はてなキーワード: 天皇とは
もうちょい調べれば?
ブルーギルはブラックバスの餌として調度良いので、ブラックバスの違法放流と同時にブルーギルを放流してた、という事実はあるよ?
元々ブルーギルは外国からもらってきたものを養殖しようとして上手くいかなそうだから放流してそこから日本に広まってったものみたいだけど、
ブラックバスの居る場所にさらにブルーギルを放流してた、っていう事実はあるわけで。
元々天皇が譲り受けた形のものが最初だから、それが下手に広まっちゃって、
心痛めてる、って話まであるわけで。
祀られているかどうかは私は知りませんが、それはともかく、靖国神社に祀られているのには民間人を虐殺したのも含まれているでしょうから、小野田氏がどうあれやっぱり不快感あるという結論になるのでは。
まあ、A級戦犯の政治家クラスは、命令によって結果的には何万人以上を間接的に殺したわけですがね。それと、同じ国民を死にに行かせたわけですしね。
いずれにせよ、違和感ありありですわね。
結局は、天皇を頂点とする大日本帝国のために死んで、靖国神社といういわば神道的な姿をした墓碑に刻まれてですね、大日本帝国がある限りは永遠の命を授けられるという、そういう仕様なんですわ。靖国神社というのはそういう処。
欧米人は、日本人に、「武士道」だのなんだのと、オリエンタルなものを、東洋の神秘(苦笑)みたいなものを求めるらしい。太平洋戦争などで命懸けで戦闘をしたり特攻をしたり(つまり自爆だ、自爆攻撃)した理由も、武士道だだのなんだのと言う。切腹だの自決だのという面がやたらと強調されている。
しかし、日本兵が命を捨てた理由は、武士道なんかではなくてむしろ、儒教なのだと思う。
例えば、「天皇は国家の家父長なのだから、天皇のために粉骨砕身、命を懸けるのは当然」という理屈が出てくる。また例えば、「男は妻子や父母・兄弟姉妹を護衛するものなのだから、戦場に赴いて命を懸けて戦うのも当然」という理屈が出てくる。
欧米人(とりわけ英国人など)が「武士道」だとか言うときには、騎士道が念頭にあるだろう。その騎士道というのは本質的には、主君と騎士の間の契約でできていて、個人の論理である。
それに対して儒教というのは、個人の論理ではなくて、家・血族の論理、個人ではなく全体の論理である。儒教の価値観というのは、時空を超越している。個人の観念も、現在の観念も超越する。個人の観念から跳躍したところに価値観があるから、個人を捨てて尽くすのも不可解ではない。過去現在未来という時間の壁も跳躍してしまうので、自分ひとりの人生どころか、何十年後でも何万年後でも先の発想をする。(儒教というのはそもそも例えば、先祖から子孫の血族代々を通じることで不老不死になる(永遠の命を得る)という発想だ。)おそらく、国歌の「千代に八千代に」のような時間感覚もその発想から来ているのだろう。
実際には、国家や社会というのは、個人の集積でできている団体だ。家というのも、家族ひとりひとりの集積でできている。だから、全体のために個を捨てろというのを強調して偏向すると、結果的に全体も破綻する。自滅だ。
ただ、現行憲法ができるまでは、日本国の主権者は天皇だった。民主主義国では主権者国民であり国は国民で構成される団体なのだが、国民主権でなく天皇主権だった当時の日本では、極端に言えば、国民はコマ、鉄砲玉だということにまでなりかねない。だから実際に、多くの人が命を懸けて、そして、死んだ。我々は、同じ国家の家族を、仲間を、死なせた、殺した。
知らない人も多いのかもしれないが、伊勢の神宮に参詣することが全国的に定着したのは江戸時代以降のことだ。
そもそもは、伊勢の神宮は、皇祖神である天照大神の寝所に相当するもので、皇族ならばいざしらず、一般庶民が訪問するなんてもってのほかなのだ。神宮は皇族の家であり、皇族でない者にとっては他所様だ。近ごろ赤福の経営者が「外国人観光客が伊勢神宮に来るのは不本意だ」という主旨の発言をしていたが、そもそも、日本人であっても一般庶民が神宮に参詣してはいけなかったのである。
ところが、江戸時代に神宮が一般庶民に開放されて、一般庶民の訪問が可能になった。その背景には、国家という「家」意識があったのだろうし、また、一般庶民にとって皇族や将軍家などが憧憬の的だったことがあるのだろう。
そもそも江戸時代よりも前には、一般庶民の多くには移動の自由がなかった。特別な理由がなければ他所の土地に入れてもらえない。そして例えば奈良時代には朝廷に納税するために村代表が奈良まで行っていたが、荷物のすべてが納税品なので、帰り賃なんて持っているわけがなく、奈良で野垂れ死ぬかホームレス化するかという使い捨てだった。ということは、お伊勢参りが流行した江戸時代なんていうのは、経済的に成熟していて、しかも個人の観念が発達もし、だから観光旅行も流行ったのである。いまならば「一生に一度は地球一周旅行をしたい」なんて言う人がいるが、江戸時代の移動手段や科学技術レベルからすれば「一生に一度はお伊勢参り」という話なのである。お伊勢参りだとかおかげ横丁だとかいうのは、江戸時代にはもう資本主義市場経済が成熟していたことの表れだ。
さて、いまも「総氏神」と言って神宮の神札を一家にひとつ祀るという考え方を、そもそもの神宮司庁(伊勢)や神社本庁(東京)が流布している。その「総氏神」という発想はつまりは、天皇を頂点とする国家という家制度の思想の表れだ。一種の国家神道だとも言えるのかもしれない。
本来は、天皇家は私のようなパンピー(笑)とは異なる家・血族なのであるからして、庶民は、血族・産土神(自分の所属)を祀るのはもっともでも、神宮の神札を祀ったり、ましてやお伊勢参りをするなんて、きわめて奇異なことなのである。そもそも、失礼だと思う。私は純然たる保守なので、そう思う。一般国民なのに神宮の神札を祀るというのは、国全体を家ととらえた「家制度」をみているからなのだ。
しかし残念ながら、「保守」を自称する多くの人たちは、さかのぼってもせいぜい本居宣長くらいで、つまりは江戸時代くらいにしかさかのぼっていない。江戸時代なんて、日本史ではつい最近のことなのに。前述した通り、江戸時代にはもう資本主義市場経済が成熟していた。丁稚という「会社員」(笑)もいたし、江戸や京都や大坂などという大都会では個人の観念が定着していて「観光旅行をしたい」と言っていたわけなのだ。「保守」と言う割には明治や江戸くらいにしかさかのぼらないなんて、なにを日本古来の文化だと言うのだろうか。私にはわからない。
アメリカのアニメ「シンプソン」とか、天皇を投げ飛ばしたりしているけど、何で日本の右翼がそこまで抗議しないのかといえば、あれは自国の大統領でもコケにするという、ある意味「平等」な作品だから。
左翼の平等に右翼が反発するのは、結局のところ、左翼の唱える平等は「左翼が弱者と認定した者にとって都合の良い平等」でしか無いからなんだよ。
「保守」を名乗ったり、さらには「右翼」だとか「皇国主義者」だとかいわれたりする人たちをみていると、「本当に天皇を崇敬しているのか?」と思える人が少なくない。
天皇は、とても穏やかで柔和だ。
それに比べると、彼らの中には、攻撃的で高圧的、威圧的な人が少なくない。街宣車で大騒ぎしたりするのにしてもそうだし、官邸周辺でのデモ活動を「テロ」呼ばわりするのにしてもやはり、そうだ。
理屈の上ではきっと、彼らは、天皇陛下に代わって、天皇陛下を護衛する「親衛隊」のたぐいであるつもりなのだろう。だが、私からすると、例えば、師弟にしても親子にしてもそうだが、敬愛する方の性格に似ても似つかない子弟なんて不肖だと思える。
さて、日本の、少なくとも江戸時代以降の社会文化というのは、中国儒教の影響を受けた、国家的大家族主義だ。家父長主義、「家制度」ともいわれる。そのため、「俺がなんとかしてやる」というパターナリズム(父性主義)の傾向が強く、社会全体が共依存気質をもっている。それはいまでも、政治家にしても、妻子をもつ世帯主の男にしても、そういう傾向がある。彼らはしばしば悩みを抱え込んで死ぬことすら、少なくない。
例えば戦争をして多数の「家族」を死なせたのも、善いわけがない。家族を死なせるというのは、あきらかな悪だ。だから、本当の日本的・保守的な発想であれば、「死んでしまった者は還ってこないのだから、もうしかたがない。だが、仲間を死なせたのは悪いことだ」と、結果は受け入れざるをえないが、倫理道徳観は維持することになる。「確定した結果はしかたがない」という発想も、日本的特徴で、外国人からはしばしば不可解に思えるようだが。結果に対しても是が非でも許容しないという感情・意地がある人たちからすると不可解だろうし、行為であろうが結果であろうが固定実体的に善悪を下すひとたちからしても、不可解なのかもしれない。
家族を死なせてしまうのは、善いわけがない。戦争をして、殺しあいのために戦地に赴かせるのも(他人を殺させるのも、殺されるのも)善くないし、ましてや本土空襲で多数の家族が死ぬのも、善いわけがない。あの太平洋戦争でたくさんの人が戦地に行ったのは、本土の家族を護衛するため、しかたがなかったからだ。
死んでしまったものはしかたがない。だが、いま生きているものを死なせるのは善くない。
例えば、安倍晋三君が靖國神社に参拝しつつも「不戦の誓い」などといういささか奇異な妥協をしようとし、ところが自民党内では「靖國は不戦の誓いをするような場所ではない」とケチがついて党の運動方針からは撤回となったそうだ。はたして自民党のひとたちは、本当の「保守」なのだろうか? おそらく、いまの自民党は、真のこころざしのある者たちが降板したから、結果的に「極右化」、エセ・まがいものの「保守化」をしてしまったのではないか。それなのに、既成事実として自民党が多数派で政権を担ってきた、その母体があるがゆえに、まがいものの「保守」が政権を握ってしまっているのだろう。
なんだか、皮肉なことに、例えば社民党だとか共産党だとかの人命を強調する人たちのほうが、私には「保守的」にみえて滑稽だ。いや、実のところはおそらく、合議・話しあいというのが本当の日本文化で、それは言い換えればときに「民主主義」ともいうし、「コミュニズム」ともいうのかもしれない。
いまの日本ではいったい、なにが偉いのだろうか? 戦争にしても、原発にしても、自殺者が日常的に多数出ているのにしても、なぜなのだろうか。大切なものを見失っているのだと思う。カネと贅沢が偉いのだろうか。あるいは、世界の投資家にいい顔をするのが重要なのだろうか。
日本と中国は地理的に極めて近く、長い交流の歴史がありました。日本人は古くから中国の文化を学び、それを元にして漢字から仮名を作り出したように、様々な面に日本の文化を育ててきました。したがって両国の間には似ている面と異なっている面が入り交じっていると聞いております。
このような関係にある両国の間で関心を持っている人々が互いに理解を深め合い、友好関係を増進することは極めて重要なことと考えます。
短期間の限られた地域への訪問でありますが、中国の文化や歴史に接するとともに、多くの人々と交わり、相互理解を深め、友好関係の増進に資するよう努めていきたいと思っています。
日本と中国は、古くから平和に交流を続けてきましたが、近代において、不幸な歴史がありました。
戦後、日本は、過去を振り返り平和国家として生きることを決意し、世界の平和と繁栄に努めてきました。
この度、国交正常化20周年の機会に中国を訪問することになりましたが、これを契機として、日本が世界の平和を念願し、近隣の国々と相携えて、国際社会に貢献しようと努めている現在の日本が理解され、相互信頼に基づく友好関係が増進されことを願っております。
皇室と中国の関係につきましては、古くは天皇が遣隋使、遣唐使を派遣し、それに伴って留学生も随、唐に渡り中国の文化を学ぶように力を尽くしてきました。
遣唐使が廃止されてからは、中国との関係は、政治が将軍の手に移ったこともあり、なくなりましたが、中国の文化が皇室に深い影響を持っていたことは、例えば天皇の即位礼でも孝明天皇までは中国から取り入れた礼服という式服によって行われていたことにもうかがえます。
明治以降は、世界の変動の様々な影響を受け、両国の関係も様々に変化しますが,その間には不幸な歴史もありました。
戦後は、国交正常化の後両国の関係は緊密化を強めてきていることは喜ばしいことと思います。
両国の関係は過去を踏まえて、それを乗り越え、相互信頼に基づく末永い友好関係が今後培われていくことを念願しております。
変更した質問を見ると、あなたは「反対している奴はやっぱりこんな極端な奴ばっかりなんだ!ばーかばーか!」ってやって年末を楽しく過ごしたいんだと思うけど、
多くの人はそんなに極端な意見を持っている訳じゃなく、あなたと同じような考えだと思うよ?その上で反対している人もいる。一応回答しておくと
1. 参拝者の是非
がだめ。
失くす必要は無い。
3. 戦犯の是非
多くはなくなっており、何かの罰を与える事はできないだろう。
個人的には会う事があったら、そうだな、酒を飲みながら当時の話を聞きたいな。
靖国は所詮は民間の宗教施設で、靖国にまつわる問題とは全く関係なく一般人も参拝しているし、
平和に対する罪を持つA級戦犯にしても死後も辱めることはない、と受け入れいている人たちや遺族もいる。
そんな中で靖国自体の問題点をあげつらって総理の靖国参拝をより否定しようと頑張ってる人たちのやり方は、
背後に靖国自体を否定したいと思う気持ちだとか靖国を肯定する人たちを否定したいと思う気持ちが垣間見えるのに、
追記:ブクマを見たけど、わかりづらかったようなので質問を変えるよ。
答えを見て自分でも気づいたけど、私が聞きたいのは、君たちはどうすれば、どうなれば納得するのか、
君たちは公人でない一般人の靖国参拝や靖国神社それ自体の存在、総理のあり方に対してどう思っているのか、を確認したかったんだよ。
もう回答済みの人は詳細な回答でだいたいこれに答えてる人も多いしそれでいいよ。
この中で参拝しないで欲しいのはどこから上?
一般人の参拝すら許せない?
今物理的に潰せるか潰せないか、とかじゃなくて、実際に靖国神社がなくなって欲しいと思っているかどうかを聞きたい。
仮に靖国の運営方針が変わってA級戦犯の合祀をやめればそれで問題ないとするのか、
あるいはそれに加えて遊就館の展示内容が歴史認識を踏まえて戦争を否定する良い方向に変わればそれでいいのか、
やはり靖国がどれだけ変わっても来歴からその存在自体が否定されるべきものだからなくなって欲しいのか。
国家神道についても同様だね。
靖国さえ解決すれば、あるいはなくなればいいのか、国家神道的なものはなるだけなくなって欲しいのか。
英雄視
やむをえなかったなどの消極的肯定
なるだけ言及しない
個人の罪として扱うのではなく国として反省のよりどころにする
一切の行いを否定する
A,B,Cそれぞれに対する態度は?
実際目の前にその戦犯が生きていて、あなたが彼に何をしても許される状態にあるとしたら、あなたはどうする?
とにかく戦争がしたい
日米同盟を破棄したり国連を脱退してでも中国や韓国と再び戦争をして勝ちたい
必ずしも領土が取り返せなくても・あるいは奪われても構わないが平和的手段で解決したい
総理の内心についてはいろんな主観が考えられるわけだけど、総理が今参拝した理由をどう考える?
総理の歴史認識や今回の参拝を踏まえて、総理は外交についてどう考えていると思う?
本当にいろんなところで言われているような過激なことを考えていると思う?
そもそも国家が戦死者を弔うというのはどこの国でもやってること。
アメリカのアーリントン墓地なんかは有名だけど無い国がないくらい戦争墓地や記念碑はある。
で、国の指導者がそこを訪れるってのは、国のため死んだという建前だから当然といえば当然なんだよ。
日本の靖国神社だって中曽根まではほとんど全員(任期が短すぎて行けなかった人もいたはずだ)が参拝してた。
1975年までは昭和天皇が親拝してた。
その頃までは別に特別なことじゃなかったし、外交上問題になることなんてなかった。
だけど、1978年に昭和天皇の反対を押し切って戦犯を合祀してから天皇は行かなくなった。
ここが重要なんだろうと思うんだけどね、逆賊松平某が合祀しちゃったんだよ。
その前の筑波藤麿って元皇族の宮司は昭和天皇の意を受けて合祀を拒否してたのに、だ。
で、戦犯を合祀したことが中国、韓国に知られるようになり、中曽根が行ったら中国、韓国が反発した。
それからは総理大臣の公式参拝は控えるってのが不文律になった。
だけど国家としての戦死者慰霊も必要だから政治が分祠すべきって方向に動いたんだけど靖国神社が頑に拒否した。
さらには遊就館って建物の中の展示で、戦犯なんてものは無いとまで言い始めて歴史の修正を試みる始末。
それを見て世界中がちょっとそれはちょっとないんじゃないのって思い始めてた。
アメリカもここに来て初めてはっきりと参拝はやめろと忠告した。
にもかかわらず昨日参拝しちゃった。
どの国でもあるいはどの宗教でも、死んだあとどうなるのか? は一大テーマだ。キリスト教は神の国に行くし、仏教は輪廻転生するし、神道は死んだら神様になる(そしてまた人間に戻ったりする)。
http://www.hachimangu.com/cgi/kouwa/kouwa.cgi?mode=one&namber=199&t...
神道では、人間が死ぬと、すべて神になると考えています。これは、私たちの魂は神から頂いた、神の分け霊、分霊と考えるからです。神の分霊なんだから死んで霊界に帰れば神に戻ると考える訳です。
私たちが死ぬと肉体と魂は別々になります。死んでまもない魂は、霊界での初心者、若葉マークの霊であると思います。肉体と魂が離れても実感として分からない時期、まだ死を認められない霊なのです。病気やケガで足を切断した人が、ないはずの足がかゆくなったり、痛くなったりすると聞きますが、そのような、まだ肉体のあった頃の感覚が離れられないでいる時期が若葉マークの霊であろうと思います。肉体の感覚が残っている内は、この世での執着心も残っているのです。
「自分は死んでしまったのか。それではもうこの世にはいられない。神の世界、仏の世界、御先祖様の世界へ還ろう。そして、魂の修行をして、神となって子孫を守っていこう」と決心したならば、執着心も切れて、迷うことなく霊界へ行くことができるのです。
この引用は一例だが、洒落怖あたりをみてもなんとなくこういう意識を持っている日本人は多いように思われる。仏教が入ってくる前の神道だと魂の修行とか言うのはなかったと思うが、その代わり祈祷などで鎮めていたのではないかな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A8%E9%9C%8A#cite_note-Yahoopedia-2
憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている[2]。
霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える[2]。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える[2]。
ちなみにこの死者が安楽に辿りつけない場合もあるという考えは日本固有ではないが、一神教系だと地獄にいくことがおおいようだ。アミニズムは現世に災いをもたらすらしい。
有名なのは平将門ですよね。生霊といえば源氏物語の御息所。医療や科学が発達していなかった時代に、アミニズムはそれを神様がやったってことで納得していた。一神教の場合も神の試練だと、仏教は功徳が足りないと思っていたのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの(日本三代実録)である。
仏教的にはどちらかと言うと荒神の信仰に近いものかな。阿修羅とか。
靖国神社もそもそもはこの御霊信仰のもと建てられた神社である。
http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
前進は明治2年にできているので、戊辰戦争の御霊供養のために建てられた神社であり、その後の日本内の内戦および諸外国との戦争でなくなった人々の供養をしている、ということになっている。
政府のたてまえとしても、靖国神社参拝は御霊供養のため、ということになっており、単純に墓地に行くのとはまた違う意味合いを持っているようだ。そもそもが怨霊を鎮めるためのものなので、死に方(戦死・処刑)に関しては問わない。ところでここって空襲で亡くなった人は入ってるんですかね?それはまた各自か。そもそも神社って系列があるし、霊魂はどこでもいけるしな。
こうしてみると、靖国にA級戦犯が眠っているから参拝してはいけないというのは的外れで、むしろそういう人がいるからこそ供養はせにゃならんということになる。祈る内容は「もうしません」でも「つぎはぜったいかちます」でもなんでもいいわけだが、とりあえずこの観点から反対するのは無理筋だろう。
んで次に気になるのは、別に首相がいかなくてもいいんじゃね?という点である。
多分これは崇徳天皇のせい。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
いろいろとロマンチックなひとだが、気性が激しいともいう。
[要出典]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である。
しっかり子供作ってエンジョイしてんじゃんとは思うが、日によっては荒ぶっていたのかもしれない。どちらかというと彼に対する罪の意識で、後々伝説が作られたような気がするが、なんせ千年前である。確かめるすべはないな。まぁいいや。とりあえず天上人の天皇が荒ぶって怨霊になってしまったので、天皇が御霊鎮魂をするようになったもよう。これが国のトップが御霊慰霊を行うようになった理由だろう。
1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
ちらっと調べた限り3がある以上それをひっくり返すのは無理筋だが、いまのところ行くこと自体は1で押し通している。奉納するとなると3に引っかかるのでそれが争点になるようだ。もし私費で奉納とかしてりゃ1があるので反対するほうが悪いが、そうではないのなら違憲判決が出されるのは妥当な所。
しかしそこまできっちりとやってしまうと、天皇制がそもそも違憲、内閣総理大臣を天皇から任命されるのも違憲になってしまうので極めてグレーである。
ただ天皇は戸籍がないので、日本国籍を持ってない。例外として日本国民ということになってはいるが、主権もないしこのへんもグレー。突っ込んではいけない領域である。
このうち1は明確に信教の自由があるので以降といくまいと自由。
2は前述のとおりグレー。
3は参拝が軍国主義につながるというのが主な反対の理由のようだが、参拝は御霊供養のためであり、反省するのも軍国主義を目指すのも当人次第(しかも信教の自由があるのでそれを規定することはできない)ので的外れ。一般的にキリスト教では参拝は神への信仰、仏教は魂は輪廻転生してしまっているので特に意味のない行為(参拝自体は功徳を積むため)で、御霊供養の概念はきちんと説明しないと伝わらないと思われる。4,5も同様。
したがって、問題の争点は政教分離の観点でOKなの?という部分だけだな。ちなみに諸外国がこれに反対するのは内政不干渉の原則に反するが、言うの自体は自由である。
「こっちはそれなりに誠意見せてるのに、首脳会談とか出来ないし、むかつくから配慮なんて止めて嫌がらせで参拝しよう」という事です。要は、「もうお前らと急いで関係を修復するつもりはないから」という、中国や韓国への挑発メッセージです。
李明博が、日韓関係がギクシャクしていた時に、敢えて友好的態度に出ず、「竹島への上陸」や「日本の天皇への謝罪要求」を実行したのと同じです。
この挑発が、吉と出るか凶と出るかは、しばらくしないと分かりません。
左翼の人々は「日本が外交的に孤立する」と騒いでますが、拉致問題を引き起こした北朝鮮にすら手を差し伸べるような日本人がいるのだから、そんな事にはならんでしょう。個人的意見ですが。
神聖にして侵すべからずの天皇に対して愚かな意見を挟んだりしてる時点でお前が日本人じゃないことの証し
おぅ、ここに
を未だに持つクズが居た。。。
神聖にして侵すべからずの天皇に対して愚かな意見を挟んだりしてる時点でお前が日本人じゃないことの証し
早く祖国に帰れよチョン