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はてなキーワード: ヨブ記とは

2024-03-17

[] 2024-03-17

ヨブ記を読みました。

福音派は「サタン」を悪魔とするようですが、ヨブ記サタンはおそらく神の遣いであり、悪魔ではありません。

人に善悪とはなんたるかを示すのに、「悪魔」という概念必要なのか甚だ疑問です。

道徳的に非のない暮らしをするヨブに、サタンが試練を下し、「なんでこんな目に」と苦悩します。

さて、ヨブの前に現れた神ですが、グッドオーメン2で見ていたのと似ていました。

神がなにやらよくわからない不思議なことをいうので、ヨブは少し困っているように見えます

天地創造について人間は知りうることがないので、無知に対して悔改め、神を畏れよというわけです。

私はヨブと議論をした友人たちが、本当に嫌な奴らだなぁと思ってしまいました。

ヨブに訪れた試練はサタンによるものですが、それを知る由もありません。

そのときに、ヨブの行為を疑って、ヨブをいじめているのは本当に見るに耐えないものがあります

しかしこれは現代においても成り立つ概念ではないでしょうか。

まり、なにか苦しい思いをしている人に対し、信心深い人が「なにか罪を犯したのではないか」と疑うわけです。

その人は試練を受けているかもしれないのです。

ところで、自然災害が人の命を奪ったときに、それを「試練」と言うことができるのか、とふと疑問に思いました。

ヨブに起きた試練はあくまでも「命を奪わない」ことを前提とした試練です。

無実の人の命を無差別に奪ったのであれば、それはおそらく罰でも試練でもないでしょう。

2024-03-15

[] 2024-03-15

日本人であるからノアの法を守れば神に認められるらしいです。

ではなぜ日本人である私は、聖書を学び始めったのでしょうか。

私は善悪や知恵には、単なる好き嫌い相対主義を超えるものがあると考えています

しかし何が「絶対であるのかは全くわからないので、歴史的テキストとして聖書を学んでいるのです。

それを学んだことによって布教をするつもりもなければ、○○教徒であると言うつもりもないし、特定民族に気に入られようと考える気もありません。

まだ学び始めて浅いのですが、これまで読んだのは、創世記モーセ五書箴言、コヘレト言葉です。

実用的側面から箴言・コヘレト言葉・そしてヨブ記を読みたいと思ったのです。

なぜ実用的と思うかといえば、歴史的に残された「知恵」が現代に通じるのであれば、普遍的善悪について何かがわかるかもしれないからです。

私は「聖書の教えを守って神に認められよう」と考えているわけでは必ずしもありません。

それを「知恵」と呼ぶのであれば、善悪判断したり、円滑に生きるために役に立つと言える何かがあると思うわけです。

いくつかの道徳宗教が陥りがちな「相対主義」についていつも疑問に思います

相対主義が極端な形になると、「倫理は人それぞれ」などと言い始める可能性があります

すると、殺人肯定するような価値観も「人それぞれだ」といって許されるということになりかねません。

ちなみにノアの法では殺人禁止されます

善悪について気にしなければならない理由、と言われてもすぐにはピンときませんが、少なくとも悪人にはなりたくないでしょう。

私は自分遺伝性格から倫理判断が苦手であり、それによって様々なトラブル経験してきました。

そうすると、何が正しくて何が間違っているのか。それを知りたくて懇願しています

世の中には、まるで蛇のように曲がったことを言う人たちがいます

蛇に騙されて自分がどんどんと悪の方向に流されているなら、自分の中で善を持つ必要があると思うのです。

一般的日本人本能レベル倫理性を持っているところを、私は持っていないので、知恵の本に頼るしかないのです。

2023-12-18

悪魔存在を信じてもいいことはない

ヨブ記に出てくるサタンは、はっきり言って性格のひねくれたゴミ天使

ヨブ記と同じ状況に陥った場合は、神に逆らわないと同時にサタンと本気の戦闘をすることを考えたほうが良い

悪いのは従順さの足りない人間ではなく、虐待をし始めるサタンである

ヨブはサタン存在を知覚しなかったが、現代人はヒントを得ているので、サタンを悪とする宗教を広めるなどして対抗すべき

...と考え始める時点で、キリスト教徒アスペである証拠だろう

ユダヤ教で伝えたかったポイントはそこではなく、「神を信じて行動しているのに悪いことが起きたら、それは与えられた試練である」と信じさせることだ

悪魔という概念は実際のところ、人間を善へ導くうえでは必要ではない

2023-11-24

anond:20231124210509

神はそんなに都合のいい存在ではないだろう

自由意志を我々が持つのは、善性を試されているからだ

ヨブ記ぐらい読んだらどうだ?

2023-10-26

宗教と害認識

宗教的思想を持つ人々は、何らかの害Aに関して次のように考えるかもしれない。

1. 神に従って行動していれば害Aに遭遇しない。

2. 神に従って行動しているにも関わらず害Aに遭遇したならば、(ヨブ記的な)試練である

コヘレト記では、更に踏み込んで、悪を行う人に対して義人に起こることが生じることもあるし、善を行う人に対して悪に起こることが生じることもあると説いている。

まり一切が空であるならば、カルマスタイルの転生論を借用しない限り、善悪効用を語ることができない境地にある。

しかしここで「社会」という総体と、「暮らしやすさ」という便益を導入すると、どういうわけか善が強化されることがある。

では暮らしにくい社会暮らしやす社会を隔てるものは一体なんなのか。

2023-07-07

宗教アレルギーフォロワーがうざい

歴史文学が好きなんだけど、アララト山に登りたいとかヨブ記面白いとか言ってると「宗教ですか?」ってリプしてくるフォロワーがうざい

2023-01-04

2022年に読んだ本

1月

琉球から歴史の原文へ。太平記史記を並行して読み始める。

現代語訳とはいえ長くてしんどい

2月

メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ世界史教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い

3月

ウェブ小説を読む。

4月

東アジア史が中心。

5月

詩集芥川賞に手を出す。

シン・ウルトラマンを見たせいか特撮関係の本が後半に増える。

6月

後半には自分学生時代ベストセラーだった本を手に取った。

価値観現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。

7月

暴力団言語学、法学テーマの月だった。

8月

旧約聖書を読み始める。

9月

ちょくちょくSFを挟んで旧約聖書を読み進める。

10

旧約聖書読了学生時代新約聖書通読たから一応全部読んだことになる。

カズオ・イシグロ邦訳が出ているのはたぶん読み終えた。

11月

生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白いネタが尽きない。

12月

土偶埴輪についても読む。

漫画

ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。

十三機兵防衛圏については友人に薦められたかクリア後のノリで買った。

美術展など

今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。

映画

「シン・ウルトラマン」★★

プラットフォーム」★

エクストリームジョブ

12モンキーズ」★★★

雑感

(長くなったのでブコメ

2021年に読んだ本

今更だけど2020年に読んだ本

2022-12-16

信教の存在って一般的には政治的な結束が期待できる以外には何もない気がする

自分は一応仏教徒で、聖書ヨブ記なんかとても興味深いと思っているがキリスト教徒にはなっていない

あと信教は何かを他の信教の勧誘を断る理由とか、何かを耐えるときとの希望とか、優越感を感じる理由にはなるかもしれないが、そのほかに何の理由があるだろうか

ひとまず身近にいるキリスト教徒医療教徒はクソすぎ(具体的には科学事実を見ずに責任逃れしすぎ)

「見ないふり」をするのがデフォみたいな信教をどうして信じられるんだろうなあ

魔女狩りや異教徒ヘイトは単に信教を利用した政治活動だっただろ

とか、自分が青いのを分かってても思うわけだ 

ただ資格があるから人を裁けると思っていたら傲慢

 

自分の罪はどうなんだというなら、人を助けたことと、事実証言していることさ

2022-07-11

アメブロほとんど誰にも読まれない日記をたまに書いている

いいね!ちょっと付く

けど、ほぼ業者というか、なんか売りつけようとする系

今日日記を書いた

しばらくするといいねが2つついた

一つはセールス

もう一つはなんだろう、と辿ってみると…

すごい長文の日記

ヨブ記から引用日常生活にあった不満(Amazonで返品が出来ない)とが複雑に絡み合った

怨念じみた日記だった

怖いもの見たさで過去ログを辿ると、宗教スピリチュアルオタクという感じで、いろんなもの引用するタイトルが並んだ

なんかもう怖い

この人はどんな人なのか気になってしょうがない

関わりたくは無いけど

2021-09-22

聖書を読み終えた

エルサレムのおとめたちよ

野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください

愛がそれを望むまでは

愛を呼びさまさないと。

聖書(新共同訳)

大学2年生をしている。

一昨日、旧約聖書新約聖書を読み終えた。

キリスト系の大学に通ってるんだけど、神学的な講義がぜんぜん意味不明だった。

なので、一生に一度と思い、聖書に挑戦してみることにした。

率直に感想を述べる。

長かった……とにかく長かったー! ぜんぶで2000ページ以上もあった。

そのうえわたしは、本を読むのが遅い。なので、1ページに平均3分ちょっとかかった。詩編だと2分くらいかな。

なので、1ページにつき3分とすると、2000ページで6000分=約96時間も読んでいたことになる。こんな読書体験は初めてだ。

得られる物はもちろんあった。半年もかかって読み終えたのだ。成果なしでは悲しすぎる。

これからつの掌編を引用して、それぞれコメントをつけたい。

全文引用ちょっとどうかなと思うところもあったけど、この聖書の発行元は、250節までは引用OKとしている。

なので、この2編だけグサッとまるまる引用する。ほかにちょっとだけ引用している。冒頭の詩は、『詩編』(追記:雅歌の間違いでした)という閑話休題的な部分から取らせてもらった。(私が持っている)旧約聖書1052ページに載っている。



まずは『放蕩息子』からだ。

子どもの頃、こんな題名ドラマを観たことがあるかもしれない。

放蕩息子のたとえ

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたし友達宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなた身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

――ルカによる福音書 15.11-32(15章の11節~32節) P.139~140


最初意味不明だった。お前は何を言ってるんだ? そんな気分だった。

「あ、これ講義で習った!限界効用の逓減だ!」とも思った。

さて、解説サイトを巡ったところによると、この掌編というのは――父親を神に、放蕩息子を(いつも罪を犯しがちな)迷える人間に喩えているらしい。

なるほどと思った。イエス説話にはたとえ話がよく登場するが、たとえ話の中でもたとえを使っているのだ。

神は寛容な存在だ。聖書においても、寛容さが重要な徳であると述べた個所が多くある。

現代社会においてもそうだ。昔に比べると、個人に対する寛容さが求められるようになっている。傍目では愚かに見える行いであっても、当人意志尊重する。自己決定権というやつだ(うろおぼえ)。

聖書というのは、なんかもういろいろと今の社会を先取りしているのだ。いや違う、普遍的というやつだ。どんな時代でも共通する大事なことを、ひとつひとつ、じっくりとしっかりと述べている。

次は、『不正管理人のたとえ』だ。

不正管理人のたとえ

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったときあなたがたは永遠住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかであるあなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

――ルカによる福音書 16.1-13(16章の1節~13節) P.140


それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」という、中学生の時に読んだ漫画台詞を思い出した。

読み始めは、聖書らしい勧善懲悪を期待していた。読了後は、こいつやりたい放題だな! と感じつつ、この物語は何を意味しているのだろう――今度は自分で考えることにした。

こたつ机の上で、通勤途中の自転車で、トイレの中で、サイゼリヤでの雑談中に、神学Web講義中に、何度も考える機会があった。

からなかった。結局。

それで、解説サイトを巡ってみることにした。どうやら聖書のたとえ話の中でもメジャー作品らしい。

しかし、わからない。どの解説サイトを読んでもしっくりこないのだ。

どのサイトにおいても、「どんなに苦しい状況の中でも、神の国に行くために最善の行動を取ることが大事」と書いてあった。不正にまみれた富でいいので、いつか最後の審判が訪れて、永遠の国に住む時のための友達を作っておくべき、みたいなことが書いてあった。

腑に落ちない。聖書には矛盾する箇所がいくつもある。

例えば、主人が召使い3人に、自分が留守の間お金を預ける話がある。3人の召使いの中で、そのお金資産運用によって一番増やした人が主人に一番褒められていた。お金を土の中に埋めておいた人は、主人の命でそれを取り上げられ、一番増やした人に渡ったうえ、彼は外の暗闇に追い出されてしまう。

(だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる)

でも、その一方で、「金持ち神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」みたいなことを述べた箇所が同じ新約聖書に3つ以上はある。

約二千年前に作り始められたわけだから矛盾する箇所も当然あるだろう。しかし、それにしても不正管理人の話には納得がいかない。

そうこう考えてググっているうち、こんな本をアマゾンで見つけた。

捏造された聖書

要約すると、長い年月に渡って聖書が写本され続けた結果、当初は存在しなかった物語解釈意図が入り込んでいった、とのことだ。

ならば納得できる。この『不正管理人のたとえ』の真実は、こうだ。昔、聖書を写本していた権威ある人が、「このネタ入れたら面白いんじゃね?」的なノリで挿入したシュールギャグだったのだ。それが不正管理人のたとえの正体である――解決

解説サイトヤフー知恵袋なんかでこの掌編を肯定している人は、もしかして、あれじゃない? 権威に弱い人なんじゃないか?? おかしものおかしいとして、はっきり言わないといけないんじゃない??? と、わたしは思いました。(小学生並みの感想



聖書を読んでよかった。

はっきり言おう(ここイエス意識している)。わたしにとって収穫だったのは、多くのコンテンツ原典元ネタであることを確認できたからだ。以下のようなものがある。ネタバレ防止のため、どの作品派生しているか原則述べない。

例えば、①エジプト王宮でのモーセアロン VS ファラオの対決時に、お互いの杖を蛇に変えてバトルする場面とか、②サムソンが今わの際に両手で二本の柱を押し倒して数千人を巻き添えにして死ぬところとか、③ペルシャクセルクセスが、「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」って2回も言うところとか、④大岡裁き(どちらが本当の母親か決めるやつ)の元になった母親2人の諍いの話とか、⑤ダビデの三勇士の一人イシュバアルは、槍のひと突きで800人を殺してしまうとか、サラっと書いてあって思わず吹いた……。

かにも、ここには挙げきれないほど多くの漫画小説ゲーム元ネタに会うことができた。これだけでも読んだ甲斐があるというものだ。

特に士師記サムソンには笑わせてもらった。スラップスティックギャグコメディの原型が聖書にあったなんて! 高橋留美子も、これを読んで『うる星やつら』の肥やしにしたのかもしれない。

聖書というのは、宗教書というよりは総合文学の書であって、これを基に、その人がどう人生を生きるか考えるきっかけにする、みたいなコンテンツなんだと思う。

聖書は、各編によって色あいが相当違う。格調高く綴られた世界創造の語りだったり、長い旅と王国繁栄の中で主人公が次々と交代していく群像劇のようにも見えるし、小説上のジャンルはだいたい網羅している(冒頭の詩は兄×妹の恋愛ものだ)し、どんな生き方が正しいのかという論じ合いもあるし、お笑いな感じの喜劇もあるし、いきなり箴言集になったりするし、詩もたくさん出てくる。

ところで、聖書に出てくる神は、その時々によって寛容だったり不寛容だったりする。人によらずとも、矛盾していると感じることがある。

キリスト者を迫害した人や、信心律法の罪を犯した人を赦す場面もあれば、かの有名なオナンさんはあっさりと殺されるし(彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。)、聖者エリシャを「禿げ頭出ていけ」と詰った子ども達42人は、突如現れた熊2匹によって皆殺しに遭っている。

しかし、世の中というのは、そういうものではないか

同じ人でもやることなすことに筋が通っていたりいなかったりすることがあるし、理不尽だと感じた運命が後に自らを利するものであることがわかったりするし、法律常識に反した行動がみんなの共感を得ることだってある。



わたし若者でいられる時間は少ない。あと10年以内には若者ではなくなってしまう。それまでには、ひとかどの人物になっていたい。今回、半年がかりで聖書に向き合った経験が生きたらいいなと思っている。

最後に、物語の背景を知らなければ厨二な詩としか思えない台詞を書き留めて結びとする。

わたしの生まれた日は消えうせよ。

男の子をみごもったことを告げた夜も。

――ヨブ記 3.3(3章の3節) P.777


サタンの弄びにより、死に等しい皮膚病に冒されてしまった義人ヨブの独白の一部だ。

いつかは口に出してみたい台詞ランキングで第1位に入っている。

面白い書物だった。また一度は読んでみたい。

2020-12-09

anond:20201208181045

海を割った強烈なビジュアルが何度も映像化された元祖特撮ヒーローモーセだったりカインとアベルBLもあるし

更にハルマゲドンネタオタク君みんな大好きだしヨブ記は定期的に神の理不尽さが話題になるし……

2020-04-21

anond:20200419173543

神への信仰を試してるんやで

旧約聖書ヨブ記とか、ヨブさんは信心いからどれだけ痛めつけても信仰心を失わない!と

サタンに言うために、ジャンジャカ酷い厄災をヨブに降りかからせるという鬼畜所業をやってのけてるで

2019-12-13

彼女ができない苦しみを整理したい」に対するコメント返し

https://anond.hatelabo.jp/20191210171417

この増田を書いたものだが、予想外なほど伸びていて驚いた。それと同時に多くの人が様々なコメントを書いてくれたおかげで、問題をより深く整理し、自分自身について理解が深まった。本当にありがとうございます

こちらの増田では、コメントに対する感想を書いた。まずコメントカテゴリ別に分類し、似ているコメントは一つにまとめて意訳した。「」でくくったコメントは直接引用している。

全てのコメントを読んで整理したので膨大な量になってしまったし、あくまで俺自身の整理のためなのでちゃんとした感想ではないかもしれない。

共感共感できない

・俺も今同じ気持ちだ。かつての俺がいる。

 正直、ここまで多くの人が共感してくれたことに驚いた。モテない人間が俺一人だと思っていたわけじゃないが、この苦しみを感じているのは俺だけなんじゃないかと心のどこかで感じていた。自分の悩みが特殊ものではなく普遍的ものだとわかっただけでも、前より気が楽になった。

・俺も恋人がいないが、人生楽しいので増田気持ちはわからない。

 こういう人もちらほらいた。彼女がいない友人の中にも「別に特別欲しくはない」という人が少なくなかった。そしてそういう人の多くは、没頭できる趣味豊富な友人関係を持っていることに気づいた。考えてみると、俺も夢中になっている時や遊ぶ予定がたくさん入っている時はそれほど苦しんでなかったかもしれない。このあたりはまた後で考える。

彼女ができればすべて解決するが、俺には彼女絶対にできないので永遠に苦しい」という信仰

・「この人はその他もろもろの生きづらさをすべて「彼女ができないこと」に帰属させてはいいか。」
・「承認や充足を恋愛や異性に結集させすぎて、その一事ですべてが救われる巨大で重すぎる宗教にしたてあげてしまったね。」

 これらの指摘はすごく納得感が強かった。とりわけ「全てが救われる宗教」という言葉を見て「確かにそうだ」と心から思った。彼女ができないことだけが悩みではないが「俺の悩みは全て彼女ができれば解決する」という確信を持っていた。②で「嫌なことがあるたび、彼女を求めるようになった」と書いたが、それを繰り返すうちにこうした確信(認知的な歪み)に繋がったのではないか

彼女ができても悩みは消えないよ、新しい悩みが生まれるよ
増田彼女ができても重すぎて振られてまた悩みそう。

 こうした当たり前に見える指摘も、これまで見えてなかった点だった。彼女ができても浮気されるかもしれないし冷められてしまうかもしれない。彼女を持つことのメリットだけを見てデメリット意図的無視していたのだろう。なぜなら、俺は「恋愛教」とでもいうような宗教信仰しており、その信仰を失うことを恐れていたからだ。自分が苦しむだけだとしても、「彼女ができれば救われる」と思っていたほうが気が楽だった。俺にはこの宗教に代わる新しい価値観必要なのだと思う。だけど、それが一番難しいような気がしてならない。(本筋と関係ないが、「恋愛教」というのはいわゆる「恋愛至上主義」と言い換えられると気づいた。意外とこの宗教世間に浸透しているし、それを内面化して俺のように苦しむ人も少なくないかもしれない)

・この「彼女」を職業家族学歴など別のものに変えても成り立つね。

 確かにそうかもしれない。「仕事至上主義」「家族至上主義」など、みんな何かの宗教信仰して生きているんだろうな。それでうまくいく人はそのままでいいけど、俺のようにうまくいかない人は、それに縋りすぎない生き方を探すべきなのかも。

・「私に必要なのは恋人以上に自分を祝福する力だったんだと歳とってからようやく気付いたんだよね。でも当時の私がそうだったように、この声はきっと増田には響かない。」

 この人は俺のことをすごくわかってくれているように思う。実際、「新しい価値観必要」と書いておきながら、「恋愛教」から脱することはできてない。まだまだ彼女が欲しくて死にそうだし、ここまで書いて「何聞き分けのいい人間のふりをしてるんだ」という自己嫌悪もある。前の増田についていたコメントに対して「小学生の時に聞いた当時意味がわからなかったアドバイス」のようだと言っていた人がいたが、それに近い感覚は俺の心の隅にある。

 それでも、心が納得していなくても頭で納得することはできた。これからまたコメント自分増田を読み直し、ゆっくり咀嚼していけたらいいと思う。

努力方向性おかしい。彼女は頑張ったことに対するご褒美ではない。

 これも頭ではわかっているものの、まだ心が納得できていない。いわゆる「世界公平仮説」というやつなのだろう。勉強を頑張るだけじゃ友達すらできないし、就活を頑張っても彼女は作れない。それでも、「おかしいだろ」と思わずにいられない。これは俺の人間的な幼稚さゆのものだろう。

・本当に「絶対彼女ができない」のか?単に自分いじめているだけじゃないのか?

 この指摘も鋭いと思う。実際に彼女ができるできないは別として「どうせ俺には彼女ができない」といったふてくされた気持ちはある。これも一種信仰で、そのように思うことで自分価値観を安定させ、これ以上傷つかないようにしているように思う。「悲劇のヒロインぶるな」とのコメントも見たがまさにそれで、不幸な自分に酔っているナルシシズムの一つだろう。

 俺に彼女ができる、とは思えないが、彼女が「絶対に」できないとも思わない。現実を都合よく捻じ曲げず、客観的事実の下で考えるべきだと思う。

苦しみの不健康

・性欲が一番上に来ているか女性に逃げられる。

 これは「お前の女性に対する性的欲求言動からにじみ出ていて、そのせいで女性がお前から距離を置くんだ」という意見だ。俺は女性と関わる時に性欲を出しているつもりがないが、無意識的にはそういうこともあるのかもしれない。とはいえ、ではどうすればいいのか、と考えると難しい。性欲を薄めることはできないし、これ以上性欲を隠す方法もわからない。風俗に行けば少しはマシになるのだろうか。(風俗については後で詳しく書く)

・女がこんな考え持ってるやつ見たら全力で逃げると思う。

 確かにそうだと思う。自分で書いた増田を後から見直したら、すごく気持ち悪いしヤバいやつに思えた。俺が女でも引いてしまうだろう。それでも、アレが俺の一部であることに変わりはない。あそこに書いたことはすべて俺の偽らざる本心で、それを否定したところでキモい思想から逃れられるわけではない。見直している時はしんどかったが、自分の中のドロドロとした、周りに知られたくない部分を客観視できたことは収穫だった。

・男版メンヘラって感じだ。

 この視点自分になかったもので、「なるほど、俺はメンヘラだったのか」と腑に落ちた。

インセルになりそう。

 正直認めたくないが、俺の中にインセル的な要素はあると思う。女性に対して「なんで俺を受け入れてくれないんだ」という怒りを全く覚えなかったと言えば嘘になる。これも上で書いたように、俺の中の人間的な幼稚さが非合理な不満を生み出していたように思える。この不満をこじらせ、ネット女性差別的な発言を書き散らしたりする前に自覚できてよかった。

心療内科行け。

 今この経験カウンセリングの代わりになっていると思う。悩みを整理し、そのフィードバックを得られたことで、前より俺自身と向き合い、自分気持ちを楽にすることができた。なので今は特に心療内科に行かなくても大丈夫だと思う。(個人意見としては、カウンセリングもっとカジュアル受診されるべきだと思っているので、またつらくなったら迷わず行くつもりだ)

苦しみから精神的な解消法

・「この悩みから彼女代替可能ものを捨てていって、何が残っていくのかを考えたいなと思った。」

 このコメントもすごくよかった。悩みを分割し、その中で自分が取りうる解決策を考えることで、「彼女」という自分コントロールのものによる苦しみを最小限にしたい。今すぐ思いつく解決策はあまりないが、前の増田で悩みの分割はできたと思うので、今後折に触れ考えていこうと思う。

彼女を作ること以外に没頭できるものを見つけ、アイデンティティ確立しよう。

 これは解決策の一つになりうると思う。上で書いたが、あまり彼女を欲していない友人には何かしら没頭できるものを持つ人が多かった。翻って自分を見ると、趣味と言えるのはネットサーフィンと読書くらいしかないと気が付くし、サークルバイトに没頭していた、とはとても言えない(努力はしてきたつもりだが)。打ち込めるものがなかったことで、「俺にはこれがある」という自信を確立できず、彼女という理想的他者を求めすぎてしまったのかもしれない。とりあえず昔から憧れていたバイク免許を取りに行こうかな。

風俗へ行け、風俗へ行くな

 すごく賛否両論だった。行け側の人は「行けばセックス幻想を抱かなくなる」「俺は行ってから女性相手に余裕ができた」という意見が多く、行くな側の人は「この苦しみは風俗でなくなるものじゃない」「俺は行ったことでむしろ自信がなくなった」というような意見が多かった。

 元々風俗へ行くつもりはなかったが、これらを読んで少し考え方が変わった。少なくとも風俗へ行けば、性的な苦しみを手放すことができるように思えた。先のコメントであった「彼女代替可能もの」の一つとして機能するかもしれないし、女性に対して性欲をにじませないコミュニケーションが取れるようになるかもしれない。一方で、「俺は風俗しか女性と接せない」と孤独感をさらに強め、精神的な苦しみが一段と重たくなってしまうようにも思う。とはいえ風俗に行くことで自分の悩みの質を今と違うものにできると知れたのはよかった。今も風俗に行くつもりはないが、苦しくなった時の選択肢の一つとして視野に入れておきたい。

恋愛工学を薦める。恋愛工学に堕ちるな。

 これ系はトラバで随分議論されていた。個人的には昔恋愛工学の本を読み、書き手女性軽視ぶりにすごく腹が立ってしまったので、手を出す気にはなれない。作者の態度と技法は切り分けて考えるべきかもしれないが、恋愛工学自体が「女性のモノ化」(フェミニズムに詳しくないのでこの用語が正しく使えてないかもしれない)をベース技法を発展させているように思えた。まあ俺の過度に女性理想化させる態度と、恋愛工学の女性を軽視する態度は「女性をきちんと見ていない」という点で同じ様にも感じたが。

・「他者自分人生の楽しみを託すな」

 これはすごくいい言葉だと感じた。彼女がいなくても人生を楽しくする方法はいくらでもあるはずで、自分の楽しみが他者依存のままなら彼女ができてもずっと悩むだけだ。俺の人生にとって一番大切な忠告だと思う。

恋愛女性理想

・恋に恋するな。

 これも腑に落ちた言葉だった。すでに書いたように、俺は恋愛信仰しており「恋人ができれば人生は救われる」と考えている。この信仰を「恋愛至上主義」と書いたが、確かに「恋に恋している」とも言えるだろう。自分が縋っている宗教が、思春期の子どもと同じような浅い考えに基づいていると気づきちょっと恥ずかしくなった。

彼女はお前が考えているような理想的ものではなく、一人の人間だ。

 コメントでも痛烈に批判されていたが、結局のところ俺は「セックスのできるママ」が欲しいんだと思う。一人暮らししても親離れできず誰かに甘えたい気持ちと、長年満たされなかった「セックスしたい」という気持ち、この二つを受け止めてくれる理想相手妄想し、それに「彼女」という名前を付けていた。俺がもつ彼女」のイメージは、現実女性の延長線上にあるものではなく、脳内妄想が発展したものだった。

特定相手を好きになったことがあるのか。

 「ある」と答えたいが、ここまで書いてきて、本当にあるのかわからなくなってしまった。彼女にしたいと思ってアプローチした人は何人かいたが、そういう人の特徴は「かわいい」ことと「自分を受け入れてくれそう」なことの二つだった。今考えると、前者は「セックスしたい」、後者は「母代わりに甘えたい」という自分妄想をぶつけられる要素なのではないか相手を見ているのではなく、自分理想をぶつけられそうな要素を見ているだけなように思えた。そう思う一方で、では本当の意味で人を好きになるとはどういうことなのか、正直まだよくわからない。

彼女を作るアドバイス

彼女を作るためにどんな行動をしたんだ。

 今までアプローチをかけたのは三人いる。授業が被っている時は声をかけて隣に座ったり、サークルでは相手がいつも来ている時間に合わせて部室に行ったりして、そこそこ話せるようになったかな、と思ったら食事に誘っていた。毎回一度目の食事には来てくれるが、次回の約束を必ず断られてしまう。「アプローチする相手が少なすぎる、その程度じゃ努力していない」と言われてしまうかもしれないが、そもそも友人関係を作ることが苦手だから必死に頑張ってできた友人の中で、必死に頑張って彼女を作ろうとしているんだ。俺なりにできる限りの努力はしているつもりだ。

クリスマス会に呼ばれなかったところに本質がありそう。

 正直そのサークルではそれなりに人間関係を築けてたと思っていたので、呼ばれなかったときは本当に一週間寝込んだし、何で呼ばれなかったのか未だにわからない。自閉スペクトラムを持っているので、無意識のうちに人に嫌悪感を与えてしまったのだと思う。発達診断をしてくれた先生からは「そこまで空気が読めてないわけじゃない」といわれたのだが。

先に「メンヘラ」いう指摘があったので、もしかするとサークルの中でメンヘラ的な部分を醸し出していたのかもしれない。

・まずは女友達を作ろう。

 俺が一番するべきなのはこれかもしれない。だが、あまり女友達を作れる自信がない。理由の一つは上にあるように、対人関係に苦手を覚え、男の友人すらうまく作れないこと。もう一つは、「女友達」という距離感がわからないことだ。俺の中で同世代の異性は三種類しかなく、「他人」「知り合い」「(存在しないが)彼女」だけだ。だから、友人が「二人で飲んだ」と言っていると「付き合うのかな」と思ってしまうし、彼女持ちが「女友達と遊びに行った」と言っているのを聞いて「それは浮気じゃないのか」と思ってしまう。俺も同様に、異性と少し仲良くなると「付き合えるんじゃないか」と下心をもってしまう。

 このあたりは俺の経験不足が影響していると思うが、友人もこれ以上作るのがむずかしいので、どうすればいいか思いつかない。

女性が多い環境に身を置こう。

 今大学四年生なので、新しいコミュニティに入ることは難しい。就職して仕事が落ち着いたら、社会人サークルなどに入ればいいのだろうか。

・何十人、何百人も声をかければ彼女はできるよ。

 恥ずかしながらその勇気は出ない。社交恐怖症があってコミュニティ内の人と話すことすら勇気がいるのに、まして声をかけるなど考えただけで震えてしまう。こういうところは「努力していない」と言われてしまうかもしれない。

ちゃんと身だしなみを整えろ。

 一応人前で恥ずかしくない格好をしているつもりではあるが、おしゃれは全く分からないので不十分かもしれない。最低限髭を剃る、寝癖を整える、服を買う、くらいはしているが、たぶん傍から見るともさっとしている。他に必要なことがあれば教えてほしい(ワックスだけはどうしても苦手でできなかった)。

婚活アプリマッチングアプリやろう。合コン行こう。結婚相談所入れ。

 アプリはやってなかった。コメントにもあったが「自然出会い」を期待してしまっていたからだ。合コンは誘ってくれる友人がいなかった。結婚相談所は、結婚がしたいとはまた違う思いだったので入ってなかった。

 ここまで書いてみて、俺は一生懸命彼女を作るために頑張ってきたつもりだったが、実際は言い訳ばかりでたいして頑張ってなくないか、と思った。少なくともマッチングアプリは始めようと思う。

社会人になるとモテルールが変わるから諦めるな、俺もこう思ってたけどちゃん彼女出来て結婚してるよ。

 こうしたコメントには希望を感じた。とりあえず社会に出たら仕事を頑張って結果を出し、「できる男」として魅力を高められたらいいと思う。(三つを四つと書き間違える人間なので、ちゃん仕事ができる自信はあまりないが)

・「受け取ること(自分のこと)」しか考えてない。「与えること(相手のこと)」をきちんと考えろ。

 かなり多いアドバイスだったのだが、一番難しいアドバイスでもあった。与えることを考えるとはどういうことなのだろう。どうすれば考えられる人間になるのだろう。周りの人に親切できるように努めてはいるが、ここでいうのはそれとは違うように思う。上で書いた「小学校当時意味の分からなかったアドバイス」と同じものだった。年を取ればわかるようになるのだろうか。

その他

・○○を読め。

 「結婚物語。」、「モタク」、「非モテ品格」、「孤独セックス」、カント北方謙三、つづ井さん、「なぜ私だけが苦しむのか―現代ヨブ記」、「コンビニ人間」、「Bバージン」、「恋愛症候群」、「ザ・ゲーム フェニックスシリーズ」、「闘争領域の拡大」、「すべてはモテるためである

 ありがとうございます。全部読んでみます

・二日に一回は性欲薄いだろ

 このコメントが一番多かったかもしれない。友人と自慰の回数を話したことがなかったので、みんながそんなにオナニーしているとは思わなかった。「増田は1回の自慰に4時間以上かけるタイプかね?」というコメントがあったが、三時間くらいかけるとき結構あったのでそれに近いタイプだと思う。

・女だろ?釣り臭い

 自慰が二日に一回である点と、一か所一人称が「私」になっていたところからそう思われてしまったようだ。自画自賛したいわけじゃないが(そもそも自画自賛にもならないが)、女性に書ける内容ではないんじゃないかと思う。

上から目線アドバイスばっかだな

 あくまで俺個人としては、ほとんどすべてのコメントがありがたかった。これだけ多くの人が様々な視点からコメントしてくれたおかげで、こうやって問題を整理して考察でき、自分自身についての理解が深まった。一方で、モテない事実人格的な否定と結びつけ「お前は○○だからモテないんだ」と言うのがハラスメントになりうることも事実だ。

 ここまで書いたものを後でまとめるかもしれないが、疲れてしまったのでまとめないかもしれない。

2019-05-29

川崎の、被害者家族にとっては理不尽以外の何ものでもない事件

気になったのはカリタ小学校

校長の御涙頂戴の演技がかった会見も引っかかったが、それよりも、

この理不尽カトリックはどう説くのだろうか、というのがすげー気になった。

ヨブ記を引いて、神は試されているのですと、

1年生の子らとその親にいうのだろうか。

2019-04-09

ドラゴンが火を吐きはじめたのっていつごろなの?

ギリシャ神話のテューポー

今日ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式神話の頂点に位置する傑作とされる。

巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた。

半人半蛇だけど「炎を吐く邪悪な蛇」のイメージにはなっているかも。

ギリシャ神話怪物はだいたいテューポーの子孫だし。

ギリシャ神話ラードーン

ラードーン(古希: Λάδων, Lādōn)は、ギリシア神話に登場する、林檎園の黄金林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色ドラゴン

(中略)

から炎を吐き、一説では顎の関節が尾にある為、体全体が口のようになっており、百の首を持つといわれている。

と、Wikipediaには書かれているが、ラードーンが火を吐くかどうかは定かでない。

何が出典なんだろ?

旧約聖書レヴィアタン

ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。

ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。

(中略)

その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。

ドラゴンになったのは後世。

サラマンダー

プリニウス著作で唯一現存しているのが、自然芸術についての百科全書的な37巻の大著博物誌である自然界の歴史網羅する史上初の刊行物であった。

(中略)

最初10巻は77年に発表され、残りは彼の死後おそらく小プリニウスによって公刊された。

プリニウスの『博物誌10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。

また、『博物誌11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊サラマンダーこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイアードレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。

「ベーオウルフ」のドラゴン

『ベーオウルフ』が成立した時期は、作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている[3]。

第一部でベーオウルフは巨人ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。だが、同時にいわゆる「ドラゴン約束事」(財宝を蓄え守っている、翼を持って空を飛ぶ、火を吐くなど)をほぼそろえている珍しいドラゴンでもある。

スラヴ神話のズメイ

スラヴ民族文字を持たなかったため、伝えられた神話民族独自に記録した資料存在しない。スラヴ神話存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみであるスラヴ神話地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。

ズメイ・ゴルイニチ(「山の息子の竜」の意)の場合、3つ首以上、多ければ12体幹を持つと表現され、火や毒を噴くなど、歴然とした一般の「竜」のイメージで描かれる。

アングロサクソン年代記ファイアードレイク

アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史を古英語で綴った年代記集大成である編纂9世紀後半のアルフレッド大王の治世に、恐らくはウェセックスにおいて行われた。

火の竜」を意味する名前の通り、炎をまとい、口からも炎を吐く。空を飛び、それが現れる時は辺り一面、昼のように照らされる。曇天の空に不思議な光が走る時はファイアードレイクが飛んでいるのだとされた。

隕石という説があるらしい。

獅子騎士イヴァン」のドラゴン

イヴァンまたは獅子騎士』(イヴァンまたはししのきし、Yvain, le Chevalier au Lion)は、1170年から1181年頃にかけてクレティアン・ド・トロワにより著作された散文騎士物語であり、アーサー王伝説主題にした5作品ひとつである

イヴァンは旅の途中で火を吐く大蛇獅子が戦っているところに出くわす。イヴァンは問答のすえ獅子に加勢し、大蛇を倒した。これに恩義を感じた獅子は、イヴァンと行動を共にするようになり、イヴァン獅子を連れた騎士とだけしか名乗らなくなる。

黄金伝説」のドラゴン

黄金伝説』(おうごんでんせつ、羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum、レゲンダ・アウレア)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ1230頃 – 98)によるキリスト教聖人伝集。1267年頃に完成した。

その時代エチオピアの町では一人の魔術師権力を持っていた。彼は常に恐ろしい二匹のドラゴンを連れていて、自分にはむかう者にけしかけていた。あまり大きなドラゴンではなかったが、口や鼻から火や燃える硫黄を噴出し、人や家を焼きつくしたので誰も魔術師に反抗できなかった。その噂を聞いたマタイ魔術師の元を訪れた。魔術師マタイドラゴンをけしかけたが、マタイが十字を切るとドラゴンは地面に倒れて眠り込んでしまう。

同じく「黄金伝説」に書かれている、有名な聖ゲオルギウスが退治したドラゴンは、毒を吐くが火は吐かない。

マルタが退治したタラスクは、「燃える糞を撒き散らす」と言われているけど、これ英語版では確認できなくない?

タラスクは、レヴィアタンボナコンの子なのだが、ボナコンの特徴である燃える糞」が、日本語訳されるとき混同されたのでは。

といったところから考えると、5世紀くらいまでは「火を吐くドラゴン概念は薄かったが、

8〜9世紀から伝承として語られはじめて、1012世紀頃にはすっかり定着していたという感じだろうか。

なぜ火を吐くようになったのか?

候補1:サラマンダーとの混同

サラマンダーは、火をより大きく燃え上がらせる能力があり、火山溶岩の中に住んでいるという伝承もある。

ズメイや、ヤコブドラゴンは、吐く息から硫黄臭いがするといい、火山連想させる。

候補2:雷や隕石などの自然現象に由来

ドラゴンには「地を這うドラゴン」と「空を飛ぶドラゴン」の二種類のイメージがあるが、

蛇や蜥蜴からは空を飛ぶイメージしづらいことを考えると、隕石から連想には説得力がある。

候補3:「身体が灼けるような猛毒から「火」に転じた

古典的ドラゴンはやはり「蛇」「毒」のイメージであり、

そこから火を吐くように変わっていったことを考えると、これも自然解釈に思われる。

うーん、わかんね。

anond:20190408143752

追記

というか最初、つまりギルガメシュ叙事詩(フンババ)の時点で『その口は火で、その息は死』と形容されてる。強力な怪物が火や死を吐くのは有史以前からの常識で、「最初から吐いてたが記録に残ってなかっただけ」では - cider_kondo のブックマーク / はてなブックマーク

フンババの咆哮は洪水であり、彼の口は火を意味し、吐息はまさに死である」というのは単なる比喩なのでは。

まあ比喩として記述されたものが、後に「そのもの」として受け取られるのは、この手の伝説ではよくあることだけれども。

仮にフンババが火を吐くとしてもそれだけで「もともと怪物は火を吐くのが常識」というのは飛躍ではないかと思う。

2017-08-31

https://anond.hatelabo.jp/20170831195309

劇中のセリフなのかよ・・・。大丈夫なのかなその映画ヨブ記すら読んでないとか?まぁ観てみるか。

2017-02-26

[]

さびさに中島敦山月記』を読んだら、だいぶ読み方が変わって驚いた。

以前は、強烈な自尊心ゆえに友人や先生に教えを請えないエリートが没落した様を描くことで、「つまらないプライドは捨てて生きていかないとロクなことにならないよ」という教訓を言う話だと思っていた。

が、この読みはどうも浅薄というか、人生の敗北者にとっては厳しすぎるのである。というか結論だけ抜き出せばそこらの自己啓発本と変わらないような気がしてきて、作品価値矮小化しているような気さえしてくる。

そこで、もう少し人生の慰めになるような読み方はないか。と考えていたら、これは「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないか、と思い始めた。

中学生の頃に読んだときは、李徴は周囲に教えを請いたりできないプライドの高い男だな、と思ったが、(浅い)人生経験を積んだ今、改めて読むとそうでもない。

李徴が詩人を志したのは、(功名心もあっただろうが)第一には心を揺さぶる先人の詩があったからだろう。そうなると、そうした詩を書く者が周囲にいれば、これに師事したり教えを請いたりしたはずである

それにもかかわらずそうしなかったのは、自分の追い求める詩人像に値する者が周囲に居なかったからだろう。

自分の追い求める理想像と、②世で「名を成す」者とがズレることは、現実社会でもしばしばあることである

李徴は、このズレに気付かないまま自分理想像を追い求めていったことで、世で「名を成す」ことができなかったばかりか、周囲の人間と折り合いがつかなくなり、「努めて人との交を避けた」結果、「一匹の猛虎」となった。

他方、周囲にいた「己よりも遥かに乏しい才能であ」る者は、世で「名を成す」道を「専一に磨いたがために」、「堂々たる詩家」となった。

李徴は理不尽な世の中に自分を合わせられず、ひたすらに理想を追い求めた結果、社会的に失敗してしまったのである

これはカフカ『変身』で、社会の求める市民像──(ⅰ)家庭の善良な息子、(ⅱ)有能なセールスマン──を演じていたグレーゴルが、自己本来性の自覚を持ってしまった瞬間、褐色の虫に変身してしまったのと似ている。

現代社会ルールでは、人間自己自身本来性を保持することを許さないのである

そして、李徴が不幸であったのは、上述した社会ルールに、他ならぬ李徴自身支配されていた点にある。

李徴としては、徹底的に社会を突き放し、自分理想像を追求するという途もあった。

しかし、「元来詩人として名を成す積りでいた」李徴は、世で「名を成す」努力をできなかった自分を徹底的に断罪するのである

事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ

李徴の詩を聴いた袁の評価によれば、李徴の詩は「長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりであるとある

第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」とは言え、この自己評価は言い過ぎである

それに、はっきり言って実社会でこんな話は”よくある”ことなである

ここで想起されるのは聖書の『ヨブ記である

神の手により不幸のどん底に落とされる義人ヨブを、自己責任論に基づいて徹底的にこき下ろす友人エリファズの話だが、どうも李徴の中にはヨブとエリファズが同居しているように思える。

さらに、上記のヨブ記ラストにおいて、ヨブは「仲保者」(=キリスト?)の存在確信することで救われるが、李徴にこのような仲保者は現れない。

ただ、「向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。」というだけである

また、カミュ異邦人』も想起される。

これも社会ルールに合わせられないムルソーという男の不幸を描いた作品である

ムルソー物語ラストで、このような自分排除せず「優しい無関心」を示す自然存在に気が付き、幸福を得る。

他方、李徴は「獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」というだけである

ここに来て、山月記という作品は「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないかと思うのである

2016-12-06

[] 遠藤周作沈黙』 ※追記

なんかマーティン・スコセッシ監督人生五指に入るほど好きな映画監督)が遠藤周作の『沈黙』を映画化したらしいので、積ん読していたのを読んだ。以下はそのメモ(間違ってるかも)。

どうもテーマは以下の3つらしい。

信徒がどんなに辛い目にあっても神が彼らを助けもせずに沈黙しているのは何故か(神はいないのではないか

クリスチャンと言えど、拷問に対する恐怖から踏み絵を踏んでしまう心の弱い者もいる。これら弱き者は救われないのか。

日本キリスト教が伝来しても、それは日本特有の何かに変容してしまって、本来キリスト教日本根付かないのではないか

テーマ① 神の沈黙理由

結論:神は沈黙しているのではなく、信徒に寄り添い、その苦痛・苦悩を分かち合って下さっている。

◇考えたこと:神がいるならなぜ苦悩に満ちた人生で何か声をかけてくれないのか、とは誰しもが考えたことだろう。それに対する卓抜な回答だと思う。辛い人生の慰めになる。

本作の元ネタの1つはヨブ記だろうけど、この解釈ヨブ記に逆照射すると面白いかもしれない。信徒に苦悩を与えるヤハウェと、それを分かち合ってくださる「仲保者」(=キリスト)ということになるか。

テーマ② 弱き者は救われないか

結論:弱き者も救われる。弱き者には弱き者なりの苦悩があり、踏み絵を踏むことを拒否して拷問を受ける信徒と変わりはない。

◇考えたこと:これも大変慰めになる。誰しもが踏み絵拒否できる強い信徒ではないし、むしろ弱き者の方が大多数だろう。そんな中でのこの結論は心強い。

テーマ③ 日本キリスト教受容

結論:書いてない?

◇考えたこと:神の存在聖書というテキストで表されている以上、そこには解釈が入らざるを得ないし、解釈に際してはその人の人生観世界観がそこに入り込まざるを得ない。

その意味で、西洋キリスト教日本キリスト教は違うと言われても、そらそうだろうという感じだった。

おわり。一読目だし、『切支丹屋敷役人日記』がいまいち理解できてないしで、間違ってるかも。

日本小説だけあって、論文ネット上にpdfでいくつか転がっているので、読んでみたい。

[追記]

本作にまつわる良いQ&Aがあったので貼っておく。

http://q.hatena.ne.jp/1344564565

2016-10-30

[]

「働かざるもの食うべからず」って言葉はよく誤解されるんだが、(1) 元は聖書(テサロニケの信徒への手紙 二:3-10)の言葉で、正確に言えば「働きたくない者は、食べてはならない」って意味だ。(2) その後、この言葉レーニンによって再解釈され、「働きたくない者」ってのは不労所得で食っていける金持ちのことだ、と言われたりした。

重要なのは、どちらの意味でも「働きたくても働けない者」(あんたのことだな)を含まないってことだ。

からあんま気になさるな。親父さんは知らんが、神さまは分かってくださる。

それと聖書には「あんま人に期待しすぎるな」っていう教え(ヨブ記全体)もある。

親父さんに期待しすぎると裏切られてこの先ずっとつらい(しお父さんのことが大嫌いになっちゃう)からやめとけ。人間なんてそんなもんだ。

オナニーはしない)

http://anond.hatelabo.jp/20161030102229

2016-10-06

http://anond.hatelabo.jp/20161006103656

「うちさぁ…ヨブ記あるんだけど…読んでかない?」

ヨブ記で人を呼ぶ気?なーんて…ふふっ

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