はてなキーワード: 漂白とは
世間が姦しくなっており、このまま放置するとどんどん創作物の漂白が進みそうなので、一応提言。
傷つく人がいるのは理解するが、それを理由に創作物が制限されるのは反対だし、より深刻な問題として、過去の作品まで添削対象になってるのは看過できないので、誰かの琴線に触れそうな要素は全部表示するようにすれば良い。
『この作品は不謹慎です』とか『この作品は中国批判が含まれてます』とか『この作品は偏見を助長する可能性のある表現が含まれてます』とか『この作品は暴力で物事を解決する内容が含まれてます』とか『この作品は鉤十字マークが出てきます』とか『この作品は海賊を美化しています』とか『この作品には差別用語が含まれます』とか『この作品には妊娠出産して幸せな家庭を築く展開が含まれます』とか『この作品は登場人物の数に対して黒人の比率が著しく低いです』とか『この作品に出てくる殺人者は精神疾患を患ってます』とか『この作品はレイプされて感じる表現が含まれます』とか『この作品は男らしさ女らしさに関する言及が含まれます』とか。
・たいていの物品に説明書がネットで公開されてるのでそれをよむべき
・https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201812/2.html
洗える寝具ふくめてあらゆる洗濯可能商品についてる洗い方表示マーク(政府系サイト)。高いのは最初にスマホで写真とっとけ(洗濯機であらってるうちにタグが真っ白になった布団がある)
基本的に最近の寝具は直射日光のあたるところで干さないで、ホコリは掃除機で吸う手はずになっている。アパートでも椅子の背やドアなどを利用して干せ。
・一応こういう本もあった オレにはひつようないが買えばいんじゃねーのhttps://bookwalker.jp/de55d9bac4-5178-4048-8148-4df4d678e79c/
・(過疎ってるけどはてな人力検索や)ヤフー知恵袋の過去質問回答に同じ疑問があるかも
・煮沸はオレは一度もしたことがない。ものを濡れたまま放置しなければそんなにならないはず。
バスタオルが(一度に大量につかって適切に干せなくて)臭くなったら雑巾にしてる。こぼした牛乳をふいたものは速攻で洗って漂白か、使い捨てダスターで拭く。
汗だの体液をたっぷりすわせた布なんかも定期的にする洗濯を3日早めるくらいの価値はあるだろ。
・家事を無料でよいとか機械があるから簡単とかいう増田にノセられたらあかん。たいていミソジニストか中学生でやったこともないくせにいってる。
漂白された人間臭みたいなのが好き、という層は一定数いてそれこそ万単位でアニメの皮を被ったアイドル的なものを並べる棚さえあれば顧客数分は売れるのが現状だと思う。
あわせてそこに人間味とか人間臭を感じてしまうと激しく攻撃される部分もありそう。
ファンが数で攻撃性が部分としてるのはファンの中の嗜好の違いの一部が攻撃的になるもののような気がするから。
需要と供給の釣り合いがとれてるときは不祥事などあれば引退ですぐ商品補給で事業に影響は小さく済みそうだけど、これから市場自体が大きくなるとも思えないし、タレントの人権がおざなりになっていきそう。
人気が爆発してバランスが崩れるのか、異常な人間性に司法が入ってくる形でバランスが崩れるのか、どちらにしても期待値が高まりますね。
典型的な「無口系ヒロイン」の造詣をしていて、それを覆すに足る演出はされてない
よく、「3人殺したバイクに普通に乗るんだからワカルダロ」みたいにいう奴がいるが
あのバイク屋のおっちゃんの空気感とその後のメットの件と合わせて、シュールな空気を狙ったそういうキャラ付けとしか取られねぇよ
その上で、あの作品が2ケツに違和感を抱かしめるのは、道交法関連で丁寧な描写をしたからだ
40kmで走りパンクを直せないクソ雑魚ナメクジに蹴りを入れるカクヨム小熊は居なくて
制限速度を守りトコトコ走って、ちょっとしたことを喜ぶ小市民な小熊ちゃんが表現されたんだよ、丁寧に数話使ってな
あの軸で行けば、聖地商売もできて、カブの好感度が上がり、警察も喜ぶ作品に出来たと思うぞ
けどそうはならなかった
カクヨムのイキリJK小熊に近づくたびに違和感の声は表明された
原作は「マイルドDQNであることが普通の田舎」の話を書いていて、作者もそういうところで育った人間なのに、アニメ化する際に都会の連中がマイルドDQN成分を無理に漂白したから、ゲェーッ!?免許取り立てで二人乗り!?みたいなことになるんだよな。
うっせぇうっせぇうっせぇわ。
田舎では赤信号は「気を付けて渡れ」だし、原付は免許取る前から乗ってもいいし、二人乗りに制限はない。煙草も酒もやりたきゃやればいい。無免許の中学生があぜ道をトラクターとか軽トラとか普通に走らせてる。私有地だからだろ?って言うけど、私有地であってもあぜ道は道路扱いだから免許はいるけど、免許と収穫どっちが大事なのかという話だ。
スーパーカブの原作でもはっきりとそう書かれている。罰金よりも大事なものがある、と。あれはそういうリアリティラインの話だ。そして別にそれは「特別」な世界の話ではなく、ごくごく一般的な田舎のマイルドDQNの思考だ。
これがアウトローの思考だと考えるのは、キレイなインハイで生息しているバカな都会人の考え方だ。田舎にスローライフを夢見る風潮は1000年前から変わっていないが、田舎の倫理観がスローなのも1000年前から変わってない。今でもエグいくらいに男尊女卑だし、なんなら部落だって過去のことじゃない。貞操観念は死んでるし、大人のいじめも度は過ぎてる。田舎が景色以外できれいなわけないだろ、常識的に考えて。
都会の物差しで田舎を測るな。都会では十代は何の責任能力もない守らなければならないガキかもしれないが、田舎では10000年前から10代は立派な大人であり、個別に尊重される労働力だ。自分の愛機を手に入れて正式に乗る権利を有したらあとのことは本人の判断に任せるべきだ。
二人乗りだってできる機構になってるんだから、したっていい。事故らなきゃいいだけの話だし、事故ったら自己責任だ。乗せたやつも乗ったやつも自分の意思で決断してそうしてる。たかだかニケツ、ガタガタぬかすな。
多くが「中二病は悪」という共通認識をもち、自らのそれを大人になるまでの時間で徐々に修正する・・・そういう先人の残した指針としての機能が確かにあった。
中二病の明確な定義は難しいが、おおよその場合「強固な自我の芽生えに伴い発生する欲求、自尊心や自己肯定感との付き合い方を失敗したケース」を指している。
・洋楽を聞く、感情がなくなる、眼帯をする(人と違うことをすることで承認欲求を満たそうとする)
上げればキリがないが、これが派生すると
・チームで共通の目的を目指す際に失敗はチームメイトのせい、成功は自分のおかげのように振る舞う。責任を負うことを過度に嫌う(他者を害してまで自尊心を守りたがる)
・DQNになる。評論家気取り。(自己が他者に優先すると錯覚する、それを誇示したがる)
など、周囲に害を振りまくタイプにもなる。
逆に強く厨二病を意識していた人はそれを恐れるあまり自己を過小評価し所謂陰キャのようになってしまうことも有ったのだろうが。
ともあれ、実際の所こうした類の人間は中学生に限らず多くいる。
そして彼らを見て「やり直しの効く年齢の時点である程度矯正しておいてよかった」と心底思う、それが中二病を支持する理由だ。
若さ故の過ちを全て「中二病」と称することで「今では笑い話」「既に完治した」という許しを得るために使う。
悪く言うつもりなら中二病なんて言葉を使わずともいくらでも叩きようがある。
近年それを理解できずに過剰反応してしまう人が多く露出するようになった、敢えて増えたとは言わないが。
もちろんリアルで口にするにはリスクのある言葉で、それを分かっているが故ネット上でのみそのやり取りを行うのだからそういう人がいることも織り込み済みではある。
その上で触れられたくない部分に無神経に踏み込んだ人が悪いのは間違いないが、もし「中二病」という言葉への理解のなさ故に生まれた軋轢であるなら
それは少し悲しいことだと思う。
近年はアニメの影響で中二病という言葉が誤って広まってしまった。
言ってみれば中二病の光の部分、クリエイティブな人たちが作り上げた「恥ずかしいけど悪いことではない」という上澄みを中二病の全てであるように認識してしまっている。
人は自分が「善」だと思っていることを他者から「悪」と呼ばれることを極端に嫌う。
中二病を善ないし悪ではない、と考えているとすれば「中二病は悪」という言葉は暴力的なレッテルに映ることだろう。
繰り返しになるが前提の共有を怠った側に非があるのは言うまでもないが、本来許しであったりなるべく傷つけまいとした助言であったものが全て悪意に変換されているとすればあまりに悲しい。
中二病は悪。
新海誠はデビュー以来屈折したアニメを作り続けていて、それが『君の名は』で漂白されて大ヒットした。その成功を旧来からのファンは「新海誠もそっちに行ってしまうのか」と半分祝福、半分寂しい思いをして見届けた。
そして次作の『天気の子』。この映画で新海誠は旧来からの期待に答えて闇の部分を出そうとしていた。天気の子は『キミ』と『セカイ』を天秤に載せて葛藤するよくある話だが、昔からあるこの手の話は『セカイ』の描き方に重きが置かれておらず、葛藤が成立していなかった。そこで新海誠は自分の才能を活かし、皆が生活する『世界』を圧倒的に美しく描き、失うものの重量を重くして天秤のバランスを取ろうとした。
新海誠はインタビューでこの作品は賛否両論を巻き起こすだろうと語っていたが、しかしその試みはうまく行かなかった。なぜならこの映画が公開されていた2019年は個人の人権が最も重視されていた時代だったからだ。ブラック企業問題が社会問題になり、社会と個人どちらを取るか問われたら、みんな個人と答える、それが正しいとされた最後の時代だったからだ。だから天気の子は葛藤が成立せず、作中でくどいくらい穂高が犯罪を重ねても、それを責める観客はほとんどおらず、ただのラブストーリーとして消費された。
しかし今は違う。コロナ禍で世界は変わってしまった。恋人と会うために病院から抜け出すカップルがいたら、社会は容赦なく糾弾するだろう。『火垂るの墓』の高畑勲監督は80年代にインタビューで「いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と語っている。『天気の子』もまた『火垂るの墓』と同じく観る時代によって見方が180度変わってくる映画だった。
池江は可哀想ランキング超上位だからはてなでは何とか池江姫は擁護しつつオリンピックは叩きたいの。
平社員は例えベタだったかもしれないが、この増田のブクマでは涙ぐましい理論武装の努力の結晶が見て取れるではないか。
「20歳の子に重すぎる責任~」とか。(池江の権力性を一切無視しつつ、子という単語を使って責任能力の意図的な軽減を狙っている。見事)
「利害関係でがんじがらめ、結局は籠の鳥」とか。(いい大人である池江が、環境のせいで個人の判断能力を奪われているという構図を構築。見事)
「皆が不幸だからお前も人生の目標を諦めろというのは違う、真に糾弾されるべきは~」とか。(誰が言ったかもわからないセリフを使い、真の敵理論で池江への攻撃を反らす作戦。見事)
「成功者か社会的強者かは直接関係ない、意思決定に関する権力配分の観点~」(権力配分という定義不明の謎ワードを使用し、また強者性の有無を問わずに関係ないと断定して池江の権力性を漂白。見事)
繰り返すが池江は可哀想ランキング超上位者だから、はてなでは破格な取扱で遇さなくてはならないのだよ。