はてなキーワード: 普段とは
確かに2次元エロで使う時表現できるニュアンスが最も豊かな言語のひとつかもしれない
言語に堪能だとそれぞれの言語でしか表現できないものに合わせて使うものを変えられていいなあ
他言語使いでも「お兄ちゃま」とかの呼び名系とか一人称もそこだけ日本語使ってる人とか見るし
当たり前だけど日本的な萌えを表現したいなら日本語が1番向いてるんだなあ
確かに2次元エロで使う時表現できるニュアンスが最も豊かな言語のひとつかもしれない
言語に堪能だとそれぞれの言語でしか表現できないものに合わせて使うものを変えられていいなあ
他言語使いでも「お兄ちゃま」とかの呼び名系とか一人称もそこだけ日本語使ってる人とか見るし
当たり前だけど日本的な萌えを表現したいなら日本語が1番向いてるんだなあ
「一体どうやって勝手に送金できたんだろう」という素朴な疑問をケアできていなかった
勝手に送金されたのだからそれこそ知る由がないだろう、とも考えられるけど
どれくらいそのチャンスがありそうな環境だったのか、
例えばそれこそ「米国生活における高度な買い物はある程度任せていた」などの
本人からすれば普段通りでも周囲は知らない納得の事情が明らかになっていた可能性もある
どういうこと?
こういうの来ると消すのわかる
✋(これも多分消す)
anond:20240326085449 ゴミがトラバしてきたエントリは消すことにしてる anond:20240326085449 ✋(これも多分消す)
ワイはキャッシュから拾ってきて書き起こしてあげることにしている ワイの存在自体が釣りみたいなもんだから普段はITネタ突っ込まないが 目に余るのは保存してる
好きにしていいよ 自分の投稿履歴に残ってるのが嫌なだけだから
id:ysykmzoです。 「画像生成AIは、ただしく権利をクリアして作ればいいんじゃないのAI推進派は」みたいなことを何気なく書いたらガチめのトラバが来て怖くて消しちゃったです…… ...
人によって定義や範囲は違うだろうが、レスバとは、テキストによって議論、喧嘩、罵りあいを行うことを指す言葉だ。
最近は、レスバはSNSでよく行われる。X(旧Twitter)でもレスバは日常茶飯事であり、それを実際に「レスバ」という言葉で形容することも行われている。
さて、少し前に、5ch(旧2ch)ブラウザであるJaneがアップデートされ、5chではない別の掲示板に接続されるという事件があった。この別の掲示板のサイト名は忘れてしまったので、ここでは偽5chと呼ぶことにする。
偽5chはXでも多少話題になったのだが、その中でも偽5chの技術スタックに言及したアカウントがあった。曰く、偽5chのWeb版はNext.jsという技術が使われており、掲示板サイトらしからぬモダンな造りであるとして、肯定的に言及していた。
このアカウントが普段からAI驚き屋行為で注目を集めていたこともあり、偽5chに言及したこの投稿は話題になった(いわゆる「バズった」)。
実際、このNext.jsという技術がモダンな技術のひとつであることは疑いようがない。デジタル庁が一度Next.jsを採用して話題になったが、モダンすぎて扱えなかったのかやめてしまったのも記憶に新しい。
話はレスバに戻るが、Xでの技術的な話題にはレスバが付きまとう。人によって好みの技術が異なるので衝突が起こるのは当たり前だ。高低さまざまなクオリティのレスバが日々繰り広げられている。
Next.jsはモダンな技術と書いたが、より後発の技術を推している人は、Next.jsは時代遅れで過去の技術だと言いながらレスバを挑んでくるだろう。新しい技術のほうが必然的に(まだ)単純なので、「Next.jsは過剰に複雑だ」といった論理展開も定番だ。
逆に、いわゆる「枯れた技術」信仰を持つ人は、Next.jsなんて枯れていないものは使えないという論調だ。これも人気の高い武装である。
偽5chのNext.jsに言及した投稿にも、例に漏れず、さまざまな異論が舞い込んでくる。Xのいつもの光景だ。技術的な話題で一定以上バズったら何をどうやっても叩かれる。
しかし、普段と違うところがあった。捨て垢で叩く人が多かったのだ。
正直に言って、捨て垢の人の批判はひどかった。中身のないワードサラダだ。技術的な内容ではなく、感情論やレッテル貼りを武器にしているようにも見えた。
知識が無くても使えるレスバの手法を用いながら、無理しつつもなんとか批判を書いているという印象を受けた。今ならChatGPTのほうが中身のある批判を書けるだろう。
ここからは妄想だが、そのような捨て垢の人は5chからやってきたのだろう。
当時、5chの住民は当然偽5chに対して敵対的だった。偽5chに対して肯定的な投稿があったとなれば、叩きたくもなるだろう。
裏は取っていないが、大方どこかで投稿が晒されて「凸」した人たちがいたのだろう(もう死語か? よく分からん)。
正直、偽5ch絡みを除けばよくあるNext.js上げの投稿だったので、それくらいしか捨て垢でわざわざ批判を飛ばす理由がないと思う。
「レスバ」という言葉は5chのような掲示板文化に由来する言葉だと思う。
Xなどでは返信のことを「レス」と言わない。「リプ」だ。
返信を「レス」というのは掲示板だ(メーリスとか、掲示板よりさらに古い文化由来だったらごめん)。
つまり、5chからXに捨て垢でやってきたのは、レスバの本場からやってきた刺客なのである。
まあ、刺客たちがみんな技術に詳しいわけでもないのだろうから、技術的な話題でレスバをこなせというのも無理な要求なのかもしれない。
先日「テレ東旅の日」で太川陽介のバス旅を見ていたら前編のゲストが村井美樹だった
もう一人のゲストはこの人アフガンハウンドにそっくりだなと常々思っている長髪の関西ジャニーズの人で、
その人の言葉につられたのか村井さんが普段の標準語とは違うばりばりの関西弁を話していて初めて村井さんが関西の出身だということを知った
太川さんには標準語で受け答えしていて、そういう使い分けのできる人でもつい顔を出してしまう生まれて育った場所の言葉の強さを感じた
私は北海道札幌市に生まれて今まで住んでいるが、錦鯉の長谷川雅紀が東京に長く住んだのちの今ですら朴訥な北海道弁のイントネーションで変わらず楽しそうに喋っていることへの好感がほのかにある
GERAなんかを聴いていても○○でないの、○○っしょー!って本当に自然に出るんだねあの人は
かなり年齢を重ねてから上京したからだろうか、方言があまりにも自然すぎてあたりまえすぎて標準語の上書きをされてもその下からくっきり浮かび上がって、結局それがそのまま表面になっているという感じだ
こういった場面を見るにつけヤーレンズ楢原の異質さが浮かび上がるような気がする
ネタや上京の理由に直結する部分だから、言葉に対しての覚悟や強固さがよりあるのかもしれない
コンビのインタビューでそのあたりについて語られたりはするけれど、ネタや動画の中ではそのあたりをあまり感じさせない飄々さとやのらりくらりとした感じもいいなと思う
chatGPTに聞いてみた。
まず、AIが書いた文章の"AI臭さ"ってのは、言い回しや文体がちょっと不自然だったり、人間が普段使わないような表現があるから来るんだろうね。それに、過去のAIが生成した文章を学習してるから、その特徴が反映されてるってのもあるだろう。つまり、テキトーっぽく聞こえるのは、機械がデータからパターンを学んでる結果だと思う。それに、クドクドうるさい文体は、たぶん過去の文章の影響だろうね。特定のテキストデータセットから学んだってのが大きいんじゃないかな。
この間、SNS上である議論に参加というか巻き込まれて、私含めた数人の参加者のレベル的にそれで結局答えなんか当然でなさそうな雰囲気だったので
「結局これはどっちもどっちってことなんじゃないの。こんなことしてるより別のことをしたほうがいいよ」みたいな返事をしたら
「それは悪しき相対主義だ」「相対主義の皮を被った保身でしかない」みたいなことをある人からいわれた。(「別のことをしたらいい」というのが相対主義?なのかはよくわからん)
でもそいつも全然、自分の意志があるのか怪しい話しか出来てない感じだったが。
しかし、この10年ぐらいの間に、「相対主義はとにかく悪い」という人たちの意見が目に付くようになった。
今日の晩御飯の内容から、ガンダムみたいなアニメの評論、日本とアジアの歴史問題認識の差まで。軽い話題から深刻な内容まで、一つの物差しでそれぞれの問題を計るわけにはいかないにせよ。
でも「相対主義は責任の放棄であり社会問題の根源~」みたいなことをいう人はリベラル側に結構いる。
資本主義でも社会主義でも、いじめっ子でもいじめられっ子でも、ドリフでもひょうきん族でも、連邦軍でもジオン軍でもなく、相対主義。
ほとんどの日本人は6・3・3制の学校で、まあ、社会の処世術とでもいうものを学ぶはず。日本人の「思想」「思考」が問題にされるとき、大体学校教育まで遡って批判されることが多い。
でも、私は小学校から高校まで「相対主義」なんて学んだことはない。相対性理論はあるけど。大学でも、ゼミでいろいろやったが、具体的に相対主義とは言わないにせよ「中立的」な見方・記述をするようにはいわれた。
我々もそうだったが、年に何十万人の若者が、中卒・高卒・大卒のいずれであれ社会に旅立ち、この社会を構成する。そしてほとんどの人々は、リベラル派の危機意識からすれば(どう形容していいか分からないが)、「相対主義」者ということだ。
学校で、国が定めた教育課程により(理系は一先ずおいといて)国語・社会・公民・図工美術・音楽・語学・道徳などの授業を6年間や3年間学び、家庭生活も過した人々が、学校を出る時には「相対主義」者として再生産される。
そしてそれは悪いことなのか、私にはわからない。この国は民主主義であり、自由主義であり、自分の思想を選ぶ権利があり、その上で、多くの人々は確固たろうが適当であろうが、相対主義を選択し、それで別に社会を維持できている。
少なくともこの社会のかなりの部分が、毎年再生産される「相対主義」で維持されているのは事実だ。相対主義者による虐殺であるとか強制収容であるとかも見聞きしたことがない。何がよほどの悪なのだろうか。
逆に、「相対主義」であることを徹底的に拒否する教育や生活とは何なのだろうか。
私は相対主義への批判を見るたびに、言っている人々の普段の言動と比較しても、なんだか検閲や全体主義に近しい論調だなと感じ続けている。
社会の授業で世界の国々や選挙制度について学ぶときに、ある国は素晴らしく、ある国は劣っていると教育するのだろうか。ではその上で日本の立ち位置をどう教えるのだろうか。
ベートーベンの曲を聴いたりピカソの絵を鑑賞した時に、楽譜や色調に現れる技巧は別として、徹底的に「ベートーベン」「ピカソ」の何たるかを国が定義し・教師もそれに盲目的に従い・生徒に刻み付けるのだろうか。
(よく相対主義の引き合いに出される)機動戦士ガンダムを視聴するときに、連邦軍やジオン軍のいずれかが徹底的な善であり対極は悪であると必ず親御さんが傍で「アドバイス」し続けるのだろうか。あるいは制作時まで遡って指図されるのか。(ゆうきまさみがそんな漫画描いてたな)
相対主義は決断や責任の拒否かもしれないが、では非・相対主義は決断や責任の日常的な強制にはならないのだろうか。それは反世俗主義的なカルトや閉鎖的な集団の思考(例えばエホバの証人、旧統一教会、搾取を目的とした自己啓発セミナー、戦前の日本政治など)とどう違うのか。
これらの集団が若者・二世三世信者に対してどう当っているのかも含めて。
もっと言ってしまうと、リベラル的なさまざまな批判や許容の精神は、人々に曖昧に巣食う相対主義という岩盤の上で存続できているのではないか。
長々と書いてしまったが、私としては、相対主義であると言われることは受け入れた上で、それが悪いとか変わるべきだとする思考には至らなかった。
ただ考える中で、他の問題も含めて、「教育・学制」というものはかなり意識する必要はあると思った。
毎年、「相対主義」であり、「自民党を『安易に』支持」し、「映画や音楽を『表面的』に」しか鑑賞できず、あるいは「胡散臭いやり取りを『プロレス』、くだらない文章を『ポエム』と呼ぶ」大衆が再生産されている。
そして大学の教授や活動家がいくら「再教育」しようとしても改まることはない。果してこの毎年の大衆の再生産の渦とでもいうものは「悪」「間違い」なのだろうか。
聞いてくる割にこっちの言うことなんも信用してないんだ
自分が間違って操作できないくせに「こうしたらできる」の肯定しか求めてない
できないっつってんだろ
あと「範囲選択」とか「コピー」とか普段自分も使ってる言葉なのに「私の知らない言葉使ってるに決まってる!お前の言う『ハンイセンタク』は分からない!知らない!やり方言え!!」って騒ぐ
話を聞いてない、こっちの説明中に思いついたこと被せてきてベラベラ喋った上で「なんだっけ」って言う、を3回くらい繰り返す
あと文字1文字も読まないで「どこ!?どこ!?」って言う。最近は静かになるまで黙ってることにしてる
父親の場合は基本的に聞く耳持つし覚えようとする気配があるんで全然苦じゃないんだけど、母親はこっちの知識を蔑ろにしてる感がマジでひどい
遠赤外線ヒーターとかさ、傾けたら一瞬で動作が止まるんだから普段からそうしたらいいのに
ネットの多くはできるっていうけどできない子ばかりだけど遠赤外線ヒーターはやればできる子やん
面倒だから俺いつも傾けて切ってるよ
描いた絵とか見せ合うのすごい流行ってて
私はpixivで見た緑間の絵を一生懸命模写して描いてた で、たまに自分で描いてみたりもした
写しただけだよ〜って予防線張ってても、仲いい子は皆上手い!とか天才!とか褒めてくれて すごい気持ちよかった
でも美術部の中に全然オタクじゃない(普通に漫画は読んでたと思うけど)子も一人いて、その子は多分絵を描くのが好きで美術部に入った子で
描いた絵とかたまに見せてもらったら、いつもめちゃくちゃ上手だったの覚えてる 美術の授業でもよく先生に褒められてて、廊下にクラス全員分の作品飾るときも皆〇〇ちゃんすごい!って言ってて 当然成績は5で
でもオタクじゃないから美術部の中ではちょっと浮いてて、仲間内では私の描いた絵の方が褒められてた
なんでだよってずっと思ってたけど、やっぱ仲の良い身内が描いたオタクっぽい絵の方が受けが良かったんだろうね
大人しいけど明るくて、普段は運動部の子とも仲良くしてるような子だったし
その子も私の絵のこと褒めてくれててさ 二人っきりのときに私が「〇〇ちゃんの方がすごい」みたいなこと言ったら、「いやなんでなの、すごい上手だよ、この緑間イケメンだよ」って
目がでかくて首が細くてアンバランスな緑間の絵を褒めてくれた 優しい子だった
学校ではよく喋るけど遊びに行くほどの仲ではなかった
でも高校のときも通学路が途中まで同じで、たまに朝会うとすごい嬉しかった お互い高校の話とかして、ちょっと話足りないなって思いながらまたねって別れてた
自分は高校では帰宅部で、そのときにはアニメも然程見なくなって絵も描かなくなってた
中学時代に買ったコピックを見るとあの子の絵を思い出して嬉しくなった なんか美大とか行ってすごい人になるんだろうなって勝手に思ってた
坊さんがお経を読んでる間に周りの墓石を見てたら、その子の名前が書いてあるお墓があった
名字も下の名前も珍しい子だったから、あの子の墓だとすぐに分かった
母の墓に線香を立てるとき、自分の母のことよりもその子のことで頭がいっぱいだった 手を合わせるのも忘れていて父におい、と言われた
遊びに行ったこともない仲なのに、あの子のことで頭がいっぱいで今かなり苦しい
少し前に車椅子女性の話題で盛り上がっていたときに思い出した。
小学生時代、ある同級生の母親は、彼女の夫が押す車椅子に乗って運動会やら授業参観やらの行事を観に来ていた。周りの保護者より少し若く見える、痩せた、色の白いお母さんだった。
その同級生は子供のくせにそこはかとなく辛気臭いオーラを纏っていて、暗くて友達もいないのに一人で何か喋ってニヤニヤしているようなやつだった。当たり前にずっといじめられていた。仮にOとする。
Oは児童養護施設から通ってきているのに、学校行事にはいつも両親が揃って参加していた。休日には家族揃ってスーパーで買い物する姿を度々見かけた。
母親の病気のこととか何か事情があって家族で暮らせないのだろう、と今ならば想像するに難くないけど、施設育ち=親がいないという認識の当時のわたしたちの目には、別に居を構えながらも仲がよさそうなO一家の姿は異様なものとして映った。
ひどい話だけど、Oだけでなく家族ごと、クラスメイトから、いや学年中から差別されていた。気がする。
例のごとく車椅子でグラウンドにやってきて運動会を観覧し、教室に戻って昼食をとる際、土のついたタイヤのまま校舎に乗り込むO夫婦の姿を、わたしたちは冷ややかな目で見た。ちゃんと入り口にそれ用のマットが敷いてあって、踏んできているにもかかわらず。
小学校高学年、思春期にさしかかり不安定な心身をもてあまし、わけのわからない苛立ちやさみしさをお互いに悟られまいと取り繕っていた。障害とか施設育ちとかの事情を抱え、差別されながらも健気に生きているO一家の姿はいじらしく、尖った心を持ち寄るわたしたちの格好の的だった。
ある土曜日の午後、市の陸上大会に向けての練習があった。全員参加ではなく有志の集まりだったので、普段教室であまり喋らないタイプの子とも仲良くなれて、楽しい。
練習が終わって、わたしたちは麦茶を飲みながらずっと喋っていた。日焼けするからと木陰のところに集まって、実はあの子のことが嫌いとか好きとかキャアキャア叫びながら喋った。
ふと話が途切れ、もうそろそろ帰る?という雰囲気になったところで、一人が「そいえばさー」と口を開いた。
「そういえばさ、どうでもいいんだけど、こないだイオン行ったらOがまた家族でいたんだよ。
でねぇ、これマジだよ?…Oのお母さんが、歩いてた」
わたしたちは、爆笑した。ゲラゲラ笑った。全員で涙を流して、息も絶え絶え転げ回って笑った。
おかしかった。いつも白い顔をして、旦那に車椅子を押されているお母さん。そんなお母さんが自立して歩いているなんて、突飛で、シュールでナンセンスだった。前衛的な発想のようだった。
おかしい以上に、気持ちよかった。言ってはいけない、笑ってはいけないことなのはみんな分かっていた。
広い校庭にわたしたちしかいなくて、おかしいことなんて何もないのに馬鹿笑いして、すっごく悪いこと言ってるのに誰にも迷惑をかけていないから咎められなくて、こんなひどいわたしたちを誰か止めてほしいのに、芝生の上に転がったままどこへでも行けそうな、行ってしまいそうな気がして、怖いけど楽しくて、無敵だった。
曇ってるけど日射しは強くて湿った風が吹いていて、みんな同じ日焼け止めの匂いがしていた。ひざの裏側に芝生が刺さってチクチクしたけど、手で払うとさらりと落ちた。気持ちよかった。
家に帰り、キッチンに立つ母にOのお母さん歩いてんだってーと言うと、「Oさんの奥さんは脚が悪いんじゃなくて病気で体力がないから車椅子なんでしょ。何言ってんの」と返ってきた。つとめて不愛想な母の声になんでか安心したのだった。
数年後Oのお母さんは亡くなったと聞いた。
陸上練習のときのメンバーは、中学に入って少しヤンキー風味になったけど、成人後に同窓会をしたときにはごく普通のかわいいお嬢さんの姿だった。今ではほとんどの子が結婚して親になって、忙しく過ごしていることと思う。
Oが大人になった姿はどうしても想像できない。どんな暮らしをしているんだろうか。
校庭でひどいことを言って笑い転げて、誰か止めてほしいと思った。
その後の人生で、ちゃんと止めてもらえたと思う。元々優しい気持ちの子もたくさんいるけど、意地悪だったわたしたちも、失敗して傷ついて、自分のことが嫌になってもそれでも生きていくという選択をしたとき、他人に寛容になろうと努めて、その習慣が体に馴染んだと思っている。
何の罪もないO一家に冷たい目線を向けて嘲笑っていたことを思い出すとき、ひどかったなと思う気持ちは本当なのだけど、あの陸上練習後のお喋りの時間には青春フィルターがかかっていて、思い出すとキュンとする。
キュンとしたあと、でもやっぱり酷すぎるよねと心の中でつぶやいて、少し許されたような気持ちで回想を終えている。