死にたいと思うのはなぜか。
死にたいのだろうか、それとも。
逃げたいのだろうか。
生活をしたくないのか。
全部あてはまる気がする。
ときどきそういう波がやってくる。
湧いてくるんだろうか。
現実の生活でなんらかの挫折があったとかいうきっかけがあるときもあれば、きっかけなどなさそうなときもある。
具体的にどうやってというのはわからないけれど、死にたいのだ。
具体的に死ぬということと、死にたいという気持ちは別のものだ、私にとっては。
死にたいという気持ちは自然とそこにあるものだけど、具体的に死ぬことは、現実に合わせた方法を組み立てて考える必要がある。
自分で死ぬことを実行するというのは、大きなエネルギーの必要とされる手続きを乗り越えなければならない。
私が死にたいと思っているときは、そういうエネルギーすら残っていないときだ。
死にたいというよりは消えたいのだろうか。
いなかったことにしてほしいと思っているのかもしれない。
世界はなかったということにしてほしいのかもしれない。
まあとにかく、今、結構死にたいという気持ちが盛り上がってきたので、その気持ちを文章化して記録してみることにしたわけだ。
こうやって書いてみると、論理的に考えようとしているようなそうでもないような。
そういえば、こういう気持ちになったとき、ググると例の電話番号が最上位に表示される。
かけてみると、ナビダイヤルの料金案内から入ってくるのでそこでいい感じに気持ちが萎える。
死にたいと思っているのに、時間当たりの料金の説明を自動音声で聞かされる。
ある意味、盛り上がっている人に水をかけてくれていい感じで冷静にさせてくれるのかもしれない。
そんなわけで、あほらしくなってすぐに切ってしまって、次に何をしようかと考える。
ところが、そういう病院はどこも「予約制」を掲げている。
ほかの科に行くと、症状があるうちに来てくれないと診断できないと医師に言われるけど、心療内科とか精神科というのは、そうは言われないのだろうか。
そういう病の症状というのは、ほかの病気と違って常に同じような症状がずっと続くということなんだろうか。
私の場合は症状というか、死にたい気持ちが盛り上がったり、憂鬱になったり、何もしたくなかったり、破壊的な気持ちになったりすることもあるけれど、それらの気持ちは一過性だ。
そして、それがいつ来るかは予測がつかない。
運が悪いような出来事があれば、その場ですぐに気分が悪くなるし、天気が良くなければ死にたいような気持ちになっていく。
それでもなぜか死なないのは、死ぬほどの気力が足りないからだ。
でも、そのハードルが低いなら、うっかり死んでいるかもしれない。
今の世界みたいに、死ぬのが難しくなくて、簡単に楽に死ねる方法があるなら、ちょっと気持ちが盛り上がったときに実行しているだろう。