はてなキーワード: 菓子とは
やっぱりあれだ、生きづらい。
小学4年のときクラスの女子からいじめられて、机に「死ぬ」「死なない」なんてあみだくじを作ったことがある。中学2年のとき友人と口論をして、教室の窓から身を乗り出し、飛び降りようとしたことがある。
でも、どちらも本気じゃなかった。その考えはすぐに放棄できた。生きたかったし、死ぬのは怖かった。
それに比べ、ここ3年くらいの死にたさはやっぱり異常だ。
ほぼ毎日死ぬことを考えている。以前は何年かおきに一度「ふと頭によぎる」程度であったのに。
それに、とても具体的に考える。未遂だって何度もしている。いつ実行してもおかしくはない。
死のうとしていなかったときの私を思い出す。通学や入浴や起床などに対し、やらないと…なんて葛藤とともに行っていたことなどない。ごく当たり前に当たり前のことができていた。生きること自体には、困難なことなど皆無だった。
最近、以前に増して「やばい」と思うのは、無気力に死のうとしていることだ。
あまり深く考えていない。死にたくて、もがき苦しむエネルギーもない。生きたくない。もう十分だ。死んでもいいかな…。
通院が苦手だ。
中学3年の時にホルモン系の持病が発覚した。原因はストレスらしい。幸いにも生活で困ることはそれほど多くない。寝るときの呼吸が浅くて、パートナーとの会話のネタになる程度だ。
実家にいたときは、親が病院の予約をしてくれた。当日、私は車に乗りさえすれば、通院は完了していた。まったく苦ではなかった。
しかし、大学入学を機に一人暮らしを始めて2年、発病時よりも数値が荒れた。それまで3か月に一度通っていた病院に、2年もの間全く訪問しなかったのだから当たり前だ。
実際、当時はとても生きづらかった。必死に死のうとしていた。何度も自殺未遂や自傷を行って周囲に迷惑をかけていた。結果、一人暮らしは不可能と判断された。
病院の近所に引っ越して3年が経った。指示された時期よりも訪問が遅くなることはしばしばあった。しかし、通院は続けられていた。
なにより、相性のいい主治医と出会えた。数年かけて、先生とは近況報告をするほど距離が縮まった。
精神面はある程度回復した。自殺未遂も自傷も止めた。社会復帰もした。以前よりはうまく自己を調整できるようになった。
ところが先日、病院の予約をしようと思ったら主治医の名前がない。ホームページには彼女が退職したとのお知らせが掲載されていた。
ここ半年、就活などでバタバタしていた。指定された通院時期の2倍近くも遅れて予約をとろうとしたのだから、主治医は悪くない。適切な時期に訪問していれば、次の医師に引き継いでもらうこともできただろう。
そもそももう7,8年も通院して、未だ同じ薬を服薬し続けている。一回の診療に一万円弱の出費がかさむ。
次の予約時に指定できる数人の医師のことを私は一切知らない。また一から主治医との関係を築くことから始めなければならない。
発病時、一生ものの病とは聞いていた。しかし、もう闘う気力がない。
持病についても深刻だが、心のほうも深刻だ。
一人暮らしをしていたとき、自力で精神科に通っていたことがほんの数か月間だけある。
当時は今にも増して酷い状態だった。自殺未遂や自傷もそうだが、睡眠や食事にまで弊害がでてきた。あまりにも生きづらいので助けられたかった。一度受診してみれば生きづらさは劇的に回復するイメージがあった。
お分かりの通り結果は悲惨だった。
精神科は複数回通うことが必須だ。一度の通院で、病名の診断と、的確な投薬が可能なわけがない。薬には調整が必要である。それに、じっくりと対話を重ねて、医師に己を伝えなければならない。
しかし、私は通院を止めた。薬が合わなかったから。医師が合わなかったから。お金がなかったから。面倒だったから。予約を忘れてしまうから。劇的に生活は変わらなかったから。
当時は、強制的に何もしなくていい時期を作ってひとまず危機を脱した。
もう少し楽に生きられるようになりたい。それだけだ。
何も今更すごい成果をあげたいとか、そのためにすごい人になりたいとか、そんな贅沢は言わない。
ただ、学校や部活や習い事や遊びに、なんの躓きもなく、最低「行くこと」くらいはできていた私に戻りたい。
生きたいと思いたい。楽しいことをしたいと思いたい。死にたいと思いたくない。
仕事は休みだし、昼過ぎまで寝る所存だったけれども、目はパッチリだった。
そうだそうだ、お散歩ついでに買い物しちゃおう!
と思いついたのはいいけど、いつものローカルスーパーは9時から。さすがに朝の5時からやってるとこは、24h営業してる西友しかないので、恐る恐るデビューした。
なんで西友にいかなかったかっていうと、ちょっと遠い。歩いて10分か、20分かの違いが、結構大きい。(田舎住みです、、)ウォーキングに勤しむ老夫婦に挨拶しながら、車の少ない道を歩いた。結構疲れた。
やっとこついた。人がいない!当然?とりあえずいつも買ってるものをぽいぽいカゴに入れて、いつものスーパーじゃ見かけない輸入菓子にロマンを感じた。二回迷って…ぽいっと入れた。
広くていろんなものがあるスーパーは、あれこれ迷って疲れるのでいかないようにしていたけれど、たまに行くとこんなに楽しいんだ。浮かれた気分でカゴに色々入れてしまうのも怖いので早めに会計に向かった。
時間も時間なので、品出しで店員さんが出払っていて、レジには誰もいない。どうしよーと思ってキョロキョロ。レジの方をよく見るとチャイムが置いてある。品出し邪魔するのやだな でもまあ客だしね!と思いながら、ピンポーン。店員さんが走って来た。そんなそんな、急いでないし歩いて来ていいよ!
そんなこんなで会計を終えて、お釣りとレシートを受け取る。なんと!幅が広い!
でかい!
また、早起きしたら行ってみよう!
こんなことだけでご機嫌の一人暮らし1年目であった…。
丹波大納言の粒餡を、さまざまな素材を練り合わせた秘伝の餅生地で包み、焼き上げた半生菓子。
独特の食感を楽しめる逸品。
比叡山で修行する僧にちなみ命名。形は阿闍梨がかぶる網代笠を象った。
「せめんだる」は、山口県山陽小野田市のつねまつ菓子舗が製造する菓子。
当時、セメントは樽に詰めて出荷されていたことより、もなかをたるにセメントを餡に見立てた山陽小野田市を代表する銘菓。
北海道産大納言を使用し、職人の手によって粒よりにていねいに炊き上げられた餡がすきまなくたっぷり詰まっている。
昭和30年代にたる最中から「せめんだる」と改称し商標登録された。
他に産業に因んだ銘菓として横浜市久里浜に「発電もなか」、山陽小野田市に火薬工場があることから「ダイナマイト羊羹」が
あったが、いずれも現存しない。
「村雨」は大阪府貝塚市の塩五(しおご)が製造する小豆の蒸し菓子。
北海道十勝産や丹波産などの上質の小豆を、やわらかく炊いて、皮を取り除き、細かくすりつぶして、水分を搾り取ったあとの
いわゆる"生あん"に、米の粉と砂糖を混ぜ合わせ、そぼろ状にして、特製の蒸籠(せいろ)に敷きつめ、じっくりと蒸し上げた棹物の
(きっぱん)
琉球伝統菓子の一つ。沖縄産のミカンであるクニブ(九年母)やカーブチーの果汁を絞り、種を除いた後の皮などをきざみ、
砂糖を加えてこね混ぜ、それを直径5cmほどに丸め砂糖衣でまぶしたもの。大変手間がかかるため、製造・販売を行っているのは、
今では那覇市の「謝花(じゃはな)きっぱん店」ただ一軒のみである。
http://www.weblio.jp/content/%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%93
長生殿(ちょうせいでん)は、石川県金沢市の森八で作られている和菓子である。
新潟県長岡市の越乃雪、島根県松江市の山川と共に、日本三名菓の一つにも数えられる。
紅白の落雁の一種であり、材料は四国産の和三盆糖と北陸産のもち米を用いる。
出来上がった落雁は、小堀遠州の直筆の“長生殿”と彫り込まれた木型で打ち上げられている。
ちなみに、菓子の名前は唐の白居易「長恨歌」の末章:「七月七日長生殿、夜半無人私語時。」より、唐玄宗と楊貴妃が
七夕に愛を語りあった場所である長生殿から由来しているとされる。
長生殿は加賀藩3代藩主前田利常より七夕のための落雁を作ることを命ぜられた三代目森下屋八左衛門(森八の前身)によって
作られた。茶道遠州流の開祖である小堀政一(遠州)の助言により、菓子に篆書で「長生殿」の文字が彫り込まれている。
命名も小堀による。
後水尾天皇にも献上され、前田家から徳川将軍家にもしばしば献上された。明治以降もしばしば宮内省に収めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%9F%E6%AE%BF_(%E8%8F%93%E5%AD%90)
美しい音色のような味は、琴瑟相和すに例えて命名。
http://www.keigetsudo.jp/?pid=75614512
http://tomo-don-mari-don.at.webry.info/200807/article_53.html
りんご本来のシャキシャキ感が残るように、 青森産「ふじ」を甘さを抑えたシロップに漬け込み、まるごとパイで包んで焼き上げた
通常アップルパイは、リンゴをカットして、シロップで柔らかくなるまで煮詰めて作るが、気になるリンゴは、ふじりんごを
丸々1個シロップに漬け込み、丁寧にパイ生地で包み込んで焼き上げているため、通常のアップルパイと比べて、シャキシャキとした
食感が楽しめる。くり抜かれた芯の部分には、ラグノオ特製のリンゴペーストが詰め込まれており、しっとりとした食感も楽しめる。
からすみは、岐阜県の東濃地方、長野県の木曽郡南部と下伊那郡南西部、愛知県奥三河に伝わる銘菓で、米粉でつくった蒸し菓子のこと。
下記の地域では「からすみ」と言うと、鯔の卵巣の加工品ではなく、米の粉を加工した和菓子を意味する。
このからすみは、全体に細長い棒状の棹物菓子で、包丁で適当な幅に切って食べる。特徴的なのは、長い側面の上部を両側から
中央に向けて押し寄せたようになっており、切った断面が富士山のような山の形になっていることである。
これは、蒸した団子を長く伸ばし、このような形の木型に押し入れて作られる。
食味や作り方は名古屋名物のういろうに似ているが、より固く弾力があり、べとつきが少ない。
からすみの名前の由来は、子宝の象徴としての縁起物であるカラスミの形に似せて作ったという説と、中国で作られた富士山の形を
した墨、すなわち唐墨に形が似ているため、この名を取ったという説とがある。
この地方の各家庭では、桃の節句にからすみを作りお祝いをするという風習がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%BF_(%E8%8F%93%E5%AD%90)
宝永年間(1700年代)の富士山の噴火では、降灰により煙草の耕作に適した土壌がつくられたと言われています。
江戸時代に興った秦野葉の栽培は、水府葉(茨城)、国分葉(鹿児島)と並び日本三大銘葉として称せられ、秦野町は全国でも有数な
煙草生産地として知られるようになりました。 明治32年(1899)には、秦野に煙草試験場が開設。
亀本は、秦野葉の名を後世に伝えようと、秦野葉の葉形を型にした煎餅を考案、『煙草煎餅』と名付け製造を始めた。
時は流れ、秦野の町は大きく発展。
煙草耕作は大変な労力がかかり、高度経済成長以降、第一次産業に従事する人口が減少してくると生産が低調になっていきました。
秦野葉は、刻み葉(キセル用)であったため、嗜好品の変化から消費量も減少し、昭和49年を最後に秦野から姿を消しました。
その後は、紙巻き煙草用の米葉と呼ばれる黄色種が生産されたものの、かつてのような隆盛はなく、昭和59年に黄色種の生産も
この一方で、煙草煎餅は、独特の製法・厳選された材料が醸す味覚を大切に守りながら販売が続けられている。
http://tokio-mt.wixsite.com/sugar-and-spice-1/about_us
http://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000001160/index.html
のし梅(のしうめ)は、梅をすり潰し、寒天に練りこんだものを薄くのして乾燥し竹皮で挟んだ山形県村山地方の代表的な銘菓。
山形藩主の典医だった小林玄端が長崎での遊学中、中国人から梅を原料とする秘薬の製法を伝授され気付け薬として作ったのが
現在の『のし梅』の原型とされる。その後は夏場の民間薬の胃薬ないしは気付け薬として各家庭で製造されていた。
現在の形の「のし梅」を製造した祖とされているのが、創業文政年間の『乃し梅本舗佐藤屋』(山形県山形市十日町)。
日本三大修験山として江戸時代に盛り上がりを見せた『出羽三山詣』の参拝客の宿場町として山形市十日町近辺は栄えており、
山形県は紅花を主要な特産物として生産しており、その紅花は口紅や着物の染料として京都・大阪方面を中心に高値で取引されていた。
その紅花から赤い染料を取るのに梅の酸が使われていた為、山形市周辺は紅花と同時に梅も盛んに生産されていた。
労研饅頭(ろうけんまんとう)は、愛媛県松山市内にある「労研饅頭たけうち」が製造販売している小麦粉を主原料とした蒸し菓子の
一種。和菓子の饅頭(まんじゅう)ではなく、蒸しパンまたは中華料理の甜饅頭(ティエンマントウ、tián mántou)に似る。
直径10cm前後、重さ60g前後の、小ぶりで甘みのある蒸しパン状の菓子である。
小麦粉をこねた生地を酵母で発酵させ、蒸し上げたものである。形状は種類によって円盤状のものと、楕円形のものがある。
生地によもぎやココアなどを練り込んだものや、豆類や乳製品を入れたもの、中に小豆餡を入れたものもあり、種類も豊富である。
太平洋戦争前から続く製法で作られており、素朴な味わいで、地元の一部の人に根強い人気がある。
昭和初期、松山市は深刻な不況に襲われ、夜学生が学資を確保することが困難であった。それを見かねた私立松山夜学校
(現在の私立松山城南高等学校)奨学会は、夜学生の学資を供給する事業がないか模索していた。
その頃、岡山県倉敷市にあった労働科学研究所が満州(現在の中国東北部)の労働者の主食であった「饅頭」(マントウ)を
日本人向けに甘くアレンジし、これを岡山県や京阪神の業者が販売していることを聞きつけた。
小麦粉で作る饅頭は安価に製造できるため、これを松山で製造販売し、学資を確保するとともに夜学生の主食にもしてもらうことを
こうして1931年に松山で「労研饅頭」の名で販売が開始された。「労研」とは労働科学研究所の略。また、饅頭を「まんとう」と
読むのは中国東北部の主食「マントウ」が起源だからである。なお、当時は4個で5銭、松山市内の学校や軍内で販売され、夜学生の
学資確保に貢献したという。
なお、労研はこれを、当時の女工の厳しい労働環境を配慮し、手を汚さず、素早くエネルギーを補給できる食品として開発した。
労研は、当時、クラボウの社長であった大原孫三郎が、労働者の環境改善のために設立した研究機関だった。
その後、労研饅頭は個人営業の竹内商店(現在の販売店「たけうち」の前身)が製造販売するようになったが、戦火の拡大により、
1943年には小麦粉も入手難となり、販売休止に追い込まれた。しかし、受け継いだ酵母は守り通され、1945年の終戦後には早くも
販売が再開されている。一方、岡山や京阪神では戦火によって労研饅頭の酵母が途絶えてしまい、京阪神では労研饅頭そのものが
復活することなく、消えてしまった。こうして、戦後唯一残った「たけうち」が1952年に「労研饅頭」の登録商標を取得した。
高度成長期には洋菓子などに押されたが、保存料などを使わない自然食であることが見直され、松山の名物菓子として定着している。
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