はてなキーワード: 実践とは
これもう手遅れかもしれんな
城東ベースボールクラブが活動を開始したのは2021年4月。それでいて昨年の江戸川区学童軟式野球大会で3位となり、夏の東京都知事杯では2回戦、秋の東京都知事杯さわやか大会では準決勝に進出した。今年の江戸川区学童軟式野球大会でも3位に入り、全日本学童マクドナルド・トーナメント東京大会への初出場を決めた。チームは急速にレベルアップしている。
普段の取り組みが実にユニークだ。まずは毎週土・日に行われる練習で、
出席確認を行っていない。それどころか、練習の途中退出も自由。
森糸監督は「出席確認にこだわると、体調が悪いにもかかわらず、無理をして練習に送り出すご家庭も出てくる。余計な重圧をかけたくありません。途中退出についても、他に習い事や用事があるかもしれないし、ご家族でお誕生日会があるかもしれない。理由をいちいち聞かず、参加のしかたは各家庭のご判断に委ねています」と言い切る。
高校ん時行った家庭科の強制ボランティアで、人が話してる時には相手の目を見ろって注意された。社会性に関する指摘においては非常に素直なので、それ以来かなり意識的に実践してる。
10年近く経った今でもまだ慣れない。ゲームで水中入った時の酸素ゲージみたいにストレスがキューーーッッッと上昇する。適宜目線を下げてゲージを回復させないと無理。
必ずしも目を見なくとも鼻の辺り見てればいいとかネットで見てそれも実践してみるけど、あんまり変わらんような気もする。
胸元開き目の相手だとあんまり目線を下げてもアレなので、回復度の低い首か顎辺りまでしか行けなくて疲れる。おれは性欲を隠すのがカッコいいと今でも全然思ってるし、チビ(事実)とか陰気(事実)とか言われても別に構わないけれどガッついた人間だと思われるのは嫌だ。
常日頃からしっかり目線合わせてたら気が狂うので面接とかタイマンの面談とかの場でしかやらんけど、常日頃からやらないから慣れないんだろうなと思う。
そりゃ日本の法学会とかは西洋的なものの見方だし今の国際法の基盤とかは欧米が組み立てたからな
でもイスラム法とかコーランの伝聞の中から何とかフェミニズムになるように現代的な解釈してるわけやろ
フェミニズムって各社会で受け入れ可能か本当に正しいのか証明してる最中に過ぎないやん
再現可能性じゃないけど「この教義を受け入れて社会に持続可能性があるのか」を試してる
実際アメリカじゃ中絶権とか反動で禁止になっとるしイスラム教でもウラマーの集まりじゃ割れてるやろ
何とか入れようとしちゃいるけど各社会の実践次第じゃ全然「社会共通認識」じゃなくて「西欧の支配文化が流行っただけ」になってもおかしくはない
自分の気質もだし、人との関わり方も何もかもよくわからなくなってきてしまった。
自分に対して、人と関わることや、その先の恋愛関係も向いていないのかなって思う出来事があった。
その原因の根本的なものは考えてみると、自分の気質からくる自己肯定感の低さみたいなものが来るのかなって。
おそらくは、自分自身ADHDみたいな感じなんだろうが、診断がついているわけでもないので気質と呼ぶことにしたい。
自分自身の行動から多動が出てしまっているなと感じたり、集中が全然違う方向にいっているなってことはしばしばある気がする。
これまでの人生の中でも、集中が違う方向にいってしまっていて、トンチンカンなことを言ってしまったり落ち着きのなさから”変な人”として扱われて関わりを避けられていると思うこともしばしばあった。
高校生から大学生くらいにかけて、少しは常人に擬態しようという努力をしたつもりだった。
特に不用意発言をできるだけ控えるように心がけていたような気がする。
発達障害の処世術として目にしたものが自分の中で少しだけしっくりきているような気もする。
https://anond.hatelabo.jp/20151101094059
ここで言うところの「沈黙は金以上なり」ということ。
これでは、人と深い関係になるなんてことは無理なのかな、本当に最近になって気がついた。
これまでは、「無難であること」を使って「人に受け入れてもらう」ように生きてきた気がする。
この手の話の中でそれでも受け入れてくれている人がいる、という話をされることがある。
でも、その具体例の話の当事者はみんな女性であることにモヤモヤする部分がある。
男だとか女だとかってことを考えたくはないんだけど、人との関係の中で男性としての振る舞いが求められている中では、誰かが自分のことを受け入れてくれることなんてないのかな、と思ってしまう。
ここ数日自分の中でもがきながらいろんなことを考えたつもりになっているのだけれども、堂々回りになってしまって何もわからなくなってしまった。
結局最初の「人並みの幸せは諦める」を実践できていないからなのかなと思わないでもない。
人並みの幸せってなんだっけ。
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。
・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。
・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。
・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているものに過ぎない。私という存在もまた、諸行無常であり、ゆえに諸法無我。
・普通の人間が諸行無常な世界に在って一切皆苦と感じるのは、『私』に強く執着しているから。世界も私も変化し続けているものだから、『私』の思い通りになるとは限らない。それなのに、思い通りにならないとそのたびに苦しい。
・一切皆苦と感じる原因が『私』に対する強い執着であるなら、その執着を薄め、消し去ればいい。この世界は諸行無常であり諸法無我であることを、知識としてではなく、感得することができたなら、『私』への強いこだわりは霧散し、世界を一切皆苦とは感じなくなるし、副産物として利己性も消える。これが悟りの境地。
・この世界が諸行無常であり諸法無我であることを感得するには、感得するトレーニングを繰り返して感得する認知能力を高める必要がある。自転車に乗れるようになりたいなら自転車に乗るしかないのと同じ。このトレーニングが仏教の修行の中核。昨今では「ヴィパッサナー瞑想」とか「マインドフルネス」とか呼ばれている。ヴィパッサナー瞑想で得られる認知能力を「智慧」あるいは単に「慧」と呼ぶ。
・『私』に対する強い執着を薄める方法はヴィパッサナー瞑想以外にもう一つのアプローチがある。「慈悲」つまり、利他的な心を育てる瞑想や利他的な実践を繰り返すこと。
・ヴィパッサナー瞑想だけしていれば悟れるかというと、そうでもない。「戒」:瞑想に集中するための環境や習慣を整え、「定」:ヴィパッサナー瞑想に必要な集中力を高めるための瞑想も行う。これらをヴィパッサナー瞑想と合わせて「戒定慧」と呼ぶ。仏教の実践は基本的にこの三つ。もう少し詳しくは「八正道」と言う。
というのが、私の理解。もっと詳しく知りたければ「」でくくった単語を検索して一つずつ調べるか、書籍なら仏教思想のゼロポイントをおすすめ。
思想史的な観点をちょっとだけ補足。仏教は教祖である釈迦の没後、スリランカやミャンマーあたりに伝わったものが初期のノウハウを比較的色濃く伝えている。これは上座部仏教、南伝仏教、小乗仏教とか呼ばれてる。一方、中央アジア等を経由して中国に至るうちにかなりの変貌を遂げたのが、北伝仏教、大乗仏教とか呼ばれてる。日本の仏教は中国経由で伝わったもので、基本的に大乗仏教。輪廻転生は仏教のオリジナルのアイデアではなくて、インドやネパールあたりにもっと昔から根付いていたアイデア(輪廻転生だの神や悪魔だのの有無は、今生きているあなたが苦から逃れるために重要なことではないですよ、肝心なのは八正道の実践、ってのが仏教のスタンス)。天国地獄のアイデアはおそらく中央アジアあたりで仏教に混淆した。先祖の供養が大事みたいなアイデアはたぶん中国で混ざった。
朝はあまり気にならないが、夕方から夜にかけて匂いがきつくなる。
原因は何だろうか?
何かの病気だろうか?
自由におならができる環境じゃないので(夫は育休中でずっと在宅)、本気で改善したい。
ググっても「発酵食品を積極的に摂取しましょう」「ストレスを溜めないようにしましょう」等、既に実践している当たり障りのない解決策ばかりだ。。。
・お通じ
1日〜2日に一度ほど、コロコロだったりバナナだったり。便秘体質ではあるが今現在便秘ではない
・食生活
・肌
ヨーグルト→乳製品の過剰摂取は乳がん罹患のリスクとなるため避けたい
一度病院にかかってみたいけど、こんなことでかかっていいのだろうか?
予報の精度だって今はまだ10秒ぐらいだけど、金と時間と実践の追加投入で1分前、10分前とドンドン良くなる気がするんだよね。
「10分後に地震が来ますから車を手近な駐車場に停めて下さい」とか「バスや電車から降りて近くの公園に向かって下さい」とかそういった放送がされるようになったらもう全然生存率が変わるよ。
復興についてもいざ地震が起きてからやっと法整備やら自衛隊の運用方針やらが進歩していってるじゃん?
関東大震災まであと何年猶予があるのか知らんけど、それまでのチュートリアルとして人口密度がもっとずっと低い所でバンバン地震が起きて研究が進んでほしいね。
と心のなかで思ってるくせに、口にさえ出さなきゃバレないと思っている関東民の卑劣さが憎い。
お前らの本性はとっくの昔に知ってんだよカスが。
日本人の「コミュニケーション能力」はますます低下 ドイツ人がコンビニで「震えるほど怖かった」瞬間とは
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/08231100/?all=1
日本人が購買力と同程度に失っているのではないか、と危惧する事柄がほかにもある。コミュニケーション能力である。
今年前半に2度ほどイタリアに行ったが、その際に見かけたり、自分が体験したりしたさり気ないコミュニケーションを、まずは思い出すままに記してみたい。
小さな商店で食料品を購入するときも、店員と買い手のあいだに会話があり、たがいに目を見て話し合っている。ホテルの廊下でほかの客とすれ違った際に、あいさつされることが多い。エレベーターにだれかと乗り合わせると、相手から先に降りるように促されることが多い。電車内で棚に荷物を載せる際に苦労していると、何人もの人に助けられる――。
上記は一例にすぎないが、帰国後に感じたのは、日本では同じような場面でのコミュニケーションのありようが、おおむね正反対だということだった。
コンビニエンスストアでもスーパーマーケットでも、多くの客がほとんど言葉を発しないまま買い物を終える。店員になにかを問われたとき相手の目を見て話すと、目を逸らされてしまうことが多い。ホテルの廊下で客同士があいさつし合うことなど、ほとんどない。エレベーターにあとから乗ってきた人たちは、後ろを一切振り向くことなく自分たちが先に降りる。新幹線などの車内では、客同士はできるだけ関わり合わないようにしており、棚に荷物を載せるのに苦労している人を、大抵の人は見て見ぬふりをしている。
日本人男性と結婚し、5年ほど前から日本に住むドイツ人女性も言う。
「日本のコンビニで買い物をするとき、相手の目を見てなにかを聞いても、目を逸らされたり怪訝な顔をされたりするのには、慣れるのに時間がかかりました。電車内やカフェなどで知らない人に話しかけても、ほとんど変な人あつかいされます。日本人はシャイだと感じますが、こうした応対はシャイである以前に国際的に見て普通ではなく、日本人にとって損だと思います」
「やまびこあいさつ」をご存じだろうか。コンビニや小売店などで、一人の店員が「いらっしゃいませ、こんにちは」とあいさつすると、ほかの店員も一斉に同じあいさつをするもので、集客力と売上げアップのために推奨されているという。しかし、これが実践されている店舗では、ほとんどの店員が客の顔を見ておらず、このドイツ人女性ははじめて「やまびこあいさつ」をされたとき、「震えるほど怖いものを感じた」と語る。人間と人間のコミュニケーションの崩壊が感じられたというのだ。
11:14
"Let me be clear though. Wheeler wasn't saying that conscious minds have direct power over reality, as claimed by some of the worst practitioners of quantum woo."
はっきりさせておきたいのは、ウィーラーは、量子陰謀論の最悪な実践者たちの一部が主張するように、意識が現実を直接コントロールする力を持っているとは言っていないということです。
11:53
"He(Wheeler) also once wrote that is was 'Not consciousness, but the distinction between the probe and the probed that was central to the act of observation'"
状況がよくわからないけど、増田は間接的な仕事がそこそこ入る仕事はやめた方がいいんじゃないか?
胸部に触れられた時、ただ手が当たってるだけなのに潰される?!ってくらいものすごい圧迫感を感じた。本当に息が苦しくなった。(普段抑圧されてるとそう感じることもあるらしい)
気付いたら寝てた。(いつもはマッサージ中寝ないんだけどな)
https://www.sankei.com/article/20141017-NZEBXH5PFNKSBMSANKYVJXRZLA/
「立つ瞬間に息を吸います」「心臓を圧迫します」。インターネットの動画共有サイトには、少年らが失神ゲームを実践しながら詳細に解説し、面白おかしく紹介する動画が多数、投稿されている。日本語だけでなく、英語など海外の動画も拡散しており、捜査関係者は「見れば誰でも実践できる状態だ」と危機感をあらわにする。