はてなキーワード: アクション映画とは
ここまで「現代的」を正面から扱ったアクション映画はなかったと思う。
イコライザー、ジョンウィック、ミスターノーバディといった「お前実は殺人マシーンやったんか!」という
登場人物全員が心の傷を抱えていて物語を通じてそれが癒されていく。
マッツの軍役がトラウマになっているだけでなく、家族を亡くした、虐待を受けてきた、コミュ障等々。
軍人マッツ+弱者男性3人+移民の若者+娘という組み合わせはかなり現代的。
ここがたぶんこの映画の一番のウリ。
この映画はマッツの妻が列車の爆発事件に巻き込まれて死んでしまうところから話が始まるのだが、
その列車にはギャングの告発者が乗っており同じく死亡していた。
そして列車の発車寸前に降車した男と93%人相が一致する男がギャングの関係者だった。
マッツと仲間たちによる血みどろの復讐劇が幕を開ける。
主人公が人殺しまくって「実は勘違いでしたテヘペロ」なんてことありゅ?
この映画にはいたるところに「偶然はある」というメッセージがちりばめられている。
そして同時に何かに苦しんでいるものは「偶然はない」ということにすがろうとする、という
妻が死んだマッツに声をかけるシスターは「偶然なんです」と声をかけマッツは「偶然なんてない」と答える。
殺人兵器として最前線で戦ってきた元軍人のマッツは偶然なんてものを信じるのは弱い人間のやることだと考えているが、物語内でマッツは妻の死を受け入れられずに弱者男性ズの持ち込んだちょっと考えれば「大丈夫か?」というようなあれはギャングがやったんだ!という陰謀論をコロっと信じてしまう。
この映画はノルウェーの映画なんだけど、なんていうか「アフタートランプ」時代の映画だなって滅茶苦茶感じた。
自分たちが苦しんでいるのは偶然ではないはずだ。どこかに悪者がいるはずなんだ。そうであってほしい。
という思いに「情報」がハマってしまったとき、人はたやすく騙されるし
騙された人はたやすく本来では考えられないようなひどいことをしてしまう。
インセル界隈が言ってるような「男だからと警戒すること自体差別だ、傷つく」って言いがかり、男=全員ドマゾホモという真理を補助線にして考えると、単なる嫉妬なんだろうな。
自分が襲われる側、犯される側の性別でいたかったのにそうでないから、女への嫉妬。
痴漢やレイプ、つきまといなど性暴力被害を話す女性に対してよくある「自慢ですかぁ?」的な謎のセカンドレイプも、もし自分が男に襲われたら人に自慢したいほどうれしい!っていう、たんなるドマゾホモ願望開陳。
https://twitter.com/akihiro_koyama/status/1436350626779197443?s=46
女は暴力的な男が好き、だから女を殴れがインセル界のトレンドなようだが男の方がよっぽど暴力的なイケメン大好きだよね。
だって男の大好きなジャンプ漫画、アクション映画、アニメゲーム特撮など全部イケメンによる暴力が満載じゃん。
男たちがのびのび暴力イケメンコンテンツ満喫してマゾホモ心を満たしてる一方、女ばっか「壁ドンはDV」とか「白雪姫のキスは性暴力」とかフェミどもに言われて罪悪感植えつけられるの全く納得いかんわ
少女漫画の俺様男はモラハラDV気質だから好きになってはいけません!いうやつの方がずっとモラハラ
https://twitter.com/springworld003/status/1456837703530528773?s=46
当事者である女が描く男女の恋愛である少女漫画だってずーっと女の下らない妄想扱いじゃん
当事者どうこうじゃなく、何でも女の作品はバカにしたいだけだろ
https://togetter.com/li/1830283
このまとめ読んだけど男の薦める少女漫画のラインナップって30年くらいずーっと変わってねぇけど同じ人がジジイになっても30年ずっと言いつづけてるのだとしたら怖いな
あと男もすなるの意味を間違いすぎてるし
「パン・デ・ロー 蛇の道のカトレア」は、2016年に公開された日本の犯罪アクション映画です。
物語は、東京の繁華街で起こった謎の殺人事件から始まります。被害者は、親分とも呼ばれる中国人極道のカトレアでした。カトレアを率いる無法者集団は、街に恐怖を撒き散らしていた。
一方、滋賀県の琵琶湖畔に住む主人公の岸川浩太は、妻を亡くし、長女のみを育てるシングルファーザーです。彼は仕事も上手くいかず、娘との生活に不安を感じていました。
そんな中、彼は前妻の実家の小さな市場を引き継ぐことになりました。岸川は懸命に働くものの、市場は赤字で経営が厳しく、娘のためにも改装することを決意します。
そこで、偶然出会った中国人男性・トンジュンに声をかけられます。トンジュンは、かつて岸川が経営したラーメン屋に通っていた常連客で、現在は暴力団の手下をしていました。
トンジュンとの再会を通じて、岸川はトンジュンが抱える悩みに触れます。トンジュンは元々極道ではなく、中華料理シェフを目指して日本にやってきたのですが、とある事件がきっかけで暴力団の下に落ちました。
やがて、東京のカトレアの事件と岸川・トンジュン・カトレアの三者が結びつくことになります。岸川は、娘との生活を守るため、さらにトンジュンは、暴力団との決別を決心します。
パルプ・フィクション:後半のボクサーの章からは割と面白かった。前半のチャプターが絡み始めるからかな。タランティーノらしい会話劇中心の前半と違って、物語が動いてエンタメとしての見せ場が増えたからかな。
タランティーノの家に転がり込むのがウケた。サミュエルLジャクソンの「弾が逸れたり、ペプシがコークになったり、現象は何でもいい。自分の心の中で髪を感じたかが問題だ」みたいな台詞はすごく共感した。宗教に限らず全ての信仰は納得と同義で、それは自分の内から発するものの問題だから。
世間でされてるほどの評価をこの作品のどこから受け取れば良いのかイマイチ分からんかった。繰り返し見て、うむ評価に違わぬ名作だ、なんてスノビズム趣味に浸りたいと思えるほどにはハマらなかった。
アフリカン・カンフーナチス:出オチ。最初の10分が1番面白かった。格闘アクション映画への誠実さというか愛は感じた。
ビッグ・フィッシュ:好青年ユアンマクレガーがかっこよかった。
いつものティムバートンらしい世界観とストレートな親子愛の塩梅が良い感じだった。という点ではシザーハンズに近いけれど、あちらよりもハマれた。
異世界の住人との触れ合い、分かり合える事、やはり住む世界が違う事を描いた悲恋は女好みっぽくて、色々あった親子関係を解きほぐして、果ては空想の素晴らしさをも肯定的に描いた本作は捻くれオタクにも輝かしく語り掛けてくるのかな。知らんけど。
大抵の人は辞められない。
頻尿の人はRRRを見ることは出来ない。大福を食べても尿意は止まらないし、水を飲まなくても尿は出る。オムツを履いて映画館に行くという変態プレイが許容されるのはエロ漫画の世界だけ。
会社で携帯を持つことが義務付けられている人は映画館でもバイブを常に意識する必要がある。特に自衛隊はそれが顕著。映画を見ている間に遠くで災害が起こり、それに気づかないで2時間の間報告義務さえ怠りましたは許されない。
色盲の人は普通の人と同じように映画を見れないし、時には色盲であるが故に重要な情報を見落とすだろう。まして盲目であれば……盲目の人でも音を楽しむために映画館に行く人はいるだろうが、その人は映像を見ることが出来ない自分という存在から離れることは出来はしない。逆に難聴の人間にとっては映像だけしかそこに存在しない。
単に語学力や読解力が試されることもある。吹き替えのないアクション映画で必死に字幕を追わされたり、訛りの独特なニュアンスを感じ取れなかったり。外人の顔は区別がつきにくいが、相貌失認気味の人間であればそれはなおさらで、時には登場キャラクターが少し髪型を変えただけで誰が今どうしているのかを見落としてしまうだろう。
「映画館で映画を見ている間は自分が自分であることを辞められる」というのは、自己の心身や能力に纏わる事柄によって映画鑑賞に支障が起きない人間が一時全てから離れて自由になれる権利を有して初めて起きる現象だ。
本当に完全にこの条件を満たせるのは日本人の半数程度だろう。
当たり前に誰にでも起きうるものとして扱うのは辞めてもらいたい。
これかぁ
ぶっちゃけ読んでないし、映画も見てないし、これについて批判したこともないんだが
アクション映画見て暴力表現が〜とかいうのは豚骨ラーメン食って獣臭いと批判するようなもんでアホ〜的な話でしょ筋は通ってるやん
こんなくだらないことで盛り上がり過ぎってのはそうだが
https://twitter.com/*********d/status/1645738293185875968
"後半の「とある人物を亡命させるミッション」なんだけど、亡命ルートとか、そこで使用される交通機関の構造なんかを観客にあらかじめ提示しておいたほうが、もっと盛り上がったんじゃないかと。"
"宮崎駿が『カリオストロの城』で、「アクション映画では、同じ場所を2度登場させないといけない(1度目は観客への紹介、2度目はそこでアクションする)」みたいなセオリーを語ってたけど、今回も後半の地下道とか列車を最初の方で紹介しておく、とかやっておいてもよかったんじゃないかなぁ、と。"
んだけど、その理由がこの前わかった。
社内政治劇やら歴史物など、ある程度の知識がいるものではなく、ただただ爆発!!アクション!!爽快!!みたいな映画ですら
「え?今なんでこうなってるの?」
「この人前と言ってること違くないか?」
と思うことがあって、何回か見ないと理解ができなかった
アニメや漫画、小説ではこんなことはならない。ある程度理解できる。
小4の算数で躓いた人生だったので、頭悪すぎて理解できないんだろうなと思ってた。
でも映画が好きなので色々と見続けてはいた。何回も何回も繰り返し観ながら。
そしてこの前、誰が何を言ってるかを確認するために2回目映画を観ながらふと思った。
と。
思い返すと、同じような外見(例えば金髪白人)が何人かいたらもう誰が何をしているのかがわからなくなっていたことが多いのだ
印象的な特徴(1人だけ帽子を被ってる・金髪だがロン毛など)があれば、別人として認識ができるのだが、その認知がうまく働いていなかった
そのときに見ていた映画も、同じような見た目の人が複数いた。黒髪のイケメンヤンキー、バイクに乗ってる……みたいな
だから、たとえ単純なアクション映画だったとしても、誰が何を言って何をしているかが全く理解できなかったのだ
思い返せば人生、人の顔を覚えるときも何か特徴的な部分を真っ先に覚えていたわということに気づいた
しかも、何回も人の顔間違えてることもあった
ウワー!スッキリした!と本気で思った
けどなんとなく心が軽くなった気がする
まあ頭悪いのは事実なんだけど、色んな人に「そんなこともわからないの?」と言われたので
なんかそういう特性なんだなと思えば生きていける気がした
俺はそれでも俳優業ってなくならないと思うんだよな。
そんな時期でも、例えばタイからはスタント一切使用しない「マッハ!!!!」が出てきて大ヒットしたり、
インドネシアからは「ザ・レイド」がやっぱりめちゃくちゃアナログなアクションが評価されてヒットしたり。
肉弾アクション俳優大集合の泥臭いアクション映画のエクスペンダブズシリーズもヒットした。
別に映像技術が発達した今なら当ててるように見せる。危険なように見せる。
ことだって可能だと思うんだけど、でも実際に”やってる”ことにやっぱ価値があると思うんだよな。
熱血巨大ロボットアクション映画のタイトルにしてはなんという平熱ぶりだ。
そこまで有名な例ではないが、小説「シャーロック・ホームズの愛弟子 疑惑のマハーラージャ」の原題は「ザ・ゲーム」
ホームズ原作とイギリス近現代史に詳しい人にはピンとくる知的なタイトルらしいが。知らんがな。そして邦題のけばけばしいこと。
日本では、本でも漫画でも映画でもまずはタイトル命だ。手に取らせないことにははじまらない。
ビジネス本や啓蒙書でも、タイトルが違えば全く売れてなかっただろうベストセラーは枚挙に暇がない。
アメリカではその逆で、売る気あんのか?というそっけないタイトルのベストセラーがよくある。
その温度差の背景には流通の仕組みの違い、コンテンツ消費にまつわるライフスタイルの違いがあるはずだ。
書店や出版社のビジネスモデルが立ち行かなくなってるという昨今。
アメリカではどうなんだろう。
「現在娘をもつ親の率直な気持ち」が、「ロリコン二次元オタクの率直な気持ち」より優先されるべきとは限らない。
また別の理屈としては、欲望を充足する創作物は身近に沢山あった方が、実在の人間で欲望を発散することが減るというのもある。
そしてもちろん、それらの欲望充足作品はアクセスしやすい方がよく、つまりゾーニングなどで無駄な手間や「この作品は社会に疎ましがられている」といった罪悪感を持たせるのは悪手である。
欲望充足作品を手軽に楽しめる社会の方が社会は平穏になるし、それには、堂々と色んな場所に陳列や広告があった方がいい。
稀には作品に影響を受けて現実で事件を起こすパターンもあるが、そういう人間が一人出る一方で、何十万人もの人間が作品のおかげで欲望を発散させて事件に至らないですんでいるのだと考える方が道理だろう。
ちょっと前に、子供が他のラブドールをロリコンショタコンに勧める時に「事件を起こさないように」みたいな書き方をした人がめちゃくちゃ叩かれてたが、あれは全くおかしな話で、実際娯楽にはそういう機能があるし、今自分はそんなことをするつもりがなくても10年後20年後に欲求が暴走する可能性はあるんだ。
それがあんなに叩かれたのは、ある種の欲望はそれを抱いたり口に出すこと自体が悪という、世の中のよくない正義感のせいだ。
暴れたり戦ったりしたい欲求を持つ人が当然いること、スポーツやアクション映画に闘争欲求を発散させる機能があることとなんら変わらないはずなんだよ。
スポーツや映画で興奮した人間が喧嘩をすることはたまにあるが、だが、同時に何百倍もの人間がスポーツや映画のおかげで日常で喧嘩をせずにすんでいることの方を評価するべきだ。
スポーツや映画が手軽に見れなくなったら、それに興奮して暴れる人間を10人減らせたと思いきや、アドレナリンを持て余して日常で事件を起こす人間はそれ以上に増えるだけだろう。ロリコンやショタコン向けの作品(エロとは限らない)も一緒である。