なのに成功した奴をちょっとでも批判すれば負け組だの僻みだのなんだのと言われる。
馬鹿な人生だな。成功すればするほど後でその虚しさが襲ってくるというのに。
あがけばあがくほど落ちていくことも分からないのか。いや、分かろうとしないんだろう。自分が積み上げている数々のものが単なる積み木遊びの積み木でしかないことを、知りたくないんだろう。
ちょっと手を触れればあっという間に崩れる、どんなに頑張って崩れないようにしたところで、大地震すなわち自然の力によって必ず崩れる運命にある。
お前たち(必死になって頑張って成功するんだ教の信者)は何に勝った?
ゴミから作られた儚い存在のお前たちは、一体何に勝ったというんだ?他のゴミに勝ったところで何だというんだ?
成功したところで何もありはしないというのに。この資本主義社会での成功とはより金を稼ぐことだが、結局金を稼いだところで何の意味もない。
そもそも人間の生きる動機とは欲望だ。
欲望すれば快楽が与えられる。つまり、人間はこの快楽というものが欲しくて生きているのだ。
気持ちよくなりたいだけなのだ。
成功して気持ちよくなりたい、セックスをして気持ちよくなりたい、おいしいものを食べて気持ち良くなりたい、子供を育てて気持ち良くなりたい、金を稼いで気持ちよくなりたい、他人より豊かな生活をして気持ちよくなりたい、良いことをして気持ちよくなりたい、親切にして気持ちよくなりたい、褒められて気持ちよくなりたい・・
全部気持ちよさが動機だ。高尚なものなど何一つない。それはすべて欲望である。
お前らはいつか死ぬ。必ず死ぬ。
結局長く生きることに意味などない。欲望し続ければ長く生きられるだろう。しかしそれも限界が来る。
もう快楽はいらない。そう思ったとき、お前はもう死んでいるのだ。もう、生きる力は沸いてこない。
そして、そこから逃げようと努力すればするほどよりその人間の人生は虚しくなる。
勝つことが全てだと思っている者よ、お前はいつか必ずその考えのもと生きたことを後悔する。