はてなキーワード: 降臨とは
http://www.4gamer.net/games/034/G003450/20151218190/index_4.html
「売上=正義」みたいなところがあって驚きました。彼らは平然と「(お客さんから)お金を巻き上げる」という表現を会議で使ったりしているんです。
下記の記事で触れられているようにソシャゲは運営費用がかさむ。
ソーシャルゲームの影。儲からないソーシャルゲームの一生とは - ソシャゲ業界の片隅で3
売上げの3割を Apple にとられます。この時点で1,000万−300万で、メーカーにわたる金額は700万円になります。
万全の態勢で10人で運用したとすると月500万円かかり、サーバー代の50万円も毎月必要です。
すると、700万−500万(人件費)−50万(サーバー)で、残りは150万円。広告費を引いたらリリース初月は50万円の赤字です。
月1,000万の売上げではゲームを維持することも困難なのです。
面白いゲームを作ってDAUが増えてもその分の人件費とサーバー代を稼げないと続けていけない世界。
売上を出すためにやって来たことを語るとわかりやすい。
例えばmobageやGREEが台頭した時代、なぜコンプガチャが生まれたのか?
その経緯を考えるとコンシューマゲームとソシャゲの差をわかってもらえると思う。
Q.とあるソシャゲにおいて常連で来ている奴らの課金率が5%だったとして、このゲームの売上を低コストでアップさせるとしたら何が望ましいか?
A.②課金率を上げる→割引をすれば増える→しかしその後は割引価格でしか売れなくなる→△
└これが正解
既に課金している奴らは追加課金に対して心理的なハードルが低い傾向があるからだ。大半のソシャゲは今月課金している奴らが先月も課金していたなんてことがざらだ。
そいつらの課金額が2000円なら、それを3000円に引き上げることを考えればいい。
・10連ならハイレアリティを1つ確定にしよう、さらにオマケも付けよう。
「コンプガチャ」
目的:売上アップ
コンセプト:たくさん回したくなるガチャ
もっとも、コンプガチャの仕組みがエグ過ぎて禁止になったはものの、他のハイレアリティを1つ確定やオマケを付ける手法は堂々とまかり通っている。
ソシャゲの運営とはゲームを作るものではない。金を巻き上げ方を考えるのが仕事なのだ。
コンシューマゲームの現場からソシャゲに来る人がいるが、彼らに限ってこのことがわからず、売り上げを立てることができずに会社を去っていく。
あともう一つ、もしソシャゲ運営会社に入ったならユーザーと言う言葉を使わないことだ。
社内で舐められることになり、昇進なんてできないだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20151019213445
「努力が足りないのだ」と叱責する者が多いが、まるで見当違いだ。あなたは全然悪くない。ユーモアのつもりであなたを責め、戯れ言に興じる小物たちの言葉など聞く必要はない。
なぜ魔法少女になれないのか。
なぜならそれは、魔法少女になった人間がこの世に存在しないからだ。あなたに絡んでくる者、あるいはあなた自身も、その残酷な事実を受け入れられない。いや、分かっていても分からないふりをして、虚構の世界と夢を守ったフリをして気取っているのだ。しかし、前例がないからといって、イコール魔法少女になることが不可能なわけではない。
あなたがこの世界で最初の魔法少女になればいいのだ。最初の魔法少女なのだから、自分自身がルールなのだ。ただし、「俺は魔法少女だ!」と高らかに宣言したとき、そこにいる観衆の大半が「こいつは本物だわ」と納得しなければならない(もちろん、他者を納得させる必要はないという論もある。しかしここでは取り上げない)。つまり、俺ルールを作り上げてもいいが、他者をも納得させる妥協点を探る必要がある。「魔法」とは何なのか。「少女」とは何なのか。その言葉が規定する可能性をどこまでも掘り下げ、2つの概念を矛盾なく結合させる点を探る。そしてそのプロセスを雄弁に語る必要がある。
困難な作業になる。しかし、不可能ではない。もし行き詰まるようなら、著名なテキストサイトの管理人やネタブロガーを見習うのがいいだろう。
「いや、そんな理屈をこね回してネタで魔法少女になりたいわけじゃないんだよ!」
その気持ちもわかる。だが、あなたの知っている魔法少女もそうやって出来たものではないとどうして言えようか。演出やエフェクトが描き出す「魔法少女感」の裏に、必ず、どうしたら「魔法」で「少女」に「見えるのか」という生みの苦しみがあったはずだ。そうしたネタ出しの初期の姿は歪で陳腐なものだったかもしれない。
何かを生み出す時には、つねに柔軟な発想が求められ、そうして出来たものを貫き通すことが説得力を生む。たとえばあなたの知っている魔法少女の中に、魔法は使わない物理攻撃型の少女はいないだろうか。しかしあなたは彼女を「魔法少女だ」と認識している。あるいは、もはや少女とは言えない体格の魔法少女もいるかもしれない。でも受け入れているだろう。それはどういうことだろうか? 契約をしたから? 体や装備が魔法体だから? 本当にそうだろうか? そういう説明をされる前から、あなたはコンテクストで「この子たちは魔法少女」と確信していたのではないか?
このことは、表現を受け取る側の人間も、相当に柔軟になりうるという事を示している。それは人間の美しいあり方でもある。柔軟になるだけのコンテクストを共有していない人間からみれば、その発信者も受信者も「宗教くさい」と蔑視されることもあるだろう。しかし、そのような美しくない眼差しを考慮する必要はない。あなたと、受け手が信じてさえいれば、そこには何だって降臨し得るのだ。実際、あなたは創作上の魔法少女という存在を、彼女らが与えてくれた感動と社会的ムーブメントを、虚像だとは思っていないだろう。そこに「ある」と信じることで物は生み出され、定義される。それは儚くも尊い、人間の壮大な営みの一部だ。魔法少女なんてものはその極致のようなもの。それに素直に憧れることができたなら、もう一歩先に進む人がいてもいいはずだ。
……ここまでの内容を消化し昇華するだけでも、魔法少女になれる可能性は十分あるだろう。だが依然として困難を感じている人も多いことと思う。それは、「魔法」というものに対して説得力を出すことが難しいためだ。
あらかじめ潰しておくと、「少女(見た目)」についてはどうとでもなる。仮に、あなたが男性だったとしても、いまは「男の娘」なんて言葉があるくらいに、男子が女子と見られるためのノウハウや文化の蓄積がある。あなたが青少年とはかけ離れた年齢だったとしても、歳をごまかすテクニックはそれ以上に長年の蓄積がある。なんなら手術という手もある。その上、それらが完璧でなくても、受け手の柔軟さを上手に喚起してやれば受け入れられるはずだ。あとは自分自身が自らの姿を受け容れるだけの精神性を築き上げればすむ。
だが魔法はすこし性質が異なる。魔法というものはこの世に存在していない。いや、ありふれていないと言ったほうが正しい。馴染みのない概念は、当然ながら受け入れるのが難しくなる。創作上の魔法を受け入れているのは、「これは創作だから」というモード切替スイッチが人々の頭についているからだ。とはいえ、現実世界にも「魔人」「魔法使い」と称されるような人間は存在する。スポーツ選手などが思い浮かぶだろう。しかし彼らは「魔」や「魔法を使える」存在ではなく、同じ人類だ。比喩的表現。つまり、同じ時代に生きている人類とは思えないほどの所業をやってのけることが「魔法」なのだ。「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」という言葉を引用するまでもなく、我々は魔法という言葉に魔法性を過剰に感じすぎているせいで、自ら「魔法」の枠を狭めがちなのだ。創作上の魔法は、ファンタジーと分類されることが多いが、細かい原理を説明していないだけの超科学が常識的に利用されている世界と捉えれば、SFと同列である。
とは言ったものの、我々のような凡人が、人々の目を欺くような超科学、最先端技術を操れるわけではなかろう。習得しやすいのはマジックような技巧の類だ。現実世界ではマジシャンが一番「魔法使い」の称号に近いところにいる。なので、順当に考えれば、「マジック少女」から「魔法少女」に昇華させる線が現実的に思える――ところがここで問題が起こる。我々の知っている魔法少女は、マジック少女のすごい版ではないのだ。人のために働く、助ける、守る、攻撃する、あるいは駆けつける、着替える、契約する、それらのタイミングで魔法が行使されるのが普通だ。なのでベースの行動をそのあたりに設定する必要がある。その際の「普通のやり方」を「魔法みたいにすごいやり方」に変えることが、魔法少女の必要条件だといえるだろう。ただ、これだけでは、「早着替えをマジックと映像技術で魅せるパフォーマー」程度どまりだろう。
魔法少女たるには、「魔法」的存在である事の他にもう一つ欠かせない要素がある。ヒロイックであることだ。すなわち、何かの使命をおびている。何かを背負って、何かに突き動かされている。別に世界を救うレベルでなくもいい。ご当地ゆるキャラ並の小さな使命感でもいいから、何がしかのパッションが滲み出る象徴的なキャラだと認識されなければならない。
さて、私の陳腐な魔法少女論はここまで。あとは「自分の頭で考えよう」。長年夢見てきたあなたの中には、きっと何らかの「魔法」の種火と、小さな使命感の欠片があることだろう。あと生まれ持った体と。それらの調理法を考えるだけの話だ。理想の魔法少女像との乖離は、きっとあとから埋まってくる。最後に叱咤の一言で締めくくろうと思う。
「努力が足りないのだ」
もちろん今でも良く腹を壊す。深夜に泥酔してラーメンを食した翌朝など酷いものである。どのぐらい酷いかと言えば、ここに書けないほど酷い。
小学生の時分は、なぜか「大の方のトイレに入ると自動的にコミュニティの晒し者にされる」という厳格なしきたりがあり、大きな方をぶりぶりっと出していると、トイレの壁をよじ上って誰かしらが覗いて来たり、偉大なるウンコマンの誕生、登場を大勢で迎える。というのが流行していた。
もちろん、俺もその偉大なるウンコマンとして降臨したこともあれば、尊大なるウンコマンを迎えたこともある。
やがて中学生になり、異性への興味が花開く年頃になると、さすがに男子のウンコマンへ対する興味、情熱も薄れていくのだが、今度は授業中に腹が痛くなってしまった場合、好きな異性の目の前で「ちょっとトイレに……」と手を挙げて行くのが恥ずかしいという、なんだか今の日本人が忘れてしまった、恥じらいにも似た初々しい事態に直面するのであった。
そう言えば、中学の教師に「ウンコに行きたい」というと「あと10分で終わるから待てないのか」と言われた記憶があるが、そもそもウンコを我慢出来ないからわざわざ手を挙げているわけで、終業まで待てる奴が「ウンコしまーす!」と手を挙げるわけが無いのである。思い出したら腹が痛くなって来た。
そうした甘酸っぱい春色の青春も終わりを迎え、受験の後、俺は男子校に入学するわけであるが、男子校と言えばもともと肥溜めみたいな場所であるので、つまりはウンコみたいなものである。
休み時間、授業中に関わらず、勝ってくるぞと勇ましく、大手を振りながらウンコをできる環境に「これが大人ってやつか」としみじみ感じ入ったものである。
そんな糞まみれのうんこく時代を過ごした高校生活であるが、友達も居たし、彼女も居たし、いつでも気兼ねなく脱糞出来る余裕からか、胃腸の様子も少しは良かったように思える。
そして高校を無事にノー漏れで卒業し、死にたいくらいに憧れた華の都大東京に上京することとなる。
3年ぶりに女性と同じ屋根の下で学ぶことになった専門学校であるが、もはや18年毎日行われた胃腸との対峙、対決の結果により向かうところ敵なしとなっていた俺に死角は無かった。
ただ、死角は無かったと言っても、腹は痛くなるので、この頃より将来の夢は「家で出来る仕事」となる。
また、このぐらいの年になると、車に乗って何処かへ行ったりと、遠出をすることが多くなるが、その時は、さすがの玄人である俺もかなり困った。電車のようにその駅ごとにトイレがあるわけでは無い。
冷静に自分の腹具合と相談しなければ、腹腹時計が爆発し、車中脱糞という壮大な悲劇と、ちょっとした喜劇が待ち構えている。
そんな時には、気管支炎喘息の症状を活かして多目にもらっておいた、リン酸コデインが役に立った。
この鎮咳剤は、基本的には咳を鎮めるためのものであるが、もうひとつの作用として、下痢止めがある。医者に処方される際に「便秘になる作用もあります」と言って処方されることの多いこのリン酸コデインであるが、正露丸も効かないロシア以上の胃腸を所持する俺に効く唯一の下痢止めと言っても過言ではない。
正確には、万年下痢なので、コデインを飲むと、その便秘の作用と相まってなぜか丁度良い状態になる。という素晴らしい効果なのである。ウィリアム・バロウズの小説に出てくることもポイントが高い。
閑話休題。
そうこうするうちに、あっという間に30歳を過ぎた。
ということは、もうこの胃腸との付き合いは30年を超えるわけであり、30年も毎日己の胃腸と向き合っていれば、それはもう健康問題どうこうというよりはもう「道」すなわち「タオ」である。
脂っこいものを食せば下痢になる。これはもう宇宙自然の普遍的法則、そして根源的実在であり、衆目の前で漏らして迷惑をかけないというのは、道徳的な規範はもとより、美や真実の根源なのである。
30を過ぎた頃から「屁だと思ったら実だった」というちょっとした逆転現象が起きることが多くなって来たように思える。
ベテランだと思っていたウンコ我慢道も、まだまだ知らないことばかりである。
頑張って生きていこうと思う。
呼んだ?呼ばれた気がしてここに降臨
路側帯に車を停めて、ウンコをすることか?それは緊急事態なので許そう。しかしビニール袋に入れて持ち帰るのがマナーだ。
山歩きでウンコがしたくなったとき。当然近くにトイレな無いな。これも仕方がないので許そう。野・糞と書くだけに野の中でウンコの仕方
登山中のウンコは自然現象。英語でウンコがしたくなったことを「自然が呼んでいる」という
登山用語で「雉撃ち(きじうち)」か「お花摘み」と言われるくらい。ちなみに「お花摘み」は女性の方ね。メルヘンだね。これならアイドルでも許せるね
さて、ウンコをする前に穴を掘れ。なぜかというと、しゃがむと肛門*と地面のクリアランスは拳1個程度だ
そこでウンコをすると、ウンコが地面に当たる。そのときの感触はまるでバックから掘られたウホォって感じになる。ああ、肛門*に異物が入って来る新しい感触
新しい感触に浸るのもいいが、単純にウンコが地面につかえているだけだ
そして用が済んだら穴を埋めるのだ。その時、紙は燃やすこと。紙はトイレには流せるが自然の中では溶けて無くならない。これがマナーだ
しかし標高が2500メートルを超えると、穴を掘ってウンコを埋めても自然分解されない。土壌が痩せているのだ。さらに生態系を破壊しかねない
高山に登るときは携帯トイレを持って行く、これはマナー以前に山の掟、義務だ
さて、路上でウンコをすることになったら、拭いた紙はウンコの上に置いて良し。そこにウンコがあるな、踏んではいけないな、という目印になる
再度降臨。救世主の降臨は1回きりだが、心に棘、ケツの穴にウ〇コが付いているようなのでまた来たよ
自宅、会社、最近は小奇麗なトイレはウォシュレットだからASSに付いた滴を拭うだけ。ASSってどこかの特殊部隊みたいだね。
そんなぬるま湯に育った我が情弱なASSは、一日1回までなら紙に耐えられるけど、2回目から憤血ものですわ。
A4の紙をトントンとやってスッと指を切る感じ。おお!書いてて寒いわ
白い便器に鮮血って、何か凄いものが出たのかと頭が混乱して朦朧とするのね。
余談だけど日本人がスポーツで勝てないには肛門の強さから違うと思うよ。
※もうやめたいこんな文章。No more leak! No more leak!
呼んだ?呼ばれた気がしてここに降臨
古来、ケツの穴の小ささは心の狭さ、器の大きさに比例するという
大腸がん検査、それは「便潜血検査」、大腸がんとウンチョの細い太いには関係ない
ちなみにウンチョがのり佃煮(今、桃屋の「ごはんですよ」食べている人すまん)は胃の出血が原因だから胃潰瘍
便潜血検査は成人病検査の項目だ、つまりオッサン、40才以降毎年だったかな、必須科目だ
何をするかというと、自分のウンチョを目の前に持って来て、その表面をスティックでなぞるのだ
いつもは”こと”を済ませたら永訣のレバーをひねるだけだ
説明書にはトイレットペーパーを幾重に折って「受け止めろ」と書いてある
産まれ出る我がコを受け止めろとな
そうそうできる体験ではない
長い一本グソをすると手のひらのトイレットペーパーからはみ出るから肛門様に力を入れてねじ切る
ケツの穴の小ささは、その時にだけ役立つな
そして「我がコ」の表面をスティックでなぞるのだ
トイレットペーパー越しとはいえずっしりと感触がある我がコを目の前にする
まあ目の目に持ってこないと作業ができないが
その表面をスティックでなぞる、スティックには溝がありその溝にウンチョが均等に付着するように
便潜血検査の趣旨は、大腸をウンコが通るときに腫瘍から出ている血液が付いているかを調べることだという
テクニックはウンコの表面を撫でる、ウンコにぶっ刺してはいけない、撫でるようになぞるのだ
ここまで書けば十分だろう
嫌が応でもそのうちあなたも、朝からウンコを”こねる”日が来る
私はコネラーでは無いし、そのいわゆるスカトロジー的な思想も無い嗜好も無い
朝からウンコをこねた日は一日ブルーだ、見た目、手の感触、ひと肌のぬくもり、そして「臭い」
有休を使ってその日は休もうと思いたくなるが、理由が「ウンコこねた」では世間体が悪い
わかるな、皆まで言わすな、何も考えずに冷蔵庫に入れよう、考えるだけ苦悩が続く