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2023-01-04

2022年に読んだ本

1月

琉球から歴史の原文へ。太平記史記を並行して読み始める。

現代語訳とはいえ長くてしんどい

2月

メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ世界史教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い

3月

ウェブ小説を読む。

4月

東アジア史が中心。

5月

詩集芥川賞に手を出す。

シン・ウルトラマンを見たせいか特撮関係の本が後半に増える。

6月

後半には自分学生時代ベストセラーだった本を手に取った。

価値観現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。

7月

暴力団言語学、法学テーマの月だった。

8月

旧約聖書を読み始める。

9月

ちょくちょくSFを挟んで旧約聖書を読み進める。

10

旧約聖書読了学生時代新約聖書通読たから一応全部読んだことになる。

カズオ・イシグロ邦訳が出ているのはたぶん読み終えた。

11月

生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白いネタが尽きない。

12月

土偶埴輪についても読む。

漫画

ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。

十三機兵防衛圏については友人に薦められたかクリア後のノリで買った。

美術展など

今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。

映画

「シン・ウルトラマン」★★

プラットフォーム」★

エクストリームジョブ

12モンキーズ」★★★

雑感

(長くなったのでブコメ

2021年に読んだ本

今更だけど2020年に読んだ本

2022-11-19

ネルー発言デマ創作したのは一人の人物ではないか

インド首相ネルーが「日本が300万人という尊い命を犠牲にして戦ってくれたお陰で、我々は独立できた」との発言はあり得ない

https://nou-yunyun.hatenablog.com/entry/2022/11/19/150000

このエントリに登場する「イザヤペンサン」「イシマエル」「イサク」の3アカウントなんだけど、「イザヤペンサン」が山本七平の筆名であるイザヤ・ベンダサンパロディであることは元記事でも軽く触れられている通りだろうと思われるが、イザヤという名はイザヤ書などで知られる旧約聖書預言者である。イシマエルは旧約聖書に登場するアブラハム長男イシュマエル、イサクもまたアブラハム次男だ。いずれも旧約聖書を由来とするユダヤ人名風の名であることが共通している。

また、いずれのアカウントスクリーンネームTwitter登録時にランダムに割り当てられた文字列から変更していないという点も共通している。

さらに、各アカウント活動時期を見てみると、

イザヤペンサン2018年6月登録、最終RT2019年4月22日ツイート

シマエル:2019年5月登録、最終RT2021年12月22日ツイート

イサク2021年12月登録、現行

となっていて、イザヤペンサン→イシマエル→イサクアカウントを乗り換えているように見える。

アカウント乗り換え自体別に責められることではないし、特にこのデマ拡散するために作った複垢と言うわけでもなく、気分で転生したか、何らかの事情ログインできなくなってアカウントを作り直したなどで説明できる。

記事ではこの3者を別人として扱っている(同一人物であるとする決定的な証拠はないため怪しいと思っていても言わなかったかもしれない)が、イザヤペンサンのあまり拡散しなかった与太話にイサクが肉付けをして語ったというよりは、同じ人物が同じデマを言い続けているだけ、と見た方が自然に思える。当人にとってはもはや持ちネタと化していてデマ創作したという認識すらなく真実だと思い込んでいる可能性もありそうだ。

2018-12-28

怪談と隣人―波勢邦生「トナリビトの怪」を読む

【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店ネット書店最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネル選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます

当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的自己判断できる存在としての近代主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的イメージに対して、ハワイ日本沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます

いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。

知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子うつ適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)

この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談想像力」はキリスト教テクストにも見出されるという点です。

(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)

この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体区分による解釈は、恣意的グロテスクな切断」(34ページ)となりますしかバベルの塔神話が示すように、神は常に「言語文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。

「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉からだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)

ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たち理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)

「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述あくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります

たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰告白せずに死んだ祖父天国でないどこかへ行ったのではないか不安になった」という文章地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラスト文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)

聖書怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります

イスラーム法学中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰自身による学問考察のいくつかには、相対主義決断主義あいだでさまよう私たち課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます

以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。

2017-09-06

anond:20170906195850

Mayim mayim mayim mayim, mayim b'sason

イザヤ書12:3をふまえたヘブライ語で「水、水、水、水、救いの水」だそうですよ

2017-05-11

http://anond.hatelabo.jp/20170511170337

共産主義(この言葉自体むちゃくちゃ多義的だが)の元ネタ聖書特にイザヤ書)の描く理想社会からな。搾取がなく、自分が生きるのに必要な分だけ生産して、つつましく暮らす、と。

金持ちになることや遺産を残すことに価値を見出さな価値観は、紀元前から存在する、人間に根源的なものだよ。

2016-09-02

[]

出エジプト記終わった。

ヨブ記イザヤ書ロマ書(半分)⇒出エジプト記と来てる。

とりあえず今回は十戒解釈面白かった。


偽証してはならない」のところの説明が、注釈者(内村鑑三)が不敬事件世間からボコボコにされた経験からか、めちゃくちゃ熱くなってて笑った。俺も小保方さんのことを悪く言わないようにしよう。

次は創世記を読みたいんだけど、四福音書のどれも読んでないのもアレな気がしてきたのでルカ伝でも読もうかな。

2016-08-13

[]

イザヤ書が終わったかロマ書に進む。順番通り読んでたら挫折しそうなので関心がある順に行く。

2015-06-10

カトリックのものです

http://anond.hatelabo.jp/20150609194256

カトリックのものです。生まれてすぐにとても大変な辛い経験をされましたね。

神は私たち創造されました。それは私たちが不幸になるためではなく、

幸福人生を歩むために創造されました。これは私の人生から学んだことです。


そして、このように人に語りかけています


「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)



それでも一方、人生には苦痛が沢山あります

どうしてなのか?なぜ自分けがこんなに苦しむのか?



それは分からないのです。

なぜそのようなことが生じるか、論理的に説明はできないのです。



それでも、日々迫る苦しみ・問題を解決して前に進まなければなりません。

能動的に人として与えられた知性・理性をフルに駆使し解決しなければならないのです。



これらの問題を解決していくときに、他者からのあらゆる言葉意見の相違、価値観がぶつかりあい、どれが本当か分からない時があるでしょう。



から信仰必要なのです。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

信仰によって、わたしたちは、この世界神の言葉によって創造され、

従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:1-3)



この世の価値観は非常に相対的でとても移ろいやすいのです。

逆に、信仰faith)はその人の内なるところで絶対的もので揺るがないものなのです。



日々迫る問題を解決するときに、信仰は揺るがない土台なのです。



ここまで言うと、反応は2つに分かれるかと思います

「そんなこというけどさ・・・」「そういうものなんだ、よし・・・



でも、どちらでもよいのです。

今回本当にみなさんに伝えたかったのは、この言葉なのです。




「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)




そして、私も愛している

 
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