はてなキーワード: 記号論とは
諸君、私はおっぱいパブが好きだ。諸君、私はおっぱいが好きだ。
年間数千万円おっぱいパブに費やしている私だが、おっぱいパブの何がいいのか諸君に教えてあげよう。
私は嬢を呼ぶ時「そこのおっぱいちゃん」と言っている。
りさちゃんを呼ぶ時も「おっぱいちゃん」ゆあちゃんを呼ぶ時も「おっぱいちゃん」である。
これで通じてしまうのがおっぱいパブの素晴らしいところである。
記号論的な話をするとすれば、実世界における「おんな」を呼ぶ場合は敬意をこめて「名前」を呼ぶことが一般的であろう。
「ちょっとそこのりさちゃん」「ねぇゆあちゃん」
その彼女についているおっぱいは、あくまで名前に張りついた属性であるといえる。
『りさちゃんwithおっぱい(Bカップ) ゆあちゃんwithおっぱい(Gカップ)』
実世界においておっぱいを揉む場合には名前のある人に確認をとってから揉まなければならない。なんとも難儀な世界である。
ところが、おっぱいパブは違う。その属性と名前が逆転した世界なのである。
まずおっぱい在りきで存在する世界、それがおっぱいパブである。
このことは純粋性おっぱい批判を書いたおっぱい原理主義者たちにとっては盲点だった。
今度君がおっぱいパブに行った時は、嬢の事なんて気にせず「おっぱいちゃん」と呼び、そこにあるおっぱいを存分に堪能してほしい。
古代の学習環境が全く整ってなかった頃と今とでは全く意味が違うと思う。
もともと全ては「コレはなにか」的な事を考える事が原理で
全ては哲学だった。
古代ギリシャの哲学は、三通りの学に分かれていた。すなわち――物理学、倫理学および論理学である。この区分は、哲学というものの本性にかんがみてしごく適切であり、これに区分の原理を付け加えさえすれば、かくべつ訂正すべき点はないと言ってよい。
増田の言う「数学」はこの中では物理学及び論理学の一部となろう。
つまりはそれらは「哲学」と言ってしまっても決して過言ではない。
現在における「哲学」というのは上とは少し離れて、まず、物理(科学)など検証されるような事柄は省いている。
論理学と言っても記号論理学の様な体系付けられた様な物も省かれている。
倫理、についても法律など、人間が直接決めてきた倫理については直接はあまり対象にしない(一部ではなるが)
そして、残った「曖昧な物」を考えるのが現在の哲学、と言った感じになっている。
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
俺は漫画家(※)だが、アイデアが出なくなったら、むしろ沢山作品を作るね。
で、webをつかってなるべく発表する。
とにかく描く。描く。描く。
ガンガン描く。無心になるまで描く。
描き疲れて、気分転換に夜空の下でのんびり散歩していると、突然、『何かが変わったことに気づく』。
「あれ?俺行けるんじゃね?」と根拠の無い自信の火が灯ったら、
コンビニで2日分の食料と眠眠打破を買い込んで、精根尽き果てるまで描き続ける。
朝のチュンチュンに目を覚まして、ふと気づくと、机の上には、普段の自分が想像もできないクオリティの作品が、『ポン』と置いてあるんだ。
そうしてできた作品には、「え、俺が描いたんじゃなくね??」と不思議に思うものさえ、ある(けど、なぜかそういうもんのほうが売れるんだよね)。
『感度』が高まるんだ。
図書館とかに行って、今まで読んだことのない本に自然に手が伸びている。
先月はこのノリで『レトリックの記号論』を借りてきた。芸術系大学を中退した俺には全然関係ない範囲だが、しかしこれがめちゃくちゃ面白かった。
ある日はまた、津田沼の丸善の漫画コーナーで、ふと気づくと、『メンヘラちゃん』とかを買っていた(この作者の作品がWebで読める。読者を選ぶが、心地よい不穏感が独特の味になってる。俺には大ヒット)。
そういう横道が、作品のデェテェイルになっていく(と、俺は信じている)。
こう感じるのは俺だけかもしれないけど、
成功体験とか、誰かの承認とかで嬉しくなっちゃって、『意識高く』なるのが、破滅への登り階段の入口なんだと思う。
一度そうなると、意識の奥にある、創作エンジン(笑)にアクセス不可能になっていく。
創作って、もっと自分勝手で、制御不能で、根源的なもんだろう。
だから『意識高く』なっちゃったときは、全力でヒキこもって、駄作をたくさん作ることに精を出す。
これは本来、自分自身のためだけの創作だけど、しかし誰にも見られないとなると、(俺は)やる気を失ってしまうので(すいません)、一応公開する。
そんな作品を読んでくれて、肯定的なコメントをくれる人もいるけど、多くは総スルーだ。
クソ作品を読んだ読者の、無駄にされた貴重な時間には、お悔やみを申し上げる。済まない。だが君らは必要な犠牲なのだ。
ところで論証はどこに書いてありましたでしょうか?
ここでいう論理とは、思考の形式及び法則である。これに加えて、思考のつながり、推理の仕方や論証のつながりを指す。よく言われる「論理的に話す、書く」という言葉は、つながりを明確にし、論証を過不足なく行うということである。
論理学は、伝統的には哲学の一分野である。数学的演算の導入により、数理論理学(記号論理学)という分野ができた。現在では、数理論理学は数学と論理学のどちらであるとも(時にどちらでないとも)される。現在の論理学は、(それを論理学であるとするなら)数理論理学と、数理論理学をふまえた論理学、数理論理学でない論理学に分化している。
弁証法なども、「論理」なのであるが、論理学における論理とは異なる。これらは、論理というよりむしろ理論 (Theory)である。
や、広義な意味では間違いでも無いけど、ここで「記号論」って使ったのはあんたがめちゃめちゃな論理を展開してる事を「記号的」と表現したことに通じてるだけで。
もう一個について具体的に説明してください。
もう一つであなたがぐちゃぐちゃ言ってる方だよ。
それとも向こうは別人と言いはるかい?
http://anond.hatelabo.jp/20140211145814
なんで小児性愛については全くもってOKになろうとする気配すら無いん?
同性愛は禁止だった頃から、それが差別だ、と言う雰囲気は少しはあっただろう。
今も、国によって結婚等禁止なところはいくらでもあるが、それが差別だ、とその国でも思ってる人は居る。
マイノリティーの限度の違いか?
例えば、子供側、子供の親側からそれらを許可すべきだ、と言う声はあるのか?
どうやって制限を行うの?
例えばストーカーとか、被害者に近づかないように、と言う命令すら下るよね?
でも、ストーカーだって、その後、もう被害者に近づいても何もしない、と本気で誓ってる人も居るだろう。
でも、んなこと言ったって無理だ。
出来るんだったらもう人として自由に行動することすら意味が無いよね、逆に。
えーと、それは小児を体ができてないのにsexする、というの同じようなことじゃ?やってはならんこと、だろ。
それに、そもそもアナルセックスと普通のセックスと感染率はどう違うんでしょうか?
ゴム付けてるか付けてないだけの違いでは?
それらについては全て反論済みです。
済んでません。
利点は何もない。
害は子供が傷つく。
それだけ。
あなたの主張する利点は、子供が本能のままに生きて落ちていっても子供の勝手、という恐ろしい論理。
子供の頃からドラッグをやろうが自殺しようが子供の勝手でその意思を尊重すべきだ、という恐ろしいことを言ってるだけ。
いや、あなたがそこを理解できてないだけです。あんたが言ってることは単なる「自分勝手」です。
えーと、勝てたと思うなら、今日から小児性愛者だと周りに言いふらしてくださいよ。
あ、あなた自身は別なんでしたっけ?
えーと、あんたが「記号論」を持ち出してきたので、それに対応する言葉なんですけども。
yが子供でない場合、何も意味がないじゃないですか?Bが絶対出て来ないじゃないですか?
で、Fは何かな?
なんで、理解もしてない記号を使ってみたの?すこし知ってるからって簡単にそれで論破出来ると思った?
残念だったね、単にバカを露呈しただけになっちゃって。
もう一個のほうね。これに対してあなた、答えてないの。逃げちゃって。
法律=答えではありません。
害があればありにはしません。
そもそも、同性愛を駄目、とする時、そこには何を持って駄目とするか、そこが問題になったわけです。
生物的には同性愛は第一次行動として正しくないですし子供を作るためには障害となります。
また、大多数の人が同性を愛せ、と言われてもそれを嫌悪すらすることがあるのは事実で、それは生物的な本能から別に悪いことでもなんでもないでしょう。
ただ、これらは基本的には「気持ち」の問題であり、人間で言えば宗教的な問題に近いものです。(実際、これらが禁止されてた事実としては宗教の教えが元になってることが多いでしょう)
同性愛に関しては、それは矯正してどうにかなるものでない、1つの性質ですので、禁止した所でその人達が異性愛に走るわけではないです。
従って、「実害」に関しては禁止しても減るものではない。
一方、許可した時、害が出るか?同性愛同士で一緒になるだけなので、何も害はない。
散々、害に関する具体的な話してますが…
逆にどの文において、そのように定義してるのか説明してくださいw
こちらが散々ルールを守る事が社会には必須である、と言ってることに対する反論として、
「自由」を得られることが利点である、ということだけを散々あんたは主張してるんだけど?
つまり、ルールを超えても自由を得ることが重要だ、ということになるんだけど。
で、あんたの自由ってのは、恋愛を小児愛だろうがあんだろうが勝手にする、ってことで、それを「本能のままに生きる」って言ったんだけどね?
と言う意味で使ったんだけど。これはこれで正しいと思うけど、違うかね?
もちろん、これらは共存出来るよ?でも、ルール違反しての「自由」は「理性」を伴わない「本能」のみの行動。それは正しくないかね?
不当であれば変わっていくでしょう。
ただ、「ルール」に関して言えば、その時、ルールを決める人達にとって最も良いもの、が選ばれるのはわかりますよね?
で、今の日本の小児性愛は誰にとってメリットがある法律なんでしょうか?
まさにあなたに対しても同じことが言えるわけで、
いえ、お前はお前の勝手だけど、
こちらの主張は現在の日本の法律、倫理観に基づいた主張ですので。
法律ウンウン以前に、さんざん具体的に害について話してますが。
そこをなんとか無視しようとして、法律だけのところを責めようと、悲しくなってきますね。
両方共で完全に負けちゃって可愛そうですが。
革命と同義付けるか。いやね、そりゃなんとでも言えるわね、そこまでいくと。
ただ、「小児性愛」を告白することは、何度も言うけど、「殺人大好き」を告白することと同義ね?
少なくとも、総考える人のが大半で、それは別に間違った考えではないってこと。
定義として、「犯罪をしたいと言ってる人」というきっちりとした物があるんだから。
で、現在、なんで禁止になっているかというと、その害が大きすぎると大多数が感じてるからです。
それこそ利害について、きちんと定義するのは難しい物もあるでしょう。
ただ、利について、あなたは何も正しいことを言えてないし、害はいくらでもあるし、
それを現在法律という形になっている、と言ってるだけなんですけど。
だーかーらー。個人の自由を制限して理性によって成り立ってるのが「社会」な?
「人間社会」が気に食わないのかもしれないけど「動物」の社会にもある程度のルールはあり、個人の自由は制限されてることはある。
お前のいってることは、本能のママ生きる、というアホな事を言ってるだけ。
人の物を盗もうが人を殺そうが、俺がしたいと思ったんだからいいだろ、個人の自由だろ、権利だろ、と言ってるんだって話。
えーと、それは誰が決めたのかな?あんただよね?んで、今の社会ではそうではないの。分かる?
あんたはの決めたことが正解ではないの。
理解できる?
えっと、だから、さんざん害について説明して、利が無いことを説明してます。
個人の権利だとかについてもそのあんたの軽薄さを散々指摘してます。
いいえ。完全に合理的です。
どこがですか?あんたは「本能のママに生きて何が悪いんだ?」としか言ってませんが?
消す!凄い発想です!
そうだよ?消すだよ?何言ってるの?
OK?これが原理だと思います。そして、これらは私としては正しいと思いますが、違いますか?
あなたが記号論理学理解できてないことはわかったでしょ?これ以上バカを露呈しないほうが良いですよ。
程度、というのは接触の程度ですか?
一方、近くによるだけで精神的な害を与えるでしょう。
したがって、近寄るだけで害です。程度としたら、接触するか否か、だけの判断ですね。
全部きちんと読んで反論に対して、都合の悪い部分を無視するのをやめてください。
優先順位を決めるのは、私です。
公言することが交渉が誰かによって行われる前であっても問題ありません。
えーと、あんたは小児性愛者なの?違うの?なんなの?
優先順位ってなんなの?
それを批判されるのは当然。
革命だかなんだかしらないけど、それらもルールが変わる前は批判されるのが当然なわけ。
それはただの思い込みです。
思い込み…あなたがね?
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223(最初のトラバ先)
http://anond.hatelabo.jp/20130831142238(自分の記事)
元増田の人が2nd Seasonを書いてくれたので、こういった若い人たちに役立ちそうな知識をさらに追記してみたい。
(実は若くなかったら申し訳ない)
念のために書いておくけれど、僕は最近のラノベ専門学校の実態は知らないし、体験入学に行ってみて入らないというのは、優れた判断だと思う。
実際に教師の質をどう担保しているのか不透明だし、やはり意識の低い学生も多い。(自分の時は、おおよそ2割=10人は中退した)
教師は別に仕事を持つ社会人が多く、どちらかというと偏った業界の偏った人格の人達で、しかも扱う分野が本来主観的なものであって、生徒への評価も心情的になりやすい。
それに、最近のラノベブームで、雨後のタケノコのように学校が開かれているのかもしれない。
そういったところはやはりノウハウも無いだろうし、授業の質も低いだろう。
(余談だが、僕が通学していた当時は、まさかこれほどラノベが流行するとは正直誰も思っていなかった。ただ、先生は「これからミステリー小説のように定番ジャンル化するだろう」と予言していた。涼宮ハルヒも出ていない頃だ)
だから、専門学校に通わないというのは、比較的低リスク・低コストで賢明な判断だと言える。
しかしながら、元増田が挙げてくれた問題について、それを断定のまま終わらせてしまうのはもったいない。
特に3番目の問題、
でも、文章を書く営みって、そんな秩序立ったものではないですよね?
元増田が残念なのは、この深い疑問を、専門学校の体験入学ごときで解決してしまった気分になっていることだ。
僕自身、先生に教わったり罵倒を受けたりしながらも、この疑問に突き当たった。
そして、学校の内側と外側の両方で、この問題について世の中の頭の良い人達がどのように携わってきたか、それなりに気にしてきた。
おそらく、以下の参考資料を全部精読し、実習を行い、誰か信頼できる人からの客観的な添削を受け、頭だけではなく全身に技術をしみ込ませることができれば、決して取り戻せない数百万円と数年を賭して専門学校に行く必要など、皆無だろう。
また、下記ばかりでなく、もっと体系的でしっかりした知識が学べる大学なり海外大学なりケンブリッジやオックスフォードもあるかもしれない。
そういったものがあると分かったら、単純にそこへ行くべきだ。
文芸的な文章を除く基本的なライティングについては、古典的な書籍がたくさんある。
下記2冊は、ここで紹介するのが恥ずかしいくらい基本的な書籍だ。
さて、上記のような確立した情報伝達技術ではなく、独自の表現をしてみたり、人を感動させる文章を書きたい場合、そういった技術は教える・教わることができるのか?
それを体系的に扱うことは確かに難しい。そもそも人の感情であったり、表現から受け取る印象が非体系的だからだ。
だからといって、先人がそれを教育の世界で取り扱おうと努力してこなかったわけではない。
どうしても総論ではなく各論になってしまうが、それでも個人的に見て良書は多い。
「文章作法を学校教育のように教えられない」結論に至るのは自由だが、下記書籍を全部読んでから至っても決して遅くない。
「作文」の価値を捉え直した、文章表現の入門書。作品でも製品でもなく、純粋な「作文」そのものの価値を再発見している。
大学の講義をまとめた本。固いタイトルに反して、極めて柔らかい語り口で柔らかい内容を講義してくれている。
だけど、書くことの意味について、「美」について、とても鋭い視点であふれている。
前の文章でちょっとだけ出した。レトリック、つまり、文章で人の心を動かすための体系的知識(!)を取り扱っている名著。
レトリックは長らく馬鹿にされていたらしい(結局、ただの言葉のあやではないか?)が、それを感覚論・認識論・記号論の観点から再評価した名著。
なぜ直喩が隠喩より優れた修辞技法になり得るのか? といったことが詳しく書いてある。
大江健三郎による文学論。そもそも小説や文芸作品とは何を目指すものなのか? といったことを明確に書いてくれている。
それは同時に、読者としての私たちが誠実な文芸作品の中に何を求めるべきなのか? ということでもある。
文章読本は色々あるが、その中でももっとも実践的と言われる丸谷才一の本だ。
歴史的仮名遣いで読みにくく感じるかもしれないが、内容そのものは平明だったと思う。
(しかし、いまなぜか手許に無いので詳しいことは書けない。「ちょっと気取って書け」くらいしか思い出せない)
E.M.フォースターによる文学理論。Amazonで8000円くらい。僕はカチグミなので古書店で1000円で入手できた。
「ストーリーはあまり美しい要素ではありません」という衝撃的な宣言が印象に残っている。
小説というものを本来どう味わうべきか? どう書かれるべきか? という熱のこもった講義録だ。
新装版が出るんだ……。
芥川賞を最年少(23歳)で受賞しながら、文壇に属せず、独りストイックに小説を書き続けている作家の文学指南書。
テクニックの本ではないが、ここで明らかにされている執筆姿勢には衝撃を受ける。
ホームレスをしていた25歳のコリン・ウィルソンが大英博物館で一気呵成に書き上げた文芸評論書。
「アウトサイダー」というキーワードのもと、文学・美術・舞踏・哲学などなどを横断的に眺め渡した名著。
本気で読むと人生が狂う。
先の記事で書いた。全日本人が読むべき。
なんだかこういう本のことを書けるのが嬉しくて、ついかっとなってリストアップしてしまった。今は反省している。
偉そうに書いたけれど、結局は僕も文学界新人賞で名前が小さく載ったくらいの実績しかない人間で、そんなには当てにはならないだろう。
しかし、僕自身が当てにならなくても、何が当てになりそうかの感性は結構あるつもりだ。
教育における教師とはそういうもので、自分ができなくても人の作品を見て添削できたりはする。
失敗している人からだって、むしろ失敗している人だからこそ学べることもある。
そういった人達の行く末をよく見て、やはりラノベなんかやめて、楽しくOS・エディタ・コンパイラでも作ろうと思って欲しいのだ。
まず返信ありがとうございます。光栄です。
100文字以内で返信が出来なかったので、卑怯かとは思いますが増田にて返信します。
以下は、貴殿の100文字以内という少ない文字数でのブコメに対しての返信ですので、当然貴殿は言葉足らずであったことを前提にしておりますので
小生が疑問に思う、違和感を感じている部分は本心から思う事であり、悪意ある攻撃的な「なんくせ」では無いと心得ていただければ幸いです。
最初に述べておきますが、小生が「それはないと思う」と申しあげているのは、貴殿の「男は基本「男らしい」服を着たがる」という部分一点のみです。
貴殿がおしゃっている「これは「女」の考え方。」「増田は『女の』服オタク」という部分においては同意しております。
下記の貴殿がおっしゃっている部分の論拠も提示していただければ幸いです。
男は基本「男らしい」服を着たがる
小生の
「男は男らしい服が好き」という考え方こそ女っぽい考え方。
貴殿がメタブクマにておっしゃっているキャミワンピ等を好む男のようなレアケース等は無視しても
個人的には『男らしい』アイテムというよりは『セクシー(フェミニン)』なアイテムと感じます。
これは個人的感想ですので、ここで意見が食い違っているなら、そもそも衣服に対する捉え方、感じ方に相違があるでしょう。
これは小麦色の肌をした、筋肉質な男性がハーフパンツやレギュラーサイズ以上のデニム等のアイテムに一枚で着用すれば、それは『男らしい』アイテムであると思います。
しかし、華奢な体系をした男性が、ジョッパーズのようなパンツに合わせて着用し、首に男性用のストールや大きなバンダナ等を着用した着こなしは『フェミニン』と言えると思います。
要するに、貴殿がおっしゃっている
女らしさは逆に「着こなし」にある
アイテムそのものが多少の「マニッシュさ」「フェミニンさ」を含んでいたとしても、それはさした問題ではないのではないかと思うのです。
当然「スカート」や「キャミワンピ」のような、最初から性別が限定されるようなアイテムはこの限りではありません。
それらを除外しないと、「男は男ものの服を着るかどうか」という次元にまで議論の位置が下がってしまうように思います。
小生が思うに、服オタクになればなるほど、ファッショニスタであればあるほど、洋服の選び方は『男らしいかどうか』というような一元的な見方ではなく、『自分をいかに見せるか』『コーディネートをいかにするか』という多元的な判断が購買の動機になるように感じます。これは要するに「着こなし」であるり、そこに男女の分け隔ては無いと思う次第です。
ファッションを衣服だけに限定せずに考えた場合も同じで、男性の長髪、ピアス、バングル等は上記のような一元的な考え方に基づけば『女性的』ではないでしょうか。
さらに言えば色はいかがでしょうか。昨今ではピンクのポロシャツやYシャツを着用なさっている男性も多いと思います。これも『男らしい』とは対局の位置にあると思います。
小生は、異性に対して「女は女っぽい格好が似合う(好き)」「男は男らしい格好が似合う(好き)」という考え方はジェンダーサイドからみても非常に危険ですし、何より古めかしい考え方のように思います。
しかしながら、とかく異性に対してはこのような画一された見解を抱きがちですし、そこには本人の願望や嗜好も少なからず含まれることでしょうから、
男は基本「男らしい」服を着たがる
という考え方は、どちらかと言えば、同性の発言というよりは異性に対しての発言に聞こえるのです。
そうすれば、増田の発言が「女性の考え方」であるとなり、逆にそのように考えないと増田は男目線であるということになってしまいませんか?
増田のチョイスは貴殿の言葉を借りるなら『男らしい』チョイスであると思いますし、ツリーでも
と発言していることから、ポロシャツというチョイスに『男らしい』筋肉質な男性像を重ねたことは明白かと思います。
貴殿はこれに対して『「女」の考え方』と認めながら、『男は男らしい服を着たがる』とおっしゃっているのが一番わからないポイントです。
最後に
への返答ですが、これは小生が言葉足らずであったことをお詫び申し上げます。
と申し上げた次第です。
アパレルの業界に身を置く者として、いち服オタクとしてこの手の話題は非常に興味深く、また新しい発見もあり、楽しく書かせていただきました。
文章を書くのは苦手ですので、何か不愉快な表記がありましたらそれは小生の文章力の至らないことが所以であり、貴殿を不快にさせる気は微塵も無いことを先に述べておきます。
※追記
返信ありがとうございます。
『記号論の基本ができてない』のは上にも書きました通り、小生の文章力の至らないことが所以です。
わかりにくい表記、説明になっていない部分があるかもしれません。
お詫びします。
『マジレスしとくと私が書いてる様な事を理屈でなく感性で得心できないなら何を勉強してもムダ。』
とおっしゃられておりますが、それも真摯に受け止めて、感性を磨く努力を致したいと思います。
もし可能であれば、私の説明に対して間違っていると思われる点を具体的にご教示願えたら幸いです。
小生なりに、『感性で得心』したことをできるだけ理論的に説明したつもりですが伝わらなくて残念です。
ですが、衣服への捉え方は人それぞれですので、これにおいては、上記の通り「私の個人的な意見」でして、貴殿に対して、またその他の方に対して「このように考えるべき」といった押しつけは一切ございません。
その点をふまえましても、やはり『私の感性』は『男は基本「男らしい」服を着たがる』に対して「NO」と未だに感じております。
そして、貴殿がこの増田に対して『「女」の考え方』と認めながら、『男は男らしい服を着たがる』とおっしゃっている部分にやはり疑問符がつきますし、『女らしさは逆に「着こなし」にある』とおっしゃっている部分に対しては『男もそうではないか』『そこに男女の差はないのではないか』と思います。
最後に『アパレル向いてないから辞めたほうがいい』の部分ですが
小生のようなデザイナをアパレルの末端に置いていただけている寛容な会社、そして何よりお客様に対して大変光栄に思っております。
しかしながら今の職業以上に自分に向いていると思える職業もございませんし、何より服飾が好きですので、これからも勉強に励んで行きたいと思います。