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2024-05-07

うんちでた

でっかいでっかい

うんちでた

増田 心の俳句

現代俳句面白い

夏井先生>>>>プレバトに出てる芸能人>>>(越えられない壁)>>>芭蕉とか一茶とか柿食ってる奴←コイツらマジスキル低い

俳句進歩しているから後発の方が有利と思うかもしれないが、クラシックは今でも聴いてすごいと感じるし、ルネサンス画家だって才能を感じる

国内でも和歌は今読んでもすごいと思う

貴族文化からというわけでもなく、庶民文化である浮世絵も独特な世界観を作り出しているし古典落語面白い

マジで俳人だけ過去の奴らのスキルが低い

それが俳句のいけないところだと思う

anond:20240506171108

「実はおれ魔法少女と告げる雪」

この俳句鑑賞して

anond:20240507015816

梅雨空に『九条守れ』の女性デモ

 

俳句としてはデモ光景を書いただけの凡作だけど、ネトウヨ情念にはめちゃ刺さるみたいなんだよね。

そこが俳句面白さでもある。

anond:20240507112230

増田俳句評論会的には満点の俳句やね

脱糞も絡ませられたら満点超えてた

俳句短歌の話に対する反応もそうだけど、「学習しないと読み解けないもの」に対する嫌悪感を持っている人はけっこういる

しかし、学習しなくてもみんなが読み解けるものというのは言い換えると「奥行きがないもの」「単純なもの」なので、簡単に消費されてすぐに忘れられる性質になる

数年後、数十年後に新しい読み解き方が提唱されるような奥行きを持ったものが、文化として継承されていき得る

という面もある

芭蕉や一茶の俳句ブラインドテストしたら評価クソになりそう

プレバトに出ている芸能人の方が名前を隠して俳句バトルしてるから俳句能力高いと思う

anond:20240506174540

ふと好きな夏目漱石俳句「菫ほどな 小さき人に 生まれたし」には自我があるなと思う

要は短歌でも俳句でも近代的自我を入れ込む流行があるということじゃないか

近代的自我というのは「死にたくないし」とか「俺はここにちゃん存在するし」というような意味で言っておく

自我確立文芸上の重要テーマになったのは近代から、という意味

子規が四方喧嘩売ってたのも近代的自我流行らせようとしてたんじゃないかなって

匿名ダイアリーって初めて書くけどこういういい加減な感想を言えるね

俳句川柳しか知らないのはあまり教養がない

漢詩を知ってれば普通高校生レベル

古代ローマギリシャの詩を知ってれば大学生レベル

ラップを即時に鑑賞できるのであれば最先端文化人レベル

anond:20240506061423

ゼミでやらされながら短歌俳句自分にゃ無理だな!!!となった者だけれど,大事なことは古今和歌集仮名序が既に全部言ってるんだなあ……と思う今日この頃

やまとうた(漢詩ではない、和歌)は人の心を種として,万のことのは(葉)とぞなれりける。

(やまと歌は、人の心の動きを元にして、様々な言葉になったものである

世の中にある人事業しげき(繁き・繁樹)ものなれば,心におもふ事を,見るもの聞くものにつけてい言ひだせるなり。

(世のなかにある人は、事象が沢山あるので、心に思うことを、見るもの・聞こえるものに託して言葉に表しているのだ)

ざっくりと言えば,少なくとも心情を情景に託すことが出来ていないか,それが(なるべく初見で)読者に伝わらない句は駄目っぽい。

この基準プレバト見ると才能アリ・ナシが予測できたりしてちょっと面白いおっちゃんは後者が苦手。

関係ないけど古今和歌集仮名序の種→葉→樹の仕掛けが歌論なはずなのに、ちゃんと"やまとうた"でとても好き

ブコメ読んでて心情が入ってない短歌を探してたら楽しすぎた件

https://anond.hatelabo.jp/20240506061423

ブコメを読みながら「心情が〜」「我を表現するものが〜」みたいなコメントが気になって

「そんなに心情入れたがるものか?」と思って

心情が無い(?)短歌を探していた






四万十に光の粒をまきながら川面をなでる風の手のひら

/俵万智




まず心情で思い浮かんだ一首がこれだった

歌集「風のてのひら」の中に収めらたタイトルにもなっている歌。確かにブコメにあった通り、我を表現してはいるが、心情はどこにあるのだろう

この歌に「私はこう思いました」とか「こうだなぁ」とかは一切無いわけで作者にとって四万十を見た光景を切り取ったそれだけの歌である

だがらずっと私はこの歌には心情は無い!

と信じていたのだが俵万智本人は後書きでこう

語る

川面をなでてゆく風の手のひらは、目には見えないものですが、心には見えるものです。そして心に見えたものが、その時はじめて、歌になってゆくのではないでしょうか」

なんてこった「川面をなでる風の手のひら」自体が心情そのものだったのである

これでまずは一敗




バスタブに座って九九を覚えてる遠くにデルタブルースきこえる

/永井

日本の中でたのしく暮らすより

これは流石に心情は無いでしょう。多分

だけれども現代短歌、というかライトヴァースを

知らない人からしたら「こんなの短歌じゃない!」となるかもしれないかレギュレーション違反






ペーパーフィルター世界の始まりを目守る神々の春のゆうぐれ

/穂村弘

もはや「??」としかならない一首

シンジゲートより抜粋したが、穂村弘ワールドに置いては日常的によくあること。

私はあんまり頭が良くないので心情がどこにあるかとかこの歌は分からないけれど、頭がいい人なら分かるのかな



風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしシーツをかける

/笹井宏之

もう心情とか探してる内にどうでも良くなって

ただ好きだなと思った一首。

この人の歌は本当に変わった歌が多くて

例えば

「みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成されたバンドドラム

この歌には「みんな」がいて「私」がいない

穂村弘

だが、《私》のエネルギーで照らし出せる世界がある一方で、逆に隠されてしま世界があるのではないか。笹井作品の優しさと透明感に触れて、そんなことをふと思う。とある

そうなって来るとますます短歌俳句ってどう

違うの?となってくるわけで



そんな時、歌人井辻朱美」がパン屋パンセにてこんな事を語っていたのを思い出した

休日のしずかな浮き雲のピザがいちまい配達される

詩歌とはこんなふうにひとつの窓、フレームを作るところから始まる。雑多な混沌を片寄せて、まず何もない空間をこしらえる。きれいになった場所にモノを置く。そうして初めて、そのモノはちゃんとモノとして見え、意味クリアに発信する。」と

まり私がひとつ俳句短歌の違いとして言いたいのはフレームの大きさの違いであ

俳句17音のフレームにどこか季節があって

短歌31音のフレーム自分が反射してる事もあるし季節が見える事もある。そのフレームの中をどうにか素敵にしたいと奮闘する

それが俳句 短歌なのではと

必死フレームに収めようとすればするほど、フレームは歪んでしまうし、収めなければフレームある意味が無くなる。だからむずかしい

でも楽しいのだ、よく分かってないけれど



最後ちょっとだけ不思議な歌を上げておく

死刑囚はこぼれてゆくトラックタイヤにつきてゐ花粉見ゆ

/寺山修司





おわり

anond:20240506032728

よかった。

おれだけじゃなかった。

しかしあれね。

俳句とか短歌とかの増田みて増田も捨てたもんじゃねえなとかおもいながらちんちん立たないとか書いてるの必要以上にせつないね

しごいてもひとり

anond:20240506174540

一部界隈で炎上?した9条デモ俳句はどうなんだろうか

滅茶苦茶情念こもってるように感じるが

そもそも今どき俳句やってるのってSNSバズる才能がない無能からなあ

言葉の才能がある人はSNSの100文字制限自由律でクソほどバズらせてインフルエンサーとして金稼いでるんだよなあ。

2024-05-06

一茶の句は反例にならない。

 

anond:20240506174540追記しようとしたら長すぎたので記事を改める。

meganeya3 短歌の考えは知らんが増田俳句の考えとして「やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」はどうなの?

私の短歌俳句論について、異論は認めるのだが、この一句は反例とは思えない。むしろ私の認識を強化することにしかなっていない。

この句は一見情念のこもった句に見えるが、この句における一茶はあくまでも風景の一要素としてやせ蛙と並列されている。つまりは蛙ごときに向かい合って必死になっている俳人描写である。一茶の句におかしみがあるのは、滑稽な自分を冷静に客観視できるからこそで、情念を込めてやろうという精神からはかけ離れている。

それに対して、例えば同じ蛙を描写した以下の斎藤茂吉の歌はどうだろう。

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

この歌は一茶の句と比べると写実的情念の無い描写に見える。しかし、用心深く読んでみると「かはづ」(蛙)の鳴き声が「天に聞ゆる」のは作者が添い寝をしていて地面に近いところにいて、天を眺めながら聞いているからそのように感じるのであり、実際に天から蛙の鳴き声が降ってきているわけではない。実はこの歌は非常に主観的情念によって風景を巧妙に歪めていることが分かる。茂吉にとっては「かはづ」も、それどころか「死に近き母」すらも己の寂しさや怖れの大きな比喩しかないのである。一茶のような引いた視点など待とうとする気もない。短歌情念産物と言うのは、こういうことを言う。

私の論に反論するのだったら、例えば短歌情念はいうが、奥村晃作のただごと歌、たとえば

次々に走り過ぎ行く自動車運転する人みな前を向く

などはどこに情念などあるのか?と言った指摘ぐらいは欲しいところだ。

ついでだから私が、これこそ短歌情念だと思う歌を掲げておく。

いらだちをなだめてばかりの二十代立ちくらみして空も揺れたり 江戸

あをき血を透かせる雨後の葉のごとく鮮(あたら)しく見る半袖のきみ 横山未来

電話口でおっ、って言って前みたいにおっ、って言って言って言ってよ 東直子

子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る 河野裕子

革命作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする 式子内親王

anond:20240506210709

!?!?

俳句神に使っていい言葉じゃないぞ!

おまえザコ

いちいちおれに

からうな

anond:20240506174540

じゃあ俳句神の俺の俳句をどうぞ

バカはアホ

なぜならバカ

アホだから

anond:20240506174540

あーそれで俺短歌は好きだけど俳句にはあんまり興味わかないのかな。風景とかどーでもいい。人間情念を味わいたい。マンガ読んでも「そんな背景とかに力入れるくらいならもっと恋愛とか人間のドロドロに力注いでよ」って思うもの(まあ背景はアシスタントが描いてるかもしれんが)。

anond:20240506174540

それは高浜虚子以降のホトトギスデマなんだよね

そもそも近代俳句の祖の正岡子規俳句短歌も両方詠みまくっていた

ところが虚子の代で「客観写生」とかいトンデモスローガン汚染されて、つまら風景ばかり詠むようになった

芭蕉は「見えたる光いまだに心に消へざるうちに言ひとむべし」といって心の中を重視していたし、一茶の俳諧なんか情念的といってもいい

anond:20240506061423

俳句やってる身からすると短歌の方が難しいよ

表現したいことに対して文字数が多すぎて持て余しちゃうというか…

例に挙げられた短歌俳句にするとしたら

・戦って勝つための生青嵐

 (季語は青嵐、夏)

・凩の中や勝つため生まれきて

 (季語は凩、初冬)

といった表現になるかな

だけどやっぱり31音使った時のニュアンスは出なくて、あくま17音の枠内に最適化した表現になるから短歌の真に迫る表現方法に憧れることもある

短歌を詠むほど俳句は作れなくなる

https://anond.hatelabo.jp/20240506061423

短歌結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。

多くの人は短歌俳句が同じ短詩型文学であるから短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。

なぜなら、両者は表現アプローチ正反対からだ。短歌風景言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである

短歌を詠むということは、言葉情念圧縮するということだ。穂村弘短歌爆弾に喩えたが、自分情念読み手の心奥深くに埋め込もうとするために、言葉の選定や配列独自性をもたせていく。風景すらも歌人にとっては情念の道具に過ぎない。日本語に己の爪痕を残してやろう。世界は我が情念を表すために存在するとでも言わんばかりの自意識過剰さでもって詠むのが短歌というものだ。己の全情念31字にすべて押し込めようとするエゴイズムこそ短歌というもの醍醐味である。誤解を恐れずに言えば優れた歌人とは己の日常を糧にした自意識純粋培養物なのである

それに対して俳句を作るということは、言葉風景カットする行為だ。17字というフレームの中に厳選した風景の要素を置いていく。私は風景から要素を抽出するための機械しかない。俳句にとって情念ノイズしかないのである

このような対比で見ると、短歌を詠む人が17字は気持ちを込めるのに少なすぎる、となぜ思いがちなのかが分かるだろう。字数云々ではなく、根本的にその容器は、あなた情念しまうところではないのです。高級フランス料理の小さなお皿にニンニクしまラーメンを入れようとする無理な行為なんですよ。俳句を作るなら、あなた後生大事に抱えているその情念は捨てましょう。わかりましたか

そうは言っても短歌人はやめられない。短歌を苦しみ抜いて詠んだきたのだから、この情念は捨てられない。世界から笑われようとも俺はこの17文字に俺の心情を詰め込んでみせる。31文字でできて17文字でできないことはないっ。ここに俺の私の僕のアイデンティティがかかっている。

という具合に短歌は人に冷静さを失わせ、言葉を発するとき自意識を手放すことができなくさせる。そしてどんどん俳句精神から遠ざかっていくのである。だから短歌を詠めば詠むほど、俳句は作れなくなる。

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追記しようとしたら長すぎたので記事を改める

一茶の句は反例にならない。

https://anond.hatelabo.jp/20240506233546

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https://anond.hatelabo.jp/20240508195326

俳句情念は込められないという主張について、上の増田より鮮やかな反例を挙げていただいた。俳句への理解を深める契機をいただけたことに感謝する。

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