はてなキーワード: 頭が悪いとは
感情が込み上げてきた
涙が出てくるのはいつものことだったが、昨日は笑いまで込み上げてきてこのまま頭がおかしくなってしまうのだろうかと思った。
障害なのか、頭が悪いだけなのかなんでこうなったんだろうな。よくわかんねー。
こんなになるのはカウンセリングルームだけと思いたいが、感情が燻っている感覚は日常的にある。
ガス抜きできてるんだか、ヤバさに近づいていってるんだかわからなくてしんどいと思った。
まあ、カウンセリングすっぽかさずに行けたのでよしとするか。
昨日は身だしなみも少しだけ意識できたのもよかった。
なんかだるい
ずっとこのままなのだろうか
いやだー
嫌だー
部屋が物で溢れているのが嫌だ。
洗濯物で溢れているし、床に紙が散らばっている。
最近は共有スペースも散漫としていて気が滅入る。
見たい作品がとりあえず2個ほどあるのでそれを見る。
このままでいいのか?と思うが、部屋を片付けながら見ることにする。
少しずつ試してみよう。
大学は「勉強ができる」優秀な人よりも「考える力のある」優秀な人が多かった。そこで自分は何て頭が悪いんだ、底辺だ、最低だと実感させられた。
周りがどんどん超有名大手企業から内定を取る中、自分は第一希望のメーカーは落ちて、知名度まあまあの別業界に入った。周りは内定数で勝ち負けを競ってるような中で、自分は一社しか内定が出なかった。惨めだった。
でも、新卒で入った会社には感謝している。本当に何にもできない自分みたいなのを、マイナスから平均ぐらいにまでは引き上げてくれた。理論的に考え話すこと、理性的であること、目標の立て方、チームの育て方など、その会社の持っている「素人をプロにする力」で、それなりに見えるようにはなれた。
そこから、二度転職をして、今は新卒で入った会社のピーク時より100万は年収が下がっている。地方の家族経営の弱小企業の一般社員。大学の同期には話せない。
弱小には弱小たる理由があるというか、ルールもオペレーションも全部なあなあで、だからこそ改善意欲も変化も何もしたくない、ただ毎日同じことをやって適当に金がもらえればいいという奴らが集まる。
そういう奴らは極端に変化を嫌がる。どんなに理不尽で非効率的で前時代的なルールやオペレーションであっても、改善しようとはしない。ただ毎日「ここが嫌だ」「あれがおかしい」と無意味な愚痴を繰り返してストレス発散して終わる。問題の根源を突き止め、変えて、より働きやすく利益が出る方に変わることなどしない。「それは自分に関係ない」と思っているからだ。
こんなやる気のない、意識の低い、腐った奴らと働くなんてごめんだ、自分はめちゃくちゃ働いてるしあいつらよりも価値のある人間だし、こんなしょっぺえ安月給で使い倒される人間じゃない、と思い、転職活動を始めた。
転職活動を始めてからは、改めて自分の無能ぶりを実感するばかりだった。
説明会に出ても質問は出てこないし、求められるスキルや業務レベルは自分のできる範囲を超えているし、自分みたいなのに内定を出すのは結局今と同じような、安月給のくせに仕事だけは一人前に求めてくる、弱小中小だけ。
結局自分は「本当に賢く、考え実行する力がある人達の中にいて勘違いした痛い奴」でしかないということに気づかされた。
もし自分が「賢く、考え実行する力がある」人間だったら、きっともっと内定は出ただろうし、今もこんなしょうもない文章を書いて鬱憤を晴らすようなみみっちい人間にはなっていなかったと思う。
自分は強者の周りでおこぼれの恩恵にあずかって、自己評価だけ異常に高いただの弱者なんだろう。
そういう、おこぼれしか得ていない、自分の本質は変わらないのに自分は特別だと思い込むところは、昨日あたり騒がれてた港区女子にも通じるのかもしれない。
父親が家におらず、母と姉妹と育ってきたからだろうか。女性にあまり過度な期待をしないようになってしまった。
姉、特に5歳ぐらい歳の離れた姉がいる人はわかるかもしれないが、中学生になり、第二次性徴期をむかえるまでは、圧倒的に女性の方が体も大きいし、学年も上なので、体力的な喧嘩でも、口喧嘩でも負けるのが当たり前だった。子供の頃の2〜3年の歳の差というのは、結構大きいと思う。そのうえ家に女性しかいないので、家族の中でも、たった一人の男である自分に、絶対的な味方はいないという状態だった。僕に可愛げがあったらよかったのだろうけれど、残念ながら可愛がられるような性格ではなかったのも災いした。もちろん母は母なりの愛情を注いでくれていたのは理解していたが、根本的なところで断絶も感じていた。ものすごく乱暴にいうと、女性の嫌な面を見過ぎてしまったのだと思う。
そういう家庭環境で育ったものだから女性に期待が持てなかった。学校で同じクラスやクラブにいる女子も、容姿や性格に惹かれることはあっても、付き合いたいとか、二人きりで出かけたいとか、手をつなぎたいとか、そういう感情は起き上がってこなかった。「あの子は可愛い」とは思うけれど、「一皮剥けば、嫌な面も当然あるだろうな」とも思っていたから、「あの子とどうしたい」とか「どうなりたい」とか考えもしなかった。水槽の中で泳ぐグッピーを見て、可愛いなぁと思っている状態が近いかもしれない。本当に見ているだけで満足だった。今から考えると、死んだグッピーの処理をしたがる子供がいないように、わざわざ近づいて嫌な面を見ること自体が怖かったのだろうと思う。
だから他人の恋愛話などにも興味が持てなかったし、告白できずに悩む友人に、周りが親身になっている意味もわからなかった。僕にとっては、そういう関係になるなんていうのは、コミックや映画の中のお話と、大差がなかったのだと思う。遠くから見てたら楽しいので、友人が彼女と言い争いしているところなどを目にすると憂鬱だった。
そういう性格だったから、友達も少なく、ましてや恋人などいない状況が続いていたのだけれど、高校生のある時分、なぜか告白されるという事態に直面することになる。
とりあえず目の前にいて、自分のことを好きだと言ってくる女性がまずわからなかった。地方の小さな学校だったから、同じクラスだったこともあり、知っていたし話す機会もあった。ただ自分を好きだという彼女のことが理解できなかった。だからよくわからない返事をして、よくわからないまま付き合って、よくわからない理由で別れた。よくわからないなりに考えてみたが、おそらく彼女が僕に求めていたことを、僕が理解できず、理解していても実行できなかったからだと思う。彼女が笑っていた時、それをみていた僕も楽しかったことを思い出す。
それから程なくして、同じように自分のことを好きだと言ってくれる人が出てきた。一度目のことがあったので、なんで自分みたいな人間を好きになるのか、不思議な人だと思った。以前の別れ方がよくなかったので、正直に僕は、君が何を求めているかよくわからないし、多分、君の求めるところは満たされないと伝えたのだけれど、なぜか付き合うことになった。そして程なくして別れた。理由はわからなかった。彼女が「こんなはずじゃなかった」と口にしたことは覚えている。僕は僕なりに彼女のことを大事にしてきたつもりだったのだが、どうもまた間違えていたらしい。
それから数人と付き合ったり別れたりしたけれど、いつも相手から好きだと言われて、相手から別れ話がでた。僕自身はなんとか関係を継続しようと頑張ってはいたつもりだけど、何か歯車が噛み合わないような状態でいつも別れ話となった。「こんなはずじゃなかった」「こんな人とは思わなかった」ということは何度も言われた。彼女たちがどういう未来を描いていたのかはわからないけれど、どうも僕は期待はずれだったようだ。
僕が彼女たちに期待したことは、毎日風呂に入って、洗濯された清潔で体にあった服を着て、真っ直ぐ歩いて、ご飯を美味しく食べてほしいぐらいのことだ。いわゆる家庭的であって欲しいと願ったこともないし、勉強や仕事でバリバリと活躍してほしいとも思っていなかった。もちろんそれは僕自身への期待と同じだった。ちゃんと生活ができるようになりたいと思っていたから、ローンで資格学校に行きながら、なんとか士業の資格も取ったりしていた。頭が悪いなりに、なんとかまじめに生きて行く方法を考えていたら、隣で一緒に歩いていた人が、いつの間にか去っていくという感じだった。
僕は今、幼少の時に近所に住んでいた女の子と付き合っている。いわゆる幼馴染というやつだ。社会人になってからしばらくした頃、久しぶりに出会って、一緒にご飯を食べて、ということを半年ほど続けていたら、そういう関係になっていた。ある時、僕と一緒にいる理由を聞いてみたら、「そういう人だと昔から知っているから」とだけ返ってきた。全く答えになっていないと思うけれども、僕も本当のところを知りたいわけでもないので、なにも聞かずに一緒にいる。
Xとかヤフコメとかで書くと個人攻撃されそうなんでここに書く。
ここ数日よく出てくる「性別変更手術をしないで戸籍の性別を変更したい」というアレに対する反論というか素朴な疑問について。
先に前提として自分の立場を書くと私はトランスではありません。
手術要件をなくせと言ってる人の主張を見るとその根拠になっているのが
・性別変更をするために不妊手術をさせられるのは過去の優生保護法と同じ人権侵害である
・性別変更をすることでホルモンバランスなどが著しく崩れ健康面をそこなう
・性別変更手術は非常に高額であり、金銭面に余裕がなければ性別が変えられないのはおかしい
・将来的に自分で子どもを出産したいと思っているトランスもいる
・身体上同性パートナーと婚姻をすることができない不利益がある
といったところだと思う。
というかこれ以上になにか説得力のある根拠を挙げている意見を見かけない。他に意見があるなら教えてほしい。
しかしそれらの根拠のもとになっているのは全部「私達はかわいそうな存在なので周囲が変わってほしい」という意識であって、その主張が通った場合にどのような社会的混乱が起こるかを想定してそれをどう解決すればよいかという提案は一切ない。
まるでそこにどんな混乱や不具合があろうと、自分たちが「かわいそう」ではなくなればそれが解決であると言わんばかりである。
私は選択的夫婦別姓や同性婚は全面的に賛成の立場であり、その実現のために法的な根拠や歴史を勉強し、それによって失う可能性のあるものや侵害される権利をできる限り想像したり、誤解(同性婚が導入されたら悪用犯罪者が増える、少子化が進むなど)をしている人には統計や諸外国の事例などを調べて細かく反論をするようにしている。
それでもなかなか政治家に近い人達は理解をしないのが現状ではあるのだけど、この「手術要件の撤廃」についてはそうした姿勢が一切見られていないのが非常に腹立たしい。
当事者ではないので完全に理解することは難しいのだが、ホルモン注射や性器の切除・拡張手術が苦痛を伴うものだということはわかる。
その上でどうしても一言言いたいのが、「何のために戸籍の変更が必要なのか考えたことがあるのか?」という疑問だ。
よくよく考えてみれば「なぜ性別変更手術をするのか」というのは、「法律的にそうしなければ性別変更ができないから」ではない。
自分自身の体の性別に違和感があり、それを解消したいという気持ちがあるからではないのか。
現在の法律の要件というのは「これをしなければ性別変更できませんよ」ということからできたものではなく、自分の体への違和感を解消するために手術をした人に対してその体に合った国民生活(もっと言うと行政サービス)を送れるようにするためという趣旨からだ。
そこをどうも今主張されているトランスの方々は勘違いをされているようで、「変更するための法的要件が手術なので仕方なくやっている」という考えを前提に主張しており、目的が手段へすり替わっている。これがどうもおかしい。
だから「手術要件がなければ自分の体を変更することなく性別を変更できる」と喜んでいるわけだろうが、そこに矛盾を感じる人はいないんだろうか?頭が悪いのか哲学がないのか知らないが。
もし彼ら・彼女らの主張がまかり通って手術をしない体で戸籍の性別変更ができたとしたら、自分の体の性別は生まれたときから変化がないのに戸籍だけが変更されることになる。
その場合だが、その戸籍という紙切れ一枚に性別が変更されたと記載されればそれで彼ら彼女らの「自分の性別への違和感」はきれいに払拭されるのだろうか?
私達の性別は戸籍にそう記載されているからそうだとなるのではなく、自分の体の分類として記載をされるものだ。
しかしトランスとして手術要件を不要にしたがる人たちは、自分自身が自分に対して感じる違和感はそのままでも、戸籍が変更されればそれで性別が変わったと思うらしい。
さらに踏み込んで言えば、過去に自分の性別に違和感を感じて高額の金銭と身体へのリスクをおかして手術をした人たちというのは、「自分の気持ち」の中の違和感をなくすためにそれを行っている。
対して手術をしたくない自称トランスの人たちは「戸籍」という「他人の目」からの客観的事実さえ変更さえできれば自分の中の違和感は払拭できると言っているようなものである。
彼ら・彼女らの言う「違和感」というのは自分の中から出てきたものではなく、他者からの扱いでしかないと言っているわけである。
それがどんなに危険かというのは女子トイレ騒動で十分に世間に知られているはずなのに、自分は一切変わらなくても他人の目が変われば世の中ハッピーになると考えているのか全く反論に対する気概も準備もない。バカなの?と言いたくなる。
性自認がどうであろうとそれは個人の自由だし、好きなように自認して周囲にカミングアウトすればいいと思う。
ですが自分の自認を満足させるために周囲の視線を自分に都合のよいように強制しようとする姿勢はどうも好きになれない。というか愚かだとすら思う。
何より一番この流れにイライラするのは、そうした主観・客観といった深い問題があるこの議論に対し、「かわいそう」だけで認めようとする裁判官や政治家がいてしまうということだ。
もうちょっとましなやつがトランスを代表してもらいたいのだが、どうして表に出てくる連中というのは揃いも揃って頭が悪いのだろうか。
経営者になるとわかるんだけど、中小に流れてくるような人材って本当に頭が悪いのよ。
自分の会社がどうやって儲けてるのか自分の給与がなぜそんなに安いのか何も理解してないし理解しようともしない。
給与が安くてもコンプラが終わってても自分に直接被害がなければ興味がない。脳死で働き脳死でスマホゲーや推し活に散財しクソして寝るだけ。
中小経営者としてはそういう人材にも仕事を与えてやってるだけでも福祉に貢献していると思うし少しでも才能がある人材に教育を施して稼げる企業に転職してもらうことに幸せすら感じる。
なんかわかるわ
ガチの人、丁寧な批判も書く、感想を書く行為とは何かを理解している鑑賞者としての素質の豊かな人もいるが、
鑑賞者とはとても言えない頭が悪い小学生みたいな視野が狭い人、全肯定するだけの人、学術的な見解からはかなり遠い個人的な考察を書いてる人もいて(心理学や倫理や差別や経済など既に社会に集合知があるような分野では、専門外の人間の駄文という自覚はせめてほしい)
創作への感想は自由だ!創作者は神!感想なんだからなんでもいいじゃん!を免罪符に何言ってもいいどう扱ってもいいと思ってる人とか、全肯定の後者しか受け入れない人がいたりとか
ぶっちゃけ後者なんて外から見たら小学生のお絵かきノートみたいなものなのに、そこに必要以上に権威性持たせてるオタク界隈とか
やばいやつあるよね
大卒の人がいないのかな
自省や自浄が一切ないのがキツすぎる
そのくせして「残業時間減らせ!さっさと帰れ!でも社内のイベントや朝礼の出席率はもっと上げるように!」と言う。
ウンザリする。
手間をかけるってことは時間をかけるということであり、時間をかけるということは残業が増えるということであるという単純なことさえ分からないまま年功序列で偉くなったらしい。