はてなキーワード: 美学とは
先に結論から。
岩崎夏海さんの文章には決まった楽しみ方がある。
「彼の独特の美学」をみつけた上で、それが文章の枝葉末節にどう影響しているかを探る、というものだ。
間違っても頭から文章を順番に読んで行こうとか、彼の言ってることが現状を踏まえて妥当かどうか、とかそういうことを考えてはいけない。
http://blogos.com/article/27749/
それらがいったりきたりするのでカオスぶりが半端無い。
読者としては「何が言いたいのかわからない」「マジキチ」と評したくなる。
まともに読んではとてもついていけなくなるだろう。
しかし、実は彼の記事はどれもテーマは極めてシンプルである。彼の文章は、己の美学を語るためだけにある。残りは装飾にすぎない。
彼は基本的に現実についてあまり知らないし知ろうとしない。彼の理論、現実の制約も、比較対象も、実証もなにもない。美学とはそういうものなのだ。
そういう「些細なこと」に気を取られずに本というものは、野球というものは、マネジメントというものは、読書というものは「かくあるべし」だけを考える。
だから、現実はこうだろ、とかそういうツッコミは野暮というものである。確信犯なのだから。
他者への批判とかは客寄せパンダ以上の何者でもなく、本人も力入れて書いてない。いちゃもんつけられれば前後関係がおかしくても気にしていないのだろう。
なぜそこまでいちいち煽って人を集めなければいけないかというと、まぁ個人的な美学というのは普通に書いてもだれも読まないたぐいの話で有るし、職業病というのもあるのだろう。
今回でいえば「作者と読者の関係はどういうものが理想であるべきか」という点について彼なりの美学が語るのがメインである。
Q:「購入者は何に対して金払うのか? 」
作品ではなく、作者にカネを払う。曲やコンサートというよりはAKBそのものを応援するために金を払う。
そういう仕組みのほうがお互いにメリットのある関係を築けるはずだ、という。
どちらかというと作家というか、ジャーナリズムに近づいている気もするが、確かにこの流れがうまく回ればなーとは思う。理想論としてはありだと思うんだよね。
今回の記事で理解すべき部分はここだけである。
他にも多少彼が最近かぶれているらしい「自然と一体化した人間」みたいな思想も含まれているが、そこは私にもよくわからないのでスルーする。
他の部分は、この彼の独自の美学というか理想を、無理やり現実に当てはめたらどうなるか、という話だ。
もちろん、たとえば著作権や教育に関して、彼はほとんど知識が無いので、現状を踏まえて考えると言ってることはおかしいのだが、そこは重要でない。
特に他者の引用や他者への言及が始まったら、すかさず読み飛ばすことを強く推奨する。
私が岩崎さんを好きなのは、こういう「常識にとらわれない」ことと、文章に何らかの「核(彼自身)がある」点である。
少なくともありきたりではない。彼の書く文章は彼にしか書けない唯一無二の文章であり、それが面白い。
面白い、という軸で評価するなら主張の裏付けについて、個人的な体験の比重がとても大きく、非現実的な主張が多いことも欠点ではない。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081004/1223046127
世の中には、核(自信)があってどこか堂々としている人と、核(自信)がなくてどこか不安げな人の二通りがいる。どちらが良いとか、どちらが悪いというわけでもない。どちらにも一長一短があり、そのあるなしが人間そのものの価値を決めてしまうわけでもない。それでも、ぼくはできれば核はあった方が良いと考えている。それは、ぼく自身が核のない人間で、それでずいぶん苦労したという思いがあるからだ。今振り返ると、苦労した分いろいろ学べたこともあるから、核がないのは本当に悪いことばかりではないのだが、それでも、あるのとないのではやっぱりある方が良いと思ってしまう。ないものねだりかも知れないし、隣の芝生は青いからなのかも知れないが、自信を持って堂々としている人を見ると、いつだって羨ましいと思ってしまう。だからぼくは、そういう核がない子供を見ると、なんとかしてそれを植え付けることはできないものかと、傲慢かも知れないが考えてしまうのだ
だから、みんなも枝葉末節や常識にとらわれないで、素直に彼の独特な文章を楽しもうじゃありませんか。
http://anond.hatelabo.jp/20110610173821
ひねくれて読むとこうなる。でもこういう読み方をしてはいけません。
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
旬の野菜。
簡単な調理。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
何年もかかりました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。
人より言葉やパンクチュエーションを無駄に(というのもそこには大した美学や整合性もないから)気にするたちであるとは自覚している。
「死」という言葉の重さ云々と今更ここで滔々と述べても誰の為にもならないと思うのでそこは省略するが, です。
「死ねばいい」という言葉は彼女達にとってきっとジャングルジムのてっぺんの様な誇らしいものなのであろう。
最初は「嫌い」「気持ち悪い」という言葉だったのがどんどん高いところへ憧れていき
「死ねばいい」と飛び降りる瞬間その言葉の持つ危うさ,スリルを楽しんでいるのだろうか。
死ぬという言葉を否定しているわけではない。例えば「 」に描かれる死はまさに的確に人の死への恐怖や好奇心を描写していると思うし,その他私たちにとって乗り越えられない(そして乗り越えられないことが好ましいであろう)死について興味深い考察を残した作品は沢山ある
オタク文化の主張は「俺たちの文化に土足で入って荒らすのは許されない」に集約される。
人格否定やら肖像権侵害に走ってるオタク文化の人間が、同人のグレーゾーンは仁義や倫理で成り立つ賜物だと主張してもへそで茶が沸くだけだよな。文化を奪ってんのはお互い様だぜ。
アート文化の主張は「両者に決定的な違いはない、アートを理解しないオタクの自意識過剰な被害妄想だ」という感じ。正直こっちの主張はよく分からん。
ウォーホールやデュシャンなんて時代遅れを引き摺り何度も同じこと繰り返すお前らより、自ら新しい価値を生み出している同人文化の方がよっぽどアートしてるだろ。もっと本気出せよ。
特に結論はない。ネットってなんでこうも余裕ないやつらばっかりなんだろうな。あるいはネットにはこういう娯楽しかないだけか。
実のところ俺は元増田が言いたいことはわかるんだけど、君の言ってることだけが気にくわないんだよね。
だから元増田が言ってることとは基本的に切り分けてもらいたいんだ。できるよね?
で、本題に入るけど
文法を弁えるのが望ましいのは
文法は万人が了解するコードでありまた時間で洗練されて残ったもの。
前衛的な実験だとか時代の流行り廃りで一部が変わったりする事はあっても
それは意識的になされることであって
まずこの「美しい」というのがどういうものか人によって差があるのだろうけど、これは「読み易く」を修飾しており、かつ前文「その方=文法を弁える」に係っているので結局は可読性の問題だということがわかる。ではなぜわざわざ美しいということばを使ったのか。言語学的に「美しい」というものを示すことはできないというのは、その専門の人間でなくともちょっと耳年増な人間なら知っているかと思うが、美学として美しい文章とは可読性に宿るのだろうか?であるならばそれはやはり示されねばならないだろう。
この「文法は万人が了解するコード」というものと「ただのバカ~」の対立はかつて(というか今も)方言話者に対する差別の根幹の一部として機能していたわけなのだが、それを承知の上で言っているのだろうか?「イナカモノは日本語を知らねえからな~」と言っているに等しい。
もっとも、そういう差別を肯定しそうな人間であることは文章の端々から伝わってくるが。こういう人って案外大学生に多いのよね。思想的に先祖帰りしたというか、やっぱりレイプは正しいんだよ、とか言い出すのがこのあたり。変に現実主義を気取って現状肯定に走るような方々。まあ多いってのは主観かもしれないけどね、もしかしたらサラリーマン呼ばわりが嫌いな自称社会人に多いかもしれないし。
ところで、先の質問に対する答えをまだいただいておりません。そちらの説明をしている暇があれば定義に関して文を割いてもらったほうがこちらとしてはまだありがたかったのですが。
あと、「美しい」というものに対する絶対普遍の定義をお願いします。
「見方によって変わることのない美しさ」ぜひ読んでみたいですね。
まさか質問に答えず逃亡などという、美しくないことをするわけでもないでしょう?
ようは昔から変わらんわけですよ。
桜はやっぱり散り際が美しい。
それが日本人の心ってやつだね、という。
で、デフレにおちこんだまま
ときどき一瞬だけ美しくなるやつはいたけれど
こんなに長い間みんなで美しくあり続けた時代なんて
日本史上なかったでしょう。
こんなに長い間、美しいままの日本人がいただろうか!!!っていう。
ま、長く続きすぎたもんで
たぶんあなたの不満は「自分の理想通りの人生を歩めなかった」ということだと思う。
正直、それは仕方がないことだと思う。何でも思い通りになる人なんていないからね。
でも、それを「女処女厨」とか自己卑下する必要はないんじゃないかな。
どんなものであれ、自分なりの美学があったのなら、それを貫き通せなかった不運を悲しむぐらい許されてもいいと思うし。
ちなみにかく言う俺の現状は「魔法使いになりかけてしまった男処女厨の末路」だ。
ここ数年痛感するのは、仮に自分が「処女厨」的美学を守り通しても、なんとなく結婚というものの内実が見えてしまった今となっては、精神的には童貞ではいられないんだなということ。素人童貞は痛いといわれるけど、「肉体童貞」とでも言うべきもっと痛い状態になってしまった。
たぶん、もはやどんな女性が目の前に現れても夢中になることはできない、「この人と生活していけるか」という打算でしか動けないんじゃないかという空しさと悔しさを感じる。そしてそれをどうすることもできないということも。
それに気づいてから気がつけば五年以上。当初は身を切られるほど苦しんだが、現在はそういう自分を辛いとも思わなくなった。「諦める」というのも一つの選択肢だと思う。それが楽しい結末に繋がっているとは決して思えないけれど。
大量のゴミからまともなものを探し出す手間より580円出す方を選ぶ。
自分も数頁読んで確認すればいいのに、その手間すら惜しんで、同じ本のダブり買いとかよくやる口なんで、その感覚は良く分かる。
(単行本と文庫本でタイトル変えてくるのは特に勘弁だ!必ずダブるぜw)
ただ今の十代が大人になった時に、(例えお金があって時間が不足しても)自分たちのような行動をとるもんかな?
もしかすると「娯楽コンテンツにお金を払うなんて情弱!」的な価値観を、大人になっても持つ人もかなり多いかもしれない。そうすると損得じゃなくて美学として買わないかもしれない。
まあ、その時がこないと実際マジコン世代がどう行動するのか判らないけど、「購入厨」とかいう言葉を聞くと、自分とは根本的な発想の違いを感じるので、あんまり自分の物差しで下の世代を測っては間違いそうだなー、とは思う。
From Creating Passionate Users
By Kathy Sierra
私はTwitterが怖い。これだけ人気があるサービスだけれど、私は少なくとも三つの問題点を見て取れる: 1)Twitterは心理学にいう「間欠的不規則報酬」のほとんど完璧な実例である。これはスロットマシンが人を惹きつける仕組みと同じ。 2)Twitterを使うことで得られる強力な「人とつながっている感覚」は、脳を騙して「何か有意義な社会的交流を行っている」と思わせてしまいうる。その一方で、脳の別の(古い)部分では、そこに人間の生存にとって重大な何かが欠けていると「分かっている」 3)Twitterは「常時マルチタスク状態」の問題を悪化させる要因の一つであるーーもしかしたら他のものよりもっと強力かもしれない。Twitterをしながら(もちろん、emailでもチャットでも同じ)、深く考え込んだり、フローの状態に入ったりすることはできない。
[注意: 私はこの問題について本当に少数派みたいで...ほとんど100人中99人がTwitterを支持している状態だから、たぶん私が間違っているのでしょうね(でもとりあえず書いてみるけど)。それと、この記事の大部分は、関係するテーマについて私が書いた様々な記事を混ぜ合わせて作ったものです]
この三点についてもっと詳しく見てみましょう:
スキナーの発見の中でも最も重要なものの一つは、間欠的に強化された行動は(継続的に強化されたものとの対比において)、最も消えにくいということだ。言い換えると、間欠的な報酬は予測可能な報酬より優れているのだ。これは大抵の動物トレーニングの基礎となっていて……人間にも応用が効く。スロットマシンがあんなに人の心に訴えるのはそのためで、別に中毒にならずともこのことに気がつくことはできる。
テクノ心理学者のパトリシア・ウォレスは〔中略〕Emailがーー十代の子供のみならず成人に対してもーー持つ魅力の一部はスロットマシンの持つ魅力に似たものだと主張している。「間欠的変動強化を受けているのです」とウォレスは説明する。「毎回報酬をもらえるのか、またどれくらい頻繁にもらえるのかがはっきりと分からないがゆえに、ハンドルを引き続けるのです」
多くの人にとってTwitterの最大のメリットは、他の人とよりつながっていると感じられることにあるようだ。カーソン・システムズのリサは、Twitterを擁護するテラ・ハントの記事へのコメントの中で、これを次のように表現している。
「Twitterは友達の感情や地理的な場所、動作を記録することによって〔中略〕このギャップを生めてくれる。まるで私たちが本当にそこにいるみたいにね。このおかげで『本当に』つながっているって感じになるの」
これは本当に良いことなのだろうか?
おそらく、答えはイエスなのでしょう。たぶん、ほとんどの人にとっては。けれど、「人とつながっているということは常に良いことだ」という反射的な回答は批判的に検討してみる価値はあると思う。UCSFの神経生物学者であるThomas Lewisさんは、「注意しないと、たとえ実際はそうでない場合であっても、人は脳の一部を騙してーーはるか昔より人の生存にとって不可欠なものであるーー本当の社会的交流を行っていると思わせてしまう」と主張している。これは不快な(しかし無意識の)認知的不合致、つまり脳が必要だと思っているものを取っているのだけど、「科学的に完全に分かっているわけではないけど、おそらく嗅いで感じられる何か」を満たすには足りないという状態につながる。彼はこれをTwitterについて言ったわけじゃないけど……Conference on World Affairsで彼の講演を聞いた時には、emailやチャット、さらにはテレビにまで言及していた(脳は「人々」を見ていると認識して、社会的関係を持っているに違いないと考える(GOOD)、けどそこには何かが欠けているとも気がついている(BAD))
Lewis先生はとても多くの研究を引いていたけど、私はそれを書きとめなかったので、このことは割引いて聞いてもらってもいい。加えて、私は彼がemailやチャットについて述べたことをTwitterに拡張していることにも注意。けれど、Lewis先生が言うことには、私たちがこのようになる理由の一部は、私達の脳が体の身振りや顔の表情や声の調子などを解釈する先天的な能力を発達させていて、こういう情報のチャンネルを予期していることにあるのだという。だから、社会的交流があるように見えているけれども、この先天的な、昔ながらの脳の機能の一部が働いていない状態になると、ストレスを感じるのだ。
繰り返すけれど、だからといってそれに見合う価値がないというわけじゃない。これは遠くに離れた家族や友達とつながっているには非常に有益なものだ。私が言いたいのは単に、これが一部の人々に「私はつながっている」という誤った感覚を与えていて、現実のつながりを犠牲にさせているかもしれないと問うてみる価値があるということだけ。
隣の人とコーヒーを飲むのは、千のTwitterの投稿より脳に多くを与えてくれるかもしれない。
これと同じような議論はずっとなされてきたし、テレビにだって同じことはいわれているけど、それだからこの話が間違っているということにはならない(孤立したカナダ人の村にケーブルがようやく開通すると、集団のIQが下がってしまったという研究がある...とルイス先生は講演のなかで述べていた。私はこの研究への引用をウェブで見つけることができなかったけど)
皮肉なことに、Twitterのようなサービスは同時に、仲間の輪の中に入っていないのではないかという心配を一部の人たちに植え付けて、「つながっていない」という感覚を起こさせる。「常に更新している」ことの重要性を高めることで、十分頻繁にtwitterをチェックしたり投稿したりしていない人たちの「何かが欠けている」という感覚を増幅させてしまうのだ。
前の私の記事より:
最悪なことに、この押し寄せる投稿は、私たちのほとんどを最も幸せにしてくれる「あること」から引き離してしまうということだ...つまり、フローの状態にいることから。フローの状態に入るには深く考え込み、意識を集中させる必要があるけど、この種のコンテキストを切り替えるものはそのどちらも妨げてしまう。フローの状態では知識やスキルを意欲的に使う必要がある。これはマルチタスクで(食べながらや、テレビを見ながらなど)できるような頭を使わない仕事とは全然違う。フローでいるには、ある程度の時間を使って知識とスキルを脳のRAMにロードする必要がある。そして、それが大きいものであれ小さいものであれ、より多くの邪魔が入るにつれて、ますますフローの状態にはたどり着き難くなる。
しかも、フローの状態に入れなくなるというだけではない。およそ何かについて熟達するということもなくなってしまい、エキスパートにもなれなくなってしまうのだ。脳科学者に尋ねてみれば、エキスパートとなるのに重要なのは天才かどうかではなく、物事に集中できるか否かなのだと教えてくれるだろう。
情報過多という現象に対する反動はもう見えている。Web2.0 VC はかなりの額を、情報を整理(されたままに)する サービスを約束する会社に注いでいるみたい。43 Foldersがトップ100のブログに入っているのにはそれ相応の理由があって、それは単にMerlin Mannがカッコいいというだけではないの ; )
たくさんの人がこのことについて語っている。でも、たぶんLinda Stone以上に雄弁な人はいないと思うけど:
継続的な注意散漫状態とは、半端な注意を払うということーーそれも絶え間なくね。これはネットワークのライブノードでいたいという欲求に基づく行動だ。別の言葉で言えば、私たちは人とつながりたいし、つながれた状態でいたいの。どんな時でも、チャンスを見逃さないように効率的に目を見張らせようとし、最も良いチャンスや行動や関係のために最適化しようとしている。忙しくすること、つながっているということは、すなわち生きているということ、他者から認識されること、そしてなにがしかの存在となるということなの。
絶え間なく部分的な注意を払うのは、何一つとして見落とさないため。常時つきっぱなしで、どこへでも、いつでも、どんな場所でも働くもので、人為的に作出された慢性的な危機感もこれに含まれる。この人為的で慢性的な危機感というのは、マルチタスクというより、継続的な注意散漫状態に典型的に見られるものよ。
Twitterを使うことにメリットがあると思う? もちろん。Teraはこのメリットを本当によくまとめている(その全てがメリットであるとは考えない人もいるけれど、その人たちもテラの主張には賛成の立場に立っているのであって、大事なのはその部分)
人々がTwitterを責任を持って使えると考えているの? しっかりコントロールしつつ、twitterを使うことで注意散漫になりすぎたり、(タブロイドニュースやTVがアメリカでこれほどまでに広まった原因たる)覗き見のたぐいを避けて?
当然、そう思っている。
私が言いたいのは、ごまかしを避けて、「常に注意をそそぎつづける」というウサギ穴にどれだけ深く入り込みたいと思っているのかを判断してみるべきだというだけ。
私はTwitterのターゲットではなかったーー生まれながらの独り者なのよ。私はそこまでつながりあっていたいとは思わない。そして、ミステリーを残しておくという美学が大好きなの。それだけ多くの人たちについて、そんなにも多くを知りたいとは思わないし、人々にそんなに私のことを知ってもらいたいとも思わないの..それが日常のことであれその他のことであれね。だから、これは私がマイノリティたるゆえんで、私のTwitterに対する恐怖は、私独自のーーねじくれてあまり一般的でないーー個人的な性格に由来するものなの。
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