京極堂こと中善寺秋彦が活躍する、憑き物落としに関する小説だ。
ざっくり説明すると、なんだか良くわからない、もやもやとして曖昧で錯綜した事件を、
取りまとめて名前をつけてしまって、名付けた「ソレ」を落とす、推理小説だ。
どんな物事でもそうだが、名前をつけて性質を固定してしまえば、対処することが出来る。
正月親戚が集まっててクソ忙しいのに、誰かリビングでサボってなかったか!?とか揉めた時に、
たいがいに酔っ払ったジイさんが「そりゃ、ぬらりひょんじゃ」って言って笑えば、そう言うことになる。
「撮り鉄」も、そうなってないだろうか。リビングでサボってたヤツが隠れてしまっていないか。
だが、残念ながらどんな集団にも、一定の割合で残念な人がいる。
たとえば、100人しか居ないマイナーな趣味だと、もしかしたら残念な人はいないかもしれない。
でも、世界的に見てもマナーが良いとされる日本人でも、1億人以上もいれば、強盗もあれば殺人犯もいる。
スチルカメラで撮影して、記録を残すことが、既に「趣味人」のものでなくなって久しい。
さらに、デジタルカメラの普及は、誰もがカメラを常に持ち歩く時代に限りなく近づいていく。
銀塩で夏場は酸っぱい臭いをさせていた自分からすれば、iPhoneについているカメラは奇跡のようだ。
つまり、母数が増えれば残念な人が現れるのは、構造的な問題で、どうしようもない。
つまり、母数が増えたことで残念な人が現れること以上のスピードで、残念な人が発生しているなら、それはきっと他に問題がある。
例えば、そろそろ廃止になる路線が話題になるときに、列車の備品を盗む犯罪者のことが話題になる。
(よく「不届き者が居る」とか言うファンが居るが、ハッキリ犯罪だと書かないのも問題だと思うが別の話だ)
こう言うとき、「乗り鉄のマナー悪化が」というい話にはならない。
乗り鉄の一部に犯罪者が、とも言われない。そういう犯罪にはどう対処するのが良いだろうね、という話になる。
ひるがえって、「撮り鉄」の時には、「撮り鉄の一部に不心得ものが」とか「撮り鉄のマナー悪化」などと、「撮り鉄」がクローズアップされる。
こうした「マナー」がことさら話題にされるときには、対象者が一部ではないことを示している。
少なくとも、相当数のマナーが悪く、厳密に言えば犯罪であることを行うものが多いということだ。
母数の一部に問題を起こす人がいて、相当数のマナーが悪く見える。
これは、「致命的なことがおきる範囲に、マナーの悪い者がいる」ではなかろうか。
例えば、列車の撮影と言うのは、ずいぶん古くから趣味にしている者が多い。
ある一定以上の年代層ならば知っている「究極超人あ~る」にも、トクユキを正面からおさめる馬鹿げたシーンがある。
あれでもって、全国のカメラ小僧を糾弾するのは同じように馬鹿げている。
母数が大きくなり、残念な人が増え、そして、致命的なところで致命的なことをする残念な人が増える。
なぜならば、良識が有る人は線路内に立ち入ったりはしないし、桜の木を切ったりしないし、罵声を浴びせたりしないからだ。
トクユキの迫力あるシーンを撮りたい馬鹿は1万人に一人でも、100万人規模のカメラ小僧がいれば、100人もの馬鹿が出る。
そして、列車を止めるには、致命的な場所にたった一人致命的な馬鹿がいれば良い。
だから、致命的なことになる人数が問題になる。
列車を止める撮り鉄の問題は、たった1人でも問題になる。これは犯罪者抑止の問題で、撮り鉄の問題とは少し違う。
レッテルを貼ると、理解するのが楽になったような気がする。正しく張れていれば。
でも、そこで思考停止をして、問題の分類を止めるのは、違うと思う。
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