はてなキーワード: 連絡網とは
20年位前。
当時は緊急連絡網ってのがクラスごとにあって(今でもあるの?)、クラス全員の自宅の電話番号が書かれてるプリントが各家庭の電話機の横にあるのが普通だった。
ある日鍵っ子で留守番してるときに電話がかかってきて、○○の父ですが連絡網をなくしてしまって全員の電話番号を教えてもらえないかみたいなことを言われた。
知ってる名前をだされてその父親というオトナからの電話だということですぐに信用して、内心めんどくさいなーと思いながら、名前と電話番号を馬鹿丁寧に全員分教えてしまった。
そんでたしか数ヶ月か数年後だかにそういうのに気をつけてみたいなことを言われて、そのときにようやくあれはやっちゃいけないことだったんだってぞっとした。
それと同時に騙された自分がすごく情けなく恥ずかしくなった。
騙されたことを結局誰にも言えなかった。
今思い出しても本当にムカつく。
性的ないたずらしかり、子どもって本当に善悪とか常識が足りてないから、ちょっとした不審者情報に大騒ぎしてるのがこの世も末みたいに面白がって騒がれてるけど、実際用心しすぎるに越したことはないと思う。大まじめに。
30歳 174cm 痩せ型 高卒 地方在住 月給手取り23万。
クラブやバーなど大人の遊び場に行ったことがない。スタバも焼き肉も回らない寿司もファミレスもいったことない。回る寿司は一人でいってお持ち帰りだけならした。飲み会に行ったことがない。風俗も行ったことはない。童貞ではないが恋愛経験はなし。
飛行機に乗ったことがない。船は修学旅行以外で乗ったことがない。というより住んでいる土地から修学旅行以外ででたことがない。四国九州沖縄に行ったことがない。当然海外なんて行ったことがない。
英語はできない。
友達は一人も居ない。ネットでの長い付き合いのある人を友達と言うならネットでは3人位いることになる。
親にもハブられぎみで10年位会ってないし電話もこない。ちなみに親は中卒。
アニメは見ない。ネトゲは少しするけど所詮ネトゲもリアルと同じでぼっちなのでFF14みたいのは面倒でできない。ギャルゲーはやったことない。家庭用ゲーム機は子供の頃から一度も所持したことがない。カラオケ行ったことがない。ろくに歌ったことがないので多分音痴。お年玉を貰ったことがない。将棋、囲碁、麻雀、トランプの各種ゲーム、UNOのルール知らない。ポケモンやったことない。スマフォもったことないから当然LINEなどしらない。スカイプやったことない。
もう一度言う、友達は一人も居ない。
なのにTwitterでは何故か有名なアプリの開発者や最新のネトゲ渡り歩いてるヘビーゲーマーや音楽作ってる人や絵のうまい人にフォローされてツイートに感心されることがある。自分とは対極の今風のきらびやかな世界にいる人達に何者なのか気になると言われたり。なぜかみんな騙されてるか騙されてるフリをしてる。進んで嘘をついてるわけではなく、言わなくていいことは言わないようにしてるだけ。不思議だ。空の上の人たちが自分の何に興味をしめすっていうんだ。
自分が何言っても、現代の文化を知らない人が適当にそれっぽいこと言ってるだけなはずなのに、興味深々な反応をもらう。わけがわからない。俺に媚を売ってもなにも得るものは無いはずなのに。
ただ、不思議でならない。
もしかしてネットなんてみんなそんな架空のイメージをやりとりしてるだけなんだろうか。
でも何か作ったり行動している人のそれは、間違いなく本物なのに。そんな本物を持ってる人が中身のない自分に興味を持つというのが不思議でならない。
Twitterの検索で適当に何人かクリックしてみると、"この人をフォローしている自分のフォロワー" がぼこぼこでてくる。そっちのほうが、はてブが増えたことより驚きだった。知り合い7人たどると全世界がなんとか理論だったか。
こういうベクトルの話題に反応する人たちが自分のフォロワーと近いところにいるのは自然だろうし。Twitterでは必要以上を書いてないだけで、俺という一個人からでてしまう匂いはここでも同じものになってしまうのだと思う。
Twitterでは必要以上を語らないことに徹しているので、逆のことをやってみたくなった結果がこれだった。けど、それが及ぼした影響は俺から見える範囲では結局Twitterと変わらないんだな、俺から見える範囲そのものもさして変わらないのだな、ということを俯瞰して残念なような。
本当に伝えたかったことは、ネットは上辺だけだということじゃなくて、流行りの音楽聴いたりガジェット所持したりかっこいい遊びをしておしゃれをしてということは必須ではないのではないかということかもしれない。俺はずっとそういうことを必須だと思って現実では他の人との壁を厚く感じてた。それがネットではそっちがわの人間の興味あつめる結果になっている。みんな騙されてるフリをしている、という可能性を忘れればだが。
基本的には、ネットだけに特殊な人間関係効果があると自分は考えていない。ネットにも壁はある。事実、他のSNSというものを一度登録だけはしてみたが、全く使い物にならないままに放置された。現実や密なコミュニケーションを要求するSNSやネトゲでは、有限の時間と労力と気力を使ってコミュニケーションを取る以上、より中身のある面白い人物とつきあった方がメリットが大きいのだろう。同じ害にならない人物なら、一緒に過ごして何も得られない人よりも、得られる相手のほうがいいと多くの人が考えているように感じる。
Twitterという場所は少し違う。害にならない人物ならとりあえずかき集めておいて損はないという方向性をTwitterの設計は恐らく意識的に加速させてる。むしろその軽さがTwitterの他のSNSとの違いに思える。フォロー、アンフォローはいつでも気楽にできる。とりあえず見てみることにリスクがない。
そのような場では、何か一つ琴線にふれる部分が対象にあれば、(現実や密なコミュニケーションを要求するSNSやネトゲのように)他の色々が足りなくても対象が有限の時間と労力と気力を無駄に食いつくすということはないので、損にならないように相手を吟味する人が少ないのだと思う。これは現実でいうならお祭りとかボランティアの場とか、ネトゲでいうなら先に出したようにわーわーと大人数で協力する場に近い。いるだけでまあ害にはならないしちょっと得だよね、という。
この記事を読んで思い出した。
入会なんて聞いてない ―― 父親たちの語るPTA(前編)
http://synodos.jp/society/5096
子供が通っている学校のPTA保護者の部は、執行部といくつかの委員会から成り立っている。
各委員会には委員長と副委員長が各一名、その他は平委員という感じ。
通常の委員会に加えて年数回ある総会にも参加しなければならない。
当然これらの集まりは基本平日であり、まじめに全部参加していたら有給なんて吹っ飛ぶ。というかおそらく足りない。
保護者は通常、児童一人につき最低二回(場合に寄っては三回)、何かしらの役員をやらなくてはいけない。
免除はない。保護者本人が入院中か妊娠中の場合に限り、その年の役員は免除される。
八年の間に役員を五回か六回は引き受けなければならない計算になる。
しかし夫婦ともにここ数年で持病持ちとなってしまい、互いに休職や退職を何度か経験しているような状態。
正直無理ゲー。
だけどもやらないわけにはいかない。
一回目の役員はそれなりにこなして、二回目の役員を引き受けることになった。
委員会最初の集まりで委員長と副を決めるのだが、私はこの日仕事が休めなかったため欠席。
その夜、知らない番号から電話がかかってきて「あなたが委員長に決定しましたのでよろしくお願いします」と言われた。相手は執行部の役員だった。
ええええええええええ。
「家庭の事情で平日の役員会には参加できないので、申し訳ないのですが委員長は・・・」と断ると、電話の向こうからキレ気味の声が聞こえる。
「仕事しているのもご家庭の事情があるのも、皆さん子育てしていて大変なのは同じなので!!」
ごもっとも。
「・・・すみません、考えさせてください」と言いながら会話を終える。
大体なんで面識ない人が連絡網にも載せていない私の携帯番号知ってるんだよ、誰だよ勝手に番号教えたの。
翌日仕事を終えると、昨日とはまた別の、知らない番号で着信履歴が埋まっていた。
着信攻撃に恐怖しながら電話に出ると、副委員長になったという人からの挨拶だった。
後日、執行部役員さんに「やはり引き受けるのは難しいので辞退させてください」と連絡。
そしたら役員さん、こう仰る。
「それならば委員全員を集めて、ご自身の事情をすべてお話して、全員の賛同を得てください。それならば引き受けなくても結構です。」
家庭の事情を?
全員に?
そうなの?そこまでしなくちゃいけないの?
おまけにこっちは今休みも取れなくて、平日帰宅できるのが21時過ぎで、土日もどうなるか分からない状態で、招集なんてできないですよ。ああああああ。
会話の中で「役員っていうのは保護者としての義務なんですよ」「責任感がない」「保護者失格」って言われたときはさすがに後で泣いた。
みんな大変なのは分かってる。
独身時代にはボランティア活動や小学校の手伝いをしていたこともあるので、そういう活動自体が嫌というわけではない。
そこまで言わなくちゃいけないの?
役員できなくなった人は親を辞めなくちゃいけないの?
PTAを退会したら楽になるのかな、と思った。
でも退会するのにもエネルギーが必要なのかと思うとなかなか踏み出せない。
世の中の保護者は大変な状況下でもPTAの仕事をこなしてるんだよね。
役員できない自分が悪くて、ただ逃げてるだけなんじゃないかと考えてしまう。
はあ。
自分の住む部屋があって、その周りには他人が住んでいる。
それはとても当たり前のことで自分にとって無害な隣人もいれば有害な隣人もいる。
有害な人と言えども、接点がなければギリギリ自分の住んでいる場所を侵すようなことはあまりない。
接点があったらどうだろう?それも拒絶できない接点。
今私は社宅に住んでいる。住宅事情を考えると止むを得ないという理由で入ったが、
社宅というのは四六時中捨て置けない住民がそこかしこにいることになる。
放っておけばいいなんてもってのほか。同じ企業に勤める人がいるのだから
そこでの繋がりに腐敗がないように円滑な関係を維持しておきたい。
そうやって、最低限の気配りをしていたのだが
ここ1週間体調が悪く付き合い悪くしていたら、今日電話がかかってきて
嫌な剣幕でまくしたてられた。そして、引越ししてそれ程時間の経っていない私は
その人が誰なのかも分からない。更に、私はその人に対して特に悪いことは
していない。つながりが本当にない。なのにも関わらず社宅の連絡網を探ったのか
電話してきた。
「もう随分体調悪いですよね?まだ悪いんですか?」
と嫌味っぽく聞いてきたので、更にあれこれ言われるのも耐えられなかったので
あと少しで元気になるといった旨を伝えて電話は終わった。
喋りはすべてに渡って悪意に満ちていたが、伝えようとしていたことは
それほど悪いことではなかったので、私は「すいません」と「ありがとうございます」
を言うだけだった。
接点のある人ならばいい。
無い人間に、生活圏を脅かされるのは初めてでどうして良いか困っている。
こんな生活が続くなら一刻も早く出ていきたい。
というか平日であれば学欠くらいクラスの人が伝えてくれるので、してなくても大丈夫なくらいでした。
連絡すると、黒板の休みの人欄に名前が書かれるので、それ以上の連絡は不要でした。
思うに、それは元増田さんに連絡をくれた女の子の勝手な考えではないでしょうか?
二年生というと、ついこの間まで一年生だったと思うので、となると部活の規則に従うので精一杯、
もしくは個人的な考えで勝手に進めてしまう ということはよくあります。
ここの意見を印刷したりする前に、今一度よく仕組みを知っている人、例えば部長や顧問に尋ねて、
正規のものがあるならばそれを普及させ、決まってなかったり変だと思うならきちんとしたものを作ることに力を注ぐべきではないでしょうか。
また、顧問の先生が部員に伝え忘れる ということも十分ありえます。
例えそうでなかったとしても、先生伝いで欠席を聞くのでは「?」となる子もいるかもしれません。
言われた人数は確かにやりすぎですが、部員の誰か一人には伝える必要はあると思いますよ。
なのでまとめると
(担任は当然だとして)顧問の先生と部員一人に伝えれば済むように部活の連絡網を見直す
と良いんじゃないでしょうか。
そうさせる理由について考察してみました。
・名前の挙がった人たちは、部員の欠席という重要事項を誰からも教えてもらえないくらい嫌われている。
・名前の挙がった人たちは、部員本人の口から連絡を受けないと信じられないくらいに周りの人を信用していない。
・「連絡網」とか「伝言」という概念を理解できないくらいに知能が低い。
・直接連絡を受けないと疎外感を感じるくらいの寂しがり屋。
・とりあえずいっぱい連絡したら団結してる気がするというような短絡的思考。
・部員個人の体調より部活が大事だから、簡単に休めないように嫌がらせしてる。
こんなところでしょうか。
どっちも「嵐」として、人々は荒天対策した。
「風速17.2m以上の熱帯低気圧」
また風速上は該当しても、温帯低気圧は「単なる低気圧」とされた。
人々の意識の中でも、各種の制度上も、「台風対策」が組み込まれた。
その実力(?)に拘らず、「雑魚のような弱小温帯低気圧と同じジャンルにカテゴライズ」されてしまった。
なので、人々も、温帯低気圧起因の「嵐」に対して「警戒する行動習慣」が根付いていないし、
また行政や企業も、そのような場合の行動マニュアルをあまり持ち合わせていない。
台風が接近する場合は、いろいろ報道されるので、人々は警戒するが、
温帯低気圧の場合、いくら「爆弾低気圧」と俗称しても、朝のニュースがトップ扱いにしても、
人々はピンと来ない。
今朝、会社の女性に対して「爆弾低気圧の話題」を振ったところ、
3割程度の女性は「知らない」と回答した。
低気圧情報、と聞いても「ピンと来なかった」のであろう。
つまり、嵐をもたらす強力低気圧のうち、熱帯低気圧だけ「台風」と別名称で
カテゴライズして、一方の温帯低気圧をカテゴライズせずに「雑魚低気圧と同じ扱いにした」、
その弊害が出ている。
「爆弾低気圧には、別途呼称を用意しておくべきだ」と主張しているが、
スマートフォンの不気味な情報収集プログラムから、また個人情報の問題が再燃しそうだね。
個人情報→個人を特定できる情報の総体、プライバシー→個人の行動の詳細
名前は個人情報か?と言われればそれはNO、名前だけでは個人を特定できないので個人情報ではない。
大体、名前・生年月日・住所・性別等の4つが全て判明して個人情報として扱われるからね、最低限4つ位の情報がないと個人が特定できない。(住基カードの番号は例外)
だから学校の連絡網は個人情報の公開に当らないし、企業が公開する社員の個人情報はそもそも「企業情報」なので、むしろ要求されたら公開の義務がある。
不満だろ?でも法律ではそうなってるんだよ。更にプライバシーを守る法律なんて存在しないし。憲法にも規定が無い。
だからお前ら電話帳に住所と電話番号を載せろ、番号は連絡を取る為に存在してるんだろうが、他人に晒したくないなら電話を解約しろ。杞憂な情報漏洩に怯えるな。
情報を晒さないことが賢い選択ではない、お前の見えないところで全て晒されているんだから、晒される情報を監理する努力をしろ。
面倒くさいだろ?でもそんな社会が既に来てるんだよ。
当然、夢のなかの彼女はあの時のままだ。
僕は、彼女を好きになった覚えはない。好きな人は、別にいた。結果付き合わなかったけど。
最近の学生はお盛んらしいが、僕の通う中学は大して恋愛なんてなかった。付き合うと、すぐバレるからだ。ムラ、ではないが、一地方都市の恋愛事情なんてそんなもんだ。
箸が転んでもおかしいと言うように、そんな恋愛なんぞしなくとも、みな和気藹々としていて、しかし恥ずかしいモノは恥ずかしいとして、楽しかった。
思うに、人間が恋愛するにしても、生涯の伴侶()を求めるにしても、結局はこういう青春時代の延長線上にあるのではないか。言ってしまえば、憧憬。
話がそれた。
そう、夢のなかに彼女が出てきたんだ。後輩の。
僕と彼女は吹奏楽部の同じ楽器、同じパートを担当する関係だった。椅子も隣だ。
顧問が合奏中に話を脱線する度に向きあってニヤ付く程度には、すぐに打ち明けていたし、その程度のユルさを持った部活だった。当然コンクールでは大した成績が出るわけでもなく(といっても僕が最終学年のときは創部以来二番目にいい成績を収めたので、個人的にはハッピーエンドだ。終わってから、みんな笑顔だった。笑い泣き。)一般的な吹奏楽のイメージ―――文化系のなかの体育会系で、毎日夜遅くまで楽器を吹き鳴らして近所からクレームがくる―――なんていうところとは、違っていた。強かったのは、合唱部の方だ。こちらは、全国常連。気合の入り方が違う。文化祭の合唱コンクールでは、ひとりふたり増えたところで大した違いが出るわけでもないのに、合唱部の人数の多さが勝敗を決める、なんて技術教諭の担任が喧伝したものだ(もちろんそんなので勝敗は決まらなかったわけだ)
また話がそれた。
そう、彼女とはそういう間柄だ。
そういう間柄でしかなく、高校は親が転勤族で、僕が引っ越した都合もあって、それ以来連絡をとっていない。もう、彼女が名前を思い出すことはないだろう。事実、僕も、今朝その夢を見て目が覚めた後、名前が思い出せず、お別れ会でもらった色紙の名前を見て、彼女をはっきりと思い出した。彼女には、先輩からのメッセージをと、後輩に一通ずつ渡した手紙がある。彼女はそれを大事にとってあるだろうか?憶測の域をでないが、彼女なら、とっていてくれるはずだ。ちなみに、僕が中学生の頃は携帯電話というイロモノは高価過ぎてまだ学生が持つには早かった時期だ。とはいえ、じゃあポケベルかというと、それは遅すぎる。過渡期だった。ゆえに、中学時代の同窓とは今もほとんど連絡手段がない。連絡網はまだ家にあるが、繋がる期待よりも、「オメー誰だよ」というような至極もっともな反応が帰って来るだろう期待のほうが高い。すべきではない。ラグビー部の男の子が何年ぶりに電話をかけてお付き合いが始まるなどというのは、幻想でしかないのだ。生存バイアスである。
せいぜい庶民に許された道は、母校の技術教諭と体育教諭が結婚してヒューヒュー言われる程度が関の山。あれから10年経つが、今も結婚生活は順風満帆なのだろうか。新婚さんいらっしゃいに出るからとか言ってたが、ついぞ見なかった。うそつきめ。
またも話がそれた。これは宿痾なので、許して欲しい。
そう、彼女とは連絡が取れないのだ。取りようもない。
しかし、そんな彼女と10年ぶりに再開した。夢の中で。意味が分からない。もとより意味などないのかもしれないが。
ちなみにこれだけの情報をありありと書いているとバレるかもしれないけど、バレても構わない。僕としては、彼女の名前が後輩といえど、10年経っていたにしても忘れていたということに軽くショックを受けており、彼女とのあれこれを書きだしておきたかったのだ。
夢の中身は、あまりに意味不明すぎて、書きだす気にもなれない。若干甘美なときもあった。しかしその甘美なとき、周囲は津波に飲み込まれたビルの屋上に位置するマクドナルドの禁煙席であり、周囲には避難してきた人でごった返しているのだから、わけがわからない。夢の中なれど、友人が何人も飲み込まれた。というか知り合いで助かったのは彼女だけだ。まったくもってわけがわからない。これを見せる僕の脳みそは何を欲しているのだろう。目覚めたとき、僕のペニスは固くなっていた。しかし、悦楽に浸るような気分にもなれず、固くなったまま引き出しを漁って彼女の記憶を取り戻し、今こうして文を書いている。もう萎れた。
ちなみに、この情報で僕が誰かというのを特定するには難しすぎると思いますが、もし誰かわかった場合、生存報告の一種として受け止めてくれれば幸いです。
3.11、僕は生き延びました。みなさんはどうですか。同窓会に誘われる手段も残していませんが、みなさんが生きているなら、十分な果報です。
TwitterのTL上では、@masasonさんなどが、教科書の電子化について議論していますが、もうひとつ見落とせないもの。
S県のとあるブロックにおける、年齢構成をみると、50代以上の教員が全体の40パーセントを占めています。(おそらく全県でも同じだとは思います)
逆に言うと、10年後の学校は、経験が10年以下の若造が40パーセントを超えると言うことです。
経験豊かな教員がどんどん減り、実践もまだ浅く、まだまだ一人前とは言えないかも知れない教員がどんどん増えてきます。
おそらく教員の不祥事の件数もうなぎ登りになるでしょう。若い人しかいなくなるんですから。
ちょっと怖いです。校長と教頭以外の教員が保護者よりも年下ということもあり得るかも知れません。
しかしながら、次のようなメリットも考えられます。
・柔軟な考え(というかまだ自分のスタイルを確立してない)を持っているので、情報化などの波を起こすなら今。
@masasonさんが提唱する、教科書の電子化について、今の現場に持ち込むのは絶対に無理です。
自分のスタイルを確立した教員は、そのスタイルを変えることを嫌います。
教員の職務は経験勝負である部分が多いので、わざわざ経験値をゼロにすることはしません。
やるなら文科省が「紙は禁止ね。これから全部iPadにするから。」とか言わない限り無理です。
教科書だけの問題で、教科書の電子化を考えると絶対に失敗します。
今話題の電子黒板、あれ、若い人たちとか、ICTに明るい人は使いますよ。それこそガンガン。
逆に、定年間近な方はほとんど使いません。ビデオ見るときに使うとか、大きいテレビ代わりとしてしか使いません。
しかしながら、若い人たちの間では、電子黒板を用いた授業スタイルを確立させようとしている人もいるでしょう。
私立の学校では、前と側面、計3面にスクリーンを展開して授業を行うクラスだってあります。
そして、今の小学生にとっては、教科書よりもプロジェクタで大きく映し出された情報の方が好きです。
電子黒板に教科書を実物投影機で映した方が、教科書を広げさせるよりも子どもたちの食いつきは良いです。
しかし、電子教科書が有効なら、とっくに塾で採用されているはずなんですよね。
あそこって、無駄を思いっきり省いて、勉強だけする場じゃないですか。
そこになんらかの理由があるのではないでしょうか。
そこら辺を解明していかないと、何でも図鑑のデータ版としての電子教科書以外の価値が見いだされないのではないでしょうか。
戻します。
教員は若いやつしかいません。
なんかいろいろデジタル化してるかも知れません。(とりあえずiPadとDSでたとえます)
子どもたちも、紙なんか見ません。紙を使うのは図工で印刷するときだけかも知れません。
連絡網なんてありません。一括送信です。
iPadは母艦として学校に置き、DSみたいな小型のものを子どもたちが持ち歩くことになるとしましょう。
宿題はDSに先生が無線で配布して、家のパソコンに展開して行い、自動で丸付けと提出状況がチェックされます。
もちろん親はケータイで提出状況をチェック、家での指導に役立てます。
漢字練習は努力しないとだめなのでノートを未だに使っているかも。
そんな教育現場になっているかもしれません。
いったい学校では何を学ぶのでしょうか。
今年入社の新入社員です。金曜の夜は先輩につれられ飲み会へと行きます。最初の頃は楽しかったのだけどこれが数ヶ月ずっと続いてもう嫌になってきた。一件行けば5000円ぐらい吹っ飛んでいってあっという間にお金がなくなる。キャバクラというかスナックというかそんなものにも必ず行くのでまたお金がかかる。女性がそれほど好きじゃないのでそれも苦痛でしかない。よくわかんないフィリピン人があまりしゃべらない自分を心配してくれた。こういうところで一番嫌なのはただグダグダ話しているだけなのに1時間で何千円とか取られてしまう事だ。こういうのを途中で帰ると後で散々言われるので黙って我慢しているのだけどこれが何の為になるのだろうか。そんで帰る時間は午前4時。次の日は半日寝てしまう。お酒は断固拒否して飲まないようにしているけどそれでも頭が痛くなる。スーツは香水くさくなり車の中も帰り送った先輩の酒臭さが残っている。やだやだ。こんなことしたくて会社に入ったわけじゃないのに。こういう一連の出来事を毎週先輩が部長に報告している。部長はそれを評価しているそうだけど。しっかし考え方の古い上司だ。そんなことで人を判断してどうする。でも今週の金曜日は飲み会をしている時に学生時代の友達から電話が来た。すごくうれしかった。途中で飲み会を抜け出してしばらく話していた。お互い頑張ろうってことになった。今度また会うつもり。会社の付き合いは所詮会社の付き合いでしかなくてそれはお互いにわかっている。電話番号は連絡網の関係で知ってるがアドレスは知らん。誰も本音は語らないけどお互い嫌ってんだろうなあ。なんて思ったりすると会社に入るってのはこういうことなのかと納得できそうな気がする。
Explorer | Science of Babies | National Geographic Channel
http://channel.nationalgeographic.com/series/explorer/3090/Overview
ヒトは他の動物と比べて、遥かに無防備で無力な状態で産まれてくる。それにも関わらず、そこから最初の一歩を踏み出すまでに、赤ちゃんは劇的な成長を遂げる。産まれる瞬間から二本足で立って歩き出すまでの約一年間、赤ちゃんに起きる様々な変化を、発達の経過に沿って検証した番組。
ヒトは一生の間におよそ6億回(一分間に10回として、一日で1440回。100歳まで約36,000日として計算した物と推測)の呼吸をする。その中で最も重要で、しかし最も危険な、初めての呼吸。母親のお腹の中に居たときには母体から酸素が供給されていたけれども、一度産まれてしまったら、そこから先は自分で酸素を供給しなければならない。ほんの数分酸素が断たれただけでも、ヒトの身体は回復不能な障害を受ける。産まれた瞬間の赤ちゃんの肺は、羊水で満たされ溺れている状態。だから、産まれて初めての呼吸は、通常の呼吸の10倍から15倍の労力が必要となる。肺胞の隅々まで空気をみたしてやらなければならないのだ。この最初の呼吸によって、肺の中の水は血流に吸収されていく。
産まれるまでは母親の体温で暖められていた身体も、自分のカロリーを消費して体温を保つように切り替えなければならない。その体制が整うまでの期間、充分に体が熱を作れるように、新生児は熱に変換しやすい褐色脂肪を豊富に蓄えて産まれてくる。冬眠中の熊のように。
赤ちゃんが、今現在の成熟度と大きさで生まれてくるようになったのは、今から約800万年ほど前。他の動物と比べると、ヒトの新生児の頭は(身体との対比で相対的に)大きい。赤ちゃんが産まれてくるタイミングは、母親の骨盤の広さと新生児の頭部の成長との兼ね合いで、ぎりぎりくぐりぬけられる大きさになったときである。真っ直ぐには出て来れず、一度頭を90度回転して骨盤をくぐり、さらにまた90度回転して出口の骨を避けるようにして生まれてくる。
ヒトの赤ちゃんはとても無防備な、無力な状態で産まれてくる。他の動物、例えばサルと比べても、自立するまでに長い時間がかかる。ヒトに最も近縁のチンパンジーでも六ヶ月くらいで歩き始めている。そのようにかなり未熟な状態で産まれてくるにも関わらず、ヒトの新生児も生まれながらにある種の動物的な本能を備えている。それは生存の為に重要な反射運動であり、またある種、進化を裏付けるような原始的な反応でもある。
まだ歩くこともできない生まれたての新生児は、抱き上げて支えながらかかとを地面につけてやると、両足を交互に繰り出し、まるで歩き方を知っているような反応を示す。でも、その反射は六週間後には消えてしまっている。ところが、不思議なことに、水の中ではその反応が蘇り、そうして反応を誘導してやると、それ以降は消えることがなくなる(番組では、透明な浴槽の中に赤ちゃんを抱きかかえて下半身をつけてやっていた)。
他によく知られている生まれながらの反射運動には、次のような反応がある。
これらは、どれも動物の生存本能に共通する原始的な反応といえる。
赤ちゃんの考えていることを知るのは難しい。しかし、赤ちゃんの認知力の一端を覗く、いくつかの方法がある。ある研究者は、赤ちゃんが何か違和感を覚えた時に、対象物を凝視する時間が長くなるという現象に目をつけた。この時間を計測することで、赤ちゃんが何に気付き何を認識しているのかを探ることができる。その研究者は、新生児が数を認識する(簡単な足し算引き算の)能力を持っていると考えている。行われた実験はこうだ。まず、一つだけ置かれている人形を赤ちゃんに見せる。そこをついたてで隠して人形を見えなくしてから、そのついたての裏にもう一体の人形が入っていく様子を見せる。そして、見えない位置からこっそりその人形を取り去った後で、ついたてをおろす。赤ちゃんから見れば、そこには二つ人形があるはずなのに、一つしか無いという状況。そのような矛盾がある場合、なにもトリックを使わない場合と比べて、人形を凝視する時間が長くなる。二つの人形を見せて、そのうちの一体がついたての後ろから出て行くところをみせたのに、ついたてをよけてみると人形が二体に残っているという引き算の矛盾にも、その反応が観察されることから、赤ちゃんは生まれながらに数の認識を持っているに違いないという話。
まだ自分で動くことのできない赤ちゃんにとって、飛び込んでくる外界の刺激はもっぱら光と音ということになる。聴覚は視覚よりも先に発達していて、お腹の中に居ても母親の声を聞き分けられるけれど、視覚は産まれてから外部の刺激を受けながら、徐々に発達していくもので、この段階ではまだぼんやりと対象物を捉えているにすぎない。
とはいえ、母体の中と比べて外界は刺激に溢れている。流れ込んでくる大量の情報を処理していく体勢を整えていく必要がある。ヒトの体には、約10億の脳細胞、神経細胞、ニューロンと呼ばれる情報処理に携わる細胞が存在する。これらが、外部から飛び込んでくる刺激を情報として捉え、ネットワークを構築していく。一つ一つのニューロンは、個別の電話機のようなもの。細胞間の情報は、シナプスと呼ばれるリンクを介してやりとりされる。最初は外界のあらゆる刺激がネットワークをフルに刺激していて、あちこちの電話機が絶え間なくなり続けているような混線状態。その中から、必要な連絡網だけが残るように、ニューロン同士が互いにリンクし合う相手を求めて競合している。この過程を可視化して映像に捉えた研究が紹介された。最初は筋繊維に複数のニューロンが繋がっているが、黄色と青色、色違いで染められた二つのニューロンがある筋繊維に連結しようとしている。最初はどちらも繋がっているように見えるが、この二つのニューロンは互いに競合し合って、最終的に一方の色に染められたニューロンだけが残るまでの過程が観察される。ニューロンネットワークが形成される様子が見て取れる。
未完成ながらも、ニューロンネットワークが成熟するに伴って、運動神経がやや発達してくる。頭を持ち上げたり、寝返りを打ったり、ものを掴んだりすることができるようになる。
野生の動物や鳥、昆虫などは、生まれながらに餌の捕まえ方や身の守り方を知っている。数を数えることさえ生得の本能だ。それが発揮できず、他者のケアが無ければ生きられない、ヒトの新生児は非常に未熟な状態と言える。そのような状態で産まれてくることは不利なことなのか、いやそうではない。生まれついての本能はそれ以上発展することがない。しかし、未完成な状態で産まれてくるヒトは、環境や経験から、より高次元の習性を構築することができる。これが学習する能力の特徴である。
学習して能力を獲得するのには適切な時期があり、その時期にきちんとした情報の入力とニューロンへの連結が行われないと、その能力は形成されない。使われない機能は失われていく。三ヶ月くらいの新生児は、各国の言語で微妙に異なるトーンを聞き分ける能力を持っているが、その後六ヶ月を過ぎてしまうと、一番身近な言語の発音を聞き取る能力だけが大きく発達していく(マルチリンガルに育てるためには、六ヶ月までにいろいろな言語を聞かせておけという理論の根拠はここにあるようだ)。
需要のない能力が失われていく話題に関連して。三ヶ月あたりで、目のレンズと視神経との連絡が完成する。この時期に、適度な情報が目を通して与えられることで視神経を構築する。ある赤ちゃんが片方の目のレンズに問題があることがわかった。このままだとその眼球からの情報入力がないために、ニューロンの連結に不備が生じてしまうということで、レンズの機能回復手術を行った。手術そのものは一時間ほどで無事に終わったが、その後の検査で、もう一方の健常な側の目に眼帯をした、なぜか。回復させた眼球を強制的に機能させ、視神経を発達させるため。
運動機能はさらに発達して、座ることができるようになる。つかまり立ちや、立ち上がるまでには至らなくても、ハイハイをして動き回れるようになり、行動範囲が広がる。ハイハイのスタイルには個性がでる。これは新生児それぞれの運動機能の発達状況は環境に依存するもので、成長に関してあまり重要ではない。この時期に最も重要な発達は、学習したことの再構築ができる柔軟性を得ること。自分から動き回れるようになって、取り巻く環境が劇的に変化する。外界からの刺激もさらに複雑なものになる。遭遇する危険も増える。座れるということは、バランスを崩して転ぶことができるということ。自分で動けるということは、溝に落ちたり、何かにぶつかったりできるということ。それなのに赤ちゃんには、届く/届かない、バランスが崩れる/保てるといった認識がまだ無いので、無鉄砲で失敗を繰り返すことになる。目標物以外に注意を払うことや、体バランスの取り方など、失敗の経験から、環境に適応していく脳の柔軟さが求められる。この時期の赤ちゃんの運動機能の発達を研究している様子の映像。何かを見つけてそれを取りにいくという動機で動き回るようになる。その間に溝などの障害があっても殆ど認知されていないで突き進む赤ちゃん。その過程で失敗を繰り返し、危険を回避するという学習の過程が認められる。
ニューロンネットワーク発達中の情報処理の取捨選択の別の例として、顔や表情の認識がある。ヒトやサルの顔写真を見せ、新生児の脳波の変化を測定することで、どのような違いを認識しているかを観察した。二ヶ月くらいまでは、人の顔のパーツの配置が乱れていても識別できない、三ヶ月くらいで、顔を顔として認識するようになる。この段階では、サルの顔写真一つ一つの個体の違いを区別している。しかし、六ヶ月くらいになると、サルの個体を区別しなくなっている。必要の無い情報処理の能力が失われている。代わりに、ヒトの表情の違い(喜怒哀楽)に敏感に反応するようになっている。
この時期の発達過程は、自閉症と関連づけて注目される。孤児をケアする施設で研究されている内容。一般的な家庭環境と比べて、この時期に人の表情に接する機会が少ないと、表情を識別する能力の発達に影響が出る。他者の感情を表情から読み取ることが難しいという自閉症の特徴に関わっているかもしれない。
運動機能の成熟、ニューロンネットワークの成熟、言語の獲得とそれに伴って起きる変化。
言語の獲得には多大なリソースを割くので、使われない能力はより顕著に消失していく。生後十二ヶ月で約40個の言葉を認識し、さらにその一ヶ月後には100個まで増えている。
ある新生児の言語獲得の記録。全ての部屋にマイクと天井から見下ろす魚眼カメラを設置して、起きている間の赤ちゃんの行動と言葉を発していくまでの過程を観察した映像。馴染みのあるモノや身近な者を通して、言葉やフレーズと対象物やイベントとをリンクさせようとする。新生児がある対象物を認識してBa、 buh、Dahといった発声をするようになる。それに対して親がDad、Ballなど、はっきりとした言葉でリピートしたり、Blue ballという形で発展させたり、あるいは動作や行動と組み合わせてフレーズで返したりする。フィジカルなイベントとソーシャルなイベントの関連づけが、言葉を学習していくプロセスである。
新生児が言葉を学習する過程を分析して、学習するロボットの開発に取り組む人たちの紹介。ロボットに「赤色」の「ボール」を取ってと指示するがロボットには対応できない。絶えず変化する状況にも対応できる学習する能力の柔軟性をいかに獲得させるかが鍵。
運動機能だけでなく、骨格も充分に発達して、肩幅も広がり、足も伸びて、筋力もついてくる時期。ここに至って、頭を持ち上げての二足歩行、つまり歩き始める準備が整う。
四本足で歩く動物はその移動の為にカロリー(消費カロリー全体の?/摂取カロリーの?)の約50%を消費する。その観点でみると、二足歩行は移動に関して非常にエネルギー効率が良い。さらに、両手をフリーにすること、より大きな容量の脳を支えることができるという利点もある。このような点に二足歩行の意味がある。
赤ちゃんすげえ。という完全に私的な興奮から、自分が理解した内容の備忘録としてここを利用させていただきました。理解のあやふやな箇所がたくさんあるので、誤った記述が含まれている可能性はかなり高いです。特に言語獲得のプロセスに関する部分は未消化だという自覚があります。何ヶ月〜何ヶ月というのは、整理のための大凡の目安として個人的に捕捉したもので、これを一般化して赤ちゃんの成長を評価するものではないです。水中で歩行する話だとか、数を数えられるよという映像は、ちょっと観察手法の正当性に注意が必要な気がしました。赤ちゃんのリアクションが周囲の観察者の期待に影響を受けていたりはしないだろうかと(昔、計算が出来る馬の話のトリックについて聞いたことがあるので)。
ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP 赤ちゃんの不思議
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/shop/detail.php?id=219
4:「主張すると逆効果になるかもしれない意見」について(勘違いしやすい、危険な言説)
「児童買春児童ポルノ処罰法」は、典型的な「総論賛成・各論反対」の法律です。その為、只反対すれば良いわけではなく「主張すると逆効果になるかもしれない意見(危険な言説)」があります。
以下に挙げる意見は、典型的な「逆効果となるかもしれない」意見なので、意見の送付の際にはくれぐれもお気をつけ下さい。
(中略)
この主張は、ポルノ読者が「絵の規制をしただけで児童に襲い掛かる」といった誤った印象を持たれかねません。また、「犯罪とマンガの直接的な関連性は薄い」と規制反対派が言っている主張と矛盾してしまいます。従って「ポルノには性犯罪抑止効果がある」という主張は原則的にしない方が良いでしょう。
「ポルノには性犯罪抑止効果がある」という主張は、「ポルノが性犯罪を助長する」と、規制推進側が議論上で言ってきた時にのみ「逆に、ポルノが性犯罪を抑止している可能性も考えられます。どちらにせよ明確な答えはありませんから、ポルノが性犯罪を助長するとは一概には言えません」といった文脈で、カウンター的に主張するに留めるのが良いでしょう。
http://www.picnic.to/~ami/teian/teian_3.htm
つまり、規制反対を唱える上で「○○を規制すれば性犯罪が増えるという主張」は逆効果だということです。
「○○は性犯罪を助長する」というのが証明されていない、あるいは恣意的なデータによるものであるのと同様に
「○○は性犯罪を抑止する」という主張も証明されているわけではないので、みだりに主張するのは危険です。
規制反対派が誤解していそうな言説には、他にも「マンガやゲームを規制するなら小説、ドラマを規制すべき」というのも
あります。反対派同士で揶揄する意味で言うならまだしも、本気で規制反対派の主張として言うのであれば、
相手は「じゃあ、小説やドラマも規制しましょう」ということになりかねないのではないでしょうか?
規制反対の声を広めるにあたって、不用意な言説には十分気をつけざるを得ないと思います。