はてなキーワード: 儒教的とは
学校がからもらったプリントは机の上に平積みにで、たまりまくって机から溢れて床に落ちてても知らんぷり。たまにしか必要のない美術の教科書などは学校から定期試験前に持ってくるように言われるのですが、どこにあるか分からず前日に大慌てで探したことがしばしば。
定期試験勉強中は現実逃避から掃除がしたくなり(苦笑)、ちょっとやって試験が終わってから続きをやろうと思うものの、試験が終わったらプレッシャーからの解放で掃除せずにそのまま。
毎年春、学年が上がってそれまでの勉強道具が必要なくなったときにあまり確認せずに一気に捨ててました。そのせいで日記など当時の自分を知る貴重なデータが残っておらず、今になればとても悲しい状況です。。。
20代になって初めて一人暮らしをし、掃除に対する意識が変わりました。
最初の頃は、部屋にそれほどものがなく掃除する必要もなかったわけですが、今まで家族と住んでいた時間から急に一人暮らしになると、それまで家族がいたせいで食事の時間を合わせたり風呂の順番待ちなどに時間が取られることがなくなり、かなり時間に余裕ができたため、「暇つぶし」として掃除をするようになりました。
リビングは、週1で床や家具をコロコロしたり、掃除機をかけるようになりました。エアコンは3か月ごとにフィルターを掃除機にかけ、半年ごとにエアコンの中身を専用のスプレーで洗浄するようになりました。
また、実家にいた当時は全く意識になかったトイレや風呂場といった水回りを掃除することを覚えました。水回りって放っておくと一気に汚くなります。それをいかに抑えるか、掃除の回数や掃除方法だけでなく、普段の水回りの運用も考えていかなければなりません。
私がそのとき思いつき、現在もしている水回り対処法は次のような感じです。
<風呂場>
<トイレ>
どちらも定期的に行うように習慣付けられるまでは時間がかかりましたが、習慣になればこっちのものです。掃除している人からすれば当たり前のことでしょうが、定期実行が掃除の1つの要です。
その後、とある中小企業で事務系のバイトをしました。毎日朝礼があって選ばれた人が自分の好きなテーマでプレゼンするのですが、その会社の社長は儒教的な考え方の持ち主でいろいろと教わりました。
その中でも次の言葉が印象的でした。
人は精神状態が落ちていくと身の回りのことに力を注ぐことができません。掃除ができなくなっていくのは自分の精神がダメになっていくということだそうです。逆に考えれば、普段から掃除をしている人は精神の衛生状態がよく、向上心をつけることができるということでした。(その会社ではそれを実践するために、毎朝朝礼の前に掃除時間が設けられていました)
私はこの言葉に感銘を受け、掃除は怠ってはならないと決心しました。
まとめると次のようになります。
<掃除の基本>
俺はアラサー。
なんかさ、今オナホールでオナニーしてて、「あ、これが俺の青年期だったんだ」ってハッとした。
オナホールとエロゲーとxvideosで青年期終了とか、どうしちゃったんだろ。
子供の頃は、通学路に落ちてるエロ本でワクワクしてたのに。カップラーメンやコンニャクでオナニーするんだぜ!みたいな話を信じていたり。ファミコンでガチャガチャやったり。
なんつーか、さとりの子たちの生活から比べてレベルも低い感じ。
でも、さとり世代は違うんだろう。
xvideosとファイル共有のエロゲーで義務教育を終わらせて、さっさと細マッチョな感じでH&Mや109なんか着ちゃって。ゲームも、バーチャファイターなんて目じゃないGTAみたいな街丸ごとバーチャル体験しちゃってさ。ネットで世界中の人間とゲームして。youtubeで世界中を観光して。音楽も文化も食物も知り放題しって。
なんつーか、もう子供の頃の教育の多様性や深さ、錬度が違うわ。
2chまとめでおっさん達の欺瞞やクソさをカルーク眺めて、ウィキペディァで世界の見取り図を得て。
しかも、彼らって、20半ばになったら、バーチャルセックスとか多分やってんだろう。少子高齢化とか言ってるけど、彼らの世代はうまくやるんだろうか。
なんつーか。勝てる要素が無いよね。
さとり世代って、多分ゆとりよりはるかに優秀だろう。無駄な時間をすごしていない。
老害になろうとゆとりが年金みたいな法律作ろうとしても、多分さとりのほうがうまくやるんだろう。
多分、時代が進むほど、環境がよくなっていき、ますますさとり世代が有利な世の中になっていく。ゆとりは実験台で疲弊していくだけ。
おいしいところ無いなーゆとりって。
終わってるわ。
早く楽になりたい、老害になって、競争関係なく儒教的に威張れるようになりたい。
あ、でも。俺らが老人になるときは、すでに儒教的な上下とかどこにも残ってない常態かもね。
終わってんなー。
当方大学生、実家は朝日新聞購読だ。小さいころから新聞やテレビで、日本と隣国韓国の間には「慰安婦問題」というものが存在していることを知っていた。どうやら、慰安婦問題は、戦争中に日本がやらかしたマズいことの一つらしい。しかも、お金や時間が解決してくれるたぐいのものではないようだ…
しかし、「慰安婦」とは何だろうか。「慰めて安心の女性」…? 新聞は、政治的合意や韓国の世論は報道しても、「慰安婦」が何なのかはまるで報道しないじゃないか。
この疑問に答えが見つかるのは、インターネットを通じてアダルトな知識に汚染されてきた頃である。ああ、慰安婦って旧日本軍に性的なアレを強制されたわけね…そりゃああんまりだわ大日本帝国…新聞がモゴモゴとごまかしていたのも納得である。
さて、今慰安婦関連の報道を見ると、「性的サービス」それ自体に言及するものは少ないものの、随所随所のwordingに、それを連想させるような工夫が施してある。そういった報道を見た人たちは、自分たちの想像する「強制的な性」のイメージと重ね合わせて、慰安婦の残虐性を理解する。この事情は日本も韓国も同じだろう。まさか韓国の歴史教科書も二次大戦のところだけR18というわけにもいかないだろうし。
こういった教育・報道のスタイルは一つの問題をはらんでいる。それは、実際のところの慰安婦の実情に関する(議論はあるにしろ)知識を持っている人は、日韓関係に関心がある人だけで、それ以外の大多数は、自分の中でしか「慰安婦」のイメージを持てないことだ。
こと性的な意識については、タブー感もあいまって未だグローバリゼーションからほど遠い状況にある、隣国である日韓でも、儒教的世界観の強弱や出版物に対する規制の変遷などの点で、二国が共有する「性」のイメージはほとんど存在しない。それどころか国内でも、世代や地域・社会的階層によっても、性的なものに対する意識というものは如実に異なる。
慰安婦について直接に言及しない報道スタイルは、こうした違いをそのまま包摂してしまう。しかし、報道の受け取り手は自分の「慰安婦」のイメージを口に出すことはないから、その違いが表面化することはない。それでも、「慰安婦」という共通の言葉の中にある、意味論的「慰安婦」は、日韓関係の専門家陣が創造できないほど多様なのではないだろうか。このことは間違いなく今後も「国民的合意」の形成の障害になることだろう。
都道府県や市町村、もちろん国家だとか、公共性の高い観光協会だとか商工会だとかもそうですが、そうした団体が、アニメやゲームとタイアップとか、さらに言えばツタヤとタイアップとか、こうした事象が「社会問題化」しています。
なぜ問題になるのかその原因はというと、私は「デモクラシーが成立していないから」だと考えるわけです。
例えば市町村が、「萌えキャラ」にしろ「ゆるキャラ」でさえも、そうした広報、というかむしろ広告宣伝ですが、そういう行政をします。そうすると、市町村の構成員であり最も基本的な利害関係者(ステイクホルダー)は、そこの市町村民です。そこではたして、そこの市町村民の意思が、その広告宣伝活動に反映されているのでしょうか?
例えば武雄市などがツタヤと「タイアップ」したわけですが、これも市民の意思が反映されているのでしょうか、また、市民の利害に目を向けられているのでしょうか。
「選挙で勝ったから」という理由で、首長が何をしてもいいという風潮になっていますよね。その選挙でその候補者に投票した人がどのくらいの割合なのでしょうか? そもそも、全員一致で当選したとしたって、個別案件で市民の意思を完全無視していいという理屈は立たないと思います。
それに、投票の拒絶されている人(例えば未成年者)の利害に目が向けられていますか?
また、その施策が実行された後、将来になってその施策の利害を負わされる人への眼差しにも欠けています。典型的には、日本の「借金」の件もそうです。世代間の「支えあい」モデルの破綻した公的年金もそうです。だから率直に言って、「こういう無責任な人たちには人間の血が通っているのか?」と思いますよ。強権的(ポピュリズム的)な思想と、儒教的な(年長者を尊敬し、子孫に責めを負うという)思想が混在し、致命的な矛盾を起こしていると思います。
さてともかく、「選挙で勝ったから」という発想でさえも問題があるし、「俺が責任をとる」と云われても、損害が出てからお前が腹を切っても損害が無かったことにはならないわけですね。
ましてや、具体的で個別的な施策決定はむしろ、首長ではなく職員が決めていることが多いと思われます。首長は、上がってきた案にサインするだけかもしれませんし、ましてや「聞いていない」ことすらありうるのではないかと思います。そうするとつまり、その施策には住民の意思を反映するプロセスがあるのか、ということが問題であるわけです。
例えば、東京オリンピックのエンブレム問題もやはりそうなんですね。東京都がやるんだったら、東京都民の意思を反映しないといけないのに、むしろ密室的に行われていたわけですよね。
このような問題はですね、そのまま、「日本国」の問題でもあります。政策決定にしろ、道路を敷くだのダムを建てるだの原発を建てるだのもそうですし、「消費税」を上げるとかいうのもそうです。さらには、広報ポスターやCMに誰を採用するかというところにも、1件あたりならばたかが個別案件でも、継続的に、特定のタレントとか広告代理店とかを使っていくことが慣例化するともう、個別案件だといって済むとは思えないと感じます。(ちなみに、こうした問題点を軽減するための手法に「パブリックコメント」の制度があるわけです。)
そして、例えば、市町村だとか商工会や観光協会が特定のアニメとタイアップすると、当該市町村はそのアニメのイメージを負うことになります。そうすると、市町村民もそのイメージと影響を負うことになってしまいます。市町村民は意思決定プロセスに関与していないのに、利害を負わされるわけです。
それがかりにどっかの中小企業が宣伝でタイアップしたというのならば、それはその企業の「自由」だということになるのでしょう。上場企業だったら株主に責を負いますが、少なからぬ株主は「儲けてくれればいい」と思っているので、実際に収益が出れば文句は出にくい、つまり問題化はしにくいかもしれません。
それでも例えば鉄道事業者がやったら、その列車に乗る人みんなが、その作品だかなんだかを(事実上強制的に)見せられたり、さらには車内アナウンスまでも差し替えられて聞かされたりするわけです。そうすると、たとえ私鉄、「民間事業者」であったとしても、無難な選択にとどまって、「大冒険」はすべきではないというのが原則だと思われます。
ですから、事業の性質や規模によっては公共性が高くなり、決してプライベートでは済まされないことがあります。
話が長くなりましたが、昨今の騒動をみると、「大冒険をするな(最大公約数的であれ)」という主張と、「大冒険を許さないと社会が改まらない」という主張の二極対立、デジタル的・バイナリ的なコンフリクトになっているように思います。
しかし問題の本質は、「大冒険」をしても良い場合でも、その決定プロセスで構成員や利害関係者の意思を聴き反映させなければならない、ということにあるのです。
それを言い換えればデモクラシーだというわけです。
問題の本質は通底しているのに、そうした事件一つ一つを分断して個別化し、洞察や反省をしない習性が今の「日本人」にあるように思えます。
「剣豪」「剣聖」という呼称の誕生について - Togetterまとめ
と言われているのだが、
詩仙 李白
詩聖 杜甫
詩豪 劉禹錫
詩魔 白居易
詩鬼 李賀
詩佛 王維
詩囚 孟郊
詩瓢(詩奴) 賈島
詩骨 陳子昂
詩狂 賀知章
詩傑 王勃
詩家天子/七絶聖手 王昌齡
これらは優れた詩人にそれぞれの特徴を捉えたアダ名をつけているだけであり、
杜甫の詩には儒教的な思想が反映されているから「(儒教における)聖人」という意味での「聖」なのであって、
日本で言うときの「最も優れているから『聖』なのだ」というようなニュアンスは、そこには無いような感じがする。
かの御時に、おほきみ(み)つのくらゐ、かきのもとの人まろなむうたのひじりなりける。
これは柿本人麻呂が儒教的だと言われているわけではなく、単純に「優れた歌人」という意味での「歌聖」だろう。
儒教では目上の人に対して共に飲むのは失礼に値するので
相手が3度勧めるまでは断り続けて最後には横向きになって口元を隠して飲酒するのが一般的な慣例なんだけど、
どういうわけか、この一連の流れを勘違いしてる人が多い。
朝鮮飲みは何も韓国だけでなくて中国も中共以前の王朝であればこの儒教的な飲み方が一般的だったのを知らない人が
厚顔無恥にもこの飲み方を朝鮮飲みと、あたかも朝鮮ないし韓国発祥であるかのように印象付けて話すのは極めて無知で滑稽な光景だと思う。
長年彼のツイートを直接関わりなくただ眺めて楽しませていただいている一人としては、彼のことをテレビで知ったりはてなで論じたりするのもどうにも不思議な気のするもので、そういった立場から彼のフィクションという言葉の使い方について一言二言一家言ある身として書いていきたいと思う。
我々は認知する機械でしかないことは近年科学が発達した結果として多くの人が理解するところだと思う。現実は物質、人間も物質。けれどそれだけでは人間社会は成り立っていない。そこには文化がある。文化は必ず物質であるわけではない。しかし多くの人がその文化になんの疑問を抱くこともなく物質と同じように自明で今ここに存在しているものとして認識している。この現実について、彼は疑問を抱いているのだと、長年彼を見ていた身としては思う。至極当然のことを彼は言っているだけだ。
彼の指している中東のフィクションとは、中東の文化と言い換えることができる。すなわちイスラム国においての宗教、彼はその文化に、もしかしたらこの日本の文化よりも上手く適応できるかもしれないという青い鳥症候群を我々に見せたのである。女を性奴隷にして人を殺す世界、彼は新天地を夢見ている。
どれほど頭がいい人間でもよくて大学教授、悪ければ非正規雇用の教員、使い捨てられるポスドクにしかなれない。儒教的な上下関係、年功序列、徹底されていない半端なメリトクラシー。曖昧かつ意味がないこのつまらない現実に彼はほとほと嫌気がさしている。そしてこのつまらない現実を、本当なら実体なんてないただの文化で、いつでもひっくりかえるような普遍性も何もあったものじゃないフィクションであると言い切って切り捨てたいのだろう。彼が彼自身を障害者であるとして自称するのは高度な皮肉であって、意味が無いものについて意味があると思っている大勢の人を馬鹿にしている。しかし同時に自分自身が社会に不適合を起こしていると客観視して自虐しているのである。
……結果として公安に追い回される日常という非日常を彼は手に入れた。それもまた今は自覚はなくとも彼にとっては好ましいことでしかないのだ。
店屋の店主の例でいえば、店屋の店主が客より格下と言う序列が作られていき
それに伴って店主が敬語を使わなければいけない形式化が進む事。