はてなキーワード: 憂鬱とは
毎日何となく憂鬱で、眠りも浅いし寝つきも悪くて、ぼんやり死のうかなと思うことも多い
病院にかかったところで劇的に何かが変わるわけでもなかったし、薬はどんどん増えるだけで金銭的にも厳しくなるだけだった
カウンセリングも知らない人と喋るのが苦痛すぎて、特に何を聞かれるわけでもない無言の時間が苦痛すぎてむしろそれがストレスだった
仕事がストレスなら仕事辞めたら?と言われても、辞めてその後どうやって生活するんだろう、死ねってことかなとしか思わないし
安楽死したいなぁ
生きてても別に楽しくないし
30年生きてもその先を生き続けたいと思うようなものが無かったら楽に死んでいいことにしてほしいなぁ
電車に飛び込んでも部屋で死んでも損害賠償で、失踪したら捜索費用がかかって、じゃあもうどこで死んだらいいんだよって感じする
ホテルで働いてるけど、先日泊まりに来たアラブ人客に身がすり減った。(どの国の人だからどうと言いたい訳ではない)
向こうの希望もあり、こちらの好意で部屋をアップグレードしたにも関わらず、「部屋がうるさい、小さい、エグゼクティブフロアに移動させてくれ、怒ってるマネージャーだせ」
フロントに来て、紙に何かを荒々しく書き出すがボールペンが紙をはみ出していて、白いデスクにペン跡が何本も。
説明した朝食の時間に自分が遅れてきて食べれなくて怒り、代わりに昼食を食べれるように手配するが、まずいありえないと怒り。
通常11時のチェックアウトだが、レイトアウトを希望した為12時に無料延長許すも、13時まで無料で滞在させて欲しいとしつこく迫り、了承。
チェックアウト時に文句を言ってきて、終いには有名口コミサイトに書くから、と言い去っていった。
ここは1泊1〜1万5千くらいのビジネスホテルだよ。
この人にたいして、この理不尽さに対してホテルの方針として「申し訳ございませんでした。」って返信しなければいけないと思うと、まだ口コミ投稿されていないけど憂鬱である。
元からあってないような気力で来たものの、俺と弟は少し憂鬱になっていた。
とはいえ、うっすら分かっていたことだし、大して気落ちはしない。
それに、ここに来た理由はもう一つある。
なんなら、こっちがメインといってもいい。
そう、あの駄菓子屋だ。
「あ、マスダも来たんだ」
「もう来ないかと思ったぞ」
「ワイは来ると思っとったで」
「カン先輩も来てたんですか」
「引越し手伝いの“ついで”や」
なんとなく察しがついた。
今の俺たちにとって、この駄菓子屋は“わざわざ”行かなければ辿り着けない場所だ。
かといって、わざわざ行くようなものでもない。
かくいう俺たちもそうだったから分かる。
「ふん、どっちが“ついで”なんだか」
「お互い様やろウサク。それに、自分らも“これ”が気がかりで来たクチやんか」
しかも普通のタコせんではなく、タコ焼きの入った「真・タコせん」だ。
どうやら、みんな考えることは同じらしい。
早速、俺たちも頼むことにした。
オバチャンが慣れた手つきでせんべいを取り出し、ソースを塗りたくっていく。
ガキの頃に見た光景と同じだ。
違うのは、その過程にタコ焼きを乗せ、もう一枚のせんべいで挟み込むという工程が入っていること。
「ほい、200円。こぼさないよう気をつけな」
弟は小躍りしながら真・タコせんを受け取った。
欲しくても手が出せなかったが、今じゃその安さに驚くほどだ。
世の中はモノの値段が全体的に上がっていると聞くが、それでもなお安いと感じる。
「これが真のタコせんかあ」
俺も食べ物を前に、ここ数年で最も気持ちが高揚していた気がする。
「いただきます」なんて省略だ。
俺たちはすぐさまタコせんを頬張った。
「……うん」
「まあ、美味い……」
しかし、俺たちの憧れは儚かった。
美味いのは間違いない。
少なくとも不味くないのは確かだ。
問題は味のクドさであり、半分も食べたあたりになると少し飽きてくる。
あと、サンドしているにも関わらず、思っていたより食べにくい。
せんべいが割れないようにしつつ、揚げ玉などがこぼれないよう食べるのに気を使う。
それに、タコ焼きを抜きにしても気になることはもう一つあった。
「あー、それワイも思た」
どうやらカン先輩たちも同じことを感じていたらしい。
なんだか以前と味が変わっている。
せんべいなのか、ソースなのか、マヨネーズなのか、揚げ玉なのかは分からないが、とにかく何かが違う気がしたんだ。
「ずっと同じだよ。せんべいもトッピングも全部市販のやつだし、ここ数年で味を変えたって話も聞かない」
「本当に? 実はこっそり変えたとかじゃなく?」
「仮にちょっと変わったとして、それが分かるほどアンタらの舌は繊細なのかい。ましてや久々に来たくせに」
つまり、俺たちの記憶違いか、味覚が変わったってことなのだろう。
昔の記憶にすがるほどの思い入れはないが、そのギャップ差に軽くショックを受けた。
「ま、ちっちゃいの頃の憧れなんて、そんなモンなんやろうな」
あの、当たりつきの奴だ。
「カン先輩、それって……」
「知っとるか、マスダ。駄菓子の当たる確率は、全て数パーセント以内と決まっとるらしい」
「はあ、そうなんですか」
「つまり週一でこの菓子を数個買ったとしても、当たりにはまず巡りあえないわけや。巡りあえたとして、その程度の確率では総合的なコスパはイマイチ。あの頃のワイは、この菓子にまんまと踊らされてたっちゅうこっちゃ」
こちらの言いたいことを知ってか知らずか、カン先輩は流暢に語りだす。
まさか、わざわざ調べたのだろうか。
それほどまでに当たらなかったの根に持っていたのか。
「そこまで分かっているのに、また買うんですね」
「言いたいのはな、こういうのは当たるとかハズレるとか前提で買うもんちゃうってことや……ちっ」
そう達観したようなこと言いながら、先輩は微かに舌を鳴らした。
どうやらハズレだったらしい。
「『無欲になれば当たりやすくなる』って本に書いとったのに」
「それ、ロクな本じゃないですよ」
『ハテナ学童』と書かれたトタンの看板が、今まさに取り外されようとしている。
あの駄菓子屋も、そう遠くないうちにこうなるのだろうか。
「“終わりの始まり”……か」
ウサクが言うには、学童での決まりも近年で色々と変わったらしい。
「正直、こうやって看板が降ろされるのを見ても、なんだかあまり感慨深くないんだ。上手く言えないけど」
タイナイはそう呟く。
答えこそしないが、俺も同じだ。
この時の気持ちをありきたりな是非で語るのは陳腐で的外れに思えた。
酷い思い出があったってわけでも、良い思い出がなかったってわけでもない。
宙ぶらりんのような状態だ。
ちゅーぶらりん……チュー……。
「そういえばタイナイ、せっかく来たのにあれは食わないのか。『チューチュー』とかいうの」
「ああ、あれね……僕がいつも食べてたメーカーのは、もうないらしいんだ」
「そうなのか、それは……残念だな」
「似たような商品はあるし、それほど残念でもないよ。売ってないのを知った時も“あ~、そうなんだあ”って感じだったし」
ハテナ学童がなくなるのと同じで、案外そういうものなのかもしれない。
結局のところ俺たちができるのは、漫然と“そういうものがあった”って覚えておく位だ。
弟はというと、ボロボロに崩れたタコせんをどう食べるかで未だ苦戦していた。
『クロスチャンネル』という18禁ゲームで、自分の時間が止まっている。
正確には、止めている。
自分は、このゲームの中で、支倉曜子というキャラが好きなんだけど、
一度もクリアーしていない。
ニコニコ動画などで、何となく、クリアのあたりはみたけど、完全にはプレイしない。
自己完結した人間というのにあこがれるし、その人の目的が果たせない人間の限界性が心にグッときたのだと思う。
僕がこのゲームを知ったのは、多分2008年くらいだろうか。
僕は、18歳だったか。
このゲームを知った時、何度も泣いてしまった。この世にこんなすごいものがあるんかと。
このような感動を求めて、あらゆる文学、哲学、絵画、数学、科学、医学、物理に手を出した。普通にある程度極めたと思う。どれも一応、世界最先端の話を理解できるくらいにはなっている。
でも、違うんだ。どこにも無かった。
あの時の憂鬱を解決できるような何かは発見できなかった。今も、その時の気持ちを思い出すと憂鬱だし、叫びたくなる。
思い出補正だろうか。
それとも、自分の人格というのが、この世に受け入れ先を探せるほどではなかったのか。
いや。あったにはあったんだけど、そこで示された解答が、世界とは外れたものばかりで。
僕は、まだずーっと探しているのかもしれない。
だが、無さそうだ。世界にはあるかもしれないが、僕という人格に当てはまる答えは作れないのかもしれない。鳥が深海に住めないように。
答えが見つけられないまま、10年以上も経過してしまった。
死ぬまで無いことも十分あるだろうなあと思う。
○朝食:なし
○昼食:覚えてない
○夕食:松屋のなんか
○調子
結局なんか、俺は奴隷なのか? と鬱々してる。
今までの前向きな感じの遅くまで仕事じゃなくて、すごく後ろ向きでかなり憂鬱で、マジでシンドい。
辛い。
どうしよ。
辛い、マジで辛い、シンドい。
久々に自傷行為したくなる。(ODと頭を叩きつけるやつ、この日記を書き始めた頃はよくしてた)
仕事も順調になってきたと思った直後にこれで、本当に嫌だ。
生きとる意味ないやん、つら。
○ゲーム
なんか遊べたら遊ぶ。
硫化水素で死ねば現場検証に、洗浄、資産価値の定価、ともすればガスで他者を害するかもしれない
電車が分かりやすいが、それ以外でも飛び込み・飛び降り系はだめだろう
睡眠薬か?
首吊りか?
そもそも、生よりも死の方が楽になってしまった人に、他者のことを考えろって、意味なくないか?
それができるなら死なねぇよ
仮に保険金のためだろうが贖罪のためだろうが、それはただの逃げだよ
中学の頃イジメにあって、ずっとクラスメイトを殺したいと思ってた
さてこの場合で、イジメをしてきた奴を殺して自殺してたら、世論はどうだったんだろうな
一人で死ねとか言うのかね
言わないとしたなら、無関係なやつを殺すなってことか?
繰り返しになるが、そんなの自暴自棄になった側にしたら、知ったことじゃないだろ
どういう理路で後出しジャンケンしたいんだか、いまいち分からんのだよな
どんな理由があろうが殺しは許されないとかご立派だが、一線を越えたやつには意味ねぇよ
これを書いた人間なんだけど
そういう憂鬱を片方の性別だけ抱えてないのを純粋にずるいと思う
このずるさを解消するには男が男を取り締まる責任感をもってほしいというか
面倒くさくても同性内で注意しあってちょうどいいと思うんだけど
なぜか男は「俺じゃない、性別でくくるな」派の人が多いように思う
自分が属している性別に偏っている迷惑行為について絶対に責任をとりたがらないし恥を感じない
それどころか憤慨してしまう
これがとても不思議だ
次見かけたら殺してやる、と痴漢に殺意を向けているのはいつも女だった
これ安ピン案件でも結局一緒だなって。
https://twitter.com/sorewaikaaaaaan/status/1132506203269898240
これが理想なんだよな。
SNSで相手をブロックすることなんて日常に溢れていて今更言及する必要もないが、自分自身の心の整理のために書く。
Aは自然と周囲に人が集まるタイプの人物で、サークルで部長を任されるくらいに人望が厚い。
Aは活動的な人間で、複数のサークルに所属していて(いわゆる『兼サー』)精力的に活動しているらしい。
大学に入学した当初、Aの面白そうなツイートを見て興味が湧いた私は彼女にフォローを飛ばして、その後Aからのフォローが返ってきた。このフォロー/リフォローの前後はあるいは逆だったかもしれない、正確なことは覚えていない。
フォローした当時はAとは一切面識がなく、Aのアカウントの中の人がAであったことはサークルに入ってしばらく経ってから知った。
サークルでのAと私の関係は至って普通で、大きな諍いが起こったこともなく日常的に会話もする、サークルの終わりに二人で食事に行ったこともあった。
私に対するAの態度は特別でもなければ嫌っていることもない普通のそれであった。
Aに不信感・嫌悪感を抱き始めた切っ掛けは、ごく小さな彼女の言動だった。
Aが危なっかしい手付きで作業していたので「ここをこうした方が良いんじゃない?」と親切心でアドバイスしたところ彼女は「人の揚げ足を取らないでよ」と返してきたのだ。
この時は相当衝撃を受けた。『揚げ足』という言葉は格上や同等の人間に対して使われることは少なく大抵は格下の人間に向けて使う言葉だからだ。(似たような言葉として”調子に乗るな”という言葉がある)
私は同学年のAと対等にありたかったし対等に見ていた。
しかし、この時「どうしてそのような言葉を使うのか、もしかして私はAから見下されているのではないか」という小さな猜疑心が内に芽生えた。
それ以降、Aと会話する度に彼女の言動一つ一つに違和感を覚えるようになった。
Aと議論しているときに彼女が当事者であるにも拘らず「どうどう」と茶化すように私のことをあやしてきたこと。
Aと話の流れで食事に行くことになった時、彼女はスマホを弄って一向にその場から動こうとしなかったこと。
約束を守らないこと等々。
私は自身が繊細で被害妄想の気があることを自覚しているので何度も猜疑心を打ち消したが、こうした出来事が積み重なって『Aは私を見下している』という結論に至った。
あるとき私がTwitterで「リアルの知り合いをブロック解除したらギスギスするよね」というツイートをした際、Aが空中リプライで「ブロックして相手が傷つくと思っている人って自己肯定感高すぎるでしょ」といったツイートをした。空中リプライではなかったかもしれないがタイミングから観て、私のことに言及しているのは決定的だった。
どうしてこの人は人に対して攻撃的で自分の物差しでしか人を見れないんだろうと思った。
確かに私は自己肯定感が低いフリをして自己肯定感が高い最悪な人間だ。が、それ以上にAにツイートを見られたくなかったから私はブロック解除がしたい。
とりあえず私はAのツイートから、彼女は彼女が見下している私ごときにブロックされても傷つかないしギスギスすることはないのだろう、と推測してブロック解除した。
ブロック解除した瞬間は解放感に似た爽快なものがあったが、これからのことを考えると憂鬱でもあった。
Aとの関係も表面上は今まで通り続いていくと思う。
ならし勤務(こちらでスケジューリングする)から会社プログラムのリハビリ出勤にそろそろ移行するかどうかみたいなあたり。
そのせいもあって夫がとてもナーバスになっている。
それは仕方ないことだし私が同じ立場でもそうだろうな、と思う。
怒ってるときに「こんな細かいことにイライラするなんて俺ってば」と本人が思っていることが態度に出る人なので、私が例えば謝ると「大丈夫、ごめん」と応えるけど、明らかに自分の中で消化しきれてないのも分かる。かといって謝ればいいわけでもないので黙って様子をみている。永遠ループである。
そして私は趣味に逃げる。
それは外出を伴うので、できれば休日には入れない(まあたまにいれる)。仕事帰りに入れる。事前に言えば「( ゚Д゚)ゞ リョーカイ!!」といった具合でちゃんときいてくれる。
たぶんイライラしたときには「ちょっと出かけすぎじゃね?」ということも思い出しているのかもしれないなーと思う。
逃げてるというか、ガス抜きをしてるというか。
楽しそうにしすぎてると羨ましく思ってしまうみたいだし、それは状況次第だからその気持ちも分かるし、かといって私が我慢して毎日定時に帰れば解決するわけでもなくて(何もない週だってもちろんあるし、10連休はほぼ家にいたし)。
どうしたらいいのか分からなくて、家に帰るのが憂鬱になってきた。
優男。どこかフニャフニャした響きのある単語である。諸君はこの「優男」と言える人に会ったことがあるだろうか。ある人は、その人のことを、ない人は、とりあえず「優男」像を適当に思い浮かべて欲しい。
優男。優しい男。特にマイナスな語意をはらんではいない単語だが、どこかウザったい。その理由を考察してみた。
仮定から言うと、(結論から言うと、と言いたいところだが結論と言うにはあまりにもお粗末だ)「優男」は女性目線の評価なのではないか。女性の言う「優しい」は換言すれば「話を聞いてくれる」「共感してくれる」、「寄り添ってくれる」である。自我を消し、自分語りを控え、女性にひたすら共感し続ける男が優男である。車がぶつかりそうになった時に自分が盾になって女性を守る「優しい男性」像は明治男子が恣意的に生み出した幻想である。
分かりやすい例がある。男性間の会話ではあまり聞かれないが女性は3秒に1回ペースで発している言葉があるだろう。
「へぇ〜、そうなんだ〜」
したがって、モテる男になりたければ、女性と議論してはいけない。ひたすら共感するのである。脳死で頷き続けるのである。
くだらない。
独身時代は憂鬱だった月曜日が、結婚してからは待ち遠しくなった。
妻が妊娠してからは、これらの事がより酷くなった。先々月に安定期に入ったみたいだが、未だに何を言っても悪く捉えられキレられる。反論すると「お腹が張って子供が苦しむ。虐待だ。」と言われるので、ただひたすら耐えるしかない。妊娠初期に私の無知から始まったケンカを未だに怒られるが、妻に昔言われた鋭利な言葉は全て古い話と一蹴される。出産後の事を考えると憂鬱で食事が喉を通らない。結婚前は21あったBMIが今は17を下回る。夜も寝つきが悪くなった。市の無料の男性相談に電話したら、相談員の優しい言葉に思わず泣いてしまった。会社で人と普通に仕事の話ができるのがとても嬉しい。許されるならば、仕事人間として生きていきたい。しかし、残業の年間の上限が360時間しかなく、それも難しい。
死にたいと思うのはなぜか。
死にたいのだろうか、それとも。
逃げたいのだろうか。
生活をしたくないのか。
全部あてはまる気がする。
ときどきそういう波がやってくる。
湧いてくるんだろうか。
現実の生活でなんらかの挫折があったとかいうきっかけがあるときもあれば、きっかけなどなさそうなときもある。
具体的にどうやってというのはわからないけれど、死にたいのだ。
具体的に死ぬということと、死にたいという気持ちは別のものだ、私にとっては。
死にたいという気持ちは自然とそこにあるものだけど、具体的に死ぬことは、現実に合わせた方法を組み立てて考える必要がある。
自分で死ぬことを実行するというのは、大きなエネルギーの必要とされる手続きを乗り越えなければならない。
私が死にたいと思っているときは、そういうエネルギーすら残っていないときだ。
死にたいというよりは消えたいのだろうか。
いなかったことにしてほしいと思っているのかもしれない。
世界はなかったということにしてほしいのかもしれない。
まあとにかく、今、結構死にたいという気持ちが盛り上がってきたので、その気持ちを文章化して記録してみることにしたわけだ。
こうやって書いてみると、論理的に考えようとしているようなそうでもないような。
そういえば、こういう気持ちになったとき、ググると例の電話番号が最上位に表示される。
かけてみると、ナビダイヤルの料金案内から入ってくるのでそこでいい感じに気持ちが萎える。
死にたいと思っているのに、時間当たりの料金の説明を自動音声で聞かされる。
ある意味、盛り上がっている人に水をかけてくれていい感じで冷静にさせてくれるのかもしれない。
そんなわけで、あほらしくなってすぐに切ってしまって、次に何をしようかと考える。
ところが、そういう病院はどこも「予約制」を掲げている。
ほかの科に行くと、症状があるうちに来てくれないと診断できないと医師に言われるけど、心療内科とか精神科というのは、そうは言われないのだろうか。
そういう病の症状というのは、ほかの病気と違って常に同じような症状がずっと続くということなんだろうか。
私の場合は症状というか、死にたい気持ちが盛り上がったり、憂鬱になったり、何もしたくなかったり、破壊的な気持ちになったりすることもあるけれど、それらの気持ちは一過性だ。
そして、それがいつ来るかは予測がつかない。
運が悪いような出来事があれば、その場ですぐに気分が悪くなるし、天気が良くなければ死にたいような気持ちになっていく。
それでもなぜか死なないのは、死ぬほどの気力が足りないからだ。
でも、そのハードルが低いなら、うっかり死んでいるかもしれない。
今の世界みたいに、死ぬのが難しくなくて、簡単に楽に死ねる方法があるなら、ちょっと気持ちが盛り上がったときに実行しているだろう。