はてなキーワード: 一筆書きとは
○ご飯
朝食:なし。昼食:おにぎり三つ。夕食:キャベツ、人参、ソーセージのスープ。パン。チーズ。
○調子
むきゅーはややー。
去年、思いの外頑張れてたみたいで、いろんなことがスムーズに進んで定時で帰れた。今週忙しいと思い込んでたけど、随分と楽できそう。
そんなわけで、本当は来週からやろうと思ってた新企画です。2020年のゲーム日記は少し違います。今まで、だらだらだらだらだらと超大作アニメRPGばかり遊んで来ていますが、幅広くいろいろなゲームを遊ぶための新しい仕組みとして「遊ぶゲームランダムにきめーる」を導入します。
これは、僕の悪癖「ゲームを遊ぶ前にダラダラと下調べをしてしまう」を解消するために、遊びたいゲーム候補の中からランダムにゲームを選択する遊びです。以下の四つの群に四つのゲーム候補、計十六個のゲーム候補があります。それらを一つの群から一個、一日四個のゲームを遊びます。だいたい一つ三十分の計二時間遊ぶ予定ですが、まあこの辺は残業やプレイベートの事情との兼ね合いで柔軟にやっていきます。
○遊ぶゲームランダムにきめーる「フライハイワークス」:「1:Shizuku」(3DSDLソフト)
パズルゲーム。いわゆる一筆書きパズル系かしら。パズルのジャンル分け詳しくないけどそんな感じ。
二年ぐらい前に遊んでたと思うんだけど、忙しくて遊ばなくなったのを再プレイ。
とはいえ、仕組みを忘れてるのでセーブデータを消して最初から。今日は1964(2面)の2-3をクリアしたところまで。
こういうシナリオのない、純粋なパズルだけゲームは、割と好きなのだけどココ最近遊べてなかったので、とても楽しい。
頭を使うのは苦手なのだけど、試行錯誤の結果解けた時のすっきりー感はゲームならでは。割とこの試行錯誤の繰り返しが好きなので、どうしても最善手を探したりする部分は苦手かもしれない。とはいえ、ただクリアするだけでも良いと思うので、のんびり遊ぼう。
○遊ぶゲームランダムにきめーる「ポケモン」:「4:ポケモンレンジャー」(DS)
ポケモン外伝ゲー。この当時多かった、タッチパネルを利用して遊ぶ系のゲーム。
タッチパネルでポケモンを囲って、ゲットではなくキャプチャするポケモンレンジャーになるゲーム。
今日は、チュートリアルであろう見習いミッションをクリアして、町のパトロールの仕事を受けるところまでプレイ。
ドット絵が可愛くて、このポケモン可愛い可愛いのわちゃわちゃ感はドット絵ならで、懐かしい気分になった。
特にチュートリアルでキャプチャするポケモンが、僕の大好きな悪タイプのポケモンの一匹ヘルガーなのもあって、とても気分良くゲームを開始できた。
シナリオのクリア自体はもちろん、恒例の悪ポケコンプもやっていこうと思う。
○遊ぶゲームランダムにきめーる「スマブラ参戦作品の元ネタを色々遊ぼう」:「4:スターフォックス」(スイッチのスーファミオンライン)
難しい! もともとシューティング苦手なのと、昔のゲームで難易度が高いのと、ローポリのいまいち敵なのかアイテムなのかわからないグラフィックがあいまってか、ステージ2でいきなり何度も死んでしまった。
難しいとはいえ、ブラスターのSEや挙動の微妙なふわっと感などは遊んでて楽しい。
はじめに、でも書いた通りこのランダムにきめーるシリーズは広く浅くがモットーなので、ゲームの趣旨を理解したら、どこでもセーブリセットでも使ってサクッとクリアしようと思う。
○遊ぶゲームランダムにきめーる「最高のコンテンツを作る会社のゲーム群」:「3:本格スマホカードバトル」
超大作アニメRPGとコラボしたときいて色々プレイしてみた。ただTCGってカードの効果眺めてるだけで秒で時間すぎるね。
コッコロちゃんと戦えるみたいなので対戦するためのデッキを構築してたけど、少し模索するだけであっというまだった。
適当にググって組めそうなアーキタイプをコピーするのがよいかなあ。もしくはサクッと課金してストラクチャーデッキみたいなのを買うとかかなあ。
○調子
有給なので、満を辞してこれを言いたい。
「ゆうきゅうー!」と。
色々と用事を済ませたり買い物に行ったりゲームをしたりと、休日を満喫した。(何しろ満喫するために朝の6時に起きた)
まずは、この間行った病院で、一応念のため他の検査もしてもらっていたので、結果をもらいに行ってた。
さらに、髪の毛を切りにいった、だいぶさっぱりしたので、いい感じ。
その足で、ゲームを扱っているお店を4件ほど回った。
●スイッチ
○ポッ拳
だいぶ前に、ストーリーモードだけクリアしてほったらかしていたのだけれど、はてなブックマークでおすすめされたので、改めてプレイ開始。
今日からは、オフラインモードではなく、オンラインのランクマッチをプレイすることにした。
そのために、今日はゲームを扱っているお店を回って、スイッチとLANケーブルを繋ぐ周辺機器を買って来た。
ついでに、ギルガルドとカメックスのDLカードも買おうかと思ったけど、売ってなかった。
こういうオンラインで人と対戦するゲームは久しぶりだな。(コマスター? あれはラティアスやニャヒートやメガゲンで特攻するだけの運ゲー特化デッキを組んでるせいで、対話を完全に拒否ってるから……)
今日の成績は、7勝14敗。
使用ポケモンはダークライ、ニアは共鳴、サポートポケモンはニャビーandアシマリ。
初日なので成績はどうでもいいや。
まず今日わかったことは、ナイトメアモードじゃない時のダークライは、非常に戦いづらい。
負け筋は大体、ガンガン押されてナイトメアモードになるタイミングがなかったり、ナイトメアモードになれた時には体力がもうほとんどないみたいな感じだった。
特に遠距離が強い、シャンデラ、テールナー、ピカチュウの三匹にはパーフェクトゲームされてしまった。(しかもピカチュウには二回)
勝ち筋は、ナイトメアモードになると、みんなガードを固める傾向があるので、そこをテクテク近づいて、下A。
この下A、覚醒中に出せる無限エクリプス(どうでもいいけど、無限にエクリプスでコーディングしなきゃいけない悪夢を見そうでこの技名嫌い)並みに減るうえに体力を回復できるので、積極的に狙いに行ってる。
あと、FPの下Y、これを置いて相手に引っ掛けるように立ち回ると、いい感じ。
だから、これから鍛えたいのは「いかにしてナイトメアモードにチェンジするか」っていう切り返しの技術だなあ。
今のところ「おねがい!」って言いながら、Yを連打したり、ためAをカウンター気味に打ってからY連打したりって感じだからさすがに「おねがい!」はどうかと思うので、考えたい。
●3DS
このゲームの解いていく時「頭が加速」していく感じが、たまらない。
こういう3DSの安価なゲームをアホみたいに積んでるんだけど、どれも割と楽しい。
一筆書きの応用でかつ、無限ループに陥ったりもう動かせないところにはまったりするのを避けたりするのが、難しい。
隣の席の一緒に仕事している後輩がとにかくうざい。
そのくせ自分がだめな部分を指摘されると「自分なんか、、、」みたいな卑屈になってめんどくさい。
認めるだけましかもしれないがめんどくさい。
知識を持っていることが偉いと思っているのか、こっちが何か知らないといちいち偉そうでめんどくさい。
「あ、○○さんはそういうこと気にしないんですか/知らないんですか?(ニヤニヤ)」うるせー殴るぞ。一筆書きできる図形の条件なんか知らんわ。
自分は先輩だからまだ丁寧語だが、後輩相手だと高圧的でとてもじゃないが見てられない。
去年は新入社員の女子の部下ともめて他の班にその子が異動しちゃうし、、、優秀だし話合うしかわいいしいて欲しかったのに、、、
お前一人で会社回してんじゃねーんだぞ。みんないないと回んないんだぞ。
うちの班にはいないが、中国人欧米人が他の班にはいるような会社なんだぞ。
名前からわわからんが、在日中国韓国人って絶対いるだろうし、、、もうとにかく勘弁してくれ
あぁ早く○なねーかなー
ぼくは水耕をしません。
勢によって文書は磨かれる
なんでしょう。ずっと文章を書いていて感じるのは、「一筆書き」で書いた文章が市場面白いんです。
もちろん、そういった文章はところどころ「おかしい」ところもあります。文章がうまく繋がっていなかったり、冗長になってしまっていたり。
でも、その「おかしさ」は、ポジティブに捉えれば「味」とも言えるんです。
言い換えると、遂行してきれいな文章にしようとすればするほど、「味」も薄くなっていきます。
水耕というプロセスを通すと、「違和感のない文章」になってしまうんですね。
説明書ならまだしも、ブログというのは本来アートに属する創作活動です。
小説や詩のようなものです。だからこそ夜でいる人に「違和感」を与えないようなブログは面白く無いんです。
読者はあなたにスピード感を求めているんです。著者の文章を書くスピードというのは、実は読者によく伝わっています。
→断定
よく遂行された文章は美しいですが、読者は同時に「退屈さ」を感じてしまいます。
勢いの中で創作を続けることで、上達するスピードもまた早くなていきます。
→勢い重要
推敲ばっかりしている人はなかなかうまくならないんですよ。
舞台に立つ回数が減りますし、瞬発力も出ませんから。「一筆書き」を世の中に出しまくった人が結局はトップに立ちやすいのです。
→出しまくるぜ
いいんですよ。推敲なんでしなくて。もっと「生」のあなたを見せましょう。
恥をかきましょう。話はそこから始まるんです。
「ガンダムUC」の最終話ついてちょっと書きたい(ネタバレあり)。
最初に立場を明らかにしておくと、増田は、典型的な富野信者であって、ガンダムプロレスにはあんまり興味がもてない人間だ。バイアラン・カスタムとかシュツルム・ガルスのトコとか、こんな意味ねーシーン全部削って、会話に尺まわせよと怒っていた。そーいう面倒くさいやつが書いたもんだという前提で読んで欲しい。それと後半は電波。富野信者なので。
で、この「ガンダムUC」、MSチャンバラについては絶賛されているが、ストーリーの方は賛否両論がある。だが私は批判することに意味があるのかと当惑している。こーいうのは、主張者が主張した内容をマジに信じている、という前提がなければ、なりたたない。私は、そこが信じられないのだ。
「UC」最終話を劇場で見て愕然とした。「送り手はこの物語のメッセージをまるっきり信じていないのではないか」と衝撃を受けた。この作品に対して、茶番だの陳腐だの説得力がないだのただの二次創作だなどと言うのはいいが、それを一番、自覚しているのは送り手自身なのではないか、という疑念をぬぐえずに今に至っている。
どういうことか。
「ガンダムUC」というのは「ラプラスの箱」という秘密を廻る物語だ。
これはほとんどマクガフィンに近く、中身は実はどうでもいい。とにかくこいつが連邦の中枢により隠蔽されたことで、宇宙世紀の歴史(とニュータイプ思想)は歪み、1stガンダムから「逆襲のシャア」まで続く戦乱の歴史が巻き起こることとなった。しかし歪んでいようが何であろうが、百年続けば、それは秩序の一部となってしまっている。
既存の秩序の維持するため、「箱」を隠蔽するか? 混乱を呼ぶとしても、「箱」を公開するか?
少年たちは後者を選ぶ。たとえ波乱の未来を到来させるとしても、「不正義による秩序」より、勇気を持って「正義による未来」を選ぶ。物語が描くべき正しい選択、正しい若者のあり方だと思う。
かくして宇宙世紀は箱の呪縛から解放される。人の革新=ニュータイプ思想のもと連邦とジオンの戦いが形を変えて繰り返される不毛な連鎖から解き放たれる。これはもちろん、終わることを許されず、次々と続編を創ることを余儀なくされたガンダム産業の比喩でもあり、だからこそガノタの胸に響く。
もちろん、我々ガノタは、その選択の先に待つ「F91」や「V」の時代が、必ずしも希望に満ちた未来でないことを知っている。だが、そうだとしても、「これまでと同じことをひたすら繰り返すだけ」より「失敗覚悟で新しい世界を創る」ことを選択した若者たちの決断は、とても尊いものとして描かれる。
それを見届けて、シャアもアムロもようやく成仏する。一年戦争の呪いから宇宙世紀が解き放たれた瞬間である。
富野信者が、勝手なことしやがってと怒るのはわかるが、しかし、ともかく、それがこの映像が発したメッセージなのだ。
だが、恐ろしいことに、劇場で上映されたこの作品は、実に4年間、7巻かけて書いた結末を、直後にみずから全否定するのだ。スタッフロールが終わり、何が始まるか。
突然に、1stガンダムのリメイク、「機動戦士ガンダムORIGN I」の予告が始まるのである。
http://www.gundam-the-origin.net/
「一年戦争の時代」からの解放をテーマにした物語のラストで、唐突に「一年戦争」がリメイクされますよーと嬉々として宣言されるのである。よーやく成仏できたシャアは30分待たずに現世に呼び戻される。この予告編は意図的に、映画「機動戦士ガンダムⅠ」の予告に似せて作ってある分、余計ループ感は強い。
唖然とした。個人的には「UC」7話はそこまで引き込まれるものではなく(イデオンネタは超大喜びしたけど)、「及第点」ぐらいの印象だったが、それでも感動を返せ、という気になった。本篇終了後即座に全否定される映画なんて聞いたことがない。一体、原作者や監督やスタッフは、どうしてこんな暴挙を認めたのか。本当にそれでいいのか。このあたりの意思決定の構図はよくわからないから、とりあえず「送り手」と一緒くたにする。ともかくこの送り手が、自分で発した「箱の解放」とか「一年戦争の呪縛の終結」とか「歪んで腐敗した旧体制から混乱覚悟で新しい時代へ」なんてメッセージをまるで信じていないし尊重する気もないことだけはあまりに明らかだ。
新しい時代なんて創るつもりはないよ。
え? じゃあ「UC」はなんだったのって? ほらわかるでしょ、本音と建て前ってやつですよ、おたくもニュータイプだったら察してくださいよ、ねぇ。ほら、キュピーン! って。
これはそういう宣言だ。
ハルトーシ少年は継承した「富野の箱」を手みやげにサンライズ財団の重鎮となり、バンダイム・エレクトロニクスのガンプラを売る人になりました……それが4年かけた「ガンダムUC」の結果です、と言っているのだ。おかしいですよ晴敏さん! そんなの富野信者の晴敏さんの言うことじゃないですよ!
そんなわけで「UC」の内容についてまともに批判することの意味を私は見失った。だって送り手が、自分の語った物語を信じてない、それどころか一番ひどい形で全否定を行ってしまっているのだ。今更何を言っても単なる死体蹴り、いや、それどころか、そのような批判こそ、送り手はむしろ望んでいるのだとさえ思えてくる。
つまりこういうことだ。
メチャクチャ単純化すれば「UC」での賛否両論というのは、ガンプラオタクと富野信者の対決である。前者はとりあえずMSVが一杯出てくれば喜ぶし、後者は富野神の書いた聖典に他の誰かが一筆書き入れることなど許さぬと批判する。ガンプラオタク濃度が濃いヤツは「UC」肯定するし、富野信者濃度が濃ければ「UC」否定という話だ(繰り返すが、メチャクチャに単純化すれば、である)。
だが、両者は本当に対立しているのか? 前者の主張は「ニュータイプ思想とかどうでもいいから新しいMSV一杯出せ」であり、後者の主張は「下銭な二次創作者如きが富野神のニュータイプ思想(宇宙世紀史でもいいが)に手を触れることなど一切まかり成らん」である。
この両者は必然的に「永遠に一年戦争の外伝だのリメイクだのを作り続ける」という結論に帰結するしかない。前者は積極的に、後者は消極的にそれを肯定する。そして送り手もまた、それこそを望んでいるのはすでに見たとおりだ。
そうしてガンプラオタクは送り手の造ったMSVのプラモを買い続る。富野信者は彼らを嘲笑うことで「自分こそ富野神の思想を守り続ける孤高のニュータイプ」という立場を確保できる。
しかし、私は富野信者として、そこに安穏とすることはできぬ。そんなことをすれば脳内カミーユ・ビダンが「あなたはいつも傍観者で、人を弄ぶだけの人ではないですか!」とスイカバー突撃をかけてくるからである。散っていたお禿様の髪に顔向けできぬからである。富野信者であるということは、富野を聖典とすることではなく、富野のように生きることだと信じているからである(だから、今度の「Gレコ」だけが本当のガンダムなんですよ、という立場にも私は立つことができぬ)。
(大人しくガンダムを卒業すればよいのはわかっている。それができれば苦労はしないのだ!)
ガンダムはロボットアニメでありサブカルチャーである。ガンダムはビジネスとの兼ね合いの中でしか生まれこないし、それこそがガンダムの強さ、ガンダムの同時代性の源であることは、絶対に否定できない(ガンプラ売りに徹した「ガンダム」は嫌だが、押井守映画のような文学モドキの「ガンダム」なぞもっともっと嫌だ)。
だからハルトーシ少年だって、私が↑で書いたことは百も承知かもしれない。きっと彼は叫ぶだろう。
「やりました、やったんですよ、必死に! その結果がこれなんですよ! 映画の「ローレライ」(と「戦国自衛隊」と「亡国のイージス」)がコケて、右傾エンタメ作家の席は百田尚樹に奪われて、今はこうして富野の二次創作を書いてる! これ以上、何をどうしろって言うんです! 何と戦えって言うんですか!」(註1)
私は、彼に答えるべき言葉を持たない。こんな時は、富野神に還るしかない。神は言っている。
"Century color Million color" ――せいきの色はまんこの色であると。
違う。
ターンAターン、だと。∀だと。全肯定であると。
送り手が自分のメッセージを一切信じていないなら、それを批判して何の意味があるだろう。逆だ。有効なのは、相手が信じていないメッセージを、こっちが文字通りに全肯定してやることだ。つまり∀UCだ。
バナージが何も考えずに箱を開けた、その蛮勇を評価するように、富野のニュータイプ思想を継ぎ、「逆シャア」の先を書こうとした覚悟は評価する。
駄作も愚作も一杯出来るのを承知で、宇宙世紀のその先が語られるのを心から望む。
できるかぎり応援する。
それしか、ガンダムに対し、緊張感を持って向きあう=富野的である方法は、ないような気がするのである。
むろん、それは、終わりのないディフェンスである。
ガンプラオタクからはそっぽを向かれ、富野信者の罵倒に耐えねばならぬ。
しかし、それでも、えんえん一年戦争をリメイクし外伝を造り続けるよりマシだと信じる。
その向こう側に何もなくても――いや、しかも脳波コントロールできてしかも手足を使わずにコントロールできるマシンにセシリーが触手レイプされ、バイク戦艦が街々を踏みつぶし、カテジナさんがオデロもシュラク隊も鏖にして、月光蝶でみんな灰になったあと、全人類が無限力に溶け合って何もかもが因果地平の彼方にスペースラナウェイする哀しみが待っていたとしても――、かまわないのである。
STAND UP TO THE VICTORY!
註1:いや、もちろん田母神俊雄と戦ってくれればよい。ついでに百田も撃てばよい。実は「ガンダムUC」の小説版には、田母神論文事件を露骨に批判した箇所が存在する。詳しくはこちら → http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-388.html。小説版が出た頃には、ただの右のヤバイ人だった彼が、若者の支持を受ける保守系政治家候補となってしまった現在こそ、福井の田母神批判はアクチュアリティを増している。
http://www.jimin.jp/sen_syu45/seisaku/pdf/2009_bank.pdf
首相が変われば公約なんぞ紙切れになるという事を体現してきた首相が、特に記載の無い物は4年で実現するとしている。これは、もし首相になったら解散権を行使しないという事であろうか。そんな事は無いと言うのが、過去の実例である。
そういうわけで、悪意をもって公約を解析する。公約の中に織り込んだ片言隻句を、公約が承認されたのだから実現すると主張し、都合の良い所だけを実現し、都合の悪い所は放置するというのが過去の実例である。公約の中に折り込まれた文言をあげつらう事で、本音が透けて見えるのが、自民党の公約である。
最初のページに、いきなり社会保障を取り上げている。社会保障カード・番号を2011年中に導入というのが本音であろう。そのあとに続いている信頼性と透明性を向上させるというのは、努力目標となっている。つまり、今までどおりの丼勘定で不透明な帳簿のまま、財源が足りないから消費税を値上げするという展開が、第二パラグラフで、財源を確保する為には、帳簿の赤字を増やさなければならないので、医療費の診療報酬を値上げする。医者に悪役を押し付けるから覚悟しろというのが第三パラグラフ。医療費の大部分を占める高齢者の医療費を切り分けた高齢者医療保険制度を廃止して、丼勘定に戻すという改悪を狙うのが、第四パラグラフである。
次のページの第一パラグラフで、年金記録問題における処理も、社会保険庁の後継組織である年金機構に委ねるということで、今までどおりの丼勘定を続けるとなっている。第二パラグラフでは年金制度の改革を唱えているが、丼勘定を続けるとした上で消費税の増税を主張している事から、貧民から消費税を取ってそれを貧民にばら撒くという、無駄な努力をする社会保障の実務団体だけが栄えることになる。第三パラグラフでは健康で安心できる国民生活の確保となっているが、健康をネタに旧厚生省傘下の機関が予算を食い潰すという話にしかならないであろう。続いて、生存している被爆者は、平均寿命以上に長生きしているという現実をどのように考えているのか理解しがたい一文。核兵器廃絶の為のお題目として必要なのは理解するが、道理で考えれば、無理がある主張となってきている。むしろ、日本も核武装するぞという話にした方が、周辺国は本気で心配するようになるだろう。犯罪被害者の支援というが犯罪者を発生させない事が最優先事項であり、社会の安定の為には雇用の創出が必要であるという根本を無視して税金を使い込むと主張している。そして、省庁統合、合理化という先の衆議院選挙の公約に反して設立しようとしている消費者庁と、当選する可能性のない組み合わせばかりを売りつける無選択制ロトくじの売り上げを財源とするスポーツ庁のなし崩し的容認を求め、砂防にお金を注ぎ込む、地方の土建屋まっとれよぉ。という掛け声が続き、治安維持という話になるが、治安を不安定化させているのは失業者・無業者の増加と、中国人・南鮮人等の質の悪い外国人の流入であり、これらの対策をしない限り、どんな対策も、担当省庁やその下請けが繁忙するだけの効果の無い無駄金にしかならない。
次が少子高齢化対策であるが、そもそも、少子化が必要だとされたのは、アメリカがグローバリゼーションによって経済秩序を破壊する事を選択し、食料や燃料の自給自足が求められる国際的な状況があった為である。その為に、穏やかな人口減少策として、男女平等を行い、女性に出産や結婚を愚行であると認識させた。底辺向け娯楽メディアであるテレビドラマなどで、女性がバリバリ働き、無能な男性上司をやり込めるという筋書きのドラマを流し、服や装飾品等で借金漬けにした。これで、女性は結婚に価値を見出せなくなり、また、男性もそんな女は嫌だとなり、結婚が減り少子化へと向かうようになったのである。
高齢化が問題になったのも、少子化によってネズミ講であった社会保障制度が破綻する事が判明したからであり、ネズミ講を辞めるというのが対策の本筋である。安心して働けるように、保育園や幼稚園を無償化するという話が出ているが、共働きで働かなければ食べていけないという貧しい社会において、育児を他人にお金で任せるという状況の、どこに安心があるというのであろうか。介護報酬の引き上げという主張もあるが、消費税の増税によってという前置きが3ページ前にある。
次は雇用対策になっているが、既存の産業に雇用余力は無い。むしろ、合理化・効率化によって雇用を削る事が利益になる状態にある。したがって、新しい産業を発生させない限り、どんな対策をしても無駄にしかならない。医療・介護・保育・環境等を成長分野としているが、これらを成長させる事は、貧しい社会を助長するだけである。職業訓練や職業紹介は、セーフティネットとは言えない。職安をどんなに立派にしても、職業訓練をどれほど行っても、機械の方が安いし文句を言わない以上、職が無い。若者・女性・障害者・高齢者に働き口を作る為に、企業に補助金を出すという主張にしても、既存産業は雇用過剰であるという現実を知らないという事でしかない。人手不足とされる産業は、人が行かない理由があって人手不足なのであって、補助金を出す事で、それにお墨付きを出すような真似はするべきではない。派遣労働者の待遇改善については、派遣は正社員に比べて条件が悪いのだから、その分、賃金を上乗せする事とすれば解決するのに、口入屋のピンはねと雇用者側のコストダウンとを温存したままでやろうとすれば、補助金を出すという事にしかならないだろう。その財源は、4ページ前の消費税の増税であろう。
教育文化についてであるが、学校教育は底辺を引き上げる教育であり、頂点を伸ばす教育ではないという前提を忘れている。読書人として必要な読は、一日一冊を30年間やって1万冊というのが、最低ラインだと思うべきで、義務教育で30年間なんて事は絶対に不可能である。さらに、書の方は論文にせよ、この日記のような雑文にせよ、相応の量を書かなければ、人様にお見せできるような文章にはならない。これも、10年や20年は、軽くかかってしまうと考えるべきで、義務教育でやれるわけが無い。スポーツについても触れているが、これらの対策については、この日記の
[2006.11.3] http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/20061101-10.html で触れている。
コンテンツのデジタルアーカイブ化も唱えているようだが、無制限の公開がコンテンツクリエイターの利益になる状況を作ってからでなければ、民業圧迫にしかならない。これを怠ってデジタルアーカイブ化を進めるならば、国営漫画喫茶のような役立たずな赤字組織の方がマシという結果になるであろう。
経済成長政策についてであるが、経済成長を阻害しているのは何かという認識が抜けている。さらに、日本と経済利権において敵対するBRICsやアジア諸国を、いかにして潰すかという話が必要なのに、投資や市場の取り込みという話になっている。公約に2%成長と書けば、そのとおりに成長しないのは国民が怠惰だからだとでも主張するつもりであろうか。環境に優しくする為に、太陽光発電の電気を倍額で買い取り、そのコストを国民に付け回すのでは、既存の発電手法の効率を上げたり、電気を使わない生活を模索するのは、政治的に正しくない事になってしまう。国際競争力についてであるが、同じ土俵で競争するには、人口という量と質が必要になる。高度成長期に、日本は、世界中のどの国もやらなかった小型化や高性能化や高信頼化という分野に傾注した。異なる土俵を常に探し、そこを切り開いていく事こそが競争力の源泉なのである。既存産業に幾ら補助金をばら撒いても、言い分を聞いて法制度を捻じ曲げても、他国が新しい分野を切り開いてしまったら、それらの産業は全部時代遅れになり、高度成長期に日本が追い落とした国家と同じ結果になるのである。
新しい試みを資金力でパクって潰す大企業の横暴や、製造者責任を過大に追及する法制度、排他独占に偏った知的所有権の運用
(cf.[2006.12.31]) http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/20061221-31.html
といった問題を解決しない限り、何をやっても税金の無駄遣いにしかならない。消費者を守るあまり、既存産業しか存続できず、雇用が切り詰められてデフレが止まらないとなる。
地上デジタル化は、電波利用料を負担しない民放や、電波利用料で運用される国営放送局と民放に分割されるのを嫌がったNHKのわがままの結果でしかない。大衆を扇動するメディアとしての存続を拒絶したテレビは、サブカルチャーへと転落していくだけなので放置すればよいが、その代わりに、大衆を扇動してコントロールするメディアが必要になる。IT化=e-Govであるとしているようでは、難しいであろう。
中小企業と建設業には格別の配慮をするというのは、献金と票の対策であろうが、今更こんなお題目を並べても、貰う物だけは貰おうという姿勢しか引き出せないであろう。それに、その財源が消費税の増税では、消費者から受け取って代理納付する税金の方が商売の利益よりも大きくなるようでは、ばかばかしくてやってられないという事になる。自分で商売をして、利益を上げるという事を経験してない議員先生には、説明しても理解できない感情なのであろう。
地域活性化と地方分権については、高速道路の無料化によって国民の分布を均一化する事が必要だが、高速道路は有料のまま、スマートIC等によってキャッシュレスで課金を続けるとなっている。そういう電子ガジェットこそが無駄であるし、国土の健全な発展を妨げる原因となっている。
食料生産については、農協の縛りによって作付けや出荷が制限される原因は、高速道路の料金が高く、運賃を乗せた以上の価格で売れなければ赤字になる為である。そして、価格が上がらない理由の一つに、海外からの輸入がある。食肉や飼料の輸入が多い為に、農産物の生産は人間の食用に限られてしまい、限られた需要の中で競争をする為に、弾力性に欠ける運用を強いられるようになっている。減反や各種補助金制度が、人間用の食糧生産に限定されている為に発生しているとも言える。海外産をコンテナで輸入して市場に卸す方が、国内産をトラックで市場まで運ぶよりも安価になる原因は、複合的ではあるが、それらを解決する施策がどこにも無い。農家に補助金をばら撒くという事であろう。
財政再建は、プライマリーバランスの達成を先送りした時点で、何を言っても信用されない。その上に、小渕政権並みのばら撒きをやっているのだから、無駄遣いを改める気が無いのであろう。
資源・エネルギーについては、東シナ海の地下資源に触れているが、友好の海にするという主張は、脳天気に過ぎるであろう。盗掘者に友好を求めても、なめられるだけである。
(cf.[2005.2.17]) http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/20050211-20.html
この手の主張をする環境エバンジェリストは、誇大妄想の気がある。
行政・政治改革については、肝心の多選規制と幹部公務員の政治任命が無い。世襲規制でお茶を濁す気であろう。政治資金についても、個人献金という制度を作っても、政治自体がドブ板選挙を繰り返すのであれば、献金した記憶の無い人の名前を借りたり、故人が献金していたり、企業の従業員を使った迂回献金という事にしかならない。制度が適正に運用されている事を証明する義務は、その制度に携わっている人々全員に有る。クリーンな運用を実現したいならば、制度に頼るのではなく、日々の運用によって証明するべきである。政党の規約による多選規制は、議員が地域の利権代表になってしまうのを防ぎ、政治任命によって使った幹部公務員を議員にステップアップさせるルートを構築する手段である。世襲は問題ではない。多選が問題なのである。
1万人オピニオンリーダーというプランも、考え違いをあらわしている。党員集会を開き、意見を吸い上げることが民主主義である。オピニオンリーダーになる為には、自民党の太鼓持ちになれというのでは無意味である。
国会改革等については、議員定数の削減と立法スタッフの増加が対になっているようである。これだけを実現するのでは、公設秘書が増えるだけでしかない。
議員外交の積極展開というのは、売国する気満々の議員とか、失言癖や酒癖が悪いといった、国辱レベルの議員を排除してからの話である。その為の手段として多選規制が必要であろう。オラが在所の先生という事で、世間知らずの上に能力的に問題があるのが、多選して大臣になったり首相になったりするという現状がある以上、無理である。
最後に、自主憲法の制定とあるが、今の憲法は、GHQの素案を丸呑みした物ではないし、ちゃんと日本の議会の承認も得ている。素案の段階から日本製でなければならないというのであろうか。今の憲法には時代の変化に合わない部分があるが、そこだけを変えていけばよいのであって、丸ごと書き直す必要は無い。下手に書き直してしまうと、憲法を書き直す事が政治家の個人的な目標になってしまう。憲法の序文を書かせろと血迷うような輩が出てくるのだ。序文は、天皇が国事行為として公布を行う時に、特に大切な物だから一筆書き加えるとして付けられるもので、最初からつけるモノではないし、序文の内容はどのようなものが適切かという御下問が無い限り、議員や民間がどうこうするものではない。
突っ込みどころが多すぎる公約であるが、これが、党幹部・長老独裁制の限界なのであろう。突っ込む気にすらならない他の政党の公約よりはマシなのだが、選挙前にどたばたとでっち上げる事を繰り返す限り、公約は党総裁の独り言で終わってしまうという構造を変える気があるのだろうか。
私がいままでの人生で感動したモノコトを勝手にランキングさせていただきます。
有名な仕組みだしみんなもすごいと思ってるはずですけれども、いやマジでこれを思いついた人のことは尊敬せざるをえないです。
水そのものに蓋の役割をさせるという発想の転換がすごい。排水管は排水を流すための仕組みなわけなのに、その流す排水自身にも役割を持たせてしまう一石二鳥感といいますか。
仕組みが機械的でないことで故障率はゼロに近くなるでしょうし、メンテは掃除程度なのでねじ蓋を底につけるだけでよいっていう潔さもさることながら、洗面所で流してしまった指輪なんかもトラップのところで助け出すこともできる副次的効果もあるだなんて。一粒で二度おいしいなんて。
天才すぎます。
プラスとマイナスです。特に「温度」を考えるときに感動したといいますか。
たとえば冷蔵庫っていう機械はものを「冷やす」のですけど、この「冷やす」っていうアクションはなんというか能動的な感じとでもいいますか、冷やす=温度を引く、という表現がしっくり来なかったんです。温度を引くってわからない。
でも、冷やすっていうのは「-の温度を足すんだ」って考えたときイメージがものすごくマッチしたのです。
マイナスのものを足すっていう考え方は私にとってものすごく大きかったんです。
マイナスすごい。
メビウスの輪による表裏の消失とメビウスの輪に鋏を入れたときの形とか、◎(二重丸)を一筆書きで書く方法とか、ドラえもんのワープ理論(二点間の最短距離は?)とかとかの感動物語を抑えて第1位に輝いたのはお母さんとビニール袋です。
いわゆるお母さんがスーパーでビニール袋に野菜を入れるところに感動したというか。
普通に考えて、野菜を袋に入れようってときには、「野菜を」「袋に入れる」と思うんですよ。当たり前です。
でもお母さんたちは、「袋に手を入れて」「野菜をつかみ」「袋をひっくり返す」ことで結果的に「野菜を袋に入れる」んですよ。
なんというか、プロセスと結果の乖離とでも申しますか、結果が予想できない感のかっこよさがあると思います。だって袋に入れるはずが袋をひっくり返すって! しかもいつの間にか目的が達成されてしまっているだなんて! 裏が表で表が裏て!
これを見たとき、うちのお母さんは天才だと思いましたね。もうね、神かとゴッドかと。