はてなキーワード: すいかとは
いや、あなたの言ってることは合ってるし、自分も基本的に同じことを主張したつもりだが。
を、わざわざ砕いて”リッチなインターネットコンテンツを、非常に簡潔にスマートに記述できる”と文系チックに書いたのに、なぜ、わかりにくいバズワードで言いなおすのか。
そもそも「セマンティックな記述」って意味がわからない。文章の意味構造を記述できるようにして外見と分離する事を指すのなら、それは「非常に簡潔にスマートに記述できる」という事じゃないのか(さすがにあいまいに書きすぎてるとは自分でも思うが)。「実現できることが格段に増えた」事は、リッチなインターネットコンテンツを記述できるって事じゃないのか(意味構造を記述によって検索エンジンに適した情報になるってメリットは、論旨がブレるので書いてない)。
その当たり前の事ができなかったHTML4。HTML5になればできるようになるとでも言いたいのなら、あなたもネットに向いてない。
問いかけてる以上、答えがあるようなので、ぜひ模範解答をご教授頂きたい。「無限の可能性があります」という厨二病な答えしか思いつかない。
ちゃんと書いたつもりけど、代表格は2D描画。あと複雑な処理(クラスのおかげ)。ブラウザ間OS間の互換性。ネイティブなXML処理。プリミティブな音ストリームの操作なんてのもある。
現状、Flashを必要としてるのは何処? 誰?
Flashを必要としてる人なんていないと思ってる。ただFlashの方が制作環境とかも含めて使いやすいから使ってるだけのこと。
いやいやいやいや。iPhoneで表示されない広告に何の意味があるのか。ゲームは一理あるけどFlashは外部コントローラに対応してない。3Dなら現状Unity。一概に言えない。
確かに2chよりもみんな本気で書いてくれるし、
長文もそこまで排除的な扱いされないのがいい所。
(最初は否定意見や煽りが少ないのもよかったけど、続けてたらそんなことはないってのは分かってきたけどね。
それでも2chとかに比べると穏やかで居心地いいと思う)
ここのほうが多くの人の目に留まりやすいだろうし、
そして反応も貰いやすいからだろうね。
様々な増田がいろいろリサーチしたり思想などを真面目に書いたりしていて
興味深かったり感心させられる内容も多いけど、
それでも個人のSNSやブログなどでは真っ向から言いにくい内容だから・・・
ってこともあるんじゃないかな。
自分もそうで、SNSやブログもやってるけどそこじゃ書けない内容や疑問だったり、
反応貰いやすいからってのが理由かな~。
流れ的には「たらおさ」はあまり重要ではないワードだったが、しかしまず「たらおさ」を説明しろよ、田舎の料理なんか知るわけないだろ、と若干キレ気味のねらー。
「6チャン」というワードがトレンド入り。関東近辺での6ch=TBSでホラー番組をやっていたらしく、怖いと評判。「今すぐ6チャンを観ろ」と多数のツイート。関東以外では何のこっちゃさっぱり。
まあ、人ってのはこんなもんだよw
「たらおさ」という料理(食材)の概要、および、関東での「6チャン」が意味するもの、どちらが調べやすいかを考える。
twitterで「ラジ館」がトレンドに。「東京の」あるいは「秋葉原の」などという説明は無し。シュタインズ・ゲートのPRでラジ館に人工衛星を突っ込ませたとの事。ただしでもまあ「ラジ館」程度ならググればすぐに出てくるけども。
未成年(制限行為能力者)を、制限行為能力者じゃない大人が、騙したらダメよ!ってのが趣旨じゃないかな。
つまり、経験の差がある(大人>未成年者)から大人は未成年者を騙しやすいかもしれない状況がある中で、
健全な、将来も幸福な、大人と未成年のセックスもあるかもしれないけれど、区別するのが難しいから
全部禁止にしたんだと思いますね。
未成年同士は経験の差から騙しやすいとかないから、ほったらかしにしてるんだろう。
大人はそれを見ても、他に理由無く辞めさせないとダメって事にはならんだろうね。
手をつないでるのと一緒じゃない?
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
対面での批判なら、そこから議論が生まれ、物事が建設的な方向に進む可能性があるから分かるけど、
ネット上で批判を繰り広げても、その行動コストに見合うだけの効果が得られにくい気がする。
反論意見が排除される集団極性化が機能しやすいから、議論に関しても生まれにくいし。
「ただのストレス発散だから別に効果なんてどうでもいいんだよ!」とか言われそうだけど、
批判することによって対象が改善されるケースなんて実はそんなにないわけで、
逆に批判しても批判しても対象が改善されなかったら増々ストレスがたまるものじゃないの?
もし本当に今の自分の境遇に不満があるなら、何かを批判して不満を解消させるんじゃなくて、
その境遇に陥ってしまった自分自身の甘さを省みて、現実的な抜け出す努力をしたほうがきっといい。
社会に対する不満だって、自身の境遇の変化によって意外にどうでもよくなるかもよ?
最近のネット上の文章って批判と見え見えのポジショントークばっかりで飽きちゃうよね。
やっぱ日本社会は足を引っ張り合う文化が影にあるから、ネット上も同じ空気になっちゃうの?
そんなのやだなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20110718194251
>置き換えるとわかりやすいかな?
>例えば、単にガンダムのアニメ見まくってるだけのガンオタが、新しく始まったガンダムアニメに対して
>「今回は史上最高のガンダムを目指して行きますよ!」とか言い出したとしたらどうだろう。
>は?おめーがアニメ作ってるわけじゃねーだろ?と言いたくならないか?
彼らが実際に取る行動としたらDVDとかグッズにひたすら金を落す行為になるよね。
http://anond.hatelabo.jp/20110718195628
1on1では『競技』という言葉で片付けやすいかもしれないが、
チームが選手に給料を払うのは、観客を喜ばせて人を呼んで収益を上げる為だ。
何をエンタテインメントとして楽しむかは自由だし、スポーツ見て盛り上がる気持ちもわかる。
でもやっぱそれを踏まえても、単に応援してるだけの人が「今日は勝ちに行きますよ!」とか言っちゃうのは理解できないなあ。
そういう奴はちょっと行き過ぎだとして、ファンコミュニティ内で諫めるような自浄作用があるならわかるけど、そういうわけでもなさそう。
うーん。本人はどういう気持ちでああいうこと言ってるんだろうなあ。
置き換えるとわかりやすいかな?
例えば、単にガンダムのアニメ見まくってるだけのガンオタが、新しく始まったガンダムアニメに対して
http://anond.hatelabo.jp/20110717152546
元増田の話で、思い出したんだけど、
「射影」の意味とか、使いどころとか、(検索してて思い出した「準同型定理」)
果ては「ブルバキ原論」の話とかしだして、
なんかさ、テスト問題がすげー簡単に見えたの。
「この問題、さっき話に出てたハミルトンの四元数じゃん」とか。
あったんじゃないかと思う。
わかりにくかった。
ただ、俺にレクチャーしてくれたやつは
数学得意な奴にはかなり良い授業だったんだろう。
つまりさ、
理解度が全く違うと思うんだよね。
「どうしてこれをやるか?」
「どういうことを知っておくべきなのか?」
そこの部分は「暗記」といっていいのかわからないけど、
記憶してないといけないと思うんだよね。
数学なんかはさ、
っていう教え方する人いるよね。
まあこれは
「解法を暗記するようなやり方は本来的じゃないぞ」
って言いたいんだと思うけど、
さすがに元増田が書いたように
いやいや、ちゃんと知ってもらうべきところ、
暗記してもらうべきところってあるんじゃない?
と思うのよね。
そのあと、大人になってから、コーチングの理論とか知ったけど、
「どうしてこれをやるか?」
「どういうことを知っておくべきなのか?」
を知るというのも
実際に問題が解けるかどうかと
とか思っちゃう。
当時の天才たちが、千年かけて考え抜いたことを
凡人もやらなきゃいけないの?って思う。
そうじゃないでしょ?と。
つーか、その先生、
たぶん、聞いたこともないんだろうね。
そんなこんなで、愚痴になってきたので、ここでやめるわw。
譲歩すれば相手も譲歩してくれるという期待から譲歩するが、それはあくまで「期待」であり、実際的に「じゃあ私洗濯するからあんた風呂掃除やってよ」ってのは譲歩じゃない。ただの取引。
譲歩は何かの埋め合わせが必ず為されるわけじゃない。譲歩しっぱなし、されっぱなしの関係は必ずある。
じゃあ譲歩し合える関係とはなんぞや、といえば、それは立場が拮抗している、釣り合ってる関係で、このバランスが崩れてるならば一方的な関係になる。
もちろんこれらの差は明示的ではなく、流動的だから、2勝3敗から5勝4敗に巻き返すこともある(勝ち負けは本質的ではないけど引用しやすいから使ってるだけね)
まあ長ったらしくなったけど、要は定量的というか、「どれだけ服従してるか、されてるか」のような感じで、割り切れない関係がたくさんあるよというおはなし。
どうも、咬み合わないのかもしれませんね。
「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心だよ!」ってよく言うじゃないですか。あれどう思います?
確かにその通りですよね。初めて聞いた時は感心しました。無関心、極端に言うと一切存在を認知してないのに好意は発生しませんね。
でも…よく考えてみたら「嫌い」は好きの反対じゃなくなるのは変な気がしませんか?
なぜ「嫌い"じゃなくて"」と捨てるのでしょう。好きと嫌いはやる事なすこと…実際"反対"だし、一つしか選べない決まりがあるわけじゃなし…
好きの反対は嫌い。好きの反対は無関心。両方反対で良いゃないですか別に。ねえ。
じゃあ嫌いの反対は?やっぱり好き、と、無関心。頭の片隅にもないものを嫌いになるのは難しいです。
三角形を想像して左上から時計周りに…▽ 好き、嫌い、無関心。まとまった。
でも、またふと考えると、無関心の反対って何…?
無関心の反対は、関心です。関心とは好き嫌いよりも広い視野で物事を測ります。関心には好きも嫌いも含まれます。嫌いという感情にはどこかしら、自分の嫌な部分が含まれていり、自分が否定してきた価値観や、自分の失敗などが含まれています。どこかに自分があります。表裏一体とはこのことではないでしょうか。興味、で考えれば分かりやすいかもしれません。嫌いな物には、どこか否定、という感覚が含まれますが、興味がないことには心が動きません。嫌いにも至りません。
希望の反対は絶望、一本のどこまでも歪みの無い軸ですが…もう一つありませんか。
希望も絶望もない…無関心…無望(字面重視型)…それは「無」。喜びが無い、悲しみが無い、楽しくない怒ってない。望みも無い。
正に何も"無い"事ですよね。心が全く何も動かない状態。希望は心が動いてますし、絶望も心が動いてます。
現実的には植物人間であったり、心の病であったり、強いショックや痛みの蓄積、理由は色々あり心が動かなくなる、心の死。
絶望という言葉で語ろうとしていたのはこれなのかな、とか思いました。でも絶望と無は違います。違う所に立てば、違うものが見えるでしょう。
文面を読み取ることは出来ますが、その先で何を言わんとしているかはよくわかりません。それもこれまでの話と関連付けてとなると。
無とは、私は絶望の末死に至ることがなかった場合の常態化したものだと考えます。肉体的な死後の無と、精神的な死後の無に、それほど違いはあるでしょうか。絶望も希望も、きっかけに過ぎないでしょう。その先の状態を見ると、生と死に分類されるのかもしれません。
関心をもつ、の中に好き嫌いがあり、その大枠から外れた無関心があるように 生の中に希望と絶望があり、その外に死(無及び精神的な死)があると思われます。
嫌いの末に無関心があるように、絶望の末に死があるのではないかと。
だが、増田はどうして
女なんてそんなもん?
ごめんなさい。指摘そのとおりです。
その当時、女子Dは俺と一緒に気遣って注文を増やしたりしてたので
「女性全般がそうだ」という話ではないというのは認識してます。
ただ、これについては、主語を大きくしたほうが反響(バッシングも含めて)が得られて
自分以外の認識を集めやすいかな?と思った、非常に釣りに近いタイトルです。
自分の行動に不誠実なところを感じつつも、キャッチーなタイトルであれば
やはり、反響が得られやすいのが事実で・・・。(まぁ議論が横に飛び火してますが)
あと、自分が好意を抱かれるタイプの人は、往々にしてこのタイプで
(俺の近くに寄ってくる)女なんてそんなもん?ってところかも知れません・・・。
タイトルの初めに「健康オタクなんだが、」ってつけたらしっくり来たよ。
日々、食品から就寝起床時間に至るまで厳しい健康管理に余念がない。添加物まみれのコンビニ弁当も食わん。副流煙まきちらす喫煙者や排ガスまき散らすトラックとかを憎悪している。日ごろからいかに危険かを周囲に訴えてきたのに、みんなまったく気にしてくれない。理解力が欠けているボケとしかいいようがない。
それなのに、福島原発事故が起きてからどうだ。来る日も来る日も放射能の話ばかりだ。
そんなに放射能を気にすんのか?そんなに放射能が好きか?そんなに健康が大事か?そんなに健康気にするんなら、健康オタクのオレの話をきけよ!きけよ!(神聖かまってちゃん風の叫びでw)
福島原発?あんなオレのお株を奪う奴なんか大っきらいだ。
ニュースなんかレベル7認定あたりからさっぱり見るのをやめたぜ。あんなので騒ぐ奴の気が知れんぜ。
ってそんなところじゃないか。その気持ちはわかるな。
でもね。オレは反原発オタクなんだが、福島原発って、今やっぱりかなりマズイ状況なんだよ。
放射能もやっぱりマズイよ。放射能についていえば、元増田の専門の食品経由での摂取での内部被ばくは体外に排出されやすいからまだいいんだけど、空気中のを肺に吸い込んだ時はかなりやばいんだ。
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。