ReVancedじゃだめなん?
幻覚が楽しいという話ではなくて、この薬にまつわる自分語りになるので、読みたい人だけ好きに読んでほしい。
もう2年くらいずっと処方されているから、飲み始めた当時に幻覚があったかどうかは覚えてない。
でも、飲み慣れた今でも、服用から5分以後の記憶がほとんど残らないのは自覚してるから、話してる相手に「寝る薬を飲むから約束事とか大事な話はまた明日ね」って伝えて控えてもらってる。
寝るための薬なのだから、薬を服用する前に話を終えて布団に入るのが、相手にとっても自分にとっても最善なのはもちろんだよ。
それでも私が、記憶にないことを起こしてネットのフレンドが切れたりした。「深夜早朝に相談事をされるのが迷惑だという苦情を受けていました」って言われたことがある。だけどそもそも寝る時間が遅い&短いから、午前2時〜7時の寝ている4,5時間ちょっとの間に、私がなにかをしているらしい。記憶もログも通話履歴もない。記録が残って人から見たらヤバいものは、管理者が消していたのかもしれない。
本当に、ログに残らないことはわからない。それでもこれを飲まないと体を休められないのだから飲まない選択肢がない。数カ月ごとに薬は変えてるよ、慣れるからね。
対策方法は、薬を変えること以外にないと思う。だって、行動は記憶に残らないものだけど、その行動自体はわりといつも通りらしいんだよね。だから自信はないし試したこともないんだけど、起きて歩いていかないと届かない距離にスマホやPCを置いてから寝れば、トラブルは起きないかもしれないね。
こういう進化が何か一㍉も分かってないやつに限って「俺は詳しいんだ」とか思ってるよね
一夫多妻制の導入は左翼のイメージがあるが実は右翼こそ一夫多妻制を推進するべきなのである。江戸時代には大奥があったように日本は昔から一夫多妻が普通であった。天皇の世継ぎ問題を起こさせないためにも一夫多妻を導入することは理にかなっているのである。
先日ちょっと採石場に行ってきて、石を大きさで分類する機械を見てきた。
デカい石は砕く機械(ジョークラッシャー)で細かくし、また元のラインに戻して再度ふるいにかける。
それを言葉にしようとしたとき、あまり日本ではMECEに物をより分ける概念がないのかなと気づいた。
陽キャ向けが幅利かせてるのはその通りだけど「真夜中ぱんチ」とか「魔法少女にあこがれて」とか「不徳のギルド」みたいなもの好きしか見ないアニメも多少は残ってるから希望は持ってほしい
仕方ないので脱いで、たまたま持っていたコンビニのビニール袋に入れる。
こんな日に限ってスカート。長めだけど。
怖い。バレやしないだろうか。
やっぱりセブンティーンアイスを2つ連続で食べるべきじゃなかった。
電車に乗り、なんとか家に着く。
ショーツを手で洗って干す。
そう思った夏の夕暮れでした。
現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論や交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法は誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである。
注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである。
調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたことである。そして同じく白樺派の有島武郎や長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生・木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブな意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。
心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。
牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報の文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである。
もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブな用法も多かったようだ。
この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。
もとは『The Scarlet Empire』というタイトルのアメリカの小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。
私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ
こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。
真夏の暑い日に遠く法華宗のお題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。ものが煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。
「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。
議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写。結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか。
かるが故に自己の生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級の城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度を採用することは一に権力者に反抗する意志を学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護の有為なる人材を作ることになる。
この式場隆三郎も白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか。
勿論コチコチ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所を認識する感服癖さえある。
昭和10年 ギュスターヴ・フローベール『ジョルジュ・サンドへの書簡』
では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。
翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。
戦前は武者小路実篤を中心に、小説・詩歌・戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論や交渉が煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。
それに関してわかりやすいのは「国会会議録検索」で、戦前の「帝国議会会議録検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉の文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。
となると次に気になるのは「議論が煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブな文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。
しかし日本側は表面上は「朝鮮総連を相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤が相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから、問題は煮詰ってしまった。
やはり人間は災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのときの判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。
ハイ・スクールからジュニア・カレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジ・ライフで煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである。
ああいう自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。
「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まっちゃう」「煮詰まっちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」
昭和60年 毛利子来・岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』
「結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法は議論や交渉の文脈でしか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか。
ちなみに、この「行き詰まる」用法が誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰まる 誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。
といったところか。
「煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。
それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブなイメージを適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブなイメージを適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。
もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然な感覚である。当初から「煮詰まる」は多義的な比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。
結婚式当日のインスタは見たくなかった。
ストーリーがどんどん更新されて、本人も、同級生も、知り合いも泣いてたり喜んでたりした。
私だけがそれを小さい画面で見てるのが辛かった。
わかってる。私にも非がある。
そりゃそうだと言われてしまっても仕方なかったな。
でもやっぱり一方通行の気持ちだった、そんな関係性だったんだと認識させられて悲しくなった。
ごめんね。ばいばい。結婚おめでとう。
頭古代人過ぎて泣けてくる……。
基本的に現代においては「侵略はNG」というコンセンサスがある。
ただしイスラエルを筆頭に横紙破りしてる国もあるが、基本的には何かしらの大義名分を作って戦争をする。
国連憲章第51条によって定められ、事前に国連決議を必要としない集団的自衛権の発動
国連安保理決議678号(決議1441号が履行されなかったと主張)
※支持国のうちオランダ、イギリスは不適切な侵攻であったことを認めている
国連安保理決議1725号による進駐
※ただし積極的な戦争拡大について国連、EU、アラブ連盟が非難している
国連憲章第51条によって定められ、事前に国連決議を必要としない集団的自衛権の発動
当事国のジョージアでサーカシヴィリ大統領の不適切な命令が原因と決着済み
特に説明はないがアメリカ中央軍の1000人程度がシリア政府の承認を得ずシリアの一部地域を占領している
イスラエルのヨルダン川西岸および東エルサレムへの入植(2016年-)
※アメリカが拒否権を行使せず成立し、ネタニヤフ政権はこれを無視すると宣言
基本的に何かしらの建前があって事を起こすと、ある程度の国際的支持が得られることがわかる。
その建前を根本から破壊するのが専守防衛だったり非武装だったりする。
攻撃できない相手に「攻撃されたので、されそうなので攻撃します」とは言えないからだ。
とは言えダメな例の通りやるやつはやるので、そういう政策を取るかどうか自体に議論の余地があるのは認める。
認めた上で日本のように世界10位程度の軍事費を費やしながら専守防衛を盾にするというのは、結構有用な仕組みではある。
「自分は君に地元で飲める友達のような関係を求めていることに気付いた。遠出は別の人と行って欲しい」
と付き合って7年目の恋人からこのようなメッセージがきた。いや、恋人と表現するのが正しいのかどうかはわからない。
前提として、私たちはそれぞれ隣駅に住んでいる。自転車で5分くらいの距離。そして、「遠出」というのは5駅くらい離れた場所にある映画館やレストランを指す。
新幹線や飛行機に乗って遠くへ旅行へ行こうというわけではない。都内から都内へのわずかな移動である。
だからそれはつまり、私とは自分の生活圏内を出てまで一緒にどこかへ行きたいわけではない、ということである。
お互いに好き、というだけで恋人になる?手を繋いで、キスをして、セックスをしても好き同士でなければ恋人ではない?セフレ?
セックスもするし、食事だけして帰る時もあるし、デートもするし、旅行も行く。お互いの友達に会ったりもする。
好きではあるけれど、大好き!というわけではない。ましてや、愛してなどいない。
物理的にも精神的にも程よい距離感を保っている。これは何ていう?
正直にいうと、男女の関係性に名前なんていらないと思っている。
理解されやすいから友達には「恋人」として紹介しているけれど、「好きです」という告白から始まった関係でもないし、なんなら普段からお互いに「好き」と言うことはほとんどない。
もともと知り合いで、なんとなく始まった関係。
誕生日やクリスマスなどのイベントは必要ないのでしない。相手が他の異性と遊んでいても気にしない。もちろん結婚したいわけでもない。
だから自分たちの関係を「恋人」と言い切るのには違和感がある。
でも、この名前のない関係の居心地がよく、わりと長く関係性が続いてきたし、これからもこのまま続くって思ってた。
その矢先に冒頭のメッセージである。地元以外では会わない?ずいぶんと行動範囲を制限されたもんだ。
なお、このメッセージに対して私はまだ明確な反応を示していない。自分の中でさまざまな感情が湧いては消えてを繰り返している。
それらの感情をこの場を借りて整理していきたい。
相手にとって自分は、家が近いことしか価値がないんだと感じた。
他の人とは遠くへでも遊びに行くのに、自分とは地元でしか会いたくないんだと。
少し離れた場所に美味しそうなお店を見つけても、一緒には行ってくれない。
どこかへ遊びに行きたいと思っても、付き合ってはくれない。
今までの行動はなんだったのか?7年間、遠くへもいろいろ遊びに行ったり楽しく笑いあったりしてたけど?
近くでしか会いたくない、というのならそれでもいい。
さみしい気持ちもある一方で、遠出をしたいというのは自分にとってもそれほど重要なことではない。
は?自分勝手なことばっか言ってんじゃねーよ!キモヲタのくせに!
すごい好きというわけでもないし、もちろん依存しているわけでもない。
そばにいてもいいし、いなくてもいい。来るなら拒まないし、去るなら追わない。
存在してくれるだけでありがたい。
書き出してみると、割とたくさんあるな。
ちなみにこれらの順番には特に意味はなく、それぞれの感情の割合も常に変化している。
「悲しみ」を一番最初に書いたからといって、一番強い気持ちというわけではない。涙も出てない。
さて、相手にはどんなふうに返事をしようか?