はてなキーワード: ミクロとは
これは 大切なことだから、みんなで強調しないといけないと思うが
あなたの給料は、あなたが努力してスキルを上げて、成果を挙げない限り上がらない。
時間が経てば、自動的に(実質)給料が上がって、贅沢できるなんて、よく考えればオカシイだろ。
助けあいだから、チームの誰かが一山当てれば、でもいいけど、ミクロで見ればそういう事。
やっぱり、厳密じゃない抽象的な言葉遣いが、日本の経済をおかしくしているのかもしれん。
不足しているのは、肉体労働のそれもスキルを必要としない単純労働力ではなくて、新しい産業を作り出せる創造的労働力と専門性の高い高度労働力。
だから、その手の職業は給料は上がってる(例 薬剤師・ハイレベルエンジニア) 反対に 単純労働力は余ってるから給料は下がってる(日雇い・派遣エンジニア)
別段 単純労働力が不要な訳じゃなくて、ピラミッドの上が少ないから、下が余る。
上がもっとふえれば その人たちが工場やロジスティクスを必要とするから、もっと下も必要とされる。
わかりやすくいえば、起業する奴が減ると、社員も減る。起業する奴が増えると、社員も増える。みたいな感じで、今は社員は余ってるけど、起業する奴とそれをサポートできるやつが足りてない。みたいな感じじゃね?
インフレも同じで、経済要因によるインフレ、通貨の希釈化によるインフレなど、もう1段階ミクロな視点でないと、わけわからん。
横さんこんにちは。
書き込んでくださってありがとうございます。
上から目線ではなく、遠くから俯瞰しているからこういう書き方なんだと思います。
私の脳みその中のことだけれど、私や他の人の、人知の及ぶ所ではない部分に触れる問題というか、トラブルと言うか、だからまぁ「障害」とくくられてしまうアレの話なので、遠くから眺めて話すしかない、それが
みたいに見えるのかもしれません。
私自身、自分のことだし、実生活では非常に困ることも多いのですが、事象そのものを話題として誰かと話すとき
「ほんとうに、あなたそれで困っているの? そういうふうに聞こえないんだけれど」
といわれます。
いやぁ困っているんですが、マクロだかミクロだかこう、カメラをズームしたりパンしたりしていると自分自身が客体化されたというか、「起きている事象」そのものはプレパラートの上のミドリムシだかミトコンドリアだかと同じ状態になるんです。そういう状態として把握しないと見つめることができないんです。
お気持ちにひっかかるような話題だったら(たとえば当事者だとか、ご家族にいらっしゃるとか)、提示してごめんなさいなのかも。
早いもので福島原発事故からもう2回目の年の暮れを迎えようとしているんだなぁ。
考えていたことを書いてみたくなったのでメモ。
思い返してみると日本政府は「なにもしない」事によって
戦後、日本政府は「先送り」つまり決断をしないことによっていままで
幾多の困難を乗り越えてきた。環境が変わることによって問題が問題で
なくなってくることがあるということを身を持って知っているからだろう。
今回も結果的にはそうだった。
もしメルトダウンしたと2011年3月15日に政府が発表したと考えてみたらどうなっていただろう。
株価は大暴落、東京脱出で交通混乱(おそらく死者も出ていただろう)
経済活動は考えるのも恐ろしいほど混乱したに違いない。
それがこの程度で済んだのだから結果だけ見ると「最悪中の最高」だ。
東京を含む関東でも多分でるだろう。 しかしそれは緩やかな問題であり急性な疾患ではない。
人間は目の前の問題以外に対しての耐性は意外と強い。
命は必ず終わりがあるけれど多くの人にとってそれを現実問題として捉えるのは病気になったり寿命が終わろうとしているときになってから。。
煙草の害だって悪いと分かっているがすぐ死なないから(慢性だから)
そのリスクを理解したうえで吸う人はOKだ。
もし煙草の害が急性で10日で死ぬようならばたばこは禁止されているに違いない。
時間を稼ぐというのはとても有効なパニック回避の方法だと思う。
そしてそれを今回も(作為なのか不作為なのかはともかく)結果オーライだった。
先送りしたことで長期リスクは高まったが短期リスクは最小に抑えることができた。
ではミクロ的に見るとどうだろう。
情報が足りない中で疎開や移民を早期に決断できた者の将来の健康リスクは
比較的低いだろう。
今回の原発事故ではこのあたりの情報の取捨選択と行動の素早さが
5年後10年後に違いとなってくるのだろうが、そのころには「しかたない」で
済まされる可能性が多いと思う。 実際に健康被害があるのかもわからない。
また検証したからといって過去が変わるわけではないから多くの人にとって
無意味なことだ。
今回の原発事故では政府が情報を隠蔽していたと怒る人も多いようだが、
一生のうちに何度原子力発電所が自国で爆発するのを見ることができるだろうか?
白煙、黒煙あげて建屋が吹っ飛ぶのをLiveで見ることはおそらくもう無いだろう。
メルトダウンがしているかいないかにかかわらず、政府がどれだけ
安全だと言ってもこれは異常事態であった。
動かない人は動かないだろう。結果逃げる人は逃げ、逃げない人は逃げなかった。
多くの人は短期のリスク(健康など)と長期のリスク(仕事、コミュニティなど)を考えた上で
判断した。
善い悪いの問題ではなくあとは受ける側の問題だと思う。 マクロ的には個人の
どうするかはその人が決めることだ。その結末も含めて。
繰り返しになるが今回の原発問題の政府の情報の隠蔽は短期的かつ社会全体の利益の観点から見ると、結果的に2次被害を小さくした。
そう思う。
オブラート着せなくていいなら俺も言うけど、
『りふれは』として出してくる人がすごく限定的。『不当表示~』の方に到っては実質的に片手の指で足りる程しかいない。だったら「○○派」とか言わずに、その個人に対して批判をすれば事足りるはずなのに、そうはしない。
つまりは学問としてのリフレは支持してますよ、とかの物言いは単なる建前で、実際にはそれを含めたリフレを(おそらく実際にはそちらこそを)貶めたいというのが本心であろう。
姑息な建前を語る彼らに、まともな議論をするのに必要な誠実さは期待できない。
追記:
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-ea63.html
を読んだが、どこまで卑怯者なんだこいつ。「リフレ派」と同じ読みで且つ小馬鹿にした「りふれは」なんていう表記をしながら、『思考経済のためのラベルとして呼んでいるだけ』って。
仮に小馬鹿にする意図がなかった場合でさえ、詳しくない第三者が見かければ「リフレ派」に対するネガティブなイメージを与えかねない。世の中には、はてブのタイトルだけ見る人も多くいる。
「ロッチ」シールみたいなパチモンをロッテが潰しに行ったのと同じく、「りふれは」なんていう表記が「リフレ派」にとって悪影響があるから憤慨しているのに、
『そう(りふれは)じゃない「リフレ派」までがあたかも自分が攻撃されたかの如く憤慨して筋の拗れた反発をされる』とかってもうね、どこまで理解力に乏しいんだろう。
もっとも、おそらく本当のところは理解した上で「リフレ派」を貶めたいからやっているだろうので、何言っても無駄だろう点が実に不毛だ。
追記2:
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-9fd6.html
もう完全に確信犯なんだな。どうしようもない、こういう芸風なのだろう。こんな人にシンパ持たれているマシナリさんなどが可哀想だ。
追記3:
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-d273.html
本人からリプがあったみたいだが、リフレ派の中の一部だけを取り出して、それを(リフレ政策を知らない人が見ればリフレ派と同一のものと勘違いしかねない)『りふれは』と表現することへの批判という、この記事の本題は完全にスルー。
そして下らない幼児じみた俺様論理の開陳や、リフレとは本源的に関係の無いミクロ政策の記事の引っ張りだけ。だったら黙ってればいいものにと思うけど、本当のことを言われてしまうとカチンとくるものなのかね。やれやれ。
「『りふれは』ではリフレ派との意図しない混同を引き起すという危険性を指摘されました。今後は『ミクロシバキ派』(でも、混同を引き起こさないものなら何でもご自由に)と呼ぶことにします」と言えば済むものなのに。
もっとも、「『りふれは』と混同させて(シバキに見える政策への支持が多そうな)リフレ派を貶めたい」というのが本心の人には、それは出来なくて当然か。やれやれやれ。
ついでに、マシナリさんも皮肉とは気付いていない模様。やれやれやれやれ。
呆れ返るというのはまさにこのような心情を言うのだな。
『りふれは』と表現した上でそれを貶した文章が、(リフレ政策について何も知らない)多くの人に対して「リフレ派」についてネガティブな印象を与えることがないと思うなら、その想像力の欠如はもはや哀れむべきレベルであるし、ネガティブな印象を与えることが分かっているのなら、その上で「リフレ政策は支持している」という不誠実さはこの上ない。
結局やっぱり何が問題なんだかよくわからない。
>他人の自己承認欲求を満たす、あるいは自身のそれを満たすためのプラットフォームに、音楽は明らかにオーバースペックだと思います。
はあそうですか、としか。謝罪や撤回はともかく、歌でなくブログってのは根拠のない暴論なので説得力がないってことを何ひとつ覆してないけど。
音楽がオーバースペックだと感じるのはたぶん文章が理性を介して感情を想起する装置なのに対し音楽は耳と身体を通して感情を増幅させる装置だから、かな。音楽は概してあまりにも身体感覚に近くて客観視点を欠く可能性が高いので(クラブで踊ってるときとか聖歌隊で声張り上げてる最中に我に返ると醒める)特に承認欲求にまつわるアレコレを扱うには注意を要する。
>さらに、話を私の最初の投稿で述べたミクロマクロの話に戻すのですが
「マクロなわたし」って矛盾していて意味がよく判りませんです。
結局は「私はこうしたい、だからみんなこうすればいいのに、そんなのしなければいいのに」という理屈のようだし。
>「(よくない社会に対して)相対的に反発する」のではなくて「(社会が良くないのは最早仕方ない問題だけど、それでも自分自身は、自分のやりたいことに対して)絶対的に前向きである」といった意味合い
ボーカロイドよりはきゃりーぱみゅぱみゅって感じですね。
ponponponとかキモかわいさ命の歌かと思ったら歌詞が妙にシビアで「たぶんそんなんじゃダメでしょ」とかスイッと言いきったりしてるし。かと思ったらつけまの前向きさはアレ一体なんなんだうおっまぶし、みたいな。
確かにその路線はボーカロイドには少ないッスねー。寡聞にして『ダブルラリアット』くらいしか思いつかない。余談ですがアレ人間の男が歌うとびっくりするくらいバンプっぽく聞こえる。
しかし例えばガガリスナーやぱみゅリスナーとボカロリスナーは食い合ってるわけでなくむしろ被ってる可能性も高くて(再生こそ伸びてないけどボーカロイドにガガ曲ぱみゅ曲歌わせたカヴァーとかあるし)単に別腹なだけのような感じもする。
ぶっちゃけ供給されないし消費されないのって、それこそ非ボカロアーティストが前向きソングやってるからなんじゃないでしょうか。純粋に路線が違うっていうか、アレだ、本職の漫画家が仕事と別腹で同人誌で描きたいこと描くみたいな。
それってどう問題なんでしょうか? 規模がヤバイの?
暴論だと仰るのは最もだし、世間的にその意見が大勢だろうとも思いますが、私はオーバースペックというのが本当に生理的にダメで、そういう背景を以って「歌にする必要は無い」と考えているので、この点については謝罪も撤回もしません。他人の自己承認欲求を満たす、あるいは自身のそれを満たすためのプラットフォームに、音楽は明らかにオーバースペックだと思います。
さらに、話を私の最初の投稿で述べたミクロマクロの話に戻すのですが、私自身(当然)日本は変わらないし(てゆーか変えられないように歴史上できてるし)、もっと言えば日本は暫くの内に高度経済成長を成し遂げた歴々の偉人様方々の為に倒れると思ってます。現代型厭世観が少し具体像を持った感じです。マニュアルに沿ってれば自分の人生は問題なく円滑に進むんだと学校で教えられました。実際に生活実感としてその通りだったし、あるいは今教育政策を策定しているのはそれが大事だと思っている人々だから、義務教育を修了している身としては当然の思想を持っていると思っています。だから、今ボカロで流行りの曲を作る人々は、公教育上大変優秀な産物だと思います。それがミクロな私の偽りない意見です。
ではマクロな私の偽りない意見は何かというと、それじゃマズいでしょ、というものです。一国が過去の人間の為に滅びるなんてマジでやってられないし、そんな歴史上の汚点を以って自分の国が滅びるなんてことになれば、全国に神社が建つぐらいの怨霊になる自信があります。大事なのは今現状が改善されて何か変わることじゃなくて(そんなことありえないし)、今まさにその過去の人間に現代の人間が飼い慣らされて下を向いてることで、どーせ倒れるんなら誇りの中で上を向いて倒れたいなーというものです。
それは当然ミクロな自分にも反映されてて、厭世的で近々日本は滅ぶと思ってるけど、別に日本が滅んでも自分は滅びないし、生きていたいと思うから、厭世的で前向きな曲が好きだし、マクロな自分としては、日本が生きにくいことと自分が生きていることは別の問題で、もっといろいろ無視して生きてほしいなぁと思います。
結局、死んだら元も子もないし、それを歌にして発するってのは、どっちかってーと日本という国から美味い汁吸い続けて今まさに日本を枯れ木にしようとしている人々による印象操作ではないかとさえ思えます。
あんまり文中にうまく表現できなかったので付言するしかないんですけど、この前向きに生きるってのは、従来のロックパンクのような「(よくない社会に対して)相対的に反発する」のではなくて「(社会が良くないのは最早仕方ない問題だけど、それでも自分自身は、自分のやりたいことに対して)絶対的に前向きである」といった意味合いで、結局’00年代辺りのロックポップなんかそうですけど、スキマスイッチ「ゴールデンタイムラバー」とかちょうどピンポイントでそんな感じじゃないかと思うんです。
こういうのがあまり供給されないのは、文脈の上では公教育批判とか作曲者の手抜きの指摘とかいう形で行われているとおりで、それが供給されて消費者が消費しないのは、現代型厭世観の問題で、私や元増田は、それがミクロではなくマクロになっていることに問題意識を持っています。
最初の議論がどこから出発しているかというと、ボカロ曲の多くで捻れとか歪みとか悲しみとか、そういった負の要素が歌われているにも関わらず、それが負であるという面について何の問題意識も持っていない、ということでした。
その問題意識(負の要素が世界が閉鎖されたまま解決を見ないのは問題ではないか)自体には「どうあるべきか」という行く先が提示されておらず「何が仰りたいのかいまいちピンときませんでした」とありましたので、特にhttp://anond.hatelabo.jp/20120701150515を踏まえながら「こう解決されるべきではないか」という解答を提示したのがhttp://anond.hatelabo.jp/20120703143205になります。
歌の中でつらい現実とか、閉鎖的な現実自体を問題視しないことは別に私は悪く思っていませんし(ひとつ現象があることと、それをどのように解釈するかは全く別の話で、現象だけが発信されていても私は別に構わないと思います)、世間に公表するものがミクロであることも、フォークソングの例を引いて問題視していないことを明らかにしています。ただ、今回提起された問題に関して言えば、作詞者の世界が狭過ぎるから、現実が辛くても、辛いという自己認識が無かったり、あるいは自己認識があってもそれは仕方ないことだと思ってしまって、解決策をなんら提示できなかったりするんじゃないですか、という趣旨の論でした。歌の中で問題だけを浮き彫りにしているのではない、ということは「そしておそらく、当事者の方々にはそのことについて何らの問題意識も持っていないということも、行間から感じ取れました」という一文から明らかだと思います。
書いていなかったので書き添えますが、フォークソング自身は積極的に自己肯定をする歌で、最近で言えばボカロじゃありませんがKOTOKO「サイダー」なんかもそういう部類の歌だと思います。こういうのが「明るい曲」(暗い現実を克服した、明るい世界)という表現になるんでしょうか。
増田でレス付けるのは初めてなんで、これで付いてるのかよくわからないんですけど、そんな前置きはさておき。
一人で作っていることは、当然世界観が「狭いことの理由」にはなっても、根本的に世界観が「狭くていい理由」にはならないと思うんですよ。
この論におけるボカロ曲と同様のものに、恐らくフォークソングが上げられると思います。ただ、フォークソングとは「背中合わせ」のもので、背中だけは引っ付いてる(同質である)けど、向いてる方向は真反対ですが。
私自身は、生活者として自分の世界を円滑に運営していくミクロな世界の中心主体としての自分と、社会人(これは社会に参画する人という意味で、労働者という意味ではありません)として社会を円滑に運営していくマクロな世界の参加者としての自分は、あくまで別でなければならないと思っています。当然、音楽を作って世間に公表する以上、一定程度「マクロな世界」のことを考慮しなければなりません。
しかしながら、フォークソングは概して一個人の話です(南こうせつ「神田川」、かぐや姫「赤ちょうちん」など)。ただ、フォークソングにはマクロ性がちゃんとあって、それは、フォークソングが世間の多数のミクロな生活実感に直接訴えていた、というところにあります。日本人が皆同じだったとは言いませんが、似たような経験をした人がたくさんいて、全体の中で「訴え」を体感的に受け取れる人が多かったんです。
他方最近のボカロ曲は、作詞者がミクロな一個人の世界を描いている点までは一緒なんですが(これは最早事例を挙げるまでも無いと思います)、そのミクロな世界観が世間で共有されているかというと、そうではない。フォークソングで言えば「お金は無くて苦労したけど、今から思えばああいうのも良かったなぁ」みたいな世界ですが、結局聴き手側のミクロな世界を考慮することなく、誰かの持ってる何某かのミクロな世界を世間に向かって発信してしまうから、聞く人が聞けば「世界が狭い」とか「根が暗い」とか、そういった印象になるんだと思います。それに加えて、これは最近のオタク文化全体の傾向ですが、時間的な奥行きが欠落していて、一つの桃源郷を提示して「こんな世界があったらいいなぁ」というところで止まってしまっている。先にあげたフォークソングの例だと「ああいうの」自体が時間的な奥行きを持っているわけですが、そういうのはボカロ曲に無いですよね。
こういう見地から見るならば、「仰りたいこと」というのは作詞者全体に対する一般的な問題提起になるのではないかと思います。
仮に歌詞のある曲を作りたいのなら、現代社会にある何かしらの現象を自分自身の生活の上で解決して、それをもっと一般化して、最終的に言葉にして曲に乗せる、という作業をするべきだと思います。それを経ずに「こういう世界っていいよね」っていうのは、いろんな意味で反則だと思います。
なんかもう、お前フォーク好きなだけだろ、みたいな文章になっちゃいましたが、「いまいちピンと来なかった」部分にお答えできたのではないかと思います。
犯罪の弁護人は、世界で全員を敵に回そうとも被告人の味方であることを求められる。こんな厳しい仕事を進んでやる人が一人でもいるから、裁判の正当性が担保されるのだ。それを理解していない筈はない。単純にポピュリズムというか、衆愚主義にのっかって(群集の快感原理に訴えかけて) 弁護士会への懲戒請求を煽る。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/01/28/kiji/K20120128002522420.html にもあるが、結局の所教育問題ってのは誰でも口をはさみたくなるが故に、しばしば間違っていることであっても「正しい」という信念のもとに正当化される。しかし、教育を左右するというのは国の基礎を左右している、という責任感はあるのだろうか(私には全く感じられない)。建っている建物の基礎を変更するんだから、ドラスティックに変更したら、いくら設計図が正しくても工程管理のミスで家が引っくり返ることがある。ましてや、その棟梁が選挙で選ばれる(すなわち、継続性が保証されない)政治家だと言う。
短期的に見ればミクロな世代間格差や想定していない副作用でおかしなことになるだろうし、長期的に見れば右に左にゆさぶられた教育の現場がぐだぐだになるだろう。教育改革は1つのサイクルすら5年、10年という長丁場の覚悟がないと、本来は為しえない難事業なのだ。どうしてもドラスティックに変えたければ、特区や特定校指定などといった「離れ」でまず実験をすべき。これは、別に教育に限った話ではなく、生きているシステムは全てそうだ。
もともとフェミは『家族』とか『家庭』という構造自体に反対している人間が多いってのもあるが。
WAN:Women's Action Network「労働」概念は変化したのか? 伊田久美子
私は70年代以降のフェミニズムは、以下の2点を明らかにしたと思っていた。
ひとつは、稼ぎのない妻の利害は「稼ぎ手」である夫と一致しているように思い込まされてきたが、
それは必ずしも一致しないこと、もうひとつは、「主婦」と「働く女」の利害は対立していると思い込まされてきたが、
実はけっこう一致している、ということである。
ミクロな権力関係を含んだ「家父長制」と、一心同体とみなされてきた家族の中の仕事を労働であると主張した「家事労働」という二大キー概念は、
ここまでは解る。個人的にも、ある時点まではフェミニズムは社会に有益な働きをしてきた、とも思ってる。
しかしこの日のシンポジウムを聞いていると、どうやら二つとも私の勘違いだったかのようである。
むしろ女の多様化とか女女格差という議論の展開によって、上記の課題の重要性は希薄になっているのだろうか。
たしかに70年代の「女」というアイデンティティは今の時代には既に齟齬があるだろうし、
この変化は機会を改めて考察したいテーマである。しかしあのとき開けた構造の認識は、
運動にとって貴重な相互理解を可能にしたであろう。
なぜなら女たちが手探りで模索したフェミニズム理論とは、異なる立場の者、知り合うこともない者との連帯を可能にするためのツールだからである。
http://wan.or.jp/reading/?p=5396
運動が拡大する前は、どうしても頭数がいる、そういう利害もあって
活動に参加する時間がある専業主婦層を大量に取り込んだって感じなんだろうか。
そして今は女性側の権利もほぼ満たされ、より雇用の拡大をポジティブアクションで実現しようとしている、
だからっつって「日常会話でハングルや韓国語を使うのが流行ってる」は無いわ
あれはどう多目に見ても捏造報道・ステルスマーケティングの類だろう。
ただもし
範囲を限定する枕詞が着いてたらその限りじゃないけどね。
そこは実際の報道見てないから一定の可能性を残さざるを得ない。
「流行っていないということを証明しろ!」みたいに喚きながら仲間同士星付け合ってるのは本当にひどいよ。
「じゃー逆にどこで流行ってるのか教えて」って聞きたい。
モニュモニュと言葉を濁すか、「自分の知人が」みたいなミクロな伝聞型に逃げるだけなのはわかりきってる。
やってる顔ぶれ見ればわかるとおり、
「韓国に不利な追求はなんとか焦点ぼやけさせて話を摩り替えたいだけ」っていうのがバレバレじゃーないか。
なんか意味があるのかあれ。
そこで、インターネットを使った出会いがないものか考えてみた。
まず2ch系等の掲示板にあるメル友募集スレッドに書き込み、メル友を募集をするというスタンス。
もちろんメールが来るはずがない。
ではこちらから募集している女性にメールをしてみることにした。
とりあえずどのぐらい返信が来るものか試してみたのだが
20人の女性に送った所、返信が来たのは4名。うち1週間以上メールが続いたのが1名。
何故そのような状況になるか。
話によれば、女性の書き込みに対して、20人以上の男性からメールが来るようだ。
つまり何名とメールをしているかは知らないが、少なくとも10倍以上の倍率なわけである。
選び放題である。気にならないメールを送ってくる男性は切り捨てればいいのである。
もちろん当たり前の行為なのだが、その選別が1通目から始まるわけである。
こちらのパーソナリティなんて知ったこっちゃないわけだ。
一夫多妻制というものがあるわけだが、まさに一妻多夫制である。