はてなキーワード: ボケるとは
昼間コメントしてくださった増田の皆さんありがとうございます。
「現代のマルクス」でググったら、50万件近くヒットがあったので(筆頭が池田信夫だったのがなんともですけど)、単に自分が知らなかっただけですかね。
確かにかのカール・マルクスと関連付けられることはプラス面よりマイナス面のほうが大きいと思うので、意図的に「知りません」ってボケてるのは戦略的には間違ってないんだろうな、と思いますが、でも「誰が読んでも関連付けるでしょ? これ?」って内容である以上(そりゃ異論もあるでしょうけど)、そこでボケても意味はないと思うんですけども。
ここ最近は「ピケティの理論はあてにならない!」とか「日本は違う!」という方向の反論が主に「保守」とされる論壇から出るようになりましたが、稚拙とはいえそういう人らのほうが正しく反応してるような気がしないでも。
→鳥瞰的に物事を引いて見ず、どんどん行動に移して人生を楽しむ
なんてことが書かれていたが、実際に誰もが日常生活の中でボケを発するなんて、そんなことが日本社会で許されるだろうか?
よく考えてみよう、顔を合わせる集団の中で「笑うことが許されるボケ」なんていうのは集団の中でトップクラスの権力が無いと発言することは許されない。
ボケに笑うという行為は「負ける」ことと同じ意味。権力の高い人間が低い人間にわざわざ負けるような素振りを見せるわけがない。
権力の無い下っ端が意図的に笑わせようとして発したボケなんか集団の中で誰が笑ってくれる?
そんなものボケてもいいコーナーが設けられていない限り、誰もがボケることなどできない。
ボケというのは場の支配者が発言するもの。ブログやツイッターは自分のアカウント内という「場」の中では自由にボケることが出来るだろう。しかし実際に顔を突き合わせる集団の中ではその空間内での権力のヒエラルキーを確認しなければ大ヤケドを負う。
例えば、企画会議の席。プロデューサー、マネージャー、ディレクター、スタッフが同じ部屋に集まり顔を突き合わせる場でボケを発することができるのは、一番権力の高い立場であるプロデューサーのみだ。
下っ端のスタッフが自らのボケで笑わせるなんてほぼ不可能。せいぜい天然ボケをかまして笑われるくらいしか無い。
学校の同じクラス内。授業中や休み時間にヒエラルキーの最下層であるオタクやいじめられっ子が、自ら考案したボケを発して周りは無邪気に笑ってくれるか?大抵クラスで一番トップの男子のボケや弱い立場の生徒をイジったりすることで笑いが起こる。
ダウンタウンがしゃべる番組は権力の頂点である松本のボケが一番面白くなければならない。下っ端の芸人は決められたコーナーの中でしかボケられないし、相方の浜田や側近しか松本に突っ込むことはできない。ゲストは天然ボケしか許されない。
そんな状態続けてたらあっという間にボケるで。
他人事じゃない話だなー
俺は彼女側だけど、いや俺には恋人いないし杞憂に終わるかもだが
物心つく前、2歳だか3歳で新興宗教っていうかまあ創○学会に入信させられてる
兄弟や従兄弟たちがどう思ってるかは知らないが、少なくとも親世代と祖父母世代は全員毎日熱心に勤行してる
幼少期から毎日聞かされてたせいで覚える気はなかったのに法華経を諳んじられる門前の小僧状態
増田彼女の場合は入信するしないの戦いがあって、祖母という味方もいたようだけど
俺の場合はとっくに入信しちゃってるから活動するしない、抜ける抜けないの戦いで、味方は誰もいなかった
中学生の頃かわいらしい反抗期があったが子供に何ができるわけでもなし
脱退しようとすればできるだろうけど親族と絶縁状態になるかもしらんしそれは望んでない
学会内でそこそこの地域役職についてるらしい親の世間体を傷つけたいほど憎んでるわけでもない
今後も活動するつもりはないが、もし交際だ結婚だとなるとどうしたもんかなとって感じ
一種の親孝行と思って親が亡くなるかボケるかまでは現状維持するにしても先は長い
今朝は母と軽い言い争いをした。
母はなんでも我慢する。
言わないで、我慢して震えてる。
私はそれが嫌だ。
辛そうな疲れたかんじで、少しも笑ってない笑顔で「ウン…わかった。わかったよ。もういい。」っていう。
その姿を見るたびに腹立たしい。自分に酔ってやがる。
母はいつもいつも「あなたのため」といって、自分を犠牲にして何か世話を焼きたがる。
私が勉強で1位になったり受験に合格したときは、私よりも泣いて大喜びしてくれた。
でも勉強しろとあまりにも煩く、満点取らなかったらクラス最高得点でも怒られたし、禁止事項も多く、人を見下す発言が多い。
そしてよく「お前は母の半身で大切だ。愛してる。お前の人生はお前のものだけど、母の人生でもあるんだよ」とニコニコして言う。
だから私も母に甘えて抱きついてニコニコしながら、内心いつだってビクビクしている。
精神的束縛だ。
こんなの、居ない父(居たとしても[愛情]が欠落してるような人間)へのさみしさを私で紛らわせてるだけじゃないか!
しかしそれは私も同じなんだ。慢性的な孤独感と空虚感、罪悪感、焦燥感、自信のなさをどうにか紛らわせたくて、母に異常に擦り寄り甘えるのだ。
共依存。
まったくもって、共依存。
わたしたちの共依存には、同居してた父方の祖母の話も必要かな。
祖母は習字教室の先生をしていて、私は幼稚園ときから家の一角に通っていた。
書いた字を見てもらうため順番に並ぶのだが私は「家の子だから」と順番を後回しにされ、私だけ毎週「クズ・おばかで落ち着きがない子・のろまむすめ」などと皆の前で罵られていた。
この人、外ではとても上品そうでいい顔をする。そして典型的な悪の姑。父が不在の家で、母はいつもこの人に虐められてた。たとえば、母が風呂に入ってる時故意にお湯を止められたりとかね。
しかも祖母はアルツハイマーになり性格のクソさ&介護のクソさが日々激化していった。
母の気丈に振る舞う姿をずっと近くで見てて、糞ババアから私が守らなきゃって思った。
ちなみにボケ防止という名目で既にボケ始めてからも数年は習字教室運営は続行された。年々減る生徒。ボケる祖母。タゲられる頻度が増す私。
泣いて辞めたいと毎週母に訴え、忘れもしない、結局2年後の小6冬、罵りに耐えきれず書初練習を途中で放棄したことにより私の習字という苦行は終わった。
私は素直で明るいピュアな優等生というのがポリシーであったが小5くらいには祖母に対して怒りで満ちていてた。第5日曜のオツベルの象な感じ。
高学生のときには痴呆の進んだ頭の回転の早い祖母と激しく罵り合うことが頻繁にあった。本気で殺したいと思うほどに憎く、汚らわしく思っていた。
そんな感情を抱く自分も同じくらい穢らわしくて、もうピュアには戻れないんだろうなって悲しくてよく泣いた。
このとき通っていた進学校の勉強に私は全く着いていけなくて、アイデンティティが砕けまくりで、唯一の癒しの部活を禁止されたりして、遅刻を繰り返して、ゲームに没頭して、自分を諦めていて、勉強しなさいという母に祖母と喧嘩するのと同じテンションで言い返するようになっていた。
この頃から、我慢する母にも怒りを感じ始めた。
母は日増しに疲れていった。
なぜ?なぜこの人はただ耐えるのか。
何度も聞いたけど「耐えるが勝ち」みたいな答えでよくわからない。だってそんなに不幸そうな顔するのに。イライラする。私のせいだ。守りたかったこの人を傷つけてるのは私自身なんだ。
でも母はひたすら耐えてひたすら傷つく。なんでよ?痛いって言ってよ。
私は「辛いなら言って。力になりたい。」といつもいうのに、母は「うん」といいながら全然言ってこない。
悔しい。
私は一体なんなのだ。
イライラする。そうこうしてるうちに、さらにヒートアップしてしまう。止まれない。私には止まれない。耐えたくない。母みたいになりたくない!感情が爆発させる。母にも感情を爆発してもらいたいという希望も込めながら。
母は私を怯えるようになった。
私はいつも怯えて生きてるというのに。
鬱のような。でも鬱じゃないような。
大学1年で一人暮らしのとき、ある日突然涙が止まらなくなって動けなくて、本格的にメンヘラの仲間入りを果たした。
ホームシックだと思う。共依存が抜けないんだ。自立しようなんで思ったことを1度もなかったもん。
薬も飲んだし過食したし不眠したし過眠したし引きこもったし大学もたくさんサボった。鬱とか非定型うつだとか色々考えたけどどれもしっくりこなかった。
アダルトチルドレンだけは当てはまった。親にも言った。伝わらなかった。全く伝わらなかった。
へーそう。だから何?親のせいにしたいならすれば?って言われた。
信じてなくて、どうでも良さげだった。鬱とかACとか相談するたび、朝の星座占いぐらいに信じてなくて、聞き耳もたれなかった。
もう何をいってもダメだ。だめなんだ。
もう私が親から離れるべきなんだ。
ここ最近一番死にたくなったのは、母のためにUターン就職して、ブラックなとこで心身共に疲れて結局すぐ退職して近所の雑用バイトを始めたとき「べつに地元に拘らずに東京で一人暮らしで働いてもいいじゃん?」といけしゃあしゃあと言われたことだ。居てくれたほうがいいって言ってたくせに。
何言いたいか分からなくなったよ。
いいや、とくになにか主張したいんじゃない。
ただ、言いたかっただけなんだよね。
性格悪いよね。こどもだよね。でもこれが私なんだよ。
なにもかも味気なく感じる。ジェットコースターとか乗るときだけ、マジに心が動くってかんじかな。
悲しいな。
京極堂こと中善寺秋彦が活躍する、憑き物落としに関する小説だ。
ざっくり説明すると、なんだか良くわからない、もやもやとして曖昧で錯綜した事件を、
取りまとめて名前をつけてしまって、名付けた「ソレ」を落とす、推理小説だ。
どんな物事でもそうだが、名前をつけて性質を固定してしまえば、対処することが出来る。
正月親戚が集まっててクソ忙しいのに、誰かリビングでサボってなかったか!?とか揉めた時に、
たいがいに酔っ払ったジイさんが「そりゃ、ぬらりひょんじゃ」って言って笑えば、そう言うことになる。
「撮り鉄」も、そうなってないだろうか。リビングでサボってたヤツが隠れてしまっていないか。
だが、残念ながらどんな集団にも、一定の割合で残念な人がいる。
たとえば、100人しか居ないマイナーな趣味だと、もしかしたら残念な人はいないかもしれない。
でも、世界的に見てもマナーが良いとされる日本人でも、1億人以上もいれば、強盗もあれば殺人犯もいる。
スチルカメラで撮影して、記録を残すことが、既に「趣味人」のものでなくなって久しい。
さらに、デジタルカメラの普及は、誰もがカメラを常に持ち歩く時代に限りなく近づいていく。
銀塩で夏場は酸っぱい臭いをさせていた自分からすれば、iPhoneについているカメラは奇跡のようだ。
つまり、母数が増えれば残念な人が現れるのは、構造的な問題で、どうしようもない。
つまり、母数が増えたことで残念な人が現れること以上のスピードで、残念な人が発生しているなら、それはきっと他に問題がある。
例えば、そろそろ廃止になる路線が話題になるときに、列車の備品を盗む犯罪者のことが話題になる。
(よく「不届き者が居る」とか言うファンが居るが、ハッキリ犯罪だと書かないのも問題だと思うが別の話だ)
こう言うとき、「乗り鉄のマナー悪化が」というい話にはならない。
乗り鉄の一部に犯罪者が、とも言われない。そういう犯罪にはどう対処するのが良いだろうね、という話になる。
ひるがえって、「撮り鉄」の時には、「撮り鉄の一部に不心得ものが」とか「撮り鉄のマナー悪化」などと、「撮り鉄」がクローズアップされる。
こうした「マナー」がことさら話題にされるときには、対象者が一部ではないことを示している。
少なくとも、相当数のマナーが悪く、厳密に言えば犯罪であることを行うものが多いということだ。
母数の一部に問題を起こす人がいて、相当数のマナーが悪く見える。
これは、「致命的なことがおきる範囲に、マナーの悪い者がいる」ではなかろうか。
例えば、列車の撮影と言うのは、ずいぶん古くから趣味にしている者が多い。
ある一定以上の年代層ならば知っている「究極超人あ~る」にも、トクユキを正面からおさめる馬鹿げたシーンがある。
あれでもって、全国のカメラ小僧を糾弾するのは同じように馬鹿げている。
母数が大きくなり、残念な人が増え、そして、致命的なところで致命的なことをする残念な人が増える。
なぜならば、良識が有る人は線路内に立ち入ったりはしないし、桜の木を切ったりしないし、罵声を浴びせたりしないからだ。
トクユキの迫力あるシーンを撮りたい馬鹿は1万人に一人でも、100万人規模のカメラ小僧がいれば、100人もの馬鹿が出る。
そして、列車を止めるには、致命的な場所にたった一人致命的な馬鹿がいれば良い。
だから、致命的なことになる人数が問題になる。
列車を止める撮り鉄の問題は、たった1人でも問題になる。これは犯罪者抑止の問題で、撮り鉄の問題とは少し違う。
レッテルを貼ると、理解するのが楽になったような気がする。正しく張れていれば。
でも、そこで思考停止をして、問題の分類を止めるのは、違うと思う。
6時~7時:夫の食事の用意など
7時~8時:自分の食事など
15時~18時:買い物など
ちなみに夫が仕事の関係等で家にいないときはほとんどずっと寝てる。新聞すら取り込んでなかった。
そりゃ忙しいわ。まず効率的に動くことをしない
買い物に行くにしても食料品を買って家に帰ってきて「あ、そういえば」と別のものを買いにまた出かける。
廊下は人が歩かないところには(隅や角)埃が溜まっている。
リフォームしたキッチンも油が飛んで野菜の切れ端やらなんやらで既に汚れている。
流し台には食器が山積み。なぜか食料品の包装用ビニールまでも一緒に流し台の中に。すぐ横にゴミ箱があるのに。
捨てるのを忘れたのかすごい量のペットボトルがキッチンの隅に積んである。床に落ちたゴミもそのまま。
洗面台に落とした髪の毛はそのまま。風呂掃除は適当なので浴槽がぬるつく。
もちろん布団は万年床。
自分が実家にいるときはもうちょっとマシだったと思うんだけどなあ。ボケるような年でもないし、動くのが辛い身体ってわけでもないし。
もうルンバでも置いておくしかないかなぁと思ったんだけど、床に荷物をそのまま置くのでルンバがいても動けない環境だから意味がない。
本当にどうすればいいんだろ。もう疲れちゃったよ。
同じ三十路だが、焦燥の意味が全く異なっていたので、書きたくなった。
全く時間が足りなくて焦っている。
その後週の半分は飲みに使うが、かなりは社内の人間関係を円滑にするための社内接待。
気がついたら太り始めているから、一日最低30分は有酸素運動してる。
2ヶ月でベルトの穴が2つ緩んだが、運動は続けないとすぐ戻るのでこれは続ける。
さらに、今は仕事に関連した資格の勉強をしてるから、酔って帰っても1時間は勉強する。
何か武器を持たないと、今の仕事だけでは本当キャリアとして5年後とかまずいから。
俺が辛いなんて言える空気ではない。
出会いも30過ぎると自分の魅力が日に日に落ちるから、婚活も必死。
趣味はあるけど、全く時間取れないのでもう趣味だなんて言えません。
三十路だよ。二年後32だよ。
次に、高齢者医療は医薬品つまり製薬会社の利益になるから、進んでいく。
住宅問題は、真面目に取り組むと東京の地価が下落して、既得権益を持ってる人たちが損するから、進まない。
子供の問題に関しては、そもそも、優秀な子供を残せる層ほど子供を残さない。というか、残せるわけがない。
2言目には論理的思考より、まずセックスみたいな人たち代表されるようなセックス原理主義な人たちを見ていれば、セックスに慎重になるのは当たり前。
某芸能人が、なぜ若者はセックスを嫌うのか?って言ってたけど、そりゃぁ、お前みたいな大人(貞操観念が1gもない(男の場合は浮気に置き換えて))を見てるからだよ!と
結婚するまでするな!とはいわんが、程度ってものが有るだろ。ましていわんや結婚してから。
基本的に、俺は関心のある記事にブクマはすれど、コメントを付け足すことはない。
他人の話をダシに承認欲求を満たそうとしているようで、どうにもコスッカラいと感じてしまう。
とはいえ、潜在的にお喋り精神を持ち合わせているし、その欲求を否定するわけにもいかない。
「何か言ってやりたい」という気持ちが昂ってくる、いかんせんそういう年頃なのだ。
そうやって悶々とネットサーフィンしているときに、絶好の記事がはてブに舞い降りる。
だが、そうして書いているうちに少し冷静になってきて、一旦手を止めて自分のブコメを見直す。
あまりに稚拙で未熟。覚えたてのワードを使いたいがために、並べ立てた上っ面な内容。
違う違う。こんなことを書くくらいなら、教室の黒板にラクガキでもしたほうがまだマシ。
とりあえずこの記事、俺としては賛同できる内容ではない。
だが、ただその意を示すだけでは個人的に面白くない。
どうせなら、ちょっと皮肉を交えるか、「俺は本質を見抜いているぜ」感を出していきたい。
となると、俺一人の頭で導き出せる手法は、
あたりだろうか。
1は個人的に最もやりたい手法だ。相手への奇襲にもなる。
今回、それで優越感が果たして得られるか。
とりあえず保留。次に2だ。一度、踊らされた苦い経験から編み出した手法だ。
よくよく冷静になって記事を読み返してみると、この内容はどうも嘘くさい気がしないでもない。
「自分は真に受けてませんよ」感を出しつつ保険をかけて、その上でホントだった場合の回答を書く。
それでストライクやアウトをとって俺は満足なのか。
3を考えてからでも遅くはないか。とはいったものの、俺はあまりボケるのが得意ではない。
一度、書いてから恥ずかしくなって結局ノーコメにしたこともあったくらい、俺は自分のブコメに自信がない。
そんな俺がハナからボケるつもりで書いても後悔するのは目に見えている。
そもそもどういうのが面白いか自分には判断できない。他の人のブコメを参考にしてもよく分からない。
それに今回の記事は、文章だけを見るなら真剣に書かれた内容だ。
それに対してボケるっていうのは不誠実な気がしてならない。
そんなことを考えながら、俺は頭の中でグルグルと迷走し、結局は何も書けないでいる。