はてなキーワード: 公正世界仮説とは
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公正世界仮説は、理不尽な不幸を見て、その不幸があってはならないひどいことだ、と心が痛むところから始まる。そのあってはならないことが起きたことが理不尽で認められないので、正義感が起動し、現実を捻じ曲げて合理化するという機序で公正世界仮説を進めてしまう。
しかし、りりちゃんを擁護し中年男性被害者を中傷している人たちの心の動きは、それとは全く違う。中年男性の被害者が、本来あってはならないひどい目にあった、という認識をはなから持ってない。むしろ最初から軽侮ないし嫌悪している。その嫌悪感を慎まずに悪意として世に放ってるだけ。公正さを求める正義感が存在しない。
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公正世界仮説は、理不尽な不幸を見て、その不幸があってはならないひどいことだ、と心が痛むところから始まる。そのあってはならないことが起きたことが理不尽で認められないので、正義感が起動し、現実を捻じ曲げて合理化するという機序で公正世界仮説を進めてしまう。
しかし、りりちゃんを擁護し中年男性被害者を中傷している人たちの心の動きは、それとは全く違う。中年男性の被害者が、本来あってはならないひどい目にあった、という認識をはなから持ってない。むしろ最初から軽侮ないし嫌悪している。その嫌悪感を慎まずに悪意として世に放ってるだけ。公正さを求める正義感が存在しない。
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公正世界仮説は、理不尽な不幸を見て、その不幸があってはならないひどいことだ、と心が痛むところから始まる。そのあってはならないことが起きたことが理不尽で認められないので、正義感が起動し、現実を捻じ曲げて合理化するという機序で公正世界仮説を進めてしまう。
しかし、りりちゃんを擁護し中年男性被害者を中傷している人たちの心の動きは、それとは全く違う。中年男性の被害者が、本来あってはならないひどい目にあった、という認識をはなから持ってない。むしろ最初から軽侮ないし嫌悪している。その嫌悪感を慎まずに悪意として世に放ってるだけ。公正さを求める正義感が存在しない。
公正世界仮説(こうせいせかいかせつ、just-world hypothesis)または公正世界誤謬(こうせいせかいごびゅう、just-world fallacy)とは、人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである、と考える認知バイアス、もしくは思い込みである。
公正世界信念の保持者が「自らの公正世界信念に反して、一見何の罪もない人々が苦しむ」という不合理な現実に出会った場合、「現実は非情である」とは考えず、自らの公正世界信念に即して現実を合理的に解釈して「実は犠牲者本人に何らかの苦しむだけの理由があるのだ」という結論に達する非形式的誤謬をおこし、「暴漢に襲われたのは夜中に出歩いていた自分が悪い」「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災よりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する犠牲者非難をしがちである。
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「汚い言葉を言われて、汚い言葉を言い返すな、同じ土俵に立つな」って、要はやられてもやりかえさない、いいターゲットになるだけなんだけどな。
常に正義の味方がいることを期待できるわけではないし、ましてやそれで相手が反省してくれたりするわけでもない。
こういうやつらは波風立てないようにすればそれだけ増長するだけだぞ。
暴言・暴力をふるわれたら、その時その場でやりかえして相手を反省させなければいけない。
特に男の場合は正しいことを貫くために暴言・暴力にやり返す必要がある。
正しいときにすらやり返せないような人間を育ててもカモになるだけ。
理想ではなく現実を見れば、理不尽な暴言・暴力をふるう人・集団・国があることはすぐに分かるはず。
美術の領域では「貧乏神話」が根強く支持されているという。ゴッホのように極貧の中で純粋に追求された作品だけが芸術的であり素晴らしいのだという考え方だ。
この考えが強いと、十分な資金と環境の下で作られた作品には価値が無いということになる。
どうも現代絵描きの反AI的な考え方は、これに近いように感じられる。貧乏に価値があるように、絵を描くプロセス、どれほどイチから作るかという点に価値を置いているのだ。
テクノロジーを通した学習と出力は、ペンだこや腱鞘炎を生まない。これが無いものには価値が無いという考え方だ。
自分が苦労したのだ、他の人間がその苦労をスキップするのは許せない、という考え方かもしれない。
なぜ貧乏や肉体的な苦痛が芸術であり美しいということになるのか、それをスキップすることは許されないのか。
妬み、嫉み、公正世界仮説?
どう説明しても理解しなそうだから、もっと直感的で日常的なこと書いてみる
極端、何もしないで寝てるだけで億万長者にはなるんだよ。それは、誰かがくれるものかもしれないし、宝くじかもしれないし、落ちてるの拾ったりかもしれない
億万長者になれる時はなれるので、当たりクジが絶対に1つ入っている抽選器(外れクジは一度排出したら抽選器に戻されないタイプ)を空になるまで回す必要性すらない
キャンプ行くだけで死ぬし (クマや異常者や悪天候ではなく、ナラ枯れした木が突然倒れてくる)
エレベーター乗るだけで死ぬし (ドアが開いたのでいつも通り乗ろうとしたら、ハコが来ていなくて転落)
道を歩くだけで死ぬし (車や異常者ではなく、空から何かが戦争以外で落ちてくる)
家で寝てるだけで死ぬ (火事・地震・異常者ではなく、平均的な住宅価格が1億を軽く超えている地域のコンドミニアムで床が抜けて死ぬ。例:米国のサーフサイドなど)
成功がどうたら以前にマジで "たまたま生きている"だけなんだぞ、我々は
いい人(徳の高い人)になりてーなとはすごく思ってるし、それが人生の目的だけど、
善行をすることは "たまたま生きている" 我々のラッキーを補強してくれるものでは決して無いのだ
どんなに勤勉でめちゃくちゃいい奴でも死ぬ時は理不尽に死ぬ、この世は公正世界仮説で出来てはいない
それは辛い状況を受け入れろという意味ではなくて、
上級国民でもエリートでも善人でも、先進国の高級コンドミニアムで寝てるだけで死ぬ(戦争でも地震でも火事でも殺人でも老衰でもない)という現実を人力でどうにかすることは不可能だが、
まず断っておくが、死刑反対とか、19歳への死刑反対とか、そういう話ではない。
世間にしてみたら冷酷な殺人者だろうが、親にしてみたら小さいころから育ててきた可愛い息子であるし、まだ独り立ちもしていないまだまだ子どもという年齢だ。
ついこの前までランドセルしょってたのにもう高校生かぁというくらいの感覚だ。
出産の痛みも、夜泣きの辛さも、学校の入学卒業も鮮明に覚えている。
その子供が国から、「死ぬべきである」と告げられとあれば正気ではいられないだろう。
親であれば子供を救いたいと思うかもしれない。
だが、それと同時に子供は殺人者であるのだ。自分の子供とおなじくほかの人が大切に思っている人を殺したのだ。
それを差し置いて自分の子供を救いたいと思うのはおこがましく思うし、なによりも殺人者にしてしまったという親としての責任も重く感じてしまうだろう。
殺人を許さない気持ち、自分が殺人者を生んでしまった気持ち、このような贖罪の気持ちと、自分の息子を愛する気持ちは矛盾しない。
同時に抱えてしまう感情だが、世間はその息子を愛することを許してはくれない。
逆縁はいかなる場合でも悲しいものだ。逆縁の不幸に直面した親たちは多くの同情を誘う。だが世間は自分たちの逆縁を望んでいる。
いっそ、失恋に苦しんで自殺でもしてくれたらとふと思い、そして自分の子供の死を思うなんてと自己嫌悪にも陥る。
もう子供は死んだのだと思う様にしても、まだ生きていて、そして確実な死が数年後に訪れると司法が判断をした。
被害者を悼む気持ちを強くすれば、息子を愛するという人間の正常な感情を殺さなければならい。
息子を愛するという正常な感情を出すと、犯罪を肯定しているような罪悪感が生まれる。
勝手にエンパシーを感じている僕は、この不協和を公正世界仮説に基づいて「こんな殺人者を生んだ親だから、毒親にちがいない。」というストーリーを作ってしまいたいが、現実はそうではないのだろうなと思う。