はてなキーワード: 対置とは
屑です。
紛れもなく、屑。
そして、このエントリの「間違ったフェミニズム」は男性に一方的に守られよう(=搾取しよう)と考えるミサンドリー。
ベクトルが違うだけでミソジニーと同じ悪であることは間違いない。
「男性は女性を守るべき」が成立するのなら、女性はその見返りを男性に与えねばそれは搾取である。
人が人を搾取する構造が正しいとでも言わない限り、「間違ったフェミニズム」は「人間として間違った思想」であり、
フェミニズムとして正しい/正しくない以前に糾弾されるべき危険思想である。
あと、
先日、恋人と東京ディズニーランドに行った。
それは、さらに先日、一般成人男性の僕が会社の女の子とつきあい始めたことから始まるのだけど、そこは面白くないので割愛。
表題の通り、東京ディズニーランドの地図は2人で両端を持つのに最適なサイズなのである。
かつて僕が地元の微妙なレベルの進学校の微妙な部活の、微妙にモテない男友達と、創立記念の休日にディズニーに行ったとき(中二病が一周していた僕たちは「男だけでディズニーに行くの、かっこよいのでは?」という発想をしていた)、ディズニーランドのガイドマップはデカすぎて使いづらいという結論に至っていた。
あの日の僕らは、「世の中」と対置される「僕ら」が、「世の中」の物事に論理的にケチをつけられたのでとてもご満悦だった。地図のサイズはもっと適切に設計すべきなんだよね、そう言いたかった。
その推論はある意味間違っていないのだけど、大学に進学し、就職し、「世の中」にすっかり吸い込まれた僕は、結局、ディズニーランドのマップのサイズのデザインがそれなりに合理的な原則に従っていることに気づいて、ああ、となってしまった。ちょっと金曜の疲れを残しながら行ったディズニーランドで、恥ずかしげもなく2人で地図を読んでいて、そう思った。ディズニーランドは男だけのむさ苦しい旅行なんて気にかけてくれてはいない。そりゃそうだ。
世の中はクソだし将来設計はだいぶヤバいけど、なんだかんだ(あの日思ってたよりは)ずっと生きやすいし、流されてたどり着くには、最高の場所だった。
まあ、しんどいけどね。
それだけ、以上!
factはもうどうでもいいのだろう。
各人が自分にとって好ましいと思われる主張だけを取り入れ(「好ましくない」主張は排除し)ひたすらにナイーヴな、個人のinterestのみにかかわる声だけをあげつづけている。
現代がもっとも重視する感情は「ヘイト」だ。「ヘイト」は被害者意識から発する。「わたしが手にするはずの権利=利権が××によってそこなわれている」。その××が憎悪の対象となる。それを裏付け、根拠付けるはずのfactや論理、手続きの正当性といったものは全て無視される(結論の正しさは必ずしもそれに到るまでの手続きの正しさを保証しないというのに)。
自分のinterestをおびやかす(ものとされている)相手――もっといえば「わたしが嫌いなあの人(たち)」――を叩いて、自分の存在を承認してさえくれれば――それはあくまで「承認」だけにとどまり、その先の恩恵は何一つ(それこそfactや論理による)保証をもたないのだが――手続きのレベルでなされた詐術や背後の事実関係などをすっ飛ばして、直ちに支持してしまう。
未だに(不幸なことに)「大きな物語」と「小さな物語」の対置というリオタール的な図式は有効で、実感のない「大きな物語」より自分にとってより切実に感じられる(ように錯覚される)「小さな物語」としての"身の周りのこと"を優先する態度だけが前面にあらわれて、その「わたし」「わたしの嫌いなあの人(たち)」「わたしの嫌いなあの人(たち)を――事実の裏付けや論理的正当性はともかく――叩いてくれるあの人(たち)」の三項からなるごく卑近な図式を通してしか、他のレイヤーに存するはずのあらゆる社会的諸問題も捉えられない(ああ懐かしの「セカイ系」!)
ライフハックとかQOLとかに端を発する「個人の(あなたの)生活が第一!」という恐ろしくプラグマティックな思考が幅をきかせ、みんながみんな自分(と、自分と利害を共有する「身内」)にばかり甘くなる。「身内」によって構成された「内輪」の外にいるのは、「わたし(たち)と利害を共有しない」がゆえに「わたし(たち)の生活を害して利を得ている」ものてされて――その判断に客観的事実による裏付けは全く必要ない――「ヘイト」を集め、排除された人びとだ。その「排除された人びと」もまた別個の「身内」どうしで固まり、これらの集団はそれぞれ互いを憎み、排除しあう。かくして現代の「分断」の構図は生まれるのであった。
もちろんこの文章もまた、何らの論理的正当性も個別的客観的なfactによる裏付けももたない、何か実体のない相手に対する「ヘイト」と被害者意識から書かれ、そしてわたしとinterestを共有する「身内」に向けて発せられた言葉にすぎないのだが。
常々政治的言説において「右」と「左」という区分をいかにも対置概念のようにしてレッテル貼る場合があるが、その区分がずっとピンと来なかった。何をもってそう区分するのか?人によってその感覚は異なるのだろうけども、本当は対置される区分じゃないような気がしてむずむずしていた。
そこでいろんな政治的言説に触れるにあたり、どうせ区分するんなら、こんな区分ができるんじゃないのかな?という思い付きが出てきた。
------「内向き志向(国の問題の根源を内部に求めるという意味で)」と「外向き志向(国の問題の根源を外部に求めるという意味で)」------
・「内向き志向」というのは、その考えの背景に「自国を取り巻く環境はさほど以前より変化しておらず、国内の変化は、国内の利害関係者の隠された利益による意図によって起こされている」という思いがある。企業で言えば「その施策って市場の要望によるもんじゃなくて、特定の派閥のパワーを拡大させるためにすぎないでしょ?そんなことしたら多数の社員のやる気がなくなって外に人材が流出しちゃうよ?」みたいな。
・「外向き志向」というのは、その考えの背景に「自国を取り巻く環境は常に流動的で急速に変化しており、それに対応していくためには、場合によっては国内の既得権益(国民のも)を制限・縮小することがあってもやむなし」という思いがある。企業で言えば「市場はどんどん変化してるんだから、社員がこれまで築いてきた努力なんか無視して、見込みのないものは切り捨ててスクラップアンドビルドで対応していくしかないよね?でないとつぶれてまうで」みたいな。
おそらく現実はどちらに偏ってもまずくて、バランスをとって考えないといけないのだろうけども。
また、一人の人間の様態には「分裂気質(アンテ・フェストゥム(未来先取り的))」と「躁鬱気質(ポスト・フェストゥム(過去を重視する))」の要素が両方ともあって、そのバランスの中で現実と折り合って生きているのだが、どちらの要素がより濃いかの相違は個人によってあるという話があるが、それとも関係あったりして。
元増田は『コミック版』に対して『アニメ版』という言葉を使ってるし、『テレビ放映時』という表記もしている。これはいい。
しかし、『旧劇』に対置して『アニメシリーズ』という表記。これが、老人にとってはどうにも慣れない。つい先だって別の増田のブコメで「最近はネット配信で見るケースもあるから『テレビ版』という表記では合致しない場合もある」という指摘を見て納得はした。たしかにネット配信で見たものを『テレビ版』というわけにはいかないだろう。
けれども、だからといって『アニメ版』とか『アニメシリーズ』という表記はどうなのだろう。『劇場版アニメ』は『アニメ』ではないのか、と思ってしまう。
『シリーズ』という言葉が、『毎週同じ時間に放送・配信される連続もの』であることは、頭ではわかる。あくまでも連続ものが『シリーズ』であり、単発の劇場版は『シリーズ』には含まれないということだろう。であるならば、いっそのこと『シリーズもの』とか『シリーズ版』という言葉を使ってみてはどうだろうか。アニメであることは自明の上で、連続版か劇場版・単発版かを区別することが可能になるのではなかろうか。
>Independent developers are facing walled gardens" への対置として挙げられている
指摘感謝。
俺、原文読んだことないんで、元増田の上げた文だけで処理してるから、前後のニュアンスがかかってくるとどうもね。
「ダウト通り」の件、凡ミスの指摘、さらに感謝。すでに飽きてた上にゲーム「Fallen London(Doubt Streetという地名が出てくるらしい)」との兼ね合いの方に意識が逝ってた。
Solving this problem is going to require a diverse set of intellectual property, technical and information assets and an inclusive attitude toward software developers. ※Intellectual property、知的財産権と訳したくなるのは判るが、ここでは誰もそんな話はしていない。
"Independent developers are facing walled gardens" への対置として挙げられているのだから、intellectual property は「知的財産」と訳すのが妥当。
intellectual property rightsとは書かれておらず、また、権利の話をしているわけではないから、「知的財産権」と訳すべきかは微妙。
◇Hell, start an Occupy Doubt Street movement and doubt the lot of them simultaneously. ●ったく、「オキュパイ・ダウト・ストリート」の運動でも始めて、あらゆる大企業を一斉に疑えばいいさ。 ◆「ダウト通り占拠」運動でも始めて、連中にまとめてダウトを突き付ければいいじゃないか。 ※オキュパイはそのままだと通常の読者層は理解できないと思う。
"Occupy Doubt Street" が "Occupy Wall Street" をもじったものであることは明らか。同語の日本語訳としては「オキュパイ・ウォール・ストリート」もしくは「ウォール街占拠」が妥当。
したがって、この場合は「オキュパイ・ダウト・ストリート」あるいは「ダウト街占拠」が採るべき訳と考えられる。「ダウト通り」という訳語は「ウォール街」から離れてしまうので不適当。
何かに異議を主張したいなら、普通は例えば次のような流れで書くのだ。
AについてBだと言う人が居る。
だが私はCだと思う。
よってAについてはBではなくCだと思う。いかがか?
だが元増田は
AについてBだと言う人が居る。
あれなんなの?
BだったらB1になるじゃないですか。それにB2にもなる。B3だっていうんですか?
わたしはCだと思う。それはC1だし。
Eについてはわかるんですよ。
と、やっているように私には見える。ポンポン提示される話題とそれ以前に出してきた話題との関係が把握できず読者は落ち着かないまま連れまわされて、最後に憤慨している増田と対面したまま放置される。これでは納得してもらえない。
文章として圧倒的に足りないのは、話題と話題との関係を示す次のような言葉だ。「すると」(順接)「一方」(対置)「また」(並置)(参考:http://pothos.main.jp/setuzokusi.htm (適当にぐぐった))「ここでこの話題だったら関係なんて当然分かるでしょ」などと思ってはいけない。こういった語を使い明示的にマークして読者を案内するんだ。
それから(根本的には同じことなのだが)話を展開したら主張を成立させるために最初に戻る必要がある。だがそれが無いまま次々と突き進んでいる。普通は「なぜなら」(理由)「例えば」(例示)「もし」(仮定)といった語で展開していったら「なので」「だから」といった語で「そこまでの流れが締めくくられますよ」ということを明示して、そこまでの主張を示すものだ。
こういった文章の場合、読者は話題に馴染んでいようとも「うんうん。わかるわ~」という姿勢で逐次飲み込むのではなく、賛否を一旦保留したまま「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。で?」という姿勢で、示された事を順次仮置きしながら読んでいる。その流れの中に締めくくりの語が来ると、それを手がかりに「なるほどそうだね」とか「いや違うと思うな」と読み手なりの評価をして仮置きを取り崩す。そういうようにして読み進める。
だが、明示が無いと仮置きをいつ止めればいいのか分からない。仮置きとして覚えていられる量には限りがあるので、過度に詰まれ続けると読者は「意味わかんね」と放り出してしまう。場合によっては無用な負荷をしいた筆者にちょっとした怒りさえ感じるかもしれない。だからいちいち「ここで一旦終わり」という事を示して読者の負担を取り除いてやる必要がある。
(元増田は書き手の前に読み手として、こういう仮置きしていく読み方が会得できてないのかもしれない。元の話題の「本気なんですかね」も、そういう読み足りなさから来ている誤解な気もするよ。前後を見ずにその部分を飲み込もうとして「おぇぇ」ってなってるんじゃないかとね。)
自説の説得力を高めようとする場合に、話題を沢山持ち込んで「だってほらこんなに」とするのは悪手だ。沢山伝えたい話題を抱えていても読者に納得感が高いだろう少数を選りすぐって話し、まずは一旦結論まで持ち込んだほうがいい。それでも言いたいならその後で「こう思うかもしれないが、こうだよ」と補足していけばいい。最初の屋台骨がしっかりしていればそういった後付は受け入れられる。
元増田の文章はどこが骨でどこが尾ひれなのか読み取れないのだ。物語文章などでは初回の読書ではどこが核心なのか分からないから面白いのだが、こういう論説文では、これもまた仮置きを強要するので読み手をイライラさせてしまい嫌われる。
「正義の反対にあるのは正義」という人がいる。これを自分は信念という言葉に置き換えて理解している。以下は単純な仮定で、勝手な理解だが、これを元に話をしたい。
ヒーロー物でヒーローが「この世を良くあらしめよう」と信念がある。対して、悪役が「私は欲望にまみれた強奪至上主義の世界を実現する」という信念もある。これらがぶつかり合うのだからという具合である。しかし、私はそうは思わない。まず正義がどんなときにあるのかを考える。正義とは三省堂によると、"正しい道理。公正"とある。これに基づくなら、正義が成り立つのは、正しくない道理や不公正があるときであり、対置されるものは正義であるとは考えられない。
ここで不公正をもう一度考えてみる。先ほどの例ならば、不公正はもちろん悪役であると言える。他人のものを奪う世界の実現を目指すのだから、現時点での道徳基準で考えるならば不公正と言える。しかし、悪の親玉を支持する下っ端はそうは思わないはず。むしろ、自分らの信念の実現を目指すのだから、それは正義であると言える。この意味において、正義と正義は対置されるだろう。
しかし、これは他人を害して実現する仮の正義だ。不公正を持ってして行われるものは、正義とは言えないはずである。だから私は、「正義の反対にあるのは正義」という考えには賛同できない。もちろん、余談だけれど現実は白黒がはっきりつかず、一方が他方を害する形での正義は少ない。この問題は、道徳や価値準則が異なるから起きる。例えるならば、殺すことを許さない人間と増えすぎた生命を間引くことが正義とする宇宙人の考えが、一致するとは限らないからだ。
幸せだ。
無垢そうなヨークシャー・テリアである彼をただ愛でていればいい。
でも私達は覚えている。
狂犬のひきつった嘲笑を。
血に塗れた牙の鈍光を。
昔は誰もが知っていたのに、今となってはもう存在すら忘れ去られてしまったidたちの断末魔を。
人は彼ははてな村の村長だと言う、あるいは長老だと言う。誰もが畏敬する。
なぜだ? ただ古参だというだけで、ただ居座った、意地汚く居残ったというだけでそこまで?
間違えるな。彼は居座ったのでも居残ったのでもない。
「生き残った」のだ。
かつて、はてなは戦場だった。今となってはもう語るものすらいないほどの昔の話だ。だが事実だ。
そこは天上の地獄だった。毎日がだんじり祭だった。憎しみが連鎖し、血が血であらわれ、idコールは果し状がわりの白い手袋、マッチョがウィンプのケツを掘り、非モテどもには要は勇気がなかった。そんなキリング・フィールドで「ただ生き残る」ことがいかに至難であったか。あの時代を体験した人間で、自らの手を汚さずにいられたものなどいなかった。
そうして、上から目線ゲームがバベルの塔ばりの高さに達したとき、かつてはてなでバトルを繰り広げたバトラーやウォッチャーたちは神の怒りに触れ、そんじゃーねとばかりに現実へとディアスポラし、転職したり共著を出したり単著を出したり映画化されてみたりTBSラジオでメインパーソナリティを務めたりインターネットをバカと暇人のものにしてみたりモテないやつは脳に問題があると言ってみたり秋ごとに翻訳小説をハゲラッパーに紹介したりメンヘラとヤったり自分が死んだあとの世界を計劃してみたり女子高生野球部マネージャーにピケティを読ませてr>g野球に目覚めさせたりした。
名も無き弱者たちは地下へと潜り、今は増田と呼ばれる非ブログアクターとして現代はてな社会を新しい暗黒に追いやっている。
だが、彼だけは違った。
彼だけは、はてなを離れなかった。離れられなかった。なぜか。神がその存在を許したからだ。ここに在るように命じたからだ。
疑うなら最寄りの神社へ行ってもらいたい。
門の両脇に据えられた、二匹の犬の像を認めるはずだ。
彼らは地上につかわされた神使であり、エジプトのスフィンクスなどとも起源を一にするという。
向かって左の犬の像は、阿形、すなわちサンスクリット語における「しなもん」を表し、
向かって右の犬の像は、吽形、すなわちサンスクリット語における「ケンケン」を表す。
はてなには狭き門も広き門もなく、ただ遺物(ARTIFACT)を護る番犬がいるだけだ。
私達はその犬を、犬たちを畏れる。彼らは古参だから。彼らは生存者だから。彼らは勝者だから。
私達は犬たちを忘れることができない。
犬たちは不滅だ。たとえ肉体的な死を迎えたとしても、その眼は常に生き残る。左の犬の眼は私達を愛し、慈しむ。右の犬の眼は私達を監視し、専制する。
「カノセ」は「カオス」がなまった言葉だという。私達はそれを信じる。
はて「な」を「支」配する「者」、秩序(コスモス)を司るしなもんに対置される混沌。陰と陽。ふたつでひとつの世界。
しなもんとはkanoseであり、kanoseはシナモンである、というのは単に「神とは神のことである」とトートロジックに言明しているにすぎないだろうか?
そう、彼らは神である。自らに命令し、自らに従う最上位の権力だ。
今なら私達はローマの偉大なる詩人、ユウェナリスの疑問に応えることができる。
"しかし、誰が見張りを見張るのか?"
just doingは和訳すると「ひたすらそれをやりなさい」。という意味だ。つべこべ言わず、ごたくわ並べずにとにかくやりなさいという古くからの聖人が繰り言のようにつぶやいてきた言葉だ。
日本でも古くは只管打坐(しかんだざ)という言葉がある。只管というのは「ひたすら」という意味。打坐は、坐を打つ、つまり「座禅に打ち込む」なんだな。
今日こんな記事があったけど、日本もやっとこさアホみたいな努力厨が減ってきていい世の中に向かいつつあるのかなとホッとしたと同時に、
会社で「艦これ」プレイする人々 専用ウィジェットで「最小化」、テザリングで「ログ残さず」 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1104289
古くからの日本の心が失われているようで寂しさもひとしおだったんだよね。変に真面目で凝り固まった部分がある一方で、やたらと無気力でマニュアル化された考え方しかできない指示待ち人間が増えていて複雑な気持ち。
人生生きているとそういう複雑な気持ちになることがあって多大な時間とお金を浪費していることに気づいたほうがよい。
偉い人の伝記とか読むと決まって苦しみを打ち消すように研究に没頭したと書いてあるでしょ?板挟みの中間管理職でも酒に逃げたりしない。打ち消すようにjust doing。
あれは脚色なんだろなと思ってたけどこの歳になって本当にその通りだなと思うわ。とにかくやるしかない。
我らがdankogaiも5年も前に「やる気を出すな。手足出せ」という名エントリを上梓しているが誠に先見の明と言うべきだろう。
分かってるとは思うが「俺はやってるんだぜ」とひけらかして自慢する人は全然just doingじゃないんだよ。当たり前のことをやってるという感覚じゃないとjust doingにはならない。別に偉いことでもなんでもなくて普通。
だからってやってない人が普通以下というわけでもない。比べちゃだめ。比べた途端にjustじゃなくて条件付き確率になるのよ。こういう時はこれくらいの確率で仕事できるけど、
そうじゃなくなったらがんばれるの君?って話になるわけだ。それがベイズ確率論。
結局のところしょーもない努力厨も無気力人間もどっちも条件付きという点でjustじゃない。ということが分かってもらえるかと思うんだけど、ここでつい我々現代人の悪いくせは、
どうしたらいいの?と考えてしまう。justはjustでもjustなシステムズはなーんだ?を見つけようとする。小学校のときに先生が理科の授業で「なぜ?を繰り返しましょうね~」と言ってたけど、
だいたい専門知識のない奴が「なぜ?」を連呼してもロクなことにはならないだろと子供心に思ったし大人になってその考えはいっそう強まるばかりだ。
我々現代人は西洋のデカルト的世界観を知らず知らずのうちになんだかんだ引きずっているから、つい社会面や政治面のニュースを見て「なぜ?」「どうしたら?」という形でどうしても方法序説を考えてしまうのが
悪いところで、そんなくだらないこと考える暇あったら自分のことやればいいのにと老婆心ながら指摘してしまう。
未来検索ブラジルのグニャラくんこと末永匡34歳会社員も社会のことなんて考える必要はありませんと明言している。ネットで声の大きなスポークスマンがそのように言ってくれるのは実に心強いことである。
この「まず自分」の精神はまさにjust doingそのものと言って良い。世の中エゴは悪いこととされていて、周りに気を遣うべきというマナーや、周りに合わせるよう押し寄せてくる同調圧力があるけど、
よく考えてほしいのは周りと自分を対置させて相容れないもののように扱っていること自体がデカルティズムの陥穽にドハマリしているということだ。
無意識に利他と利己は反対で、利他は大事だから、じゃけん利己はやめましょうね~とみんな当たり前のように思っているのがおかしいんだよね。