はてなキーワード: ものづくりとは
トキカケ、バケモノノコ、ぼくらのウォーゲーム以来の細田守映画だ
サマウォとおおかみこどもは合わなそうだと思って見てない
結果、今回は合わないほうの細田守だった
見る前になんとなく予想できてたけど見るもんなかったからなんとなく見ちゃった
はー・・・amazonレビューにもあったけど、ミライにタイムスリップしちゃって大きくなったミライちゃんともとに戻るためにてんやわんやするほうがよかったな
クリエイターは自分のわがままでものづくりするのはいいとおもうんだけど、それが面白くないと悲惨だな
声優も俳優だらけの割に、主人公くんちゃん役の上白石萌音?以外はみんな違和感なかった
中国が対抗措置でカナダの元外交官を逮捕したけどそんなの助走に過ぎなくて、あと少し経ったら米中でどんぱちやるから、ますますそんな事件は多くなる。
リスク管理の声が大きくなっている世情の中カントリーリスクも現実味をおびてきた。
なので会社も出張でなかなか中国へ社員を行かせられないし新規投資、新規取引なんてありえない。
最終的には中国にある日系の工場は撤退か取引停止に追い込まれるよ。
そうしたらどうなるか?
今や多くの日系企業が中国でものづくりしているがそれができなくなる。
しかしそうすると新たな投資はしなくていけないし、国内なら人件費は高いからどうしたってこれからの販売価格は高くなるわけよ。
世の中で最もストレスの少ない仕事はなにか考えた。思うにストレスの少ない仕事とは人とあまり関わらない仕事ではないだろうか。その典型はものづくりの仕事である。ものづくりの仕事は1日のノルマさえ守っていれば誰からの干渉も受けることはない。嫌味な上司や面倒な客の相手をしないで済むため非常に快適である。しかし、ものづくりの仕事をしている人の中にもストレスが原因で精神に異常をきたす人がいる。あれはどういうわけだろう。自分の仕事におかしなこだわりを持ち完璧主義に陥っているのだろうか。それはともかく今後もストレスについて考えていきたい。自分が抱えるストレスについて考えることでストレスがストレスでなくなる場合がある。
私の記憶に色濃く残っているのは、富山のレース生地製造の工場長。どんなものづくりもそうだと思うけど、レース生地の「良さ」って、その生地の注文主のニーズによって定義が変わる。繊細な柄行みたいな品質のみが価値なわけではなくて、少量生産に対応できたり、強度が保てる強い糸が使えたり、製造速度が早かったり、織り傷の発生頻度が少なかったり、何を大事に作るのかが毎回違う。
例えばその工場長は、サンプル反を安価に気軽に作りやすくするために、30メートルくらいある織機を半分に分断して(!)、試し織りをに出来るようにリビルドしていた。初めて聞いたときは繊維メーカーの仕事の範疇とは思えなくて、何度も聞き返したよ。お金のないデザイナーの要望するような生地もこれなら挑戦しやすいし、そういうニーズに応えることで自分たちの技術の幅も広がるからやったんだと言ってた。可憐なレース生地の仕上がりと、つなぎを着て織機の歯車に油をかけるおじちゃんのギャップに尊敬の念を抱いたよ。
ちなみに、高価で高性能なレース織機はフランスで製造されてて、今はもう中国あたりの大資本がそれを買ってヨーロッパ顔負けの高品質な生地を作れるんだって。糸と機械がよければ、人が工夫しなくても一定基準以上のプロダクトは場所を選ばず製造できる。それなら間接費が安い場所に拠点を持ったほうが理に叶うよね。でも、小さな会社はそう簡単に場所を移すことはできないし、今いる場所で収入を得ていかないといけない。だから古びたシンプルな機械に手を入れ続けて製造の可能性を広げることに余念がない。そうしないと質✕コストの評価軸だけではすでに中国に負けてるからって言う。若く野心的なデザイナーの難題に応えたり、飛び込んできた短納期の生産を叶えたり、それ以外の多様な「良さ」を備えるためは機械を加工することは必然なんだって。溶接跡が残り、アルミテープで巻かれ、絶妙なサイズの木っ端が噛まされた機械なんかを見るたびに、職人さんにとっての「手」とは機械や道具までのことだなって思う。このレース工場が特殊なわけではなくて、全国の町工場でも類する工夫を見かけたよ。併せて、多様であることは資本ない人々がそれぞれの実りを目指せる方法なんだとも思った。働いている現場の人にとっては当たり前すぎてピンとこない発見かもしれないけど、出来上がったものを買ってただ使うことしか知らない私には衝撃だった。
おっちゃんたちは勉強熱心で、必要とあらば60を過ぎてもプログラミングを勉強してマシンに応用してたりするけれど、やはり使われている情報が高度になりすぎると力及ばなくなるのは想像できる。(そんな高度なマシンを中小企業が装備できるかっていう別の問題もあるけど)だから、人にアレンジされ易い余白を残す製造機器や道具が残る方法はないかなって個人的には願っている。発明は大企業のラボだけで独占されるべきではなくて、市井の製造現場で努力を重ねる人々の手にも生まれるほうが面白いと思う。創造はいつだって喜びに溢れてるし働きがいになる。安価・高性能・高効率な完成された機械だけじゃなくて、人と一緒になって発明を生みだすような余白のある機械やガジェットがこの後も人類と共にあるといいよねって。
多趣味で人より少しだけ器用なこともあって、学生の頃にものづくり系の趣味はかなり色々やってきた。友人やネットの知らない人なんかが評価してくれることもあったしなにかを作ること自体がものすごく楽しかった。
それでも会社勤めを始めて数年経って、趣味の時間が段々と取れなくなってきた。身体を壊して会社を退職する頃にはなにかを作るなんてことはなくなってた。しばらくして無事ホワイティ〜な企業に転職したけれど、どうもこんな日曜日は暇で仕方ない。さっきも趣味の道具を取り出して準備に取り掛かってたんだけど、準備段階でやめてしまった。どうせこんなもの作ってもなあ。少しずつ趣味を取り戻すことはあっても、寝る間も惜しんで熱中できたあの頃と比べてしまう。くだらなくて楽しいことを持続する力がすっかりなくなってしまったように思う。
昔とは状況も歳も環境も違うし比べること自体がおかしいのはわかってるけど、何か作ってバーン!これできた!うわーすげー!すげーすげー!!あー楽しかった次なに作ろう!!ってならないのが
寂しいなあ
高校生の頃、姉が家で包丁振り回したりして血まみれになったりして(記憶が曖昧で覚えていないけど)家の中が散々だった。
姉は中学頃から引きこもりになって、自殺未遂を何度か繰り返す、とかで、結果、鬱病の診断を受けてる。
今はいい大人なので仕事勤めしているけど、芸術肌なのもあって、ものづくり系の仕事を転々としている。
おそらく境界性人格障害みたいなものも入っていて、普段は普通なのだが、攻撃的な気分の波が来ると気がふれた小説のような文章を母に送ったり、親戚ぐるみでトラブルを起こす。
私とは、今は連絡は一切取っていない。年に一、二回実家で顔を合わせても、上辺の会話しかしない。
うちは母子家庭なので、この先母が死んだとして、私と姉しか残らないことになる。
そうなった場合、ときたまくる攻撃の波が私の夫や子どもに向かないか心配でならない。
また、仮に姉が結婚したとして、旦那さんや子供ができ、姉の精神が不安定になった場合、私はサポートできるかというと、精神的にも物理的にも無理な気がする。
そのため、あらかじめ法的に縁を切る方法があれば模索しておきたいとは思っている。
大前提として、幼い頃は仲良かったし、姉のことは好きだが、姉がしてきたこと(特に近年の親戚ぐるみのトラブル)はおそらく許されることでもないので、冷静に考えて縁を切って法律的にも他人になるのが良いと考えている。
クラウドファンディングとは、「○○をするのでお金ください、その金で○○をして、場合によってはお礼に○をあげますね」という形式で何千万も荒稼ぎするプロジェクトもある(らしい)新しいタイプのビジネスの形態です。
クラウドファンディングがうまくいくと、「支援要求者」つまりクリエイターやものづくりをする人は初期の資金がなくても、支援で集まったお金でプロジェクトを進めて事業を成功させることができます。
「支援者」は自分が応援したいプロジェクトを応援して、お礼の品がもらえる。お金を出す人も、もらう人も、どっちも嬉しいwin-winのビジネス。
pixivFANBOX(ファンボックス)というのは、pixivという絵や漫画や創作物を展示できる巨大SNSのようなものがはじめたサービスです。好きなクリエイターに現金をプレゼントできる仕組み。毎月課金制で、支援する人だけが見せてもらえるボーナスコンテンツみたいなものがあります。(ない場合もあります、そのサービスをするかどうかは支援を要求する人それぞれなので)
こちらもお金を出す人は好きな人を応援できるし、応援してもらったクリエイターも潤う、双方が幸せになるwin-winの夢のようなシステム。
昨今の厳しい経済状況の中、クリエイターはこの手のインターネットを使ったお仕組みを活用して金を工面して生き残らねばならない!みたいな意見を聞いたことがあります。なるほどそういうものか。
いいシステムなんだろう。win-winだし。誰も損しない。みんなうれしい。
だけど僕は苦手。これをやってる奴が苦手。
どちらもやってるリアルの友人がいるので苦手になった。
友達がこういうのをやってると、僕は自分が「俺のこと支援するよね?してくれるよね?」「支援しろ」つまり「金よこせ」と言われてる気分になってしまう。
そして支援をしないことで謎の罪悪感が感じる。
最初はそれで、義理というか、しがらみというか、ケチと思われたくないとか、色々な何かに負けて支援してしまった。リア友は大事だし。
でも、あまりにこのような「周囲の人間にお金くださいとお願いするシステム」が流行してしまって、ぶっちゃけムカついてきました。
「さあ金をよこせ、どうぞ支援よろしく」と言われて振込用紙を手渡されるような気持ちになる。被害妄想ですかね?そんなつもりない?支援したくなきゃしなければいい?うんうん全部わかってる。わかってるけどな。
義理というか、しがらみというか、ケチと思われたくないとか、そういう色々で悩むのが煩わしいのです。
とくに対価もなくpixivFANBOX(ファンボックス)やってるやつは、これが物乞い以下の低俗な小遣いせびりであることをもう少し自覚してくれ。
応援ではなく対価の支払いならばまだ許せる気がするんだ、多分。
クラウドファンディングは見返りがあってそれを求めてお金を出すのは、まぁ筋が通ってる。(よく知らないですが見返りがない場合もあるようですが。資金援助だけするやつ)(でも本当は何かやりたいプロジェクトがあるなら、自分で資金繰りして準備しろよって思う。人脈とかで無理やり周りから金出させるのでなくて)(魅力的で本当にそれがいいものだから支援するプロジェクトは別)。
自分にとって本当に欲しいものを得るためにお金を払うのは当たり前。
noteの有料購読もいいんです。読みたいものに支払う、雑誌を買う感覚。
pixivFANBOX(ファンボックス)もそういうのならまだいいけど、でも単純に支援を求める使い方もある。
「支援者のためのボーナスコンテンツなんかなくていい、支援してもらったお金で美味しいもの食べたよ、みたいな報告だけで支援した人は満足するのです」みたいな記事をどっかでみて本当に滅入った。
いい加減にしろよ。
気軽に、手軽なお金儲けとしてこういう仕組みを使う人=「支援要求者」が、本当に嫌いだ。
「支援要求者」が「支援者」に要求しているそのお金は、支援する人たちにとって苦しい労働と引き換えにやっと手に入れた貴重なものだということを忘れるなよ。
クリエイターを支援する仕組みを否定したいわけじゃない。でも手軽なお金儲けとして自分を応援してくれる人からお金を徴収するシステムとして使う人がいる。実際そういうクソ野郎を知ってる。
てめーの金はてめーの労働で稼げ。
ひょんなことから田舎にやってきた.田舎とは言っても,コンビニまでは徒歩5分,スーパーまでは徒歩10分.
もちろん人は少ないし,周りは田んぼと森の緑に満ち溢れているが,ほどよく生活には苦労しない.街道も通っているし,東京へは電車で帰れる.そんな程よい田舎.
東京にいたときは,趣味が高じてものづくりをしていた.気づいてみれば大学も博士進学一歩手前,研究すると覚悟を決めた矢先,とある縁でここへやってきた.
最近思うのは,「やりたいこと」と「できること」は違うってこと.「やりたい!」で飛び込んだ研究の世界だったが,論文締切や学会発表は,やる気だけではどうにもならない.今更だけどつくづく感じている.
本業というのは,むしろ「やれること」で「できること」をこなしていくべきなんじゃないかと,そう思うようになったのは,こっちへやってきてひと月も経たない頃の話.
結局自分は研究ではなく開発がしたかったんだろうな〜,と思っていたところに,友人がものづくりに誘ってくれた.これまた程よくモチベーションを保ってくれている.
「やりたいこと」を諦めるのではなく,「やりたいこと」は趣味として,自分のペースで続けることの楽しみを再確認できたからである.
いつから「やりたいこと」を「やるべきこと」に,そして「できること」に錯覚していたのか...定かではない.
もともと周りに信頼されていないというか,「人から嫌われているんじゃないか?」という,猜疑心にも似た気持ちを心のどこかで抱えてきた.
しかし自分に足りなかったのは,「成功」でも「称賛」でもなく,「自然」と「人とのふれあい」だな〜,と感じさせられる.
空が開けてとてもきれい,どこか風も心地いい.町の人たちもとても暖かく,ともすればこちらに永住したいような,そんな気にさせてくれる.(現実が許してはくれないのだが...
馴染んできたつもりだったけど、やっぱり違う!!!!!と気づいたので辞めることにしました
何が私と合わなかったのか
業界の閉塞感
生活の中で誰もが使うツールを作る会社。でもツールについて一生考え続けるのはちょっとな…。私はこのジャンルを究極に好きになりきれないと思った、ツールよりその先のほうが気になる性格なんだった。
・業界自体の飽和 狭い業界で骨肉の争いをしてるの、競争原理が働いて健全な経済なのかもしれないけど、人類全体で見たら無駄なエネルギーじゃね?
・若手の弱さ 会社のルールがたくさんあり、システムが古く、それらを習得するのに時間がかかる。習得しないうちは子供扱いされる。しかもマニュアルが無くて知識が属人化している。
・忖度ゲーム 社長に直接会えることは少なく、周囲のおじさん達の忖度で謎の指示が飛んでくる。社長(若い)にダイレクトに聞くと「え?そんなことないけど?」みたいなことたくさんある。伝言ゲームならぬ忖度ゲームです。
・会社のWHYがわからない 俺たちは何のために金を稼いでいるんだ?
人
・昭和の人間 たくさんいる。会社は収益を上げる場所なんだという価値観。そうか!? 収益以上の目的はいらないのか!? ただ売ればいいってのは思考停止じゃないか? …という疑問を上司にぶつけたところ「それは社長のレイヤーが考えることだから」と言われた衝撃。
・腑抜けになっていくことへの恐怖 優しい人たくさんいる。1年で私もだいぶ顔が変わった。よく言えば優しくなった、悪く言えば攻撃力がだだ下がりした。生きていくことが簡単すぎると人は輝きを失う。ああ認知度90%越えの定番商品を売る老舗企業よ。黙っていても給料入る。なんとなくで仕事が進む。WHYや理想についての議論は無いか、避けられる。
それでも、いい出会いがたくさんあった。ものづくりを探究し続ける、好奇心と理想をしっかり持っている、尊敬できる技術職の人はたくさんいた。良いメーカーなんだよ。
私がもし技術職やデザイナーだったらこの会社で続いたかもしれない。追いたい背中が見つかったかもしれない。
やめる直接の原因は、上司たちとうまくやれなかったからです。表面上はうまくいっていたけれども、私の中には「もう無理」が蓄積していってある日溢れてしまった。上司たちはびっくりしただろうし、普通に振舞ってたのになぜ?と思われたことでしょう。彼らの普通に適応すること自体が私にとってはストレスになってしまった。ザ☆適応障害。しかしこんなことに適応するために私の人生をくれてやるなんて惜しすぎるだろう。従順な子供のような新卒ちゃん、をやるのは1年が限界だった。(どこが従順やと言われそうだけど、これでも頑張ってたもーん。)
本当に嫌だったことはここに書いてません。限界を感じた部分だけ書きました。限界を感じてても嫌じゃなかったら続いてただろう。
部署異動して心機一転したら…という話もあったけれども、会社に対する気持ちはもう修復不可能なところまでびりびりになっちゃってて。この気持ちで他部署に行ってまたゼロから…子供扱いから…というのに私は耐えられない。私は尊重されるべき一個人であり、好きなチームのためならば情熱を存分に発揮できる。このカロリーをもっと活かせそうな場所を見つけたので転職する。
大切なのは。
お前たちはやれ「論説」やら「マウント」やら「知識」やら、そういうのがネットで生きるので大切と思ってるようだけど、本当に大切なのは「心」だろ。
インターネットってさ、画面に絵や文字が踊るだけの世界だからさ、言葉が力になると思ってるだろ。
でもさ、その言葉を作るってのは誰でもできるんだよ。
増田に自分が猫だと思いこんでいる奴がいるけどさ、自分が猫だと思いこんでいるやつでも言葉は書けるってことだ。もしかしたら本当の猫だったとしても、猫でも言葉は書けるんだ。
でもお前たちは人間だろ?人間が言葉というツールに頼ったら、そのツールをうまく扱えるAIが出たら人間に勝ち目はないわけだよ。
だってそうだろ。辛くて筋力のいる仕事をするのは人間か?いや、ロボットだ。ロボットは人間ほど自由ではないけど「アーム」、つまり「腕」を手に入れたら。だから人間よりパワーのあるロボットは辛くて筋力のいる仕事を人間よりうまくやる。そんなロボットに対抗して力をつける必要はないだろ?
ものづくりの現場は、もちろん機械を導入できるほどの資金がないという場合もあるが、頑固な職人がいる場合があるだろ。彼らはロボットに対して何が勝っているのか。それが「心」だろ。「この道でずっとやってきた」というプライド、そのプライドから来る技術、仕様に合わせて柔軟に作る、すべて「心」だろ。
お前たちは言葉に頼っているから、すぐに「低能」だとか「今日も男は女叩き(その逆も然り)」とか「野菜350gと瞑想」だとか強い言葉を使う。
本当に心をこめて「低能」っていってるのなら俺はなにも言わないが、ほとんどの人が「低能と返せば強い」と反射的に「低能」と書いているだろ。
文字に「心」を込めるんだ。そうすればきっと「低能」という同じ文字でも重みが違う。
心を込めて「低能」と書くんだ。
その事をどうか胸に刻んでいただきたい。