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はてなキーワード: 俳句とは

2024-05-06

anond:20240506174540

それは高浜虚子以降のホトトギスデマなんだよね

そもそも近代俳句の祖の正岡子規俳句短歌も両方詠みまくっていた

ところが虚子の代で「客観写生」とかいトンデモスローガン汚染されて、つまら風景ばかり詠むようになった

芭蕉は「見えたる光いまだに心に消へざるうちに言ひとむべし」といって心の中を重視していたし、一茶の俳諧なんか情念的といってもいい

anond:20240506061423

俳句やってる身からすると短歌の方が難しいよ

表現したいことに対して文字数が多すぎて持て余しちゃうというか…

例に挙げられた短歌俳句にするとしたら

・戦って勝つための生青嵐

 (季語は青嵐、夏)

・凩の中や勝つため生まれきて

 (季語は凩、初冬)

といった表現になるかな

だけどやっぱり31音使った時のニュアンスは出なくて、あくま17音の枠内に最適化した表現になるから短歌の真に迫る表現方法に憧れることもある

短歌を詠むほど俳句は作れなくなる

https://anond.hatelabo.jp/20240506061423

短歌結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。

多くの人は短歌俳句が同じ短詩型文学であるから短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。

なぜなら、両者は表現アプローチ正反対からだ。短歌風景言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである

短歌を詠むということは、言葉情念圧縮するということだ。穂村弘短歌爆弾に喩えたが、自分情念読み手の心奥深くに埋め込もうとするために、言葉の選定や配列独自性をもたせていく。風景すらも歌人にとっては情念の道具に過ぎない。日本語に己の爪痕を残してやろう。世界は我が情念を表すために存在するとでも言わんばかりの自意識過剰さでもって詠むのが短歌というものだ。己の全情念31字にすべて押し込めようとするエゴイズムこそ短歌というもの醍醐味である。誤解を恐れずに言えば優れた歌人とは己の日常を糧にした自意識純粋培養物なのである

それに対して俳句を作るということは、言葉風景カットする行為だ。17字というフレームの中に厳選した風景の要素を置いていく。私は風景から要素を抽出するための機械しかない。俳句にとって情念ノイズしかないのである

このような対比で見ると、短歌を詠む人が17字は気持ちを込めるのに少なすぎる、となぜ思いがちなのかが分かるだろう。字数云々ではなく、根本的にその容器は、あなた情念しまうところではないのです。高級フランス料理の小さなお皿にニンニクしまラーメンを入れようとする無理な行為なんですよ。俳句を作るなら、あなた後生大事に抱えているその情念は捨てましょう。わかりましたか

そうは言っても短歌人はやめられない。短歌を苦しみ抜いて詠んだきたのだから、この情念は捨てられない。世界から笑われようとも俺はこの17文字に俺の心情を詰め込んでみせる。31文字でできて17文字でできないことはないっ。ここに俺の私の僕のアイデンティティがかかっている。

という具合に短歌は人に冷静さを失わせ、言葉を発するとき自意識を手放すことができなくさせる。そしてどんどん俳句精神から遠ざかっていくのである。だから短歌を詠めば詠むほど、俳句は作れなくなる。

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追記しようとしたら長すぎたので記事を改める

一茶の句は反例にならない。

https://anond.hatelabo.jp/20240506233546

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https://anond.hatelabo.jp/20240508195326

俳句情念は込められないという主張について、上の増田より鮮やかな反例を挙げていただいた。俳句への理解を深める契機をいただけたことに感謝する。

anond:20240506115921

ここで俳句解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアル相談した方がいいよ。

…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト文脈)に依存する芸術からだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力もつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。


それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。

「ここで昼餉(ここでひるげ)」

初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わず17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこち公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。

ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)

「真赤な夏の/花佇つゆゑ」

最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初のんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。

もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。

一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くそ花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的楽天的天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。

二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかたからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反用字である

結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。

そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的俳句もっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用物語調で独特だ。一般的俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか

まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。

anond:20240506115921

ここで昼餉真赤な夏の花佇つゆゑ

(ここでひるげ・まっか/まあかななつのはなたつゆえ)

   

中村草田男(なかむら・くさたお)という明治まれ俳人の句で、上5と下5が字余り(ないし、中7と下5が「句またがり」)なので素直に十七音ではないね。書いている俺もこの句は知らなかったけど、読み取ってみようと思うよ。長くなるけどそれはしょうがないと諦めてくれ。

   

内容は、すごいざっくばらんに書かれた意味だけを言うと「ここで昼食にしよう、(近くに)赤い夏の花が咲いているから」だね。まぁ言葉意味だけ追っても俳句は分からないので、ここから深掘りしないといけない。

  

まず俳句は、その映像を思い浮かべるところから始まるよ。

  

「ここで昼食にしよう」ってことは、昼食の場所を選べるわけだね。すぐ後に「夏の花」があるので、それがある環境、つまり野外だということも読み取れる。夏で野外で食事場所を選べるとなると、これはつまり弁当を持って散策ハイキング的な行楽を思い浮かべるよね。

行楽なら、高原とか草原とか、そういう緑の多い場所が思い浮かぶね。(明治まれの人の句だから現代的な行楽とは違って、素朴なものだと思うよ)

行楽に出るくらいだから、天気は良いのだろうね。夏の晴れの日。緑の丘、青い空、流れる白い雲。夏の行楽は避暑目的、涼を求めてするので、高原の涼やかな空気感、風の流れも想像できるね。

昼食前から出発して、そろそろ腹が減ってきたのかな。そこで真っ赤な花が目を惹いたのだろうね。この赤い花の傍で弁当を食おう、と決めた。そういう句だろう。

ここまで丁寧に「そう連想される理屈」も書いたけど、俳句をそれなりにやってる人はこういう読み方に慣れているので、元の句を見ればすぐに、「行楽、夏の緑の中、赤い花の傍でお弁当を食べる」という映像直観的に思い浮かぶと思う。

   

ここまで映像を読み取ったけど、増田が知りたい「どう凄いか」とは、その映像をどう鑑賞するのか、というところになると思う。

   

「ここで昼餉」といきなり強い意志を示したね。普通俳句は作者の意思思考など入れ込まないので、これは珍しい作りだ。ちなみに短歌は人の意思を盛り込むのが普通なので、元増田にとっては「短歌で慣れたスタイル」だから、印象が強かったのかもね。確かにインパクトがあってちょっと驚かされる。もっと言うと、字余りとした分、「本来入りきらないものを押し込めた」ことによる作者としての強い意志、この「ここで昼餉」と決断した意思の強さも表現されていると思う。

  

「昼餉」の後は、なぜこの場所食事場所として選んだか、の理由を述べている。「真赤な花が咲いている/立っているから」と。

夏にまつわる緑や青を連想させつつ、ここで「真赤」と、異なる系統の強烈な色をぶつけてきたね。これもインパクトになる。「赤い」ではなく「真赤」としたのも、インパクトを強める方向へ作用しているね。

しかも「佇つ」とした。「佇む・たたずむ」は、静かに立っている、じっとしているという意味だ。夏の高原で風まで想像していた、ゆるやかな「動」の映像の中に、急に「静」が放り込まれた。これもインパクトだね。さらに言うと、「佇つ」という一言からは、その花が何本も群生している光景よりは、一本だけが生えている様子を思い浮かべる。青、緑の中に一点だけ「赤」が生まれた。この対比が映像としてとても鮮やかだ。美しさも感じる。うがった見方をすれば、この句を詠んでいる時、作者の中村自身が花の傍で「佇んでいた」のだろうな、と想像することも出来るね。その並びの映像ちょっとばかり面白みも感じるよ。

   

まとめると、作者の中村はしばらく、同じような「夏の風景」の緑や青の中を歩いてきたんだと思う。そこへ、まったく違う「赤」という色が浮かんだ。その鮮やかな驚きと、その赤の美しさ、魅力が彼の足を止めさせ、ここで昼食にしてこの花を眺めていよう・この花と並んでいようと思わせ、さらには句に詠ませたのではないかなと思ったよ。個人的にはその驚きに共感したし、表現も切れ味あって良かったし、良い句だと思ったよ。句にする価値のある驚きだった。(名作かと訊かれたらさすがに考えるけど)

   

俳句は情景・映像を詠むもので、作者の意思感情感傷を直接に書くことはないんだけど、情景の中に感情を織り込むことは可能で、この句はそのように情景や映像の中に作者の驚きを詰め込んだ句になると思うよ。

  

でも俺は下手の横好きでしかないし、人にこんなこと説明するのも初めてなんで、実は的外れなこと書いてたらごめんな。

anond:20240506061423

これを入れたいな、例えば美味しかったを入れようとする

この時点で短歌の考え方になっちゃってる。

短歌なら気持ちをそのまま入れてもいいけど、俳句基本的に物や情景をよむことで心情を表現する。

物や情景をよむものから季語がある。

anond:20240506103123

和歌漢詩と比べてもなんか俳句だけイキリが強いイメージはあるな

未だに正岡子規メンタリティを引きずってるんだろうか

anond:20240506061423

俳句とか教養ぶっているけれど、要するにラップバトルと同じだろ。

偉そうな態度気取って季語入れて、消臭が上手く行ったと思い込むその態度からにじみ出るバカらしさ、いい加減虚しくなったりしないかね。

anond:20240506061423

俺も最近短歌かじり始めたけど、元増田に同感だわ。

でも俳句やってる人からすると、短歌の方が難しいらしい。

穂村弘の対談集『あの人と短歌』の小澤實の回が面白かったよ。

anond:20240506092819

「戦って勝つために生まれた」なんて俳句に入れたらプレバト夏井先生は「ただの文章で詩じゃない!」ってぶち切れてるよな

anond:20240506061423

ここで昼餉真赤な夏の花佇つゆゑ

花佇つゆゑ←なんて読むの?

自己解決

ここでひるげ、まっかななつのはな、たつゆえ

(ここで昼飯だ、真っ赤な夏の花が立ってるから

中村草田男俳句

短歌をやっている者だけど俳句って難易度ヤバすぎるだろ

どうも、趣味短歌をやっている兄ちゃんです

たまに俳句を作っては思う

俳句って難しすぎない?ってね

まずそもそも17音は短すぎる

これを入れたいな、例えば美味しかったを入れようとする。おいしかったは6音

17マイナス6音残りは11音、足りない

11音じゃすっごく足りないのだ

例えば私が好きなな短歌

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた」

これだって吹きっさらしで7音

戦って勝つために生まれたにしては14音である

後半の14音だけでもう俳句ほとんどの音数を

使ってしまっている、だから短歌は長い

俳句は短すぎる

それに季語が枷になるのもある

季語は5音、7音、それ以上いずれにしてもそこで

まず音数を消費する。

装備枠が決まっているのに、必ずこれは装備しなければいけない状態なわけで

そりゃ無季語俳句もあるにはあるけど、初心者がそんなことやったらただの川柳になるのは目に見えてる

から季語をどうかして入れてみるけど、入れたところで俳句にならない!ってのがよくある

から俳句は難しすぎるのだ

プレバトの才能ナシの俳句、例えば

満月に 煎餅重ねて 一対七』

こんな感じのだってまるでバカみたいだなと思うけれどこのめちゃムズの俳句と戦ってくれてると

考えるとそれだけですごいなぁと思うわけで

ていうかプレバトで才能ナシの奴は短歌をやれ

って奴がたまにいる。ムズムズする

短歌だったらもっとこの人うまいこと表現出来たんだろなぁって

から俳句をやっている、さらプロの方は

みんなすごい、あんたらはすごいよ

ここで昼餉真赤な夏の花佇つゆゑ

ちなみにこれが最近見た中で俳句ってすげー!!

となった一句です

2024-05-03

45すぎたら弱男同士仲良くシェアハウスで暮らすのどう?

 

みんなで将棋したり、俳句読んだり、フェミニスト叩いたり、アニメ見たり、美術館行ったりしようぜ!

2024-04-24

同居してるおっさんプレバト俳句ガチギレしてたw

席替えは窓側蜜柑お裾分け」

っていう子役の子が読んだ俳句があるんだけど

同居してるおっさん

俳句素人のガキがこんな俳句作れるわけない」

ヤラセだ!TBSのお得意の!」

「私だったらもっといい俳句作れる」って

ガチギレしてて、笑い堪えるの大変だった

いわゆる、才能ナシの弱者ってのは

こうやって、嫉妬するしか出来ないんだよなw

2024-04-21

anond:20240421225924

英語じゃなくてグーグル公用語といえばいいじゃん

グーグル使えばみんな意思疎通が簡便となる

俳句解釈をさせるような、外国人にとって高難度なことをを強いるいけずな人はすくなくとも観光地にはふさわしくない

2024-04-20

埼玉から差別なくす会」を[市民]団体表現出来る新聞バグ

埼玉から差別なくす会』の武内暁という代表者とは?



責任を取れ」「恥を知れ」 傍聴席からやじ、垂れ幕 「虐待禁止条例」で揺れた埼玉県議会、最終日は混乱

https://archive.is/ZPnHV

傍聴席で垂れ幕を掲げやじを飛ばし市民団体「世なおし埼玉県民の会」の武内暁共同代表


「ザコども」発言埼玉県警の60代警部補 市民団体質問状に「不適切発言」 蕨のクルド人排除デモ現場

https://archive.md/n3dcT

団体世話人武内暁さん(75)は本紙の取材に「面談説明してほしい。謝罪もしてほしい」と話した。


子ども安心して生きられる国に」 「九条俳句事件女性作者 浦和トークイベント

https://archive.md/wip/XyZV6

裁判支援した武内暁(さとる)さん


今こそ問う『表現の自由』 九条俳句勝訴5周年のつどい(社全協協賛イベント)

https://archive.md/wip/av8Wp

九条俳句勝訴 5 周年のつどい実行委員会

共同代表武内


いまの息苦しさを打ち破る!…表現の自由市民の手に 全国ネットワーク設立集会

https://archive.md/wip/FvgcR

武内 暁さん(司会、主権者市民立場から

武内 暁さん: 九条俳句応援団をやっている。各方面議論必要で、事実を踏まえて考え、議論する。議題設定を権力側ではなく、市民の側でつくっていくこと。当面ネットワークは各地の表現検閲規制情報提供をよびかけ、共有して知恵を出し合うことをやっていきたい。


私たちの声で必ず再開「不自由展」 東京緊急集会

https://archive.md/3CXgr

表現の自由市民の手に全国ネットワーク」が主催し、約100人が参加しました。

 同ネット武内暁さんは


<くらしデモクラシー>「表現の自由守る」全国ネット 市民団体、来月設立忖度に立ち向かう」

https://archive.md/wip/zl0te

だが、その後も行政側の「自主規制」は全国各地で相次いだことから九条俳句問題当事者団体代表を務めた武内暁(さとる)さん(70)らが「問題を繰り返させず、権力への忖度(そんたく)や息苦しさに立ち向かおう」と、同じような問題を抱える全国の人々に「表現の自由市民の手に 全国ネットワーク」の設立を呼び掛けた。


埼玉監査委員告示第十二号

https://www.pref.saitama.lg.jp/kenpou/bn/R04_11/1122_t365/item/20099/t365_20221122i20099.pdf

第1 監査請求

1 請 求 人

蓮田市 辻 忠男

さいたま市大宮区 菅井 益郎

さいたま市桜区 武内

さいたま市浦和荒畑 正子

さいたま市見沼区 石垣 敏夫


市民団体という表現への違和感

埼玉から差別なくす会

・世なおし埼玉県民の会

・「九条俳句市民応援団

表現の自由市民の手に全国ネットワーク

同じ人物がこれらの社会活動団体として動いているということを明記せずに【市民】というだけの肩書で良いのだろうか?

https://archive.is/vVDla

森友デモ衆議院第2議員会館前。はじめに実行委より「告発プロジェクト」の発表がありました。安倍総理夫妻を皮切りに「忖度官僚」など次々に刑事告発していくとのこと。写真プロジェクト共同代表田中正道さん、武内暁さん。藤田高景さん。

2024-04-19

休日

妻子を送り出して玄関の掃き掃除資源ごみゴミ出し、換気扇掃除

スーパーに買い出し。夕食用カレー材料と昼飯用のカット野菜、豚こま。

かかりつけの皮膚科ステロイドの塗り薬とアレロック貰う。

帰って野菜炒めとサッポロ一番塩で昼飯。

2時から授業参観

最初に息子。一番後ろの席だったから隣に陣取る。

周りの子に見られて息子の顔が真っ赤になってる。

国語の授業で題材は俳句。息子は1回も手を挙げることなく、無言でじっとしてる。

途中で抜けて娘のクラスを覗く。

こっちも国語の授業。題材は辞書の使い方。正直あまり面白くない。

終わって三人で家に帰る。

子どもが二人とも眼科検診で視力が悪かったため、イオンモール眼科に行く。

視力測定まで1時間

Zoffで息子はレンズ交換、娘は眼鏡新調。1時間後に出来上がり。

帰ってカレーを作る時間が無くなり、フードコート晩飯

娘の希望うどん

眼鏡を受け取る際に店員が固まる。

息子のメガネレンズ交換期間が過ぎてたけど、無料交換で案内してしまったとのこと。

レンズ代払うといったけど、今回はいいらしい。ありがたい。

帰って明日の朝食用カレー作る。

シャワーを浴びて来た子供りんご剝いてタスク終了。

休みだけど、休んだ気になれない。

2024-04-16

マンガ俳句で考えると、

季語は、美男子美女子ってことなんでしょおか?

2024-04-01

anond:20240401030043

本当にその通り。俳句だよね確かに

フレーズ単位だとパッと思いつく中では「知らない街のホテルで静かに食事」も同じくらい凄いと思ってる。

俺もリアルではキリンジ好きな人ほとんど会わないから話できるのは嬉しかった。

いい夢みろよ。

anond:20240401025006

いやわかる

さっきからわかるばっかり言ってるけどわかるとしか言えないから言うよ…

切り取り方が鮮やかで美しいよね

俳句くらいそぎ落とされててだからこそありあり浮かぶ鮮やかさある

曲調自体面白いのとダンドゥビ部分の歌い方の面白さは確かにあるから

から夜まで海辺にいて楽しくはしゃいではしゃいで夜はちょっと疲れてしんみりして花火見てる…みたいな時間の経過感じる曲の良さいいよね…


さすがに明日あるからもう寝るけどキリンジの話できて嬉しいありがとう増田めっちゃしかった…

2024-03-29

anond:20240329020544

まりにも語呂が悪すぎてスルーできなかった

おまえ日本人か?你知道俳句吗?

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