はてなキーワード: ずっと好きだったとは
手術の前後は必ずいなければならないのだが、親がすることできることは限られていて、概ね退屈な時間が続く。持参した本を読み終えて、院内文庫で本を借りることにした。頭は使いたくないが、すぐ読み終わるようなものは困る。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」があった。好きな小説だが、ここ数年は読んでいなかったので、これを読み始めた。
小児病棟というのは、悲劇が日常になっていることが、感じられないくらい空気に溶け込んでいる場所だ。
付き添いで泊まり込んでいる若い母親が、もう泣きたいよーと笑いながら話す声が聞こえる。子供なんて、普通に生まれたら普通に育つもんだと思ってたら、まさか癌になるとはね。私からは見えないところから、笑い声の合間に鼻をすする音はするが、声は乱れず明るい。
細い足をむき出しにした小さな子を抱っこ紐で抱えたパンクファッションの母親が、エレベーターを待っている。母と話す声で、その子が女の子であること、思ったよりずっと年齢が高いことが分かる。髪は産毛のようにふわふわして、地肌が見えている。
長期入院から退院した少女が、まだ入院中の友人に会いに来ている。馴染みの看護師の噂話や、院内学級の話をひとしきり交わす内に、看護師が検査のため友人を呼びに来る。二人の少女は、またねと言い合って別れる。外から来た少女は冬の服、病棟に戻る少女は素足にサンダルだ。
医師が少年に話している。君の病気は、完治は見込めない。今は寛解と言って、症状を抑えている状態だ。明日で退院だけど、薬とは一生の付き合いになる。少年は静かに聞き入っている。
私の子供は何度か手術を受ければいいだけで、生きるか死ぬかなどというものではない。悲劇にも度合いがある。我が家のそれは、単なる煩わしさであって、悲しみの入る余地はない。しかし、多くの家族があの場所で嘆き悲しみ、それでも懸命に日々を生きている。ある子は完治して去り、ある子は病と共に生き、またある子はそこで命を落とす。
そんな場所で読む「ダンス・ダンス・ダンス」は、信じられないくらい薄っぺらく、陳腐だった。あんなに大好きで共感していた主人公は、鼻持ちならない傲慢なナルシストにしか思えない。
作中に出てくる人物は、並外れて奇妙か、または美しくて服装がファッショナブルでないと、ネガティブ、あるいは評価に値しないような扱いを受ける。
この小説に私が出てきたら、こんな風だろう。
「その母親は化粧気がなく、部屋着も同然の姿をしていた。顔つきは暗く、目に力はなく、何もかもが灰色でそそけだっているように見えた。親しくなりたいタイプの女性ではない。」とかなんとか。「そそけだって」の所には傍点が付く。英訳されたら、この部分だけ全部大文字になる。
村上春樹は何も悪くない。他の作家なら違和感を覚えなかった訳でもなかろう。
ただ、ずっと好きだった作品を久しぶりに読んで、ここまでがっかりしたのがショックなのだ。
示唆に富み、人生の本質を探り当てていると思っていた小説が、陳腐で皮相的としか読めないのが悲しいのだ。
結局最後まで読まずに返却し、その後はクロスワードパズルをして過ごした。子供が起きられるようになってからは、二人でクロスワードパズルを作ったり、絵を描いたりして暇を潰した。
家に帰ると、本棚に数冊の村上春樹の本がある。日常の中で読めば、元のように親しみを感じるかもしれないが、今は手に取る気になれない。
たかが数日の入院に付き添った私でこうなのだ。ずっと付き添っている人達はどうしているのだろうか。どんな本を読むのだろうか。こんなことを気にすること自体が、お気楽な証拠なのだろうか。
ずっと好きだった人がいた。
青春の、一番甘酸っぱい頃の話。もう十年以上も昔のことだ。
私の好きな人は「せんせい」だった。それも若くもなければ渋くもない、どこにでもいそうなオジサンだった。それでもあの頃は好きで好きで仕方がなかった。別に同級生の多くと同じように「お付き合い」をしてそういう仲になりたい訳じゃなかった。そもそも「そういう仲」という考え自体があの頃の私にはなかった。毎日のように「せんせい」の授業を受けて、廊下で少し姿を見られたらそれでよかったのだ。一言でも話せた日は嬉しくて仕方がなかったし、これらのことを何となく目標にして毎日を過ごしていた。「せんせい」を見つめながら過ごす毎日は、とてもきらきらしていた。
このように書くと、年頃の女の子の年上男性への淡い片思いあるいは憧れとして、すてきな思い出にでもなりそうなものである。
ところで、その頃の私は家庭がやや複雑な状況になっていたために学校にいる方が好きで、学校で13時間近くを過ごすこともあるような生徒だった。当時は「それくらい学校が大好き」と思い込んでいたが、卒業して数年してから、あれは一種の逃避だったのだと気づいた。「せんせい」への恋もその一つだったのだろう、と。当時から自分の好意が「せんせい」の迷惑にしかならないことは自覚していたし、告白はおろか好意が伝わるような行動は何もしなかったから、全て私の心の内の問題でしかないのだけれど、そう気づいてからは「せんせい」のことを一方的にすてきな思い出として処理することができなくなった。「せんせい」のことを利用していただけだったのだと思うと、とてもじゃないけれどきれいな思い出になんて分類できなかった。私の恋は恋でもなんでもなかったのだ。別にそこから「私は恋愛できない人間なんです」だとかいった発想には至らないが、それでも恋にも満たなかったあの恋を思い出すと、成就しなかった恋愛のもつ痛みとはまた違う、ごちゃごちゃした家庭環境から逃げ出すために自分なりに必死だったあの頃の自分の痛々しさを今更ながら感じてしまって辛いのだ。
話は変わるが、この時期になるといつも思い出すことがある。受験を間近に控えた頃、少しでも家から離れていたいからと朝の6時半という恐ろしく迷惑な時間に登校する私のために、毎朝他に誰もいない教室のストーブの火をつけてくださった「せんせい」の背中である。私と「せんせい」しかいない教室で、いろんな話をした気がする。どれも他愛もない話だったけれど、家族以外の大人とする他愛のない話はどれも楽しくて、幸福な時間だった。何も話をしない日もあったけれど、当時少しでも親に負担をかけないようにといっぱいいっぱいだった私は「せんせい」の背中を見るだけで何だか安心できたものだった。思えばあの冬、あのストーブの火に私の体と心はどれほどあたためてもらっていたのだろう。私は無事に第一志望の大学に合格して、新しい生活を送りはじめ、私のことを好きだと言ってくれる人が現れた。あんなに私の全てだった「せんせい」は、あっという間に私の中からいなくなった。ちょうど同じ頃に、私は自分の気持ちを利用していたことに気がついたのである。
今回はてな匿名ダイアリーに投稿したのは、「せんせい」への思いと感謝をまとめたかったからである。今まで「せんせい」の思い出を誰かに聞いてもらったことはない。考えてみれば、そもそも当時から十年以上も「せんせい」への思いも誰かに話したことはなかったのだ。誰にも聞いてもらえなくていいからどこかに吐き出してしまいたくて、ここを選んだのである。
甘酸っぱい私の青春は恋とは呼べない痛々しい思い出で埋められてしまったけれど、それでも当時の私を支えてくれたあのストーブのあたたかさだけは本物で、いつまでもそっと胸にしまっておきたい思い出である。
男友達とかと過ちを犯しちゃうとか、そこまでいかなくてもいい感じの雰囲気になっちゃう妄想。
旦那が浮気して慰めてもらうとか、ずっと好きだったって言われて求められる、みたいなシチュエーション。
一日何回もそういうこと考える。欲求不満なのかな。
ずっと好きなサッカー選手がいる。
私が小さい頃からずっと好きだったんだけど、好きになったころにはもう海外にいた。
ど田舎住みだったこともあって、代表戦を見に行くなんてこともできなかったので、TVの向こうの人という印象になっていた。
そんなこんなで、せっかく2、3年前からJに戻ってきているのに、生で試合を見るという概念がなく、しかもスタジアムへ見に行く勇気がなかった。
なんとなく、Jを観戦するにはルールとかいろいろありそうだと思ってたり、なんか激しそうっていうか恐そうっていう印象もあったり、チャントとか覚えなきゃいけないんだろうかとか、そもそも友達の中にサッカー好きがいないから、いきなりいい年こいた女がぼっち観戦とかどうなのよとかいろいろ思っちゃって。
でも、その選手をずっと見ていたらそのチーム自体が好きになってしまったってことと、今年のその選手の活躍っぷりとチームの盛り上がりを見ていたら、どうしても生でそのチームの試合を見たくなってしまった。
で、ユニとか買った方がいいのかな?
せっかくだから欲しいな。舞台とかライブとか見に行ったときグッズ全買いするタイプだから絶対欲しくなるな。
動きやすいカッコでいくことは分かってるし、流石に服の色とかは分かるんだけど、他にスタジアム特有のなんかするべきこととか持っていくべきものってあるのかな?
まぁ多分調べれば出てくるよね!
ものすごく楽しみになってきた!
もちろん、新しい自分、なりたい自分になりたいがために、今まで培ってきたいろいろなもの、
だからといって、それらを「捨てる」必要はどこにあるだろうか?
ずっと好きだったもの、自分の中で大切にしてきた思い出、思考の一破片。
確かに、今までの人生はろくでもなかったかもしれない。ろくでもない思い出と、思い出と思えば
いつも思い浮かぶのはあいつの憎らしい顔で、思い返したくもないあんな日々で、日常で。
でも、だからといってその時間を生き抜いた間に、ひとつくらいは、ああ、あれなんだか好きだったなぁだとか、
思うだけにとどめておいたあの娘への思いだとか、その思いのせいで嫉妬に心が染まった夜だとか、
悲しくもあったけれどなんだかとても好きで、大切にしていきたいような、あんな雨の日の記憶だとか…。
きっと、何もなくっても、どんなにろくでもなくっても、どんなに死にたくっても、その時に好きだった事だとか
そういうのをさ、俺の人生はろくでもなかった、だから、ここで決別するんだ!あんなくだんない過去とは!
とかなんとか言って、そんな大切なものたちを「捨てる」必要性は、果たしてどこにあるだろうか。
いや、ないだろう。間違いなくそんな「捨てる」必要性だなんてどこにもない。
たとえ「手放す」ことはあっても、「捨てる」必要なんてどこにもない。
それに、捨てたって手放したってさ、いつでもそんな大切なものを拾い集めたっていいのさ。
無論、浸るのは感傷的なノスタルジックじゃなくて、歩んできた過去を回想して、今在るこの瞬間に
そうして、大切なものの折に触れて、温かい気持ちになるべきなんだ。
なんでかって?そりゃあ単純さ。どこまでどんなものを捨てたって、結局自分自身は捨てられない。
大槻ケンヂの踊るダメ人間の歌詞じゃないけどさ、世界を他人を全部燃やしたって結局残るのは自分だけなんだ。
だから自分の過去を捨て否定して、いくら満足のいく日常を送れていたとしても、その自分の過去を否定して捨てたツケは、
毒になって自分を蝕んでいくのさ。じわりじわりと。
文面にすると分かりづらいが、同じ人をずっと好きだったという訳ではない。
相手は変わっていくものの、少なくとも中学生から20年間以上好きな女性がいなかったことはなかった。
中高生のころは同じクラス、しかも席が近くになってよく話をする子を好きになった。
大学生のころは同じサークル、やっぱり一番話をする子を好きになった。
妻とは1番最初に就職した会社で出会った、いわゆる社内恋愛だった。最初からウマが合って、すぐに付き合うようになった。
付き合い始めから数えると10年経つ。
そして去年、別の女性のことを好きになった。
恋愛としての対象ではなくなったが、もちろん今でも妻は大切な人であり、
好きになった彼女とは密かに付き合うようになったが、諸々の事情で密かに別れた。
別れてからも少しの間はその人のことを好きだったが、
相手の旦那さんと会う機会があり、理由は分からないが一気にさめた。
いまは好きな人がいなくなった。
20年ぶりのことで戸惑っているのだが、好きな人がいないと暇であり、退屈であることが分かった。
俺の行動の源は「好きな人」だった。
好きな人に会いたいからコレをしよう。好きな人に○○したいからアレをしよう。というように。
だからこれからは好きな人ではなく、愛する人のために何かをしていこう。
愛する息子、娘、そして妻のために。
俺は物語を書くのが好きだ。
初めて物語を書いたのは幼稚園児のとき、大好きだった絵本を真似て色鉛筆と画用紙で小さな冊子を作った。
キャラクターから筋書きまでその絵本丸パクリで、とてもじゃないが創作と呼べる代物ではなかった。
でも俺にはそれが楽しかったんだ。
それからずっと、小学生時代も中学生時代も、小説を書き続けた。
休み時間、校庭でドッジボールに励む同級生を尻目に、俺は教室で執筆を続けた。
小学校高学年になるとさすがに恥ずかしくなって、学校では構想を練るだけにし、執筆するのは毎日家に帰るまで我慢した。
中学生時代は漠然と重たい気分に付きまとわれて、その暗い情念を精一杯創作にぶつけた。
まあそれだけ書いてれば少しは成長するが、自分の書くものにセンスを感じたことは一度もない。
語彙が増えて長い文章を書くことを覚えたくらいで、空想の中では傑作だったはずの物語も、完成してみればいつも支離滅裂な駄作だった。
作文の授業で褒められたことなんてないし(むしろ国語の点数はずっと悪かった)、意を決して自分の書いたものを友達に読ませてみても、手応えのある反応は返って来なかった。
ずっと自分の世界に閉じこもっているから友人も恋人もできなかったが、それでも俺は自分の人生に満足していた。
だが高校に入学して、俺の人生は大きくカーブを切ることになる。
俺が待ち時間に読んでいたドストエフスキーの文庫本を見て、彼は声をかけてきた。
「僕はスヴィドリガイロフの儚い美学に共感するよ。彼は豊かに暮らしているように見えてその実、生の孤独を見つめているんだ」
美化されているけど初対面からこういう感じの奴だった。
「ふぅん、俺はラスコーリニコフがいいと思うけどね」
そう俺が言うと、彼は眩しいくらいにニコッと笑った。
そのうえ創作もするという。
そうして彼と仲良くするうちに、なりゆきで文芸部に入部することになる。
考えてみれば自分からコミュニティに参加することなんて人生で初めてだったが、やはり自分と似た人が多かったのか、自然と馴染んでしまった。
何といっても生まれて初めて友達ができたのだ。楽しくないわけがない。
一緒に入部した一年生は例の文学少年以外にもう一人女の子がいて、彼女も小説に熱い思いをもっている娘だった。
三人で互いにお薦めの本を紹介しあったり、俺の家に集まってだらだらくだらない話をした。
美術展に行っては批評家ぶって論評して、ときには高校生らしくカラオケやボーリングもした。
そして新たな刺激を得た俺は、これまで以上に執筆に熱を入れるようになっていた。
友人の影響でシュルレアリスムの真似事をしたのは失敗だったが、それを除いても短期間にこれほど成長したことはなかったと思う。
事実、俺は高校一年生の冬、公募の新人賞で念願の一次選考を通過することができた。
そう、たったの一次選考だ。笑ってくれてもいい。
これまで両手では数えられないくらい投稿してきて、初めてまともに読んでもらったのだ。
次の日、友人たちにそのことを伝えるのが楽しみだった。
というのも、俺は自分の成長は彼らのおかげだと思っていたからだ。
殻に閉じこもって書いていた中学時代の俺は自家中毒に陥っていたと今になってわかる。
でも高校生になって、文芸部に入って、彼らに出会って俺は殻を破れたのだ。
俺の中には彼らへの感謝の気持ちが溢れていた。
だが、俺の報告を聞いた彼らの反応は冷たいものだった。
へぇ、ふぅーん、そう、とか冷たい目をして言う。
ちっとも興味を示さず、退屈そうだった。
きっと新人賞には関心がないのだろうと思って自分を納得させようとした。
でも違った。
「創作に一生懸命になっているのは惨めだよ。世界はこんなにも素晴らしい書物で満ちているのに」
「えっ、お前何言ってんの……」
「つまりね、僕が創作をするのは、読む活動の一環なんだ。自分の書いたものなんてどうでもいい」
「じゃああのとき俺に語ってくれた創作へのこだわりは何だったんだよ! 一緒に頑張ろうって言ってくれたよな?」
するとずっと横で黙って聞いていた例の女の子が、
「あんたに合わせてあげてたに決まってるでしょ! そういえばあたしたち付き合ってるから! じゃ!」
と言って彼の手を引いて去ってゆく。
創作は惨めだって? 一緒に夢を語り合ったのは嘘で、自分の創作物なんてどうでもいいってどういうことだろう。というかそもそも付き合ってるってなんだよ。普通の高校生かよ。文学に身を捧げるんじゃなかったのか?
俺は現実を受け入れられず、思考はぐるぐると同じ所を巡った。
やがて俺は気づいたのだ。彼はファッションワナビという生き物だったことに。
一読して意味がとれないタイプの作品の価値なんて、素人にはわからない。
彼はそれをコミュニケーションに利用していたのだ。
本当はミステリアスな文学少年キャラを利用して女の子を捕まえるだけの、平凡な高校生だったのだ。
そう思ってひとまず落ち着いたものの、いまだにひとつだけ気になっていることがある。
彼は女の子に手を引かれながら、俺の方を見て、目で何かを訴えかけていた。
そしてあの、入学式の日に見せたのと同じ、眩しいくらいの笑顔をしてみせた。
あれは何だったのだろう。ただ俺を馬鹿にしていたようにも思える。しかし……。
俺の身体が疼く。
彼をあのビッチから取り戻さなければいけない。俺はそう決意している。
何かがおかしいと思う冷静な思考はあっという間に駆逐され、彼を助けなければという強烈な義務感が俺の脳を支配していく。
ずっと好きな人ができなかった。
初恋のときに、相手の男の子が好きすぎて暴走しちゃって、それと同じことを繰り返すのが怖かったのも、人を好きにならなかった理由だと思う。
口では「彼氏が欲しい」「好きな人が欲しい」って言ってたけど、実際そんなことは無理って自分でもわかってた。
私は中学生のとき1年間不登校で、ずっと家でネットをやってた。
オタク趣味だったから、まとめブログとか2ちゃんねるとか、良く見てた。
ネット上には(特にまとめブログとかでは)男尊女卑な考えがよく書かれてる。
直接女の人を貶す文章でなくても、女が頭が悪いということや、女は男より劣っているという前提で書かれている文章とかも多い(まとめブログで見るブラックジョークとかでもたまに見る)。
そういうのを見てて、私は一時期女なのに女が嫌いになって、そしてその後男の人が嫌いになった。
ネット上には、いろいろな人のむき出しの本音が乗っている。
「少し優しくしたらすぐ股を開いてくれた」とか、そういうのを見るたびに、表面上は優しくても本当は皆女とやりたいだけなんだろうなあと思ってた。ちなみにここ最近で一番ダメージを受けたのは、大学生が新入生の女の子を品定めすることを「穴探し」と呼んでたっていうやつ。
子どもは好きだし、普通の女の子なので、結婚に憧れはあった。好きな人と毎日暮らせたら、そりゃ大変なことだってあるだろうけど、すごく幸せだろうなあと思った。
でも、不登校期間でのネットや、両親を見てて、結婚に対する憧れはなくなってしまった。
2ちゃんねるの婚活のスレとかを見てて、女の人は金銭的な安定のために男の人と結婚するんだ、と思った。そして、そのためには、処女ですれてなくて、純粋で、男の人の後ろを3歩下がって歩いているような人でいないとダメなんだと思った。
両親の関係も、私の結婚に対する憧れを打ち砕いてくれた。両親はもともと仲が良いわけではなかったけれど、私の不登校をきっかけにそれは更に悪化した。お父さんはお母さんのことを見下して、すぐ「あいつはバカだから」と言う。お母さんもそれに何も言わずに、たまにベランダで一人で泣いていた。結婚ってお互い支えあって、お互い尊敬しあって生きていくことだと信じてた私には、それだけのことで「結婚に対する憧れ」を打ち砕くには十分だった。
それでも、その後に、一度だけ人を好きになったことがあった。
穏やかな人だった。
どこか飄々としていて、性欲を感じさせない人だった(そしてそのことが私にとってとても大事なことだった)。
相手も、私がその人を好きってことを知っていたと思う。
ある日、皆でお泊りをすることになった。4人くらいで。2人は先に寝てしまって、私とその人の二人きりになった。
詳しい状況は省くけど、私はあんまり抵抗できない状態だった。ものすごく眠くて、でも好きな人との時間だったから(どうせ両想いにはならないってわかってたから)、起きていたいと思った。
どういう流れでそういうことになったのかはわからないけど、気づいたらキスされていた。舌入れるやつ。
そのときに抵抗したかどうかは、あんまり覚えてない。キスされて一瞬嬉しかったけど、すぐに気持ち悪くなったことは覚えてるけど。
胸をまさぐられて、耳を舐められて、ついでに下も触られた。
下着を脱がされそうになって、そこでやっと本気で抵抗した。
本当に、穏やかそうで、いい人だと思ってた。でも実際はこんなんで、私の「男は全員獣論」は私の中で圧倒的支持を得ることになった。
それから、誰も好きにならなかった。
いい人は沢山いた。私に優しくしてくれる人も沢山いた。ときめいたこともあった。ここから「好きになる努力」をすれば、好きになるんだろうなあ、みたいなことは何度かあった。
でもそれを全部無視して、私は誰も好きにならなかった。
もちろん私は魅力的な女の子ではないので、私から近寄らなければ男の人が私と(そういう意味で)接触することは無かった。
半ばあきらめのような気持ちで生きていた。
結婚したい、彼氏も欲しい、好きな人だって欲しい。でもそれは私が男の人が嫌いな限り一生無理なわけで。一時期は女の人を好きになろうかと考えてたこともあった。
でも今年に入って(そうだ、そういえばまだ出会って1年も経ってない)、優しくて草食系っぽい、私が昔好きだった人のような人と仲良くなった。友達として。
友達として好きなんだと思ってた。
ずっと人を好きになってなかったせいで(あの人を除けば6年ぶりくらい?)、どんな感情が好きってことなのか忘れてた。
本当に、趣味が合うっていうか。優しいっていうか。なんていうか……
ところで、ここまで私は「私は潔癖です!!」みたいなこと書いてたから、こう言うと驚くかもしれないけど、私は下ネタが好きだ。下ネタっていっても、「あの子胸おっきいね!柔らかそう!」とか、「このオナホが気持ちよさそう」とかそういう…なんだろう。そういうのを話すのがなんか好き。多分、自分が女の人を性的に消費しているように見せかけることで、自分は消費する側である(消費される側ではない)って思いたいだけなんじゃないかなーと思う。
まあ、それで、その人にも下ネタの話をしてたんだよ。ずっと。
なんでこんなにその人に下ネタ話したいのかなーって考えてたんだけど、多分反応を見てたんだろうなあ。
その人は童貞で、なんか潔癖っぽいとこがある(気がする。私がシモに関して潔癖でないだけかも)。オナホの話をしても胸の話を振っても食いついてこない。オナホなんか、私が男だったら絶対に買ってると思うんだけど、その人は絶対いらないって言う(いまだにこの理由はあんまり理解してない)。
いい人なんだな、と思った。
女の人を、性的に消費するだけじゃなくて、なんか、うまくいえないけど。気遣いとか、そういうことができる人なんだな、と思った。
それで、それだけで、私には十分だった。
好きって気づいたのは最近だけど。もう頻繁には会えなくなっちゃってからだけど。
多分、ほんとうにはじめのほうから、ずっと好きだったんだと思う。
来月に一回会うよね。そのときに、言わせて欲しい。
ずっと、男の人のことは、もう好きになれないんだと思ってた。結婚したいけど、できないんだと思ってた。でも、そんなことないって思わせてくれてありがとう。私も、人のことが好きになれるんだって、気づかせてくれてありがとう。
好き。大好き。
実は前にも同じような話を増田に書いていてその続きなのだけど、自分のためにもちゃんとまとめてみたかったからこうして書くことにする。
僕は高校生で、中学時代からのある想いに悩み続けて今を生きている。
結論から言うと、中学生の頃にずっと好きだったあの娘に気持ちを伝えられないまま振られずに終わった。
伝えられなかったにはそれなりの理由がある。
3年間想いをこじらせて、やっと伝えようと思った時には既に3年目の冬を迎えていた。
高校は違うことになるわけで、当時は告白するなら今のうちだと思っていた。
冬に僕は勇気を振り絞って今まで行動にできなかったことをしようと思い、ついに行動に移そうとする。
いざあの娘に伝えようか外を歩きまわってそわそわしていたら、その時あの娘の友人である学校のクラスメイトAに見つかってしまった。
Aとはあまり親密ではなく、SNS上でフレンド関係であるだけで、僕が好きなあの娘を知っている。
僕があの娘に告白しようとしているということをAは知り、メールであの娘に告げ口した。
外で歩きまわっていることをあの娘には僕がつけ回そうとしていたり、待ち伏せしているのではないかと思われた。
誤解が生まれてしまった原因は僕とAとの信頼関係を構築できていなかったのが原因だ。
そしてあの娘は僕のことをストーカーだと思い、僕はそれと対比するように絶望の淵に追い込まれていった。
あの娘に僕のことをストーカーだと思われるということは、告白以前に完全に拒絶されてしまうからだ。
あれから長い事経つが、未だに忘れられていない。
まず人を好きになれない。
僕が好みでないだけなのだけど。黒髪ロングじゃないと。
それはさておき、数十人もいればそこそこ可愛い娘だって当然いる。
でもあの娘を好きになって以来、人を好きになるという感情が再び沸き起こることはなくなってしまった。
あの娘に対する気持ちは数年前と比べるとこれでも相当薄まってきた方である。
それなのに好きになれない。人を好きになりたいだけなのに。
今までバイセクシュアル的傾向はあったのだけど、あの娘を好きになっていた時は本気で男と付きあってもいいとは思っていなかった。
しかし今は、好きになれる人であれば女性でも男性でもいいと思っている。好きになれたらの話だけど。
自分がバイセクシュアルなのかどうかは分からない、メインは女性だし。
男性といっても普段から女性の格好をしているような人でないと恋愛対象にならなそうだ。
可愛いとかどうでもいい。さっきは黒髪ロングがいいとか書いたけどそれもどうでもいい。どうでもよくないけどやっぱりどうでもいい。
僕が好きになれて、なおかつ相手が僕のことを好きになってくれて、僕のことを優しさで包んでくれるのであれば誰でもいい。猿でもいい。
最近は相手が僕のことを好きになってくれるかだなんて、それすらもどうでもよくなった。
あの娘の時みたいに誤解が生じて告白できなくなってしまい終わるのではなく、今度こそは正式な手順を踏んで告白して振られたい。
でも今の自分はそれすらできないんだ。人を好きになれないのだから。
だけどやっぱり三次元の女の子がいい。僕は目で見たり話したり喋ったりしてくれる女の子がいいんだ。
僕はいつになったら人を好きになることができるのだろう。
今現在僕の本当の悩みを打ち明けてシェアできる人は誰もいない。
前は居たけどあの娘の時のごたごたでそれはもうなくなってしまった。
微妙に話は変えていたりちょっと盛っていたりする部分もあるけどだいたいこんな感じだ。
やっぱり好きなんだよ。忘れられなかった。忘れることはできないんだろうな。
誤解が生まれて僕の恋心が砕けた話。
もう二度とこうした事態が起こらないように書いてみた。
今ちょうど思春期真っ盛りの好きな人がいる人、そうでなくても中学生や高校生ならこういうことがあるんだと覚えておいてほしい。
どうせ届くことはないだろうけど、どこかに書いてみようと思ったので、書いてみる。
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確かにあの時のあの行動は客観的に見たらストーカーのすることだったかもしれない。
でも僕はそんな意図で外を歩いていたのではないし、僕だってあれからずっと反省し続けている。
悪気があって行動していないとしても、やっぱりそこは行動にしようとする前に考えるべきだったのではないだろうかと思っている。
ただ君に一つだけわかってほしいことがあるんだ。
僕は今まで、一度しかストーカーと疑われるようなことをしていない。
過ちを犯してしまった行為の数で考えるのは確かにおかしいのかもしれない。
けれど君が思っているストーカーというのは、何十回も繰り返して追っかけたりしている人のことをイメージしているのではないだろうか。
僕のことをもしそう思っているとしたらすごく悲しいな、僕はそこまで犯罪になるほどのことをしていない。
僕と君はあんまり仲良くはない。それは分かっている。
でもね、せめて告白して振ってくれたらよかったのに。
複雑な事情で生じた誤解が生んでしまったのだから、君は悪くない。
もちろん君に僕が告白しようとしていることを伝えたAも悪くない。
正直言って僕も悪くないと思っている。
君は僕のことをストーカーで脅威に感じているのだろうからきっと僕が悪いと思っているのかもしれないけど。
みんな悪くないと思う。誤解が生まれただけでこんなことになってしまうだなんて思ってもみなかった。
僕は今でも告白しようとした日、時間までははっきりと覚えていないがおおよその時間帯を覚えている。
僕は君以外の人を本気で好きになったことはないけど、初恋の人って特別なんだと思う。
初めて本気で好きになるということを教えてくれた人なのだからそうそう忘れることはないと思う。
苦しくて苦しくて、君のことを忘れようと思った時が何度もあった。
でも君のことを頭から消し去るのは不可能だった。
だからもう諦めた。僕が君のことを忘れるよう君は望んでいるのかもしれない。
ごめんね忘れられなくて。だめだった。諦めちゃった。本当にごめんなさい。
忘れるのはできないから、せめてあまり考えないようにしようと努力しているよ。
許してくれなくていいから、せめて僕にとって初恋の人は特別なんだっていうことと、僕の初恋の人は君なんだっていうことをわかってほしいんだ。
もう君に連絡を取ることは不可能だし、人生あと数十年の一生のうちに君に会って話ができるかどうかだって分からない。
でも君にいつか会って話がしたいな。
僕の学校の周りのみんなは彼女作っただとかセックスしただとかそういう話ばっかりしている。
そういう人達が持っている夢より僕の夢なんてとてもちっぽけなものだ。
僕の夢はただ一つ。君にちゃんと告白して振られたい。ただそれだけ。
だからいつか君に会える日を願って今を生きている。
僕は君に伝えられないと人のこと好きになれないのかなあ。
それはわからないけれど、もし君に伝えられないまま死んでしまったらということを考えるとすごく悲しくなる。
ところで君は幸せなんだろうか。
君はどうだろう。幸せだったらいいな。
僕はあの時の君の好きな人は知らないけど、その後どうなったのだろう。
どういう形であれ君が幸せになっていたら僕は嬉しい。
もし君が幸せじゃなかったら僕は悲しい。
幸せになってくれたら僕は振られずにこうなってしまっても、君が幸せならそれでいいやって考えられるのに、もし幸せじゃなかったとしたら…
だから今の君のことを知らない僕は、きっと君は幸せなんだろうなと考えて毎日過ごしているよ。
今もまだ諦めきれずにちょっぴり好きだけど、当時君に伝えられなくなってしまった時までが好きだった時期だとして言いたいことがある。
今まで君のこと好きだった。好きにならせてくれてありがとう。
君は何もしていないし僕が勝手に好きになっただけだよね。
でも僕は君に出会った、そもそも日本で生まれて関東に住んでいるかどうかだなんて分からないのに、僕はそうして君に出会えた。
その事実だけで僕はとても嬉しく思っているよ。
こんなこと言ったらとても気持ちが悪いし自分でも気色悪いと思ったけどどうしても伝えておきたいことだから。
生まれてきてくれてありがとう。
今はこんな風になってしまったけど、君に出会えたというだけですごいことなんだ。感謝するべきことなんだ。
君は幸せ?
どう表現していいか分からない伝えきれないこの思いだけど、できる限りの言葉で文字にしてみた。
君に伝わったかな。そもそも見ていないと思うけどね。
また会えるかどうか分からないけど、もし会った時はまず最初に過ちを認めて謝るつもり。
いつか君に会える日が来ると思って信じて生きていくことにするよ。
さようなら。また会える日まで。
相手とは、知り合って16年になる。
学生時代の、お互いの彼氏彼女の付き合いも別れた経緯も互いに全部知っているし
一緒に映画を見たことも食事したことも酒飲んだこともコンサートにいったことも
クリスマスの日に一日一緒に街をぶらぶらしたこともあって、
互いの部屋に泊まったことも一緒に深夜番組見ながら笑ったことも
互いを代わりばんこに腕枕しながら眠ったことも
服借りたことも風呂借りたことも
付き合わなかった。何も約束しなかった。
たぶんずっと好きだった。だから何も言えなかった。ヘタレだった、といえるのかも。
とくにこの8年、つかず離れずの付き合いをしていた。
たぶん向こうにも付き合う寸前の相手、みたいなのが他にもいたと思う。
私もそうだったからお互い様。それでもそちらには行かなかった。お互いに。
今度、ひさしぶりに一緒に旅行に行くことになった。
ただ、仮に旅行をしても、きっと今更何か約束したりしないだろうなと何となく思うし、
どうしてこの人は、他の女性と付き合ったり結婚したりしないんだろう。
どうして私はこの人と一回付き合って、そして別れておかなかったんだろうか。
心理的に吸引力が強すぎて、約束を迫れない。
最初は仲の良い友達だったんだけど、段々と意識するようになった。ちなみにお互い彼氏彼女はいた。
意を決して卒業後、俺の上京の1週間前、二人で酒を呑んだ。セックスもした。恥ずかしくて告白できなくて、
「当時は好きだったんだよ」と言った。
Aの返事は「私もだよ。」その時の俺はなんでか「けど今はお互い相手がいるからつきあえないね」みたいな事を言った気がする。Aは笑った。
その時から俺は「今はお互い相手がいるし遠距離だけど、頑張れば付き合えるかも」と思うようになった。
SNSで相手を探して、いっぱいセックスして、どこが気持ち良いか勉強した。
俺は都合のいい男だったらしく「歩くバイブ」とか言われた。
Aは地元で結婚したいと言っていたので、何度も会社に転勤願いを出した。けど受理してもらえなかったので仕事を辞めて実家に戻ってきた。これが3月の頭。大地震の時、震源地から近い所にいた俺はAの心配ばかりしていた。
Aはいきなり「彼氏と別れた。付き合いたい人がいる」と言って、写真を見せきた。楽しそうなAとイケメンが写ってた。
Aは本気らしく、告白もしたらしい。返事待ちと言っていたけれど、たぶん付き合うのだろう。
その日もやっぱり酒を呑み、ホテルへ行った。ホテルはAから誘ってきた。
俺が「その付き合いたい人にやったみたいにしてよ」と言ったら、Aは色々してきた。彼氏候補のイケメンは、Aにこんなに尽くしてもらって
いると考えると悲しくなった。
セックスが終わった後、告白した。告白というか、自然に口から出た。「やっぱり好きです」
そしたらAは笑いながら「あーあ、言っちゃった」
「もう違うし、遅いんだよね」
どうやらAは好きな人が複数いて、その一人が俺だけど、付き合いたいという段階までは行けなかったっぽい。
いや、一度は行ったかもしれないけど、それは数年前。
それに対して俺は、誰とでもセックスするけど好きな人は一人で、それがAだった。
その日も、もう一度セックスをした。今回は俺だけ泣いてた。2年前とはもう違う。
4年間近く目の前にぶら下がってた人参をいきなり盗られた気分で何をするにも気力がわかない。俺にはAが全てだった。
そして頑張った結果はJロックの知識とセックスしまくりが原因の不感症、そして無職(無職は自分のせいでもあるけど)。
今まで相談事は全部Aにしてきたから、Aのいない今、誰にも話せないので増田に書いた。
恋なんて不毛だ。
好きだった同期男が転職するけどどうしよう、という増田を前に書いた。
話を聞いてから1週間ほどずーっとテンション低い状態で、あまり食欲も沸かなかったんだけど
今日、共通の友人グループである同期女子とご飯を食べる機会があり、上記転職の話になった。
聞くと、その同期女子も(私が好きになる前から)同期男のことがずっと好きだった、という打ち明け話をされ
最近2人で遊ぶようになって、今度告ろうと思ってるんだけど…という話。
でもまあ、その同期女子が同期男のことを(期間でも質でも)私よりも好きらしいぞ、というのが分かり
私もその同期女子が友人として大好きなので、こちらは打ち明ける気にならず
「後は任せた!遠距離がんばれ!」みたいな気分になって
軽く憑き物が落ちて霧が薄くなった感じで、ご飯もなんとか食べられそうです。
経験年数は8年目くらい。
今の会社では人数も少ないから、中堅あたりになるのかな。
ずっと好きだったはずの仕事なんだけど、なぜだかこのところ全くといっていいほど、情熱を感じられなくなってしまった。
コード書く機会が減ったからかな、なんて最初は思ってたけど、よく考えてみればそんなのここ一年以上そんな感じだし、なんか違う気がする。
30代に入ったから?
今の会社に飽きてきたから?
それとも、本当にこの仕事に飽きてしまったから??
なんだろう。
半年くらい前の自分を思い出すと、もっと心の中に燃えるものがあった気がする。
一年くらい前の自分を思い出すと、更にもっともっと情熱に燃えてたように思う。
どうしてしまったんだろう。
何がなくなってしまったんだろう。
わからないけど、なんだかぽっかりと胸に穴が空いてる感じ。
でも他に何も出来る気がしないんだけど。
飯食いにいって、いい雰囲気になったら抱いてもいい。
気持は伝えるもんじゃなくて伝わるもん。
その上で雄を受け入れるかは、メスに決定権がある。
手前には無い。手前は無力。
抱けなかったら、手前にそれだけの魅力が無かったって事。
最悪なのが「こんな気持だった、ずっと好きだった、職場でもうんたらかんたら」とかいうの。
メスにとっては「そんなん知らんわ」って感じ。
「またかよ。めんどくせー」
まぁ「私は魅力的なのね。っていうことはもっと努力したら私の好きなイケメンとエッチできるかも。
この人はなんかきもいから無理だけど」とかは思うかもしれん。
んで友達には「いい人なんだけどね〜」という。