はてなキーワード: 川上未映子とは
私が性風俗に抵抗を感じるのは、お金を払って1人の人間を商品として買う自分の姿を想像すると嫌悪感が湧くというのが最も大きな理由です。理念ではなく、感情の問題。まさに、川上未映子さんのいう「風俗は好きじゃない」男性なのでしょう。
本筋ではないがどうも引っかかる。
風俗はサービス業であり、あくまで売り買いされるのは体験である。
女性をものとして扱う人々と風俗の話題で談笑していた人々が増田の中でリンクした結果、こういう浅はかな見識にいったんだろうが、
逆説的に既に増田が女性を物扱いする感覚に少なからず染まっていることを示しているようでもある。
人間を商品として扱うということは「金払ったんだから俺の自由にしていいんだよな?」ってことである。当然として風俗嬢には拒否権があり、客が嬢の心身を傷つけるような真似をすればその店は利用できなくなる。奴隷のように人が売り買いされているわけではない。
そもそも人間を商品として扱うということは広義的に解釈するとエンタメ産業全般に言えることなので、増田から見て芸能人はどうなるのかとも思う。
とどのつまり風俗もとい水商売を人身売買のように捉えるのは、迷惑客のそれと根底では同じだと思う。
夜の店に行かないにしてもそういう人を蔑視する発想や感覚が露呈してもおかしくないので、増田は今一度内省してみた方がいいかもしれない。
というか実際に風俗店に行って嬢と話してきたら?
「自慢するオレ」を川上未映子は批判したのであって、その中に増田は含まれていないと思うが…まあでも現に増田のトラウマが刺激され傷ついてしまった時点で、件のツイートは言葉選びなどを間違ったものになってしまったことに違いないな
川上未映子さんは好きな作家の一人ですし、優れたオピニオンを持った方だと思います。ただ、今回の"「性風俗店には行かないオレ」を自慢げに話す男性にこれまで何人も会った"から始まるツイートにはかなり傷ついてしまいました。それは私の個人的記憶を直接、刺激するものだったからです。
▼該当ツイート
https://twitter.com/mieko_kawakami/status/1293339064976805888?s=21
10年以上前、新卒で入った会社でのこと。私は全国規模のメーカーの営業職として地方都市の営業所で働いていました。その営業所での直属の上長は、営業としては優秀だったようです。しかし上司としてはパワハラ発言が多く、実際に社内の飲み会では新人に暴力もふるっていました。そんな環境で働くのが徐々につらくなってきた私を、ある決定的な事件が襲います。
それは取引先のお偉いさんの接待のための飲み会が開かれた夜のこと。そのお偉いさんは大の風俗好きなので、二次会は栄の「おっパブ」に行く流れになりました。
性風俗に抵抗があった私は、上司に行かない旨を伝えました。すると、上司はその場で取引先のお偉いさんに対して、おもしろおかしく私の発言を披露。2人で「お前、男だよな?」「もしかして童貞?」と楽しそうにイジリはじめました。そう、彼らの意識ではきっとただのイジリなのでしょう。
風俗に行きたがらない私は、彼らとって格好のネタになりました。それが、彼らの他人をいじりたい欲に火をつけたのか、おっパブに連れて行こうとする気持ちをより一層強くさせたようでした。そこで私は、途中の道であえて彼らから距離を置き、逃走。近くのコンビニの個室トイレに駆け込んで時間が経つのを待つことにしました。
当然、上司から着信があります。何度も何度も、携帯電話がブルブルと震えました。ここで出たら、絶対に怒鳴られた上に呼び出される! 私は電話の電源を切り、そのまま帰宅しました。その帰り道は普段よりもずっと長く感じました。会社の同僚に見つからないだろうかと恐怖に怯えていたからです。
翌朝、会社に行くと鬼の形相をした上司が待っていました。「ああいうことも含めての仕事なんだ! お前には仕事に対する覚悟がないんじゃ!」と怒鳴られ、あげく土下座させられました。それから1週間後、私は退職届を提出、その会社を辞めました。
しかし、そのあともずっと「風俗に行きたがらない自分は男性として欠陥品なのだろうか……」という悩みを抱え、今もその思いは消えません。もともと私は身長も低く、筋力もありません。男性的な魅力に乏しいことはもともと気にしていましたが、この経験が決定打となり、自分は男としておかしいのだろうと思い悩むことが増えました。
私が性風俗に抵抗を感じるのは、お金を払って1人の人間を商品として買う自分の姿を想像すると嫌悪感が湧くというのが最も大きな理由です。理念ではなく、感情の問題。まさに、川上未映子さんのいう「風俗は好きじゃない」男性なのでしょう。
しかし、その理由で、私は心に深く傷を負いました。川上さんのツイートを読んで、私には自分のまだ完全に癒えぬ傷口をグリグリとえぐられるような感覚を抱きました。男性として劣等感を抱くきっかけになった、性風俗に対する抵抗感が、「自慢げ」「アピール」としてしか受け取られないのか。「結構な身分」とまで書かれて。
きっと、それも含めて男性側の問題だ!などと言われるかもしれません。上記の経験はたしかに男性側の問題ですが、想像力に欠ける無遠慮な発言でそこに踏み込んできたのは川上さんです。「どうせ、風俗行かない俺アピールでしょ」という雑さ……。とはいえ、冒頭に述べたように、私は川上さんのこれまでの作品や意見には何度も感銘を受けてきた人間で、川上さんを攻撃したいわけではありません。この文章が、川上さんへの攻撃、誹謗中傷の材料になることは望みません。
またこの文章が、「男性だって辛いんだ」論に回収されること、性差による生きづらさマウンティングの一端になることも望むものではありません。目にしたツイートへのモヤモヤをなんとか言語化、自分の中で整理するためのテキストです。
梅崎春生『幻化』
佐多稲子『樹影』
大江健三郎『性的人間』『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『さようなら、私の本よ!』『美しいアナベル・リィ』『水死』
開高健『輝ける闇』
小島信夫『うるわしき日々』『残光』
黒井千次『群棲』
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』
笙野頼子『母の発達』『金比羅』『だいにっほん、おんたこめいわく史』
車谷長吉『鹽壺の匙』『赤目四十八瀧心中未遂』
多和田葉子『雪の練習生』『尼僧とキューピットの弓』『雲をつかむ話』
阿部和重『アメリカの夜』『ABC戦争』『無情の世界』『ニッポニア・ニッポン』『シンセミア』『ピストルズ』
舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』『九十九十九』『ディスコ探偵水曜日』『淵の王』
綿矢りさ『かわいそうだね?』
柴崎友香『その街の今は』
磯崎憲一郎『往古来今』
朝吹真理子『きことわ』
滝口悠生『高架線』
高橋弘希『指の骨』
崔実『ジニのパズル』
http://dual.nikkei.co.jp/article.aspx?id=9815
やはり「主人」や「嫁」、「奥様」、「旦那」等に敏感になる人はいるのだなぁ。
普段「主人」や「奥様」をよく使っている人からすると、それらの言葉のもつ本来の主従関係や性別による役割分業の意味は全然込めていないだろうし、「そんなところに目くじらたてなくても」と思われても仕方ないと思う。
ただ、川上さんの言うことも一理あると思うし、公的な場や文書で使う表現としては望ましくない。
私自身は「夫」で通す。
他人が「主人」や「旦那」という言葉を使っていると、根拠のない感想だけど、なんとなく教養がなさそうに感じてしまう。
でも友人の夫について話す時は、「旦那さん」と言ってしまう矛盾。
さらに、会社で顧客と話している時に、顧客の配偶者のことを「お客様のご主人様(奥様)」と言ってしまう。
川上さんのような方と話す際、相手の配偶者を「ご主人様」「奥様」以外で何と言えばいいか迷う。
「配偶者の方」かな。
この記事は川上未映子 「主人」という言葉が心底嫌い [PR] | 川上未映子のびんづめ日記2 | 日経DUALについての話なんだけど、
初めて名前を知ったけど俺こいつ嫌いだ。
言葉を大切にとか言ってるくせにアレルギーを食い物嫌いの類語程度に扱いやがった!
アレルギーは好き嫌いとは無関係に原因物質に免疫が過剰に反応して各種の炎症反応を誘発し、
軽ければ花粉症的症状やかゆみや腫れを引き起こす程度だが、酷ければショック症状で死に至ることがある。
なのに世間にはアレルギーを好き嫌い程度に考えてる人がまだいるじゃないか。
芥川賞作家とかいう権威背負ってる人でもそういう言葉の使い方するんだから困ったものだ。
はてなブックマーカーもそういうところ指摘してほしい。
次の一文から無知の知から来る謙虚さがないなーと思いました。事情も考え方も人それぞれ。まずは話し合ってみなよ。
たとえば自分の妻のことを嬉しそうに「嫁」と言った瞬間、わたしのなかでその男性作家の知性は最低ランク、さらに枠外に落ちて、金輪際、まともに話を聞く気も失せる
知的権威がこういう勝手な判断基準で格付けやら断罪をするんだからたまったもんじゃないね。
そりゃこういうのに嫌気がさしてネトウヨがのさばったりトランプが勝つわけだよ。
配慮の足りない人だけど若いなら仕方ないなーと思ってプロフィールみたら40歳やないか…。
「ある言葉」を耳にすると眉間に皺が寄り、体じゅうにかっと血がめぐり、のち死んだ魚の目になって脱力する、という具合になってきて、どうしたものかと今日もフレシネを飲みながら考えた。
文学的な過剰表現と言うやつかもしれんけど、これブコメによく書かれてるあれだろ?
そういえば引用元記事はフレシネとかいうワインの広告なんだよね。
そのシチュエーションだと凄く酒が不味くなると思うんですけど…。
精神不安定な人がヤケ酒に走ってからアルコール依存とか想像した自分が考えすぎなだけだ。多分。
なんか書いたらすっきりした。ゴメン訂正する。
心底嫌いというほどじゃないや。多分一週間もしたら忘れる。
よしもとばななの域には達していないと思う。
もうすぐパイパンになりそう。
クリトリスの上らへんが一番痛くて、残すところあと5×5cmくらい。
なんかちょびひげみたい。
もともとうっとおしく感じていたこともあり、どんどん抜いていった。
まじでびっくりするほど痛いのはVライン。
目をつぶり、歯をくいしばるくらい。
毎日1〜5mmずつくらい抜いてる。
ぴょこぴょこ生えてくるのも見つけては抜いてる。
悲しいことや辛いこと、不安でどうしようもなくなると、「いかんいかん」と思って抜く。
つるつるになってよかったのは、
・清潔な感じがする
・ムレにくい
くらい。
なにより、リスカと違って、痛いのに傷が増えない。
血が出ない。
やってるうちに真剣になってくる。
集中して、感情が無になる。
つるつるのすべすべの肌を見ていると、パンツ脱いでるのが間抜けな気持ちになってくる。
パンツ履いて寝るかーと思える。
〈追記〉2016/09/08
めっちゃブクマついててびっくりしました!こんなことってあるんですね。
実は、無法地帯を全て毛抜きで抜いてたというわけじゃないんです。以前から、Iだけは時々思い立ったら毛抜きで抜くという生活だったんですが、最近ブラジリアンワックスをしたんですよ。Vは少し残して、IとOはツルツルに。(ブラジリアンワックス、知らない人はググってね!思ったより痛くないよ!)
それ以来、夜な夜な、残ったVを減らしつつ、生えてきた毛を抜いているのが現状です。生えてきた毛は細くなってるからか全然痛くないです。だから痛みを求めるというよりもただ「処理する」という側面の方が大きくなってきています。
傷跡は普段めちゃくちゃ隠してて、リスカしてたこと自体を後悔・反省しています。でも、たまに切りたくなるときがあるので、そういうときにアンダーヘアの処理をすればいいのか!と思い立ちました。毛抜きで処理することのデメリットよりも、リスカをしないことの方がマシかなと思ってこのスタイルを続けています。
・埋没毛
私の場合、なってません。細い毛がちょろちょろと素直に生えてきてます。
「毛抜き VIO」とかで検索していると、埋没毛になるよ!とか、生えてくる時痒いよ!とかリスクがいろいろ書いてあるけど、このスタイルで不都合を感じたことはとりあえず今までありません。体質でしょうね。
・5×5cm
お見せできるもんなら見せてあげたいんだけど、これがものすごいちょびっとなんだよ!元々毛深いのもあるかもですが。でもみんな手入れしてなければそれなりにボーボーなんじゃないかな?素人モノとか見ると結構ジャングルな人いるじゃないですか。
・抜毛症
かつて受験期とか髪の毛抜いてたんで、それの延長かもなとは思ってます。禿げたりまではしなかったけど。髪の毛触って癖毛を見つけると片っ端から抜いてました(大学入ってから読んだ川上未映子のエッセイに同じことが書いてあって共感した)。ただまあ、頭にハゲができちゃうと日常生活に支障が出てくるかもしれないけど、下の毛ならツルツルになっていいことばっかりだから特に問題は無いのかな?と思っています。
確かに、精神的に落ち込む事は多く(PMSがひどいときは自殺を非常に強く意識するレベル)、かなり困ってるので、カウンセリングとかはちょっと前向きに検討します。ありがとうございます。
なんか長々と書いちゃった。ごめんね!
今日、「わたくし、つまりNobody賞」(←第1回の受賞者は川上未映子)の
受賞式に行ってきた。
今年の受賞者の武田砂鉄の『紋切り型社会』という本が好きで、彼の講演を
故池田晶子の旦那さんの開会の言葉は感動的だったし、武田砂鉄の
ひたすら考え続けることや、言葉の大切さを改めて感じたし、
「わたくし、つまりNobody賞」の理念(言葉に対する姿勢と志を認めて、
その表現者と独自性と可能性を応援してゆこうという目的)にも好感を持った。
それなのにさ、最後の最後ですごく腹たつことがあったんだよね。
懇親会が終わって、最後、会場にいる30人くらいで記念撮影を撮ることになった時。
って言ったの。
は?って思った。なんで女性を前に座らせようとするの?
「足腰が弱い人は前に座ってください」とか「ご高齢の方は前に座ってください」
とかだったらわかる。でも「女性だから」という理由で前に座ってくださいという
いや、わかってるよ。女性が前に座っていた方が、「華」があって、
よく、テレビのバラエティ番組とかで見る、前列に若くて美人の女性が座って
でもさ、女は誰かのための「華」として存在しているわけじゃないんだよ〜!
「わたくし、つまりNobody賞」は、自分の頭でものを考えることを良しとする
賞なんだからさ、主催者側がここで、それこそ「紋切り型」に「女性は前に座って
ください!」なんて言っちゃダメでしょう。
http://anond.hatelabo.jp/20111005092209
直木賞、芥川賞、本屋大賞など。文学賞を創設してこれというものを選んで授賞する。本屋大賞なんか一番わかりやすくて「書店員が一番売りたい本」を選んで授賞してるんだよね。ある意味で一番効果的なプロモーション。上に上げた3賞以外ではノーベル文学賞が有効。世界的大家でも日本では無名な作家が一気に売れるようになる。
普段本なんか読まない賞にとって、これも有効なプロモーション。俳優陣は勿論、脚本家や監督も実績のある人を採用すれば効果的。観客動員や視聴率のために原作からの改変なんて当たり前だけど(中年男の主人公が若い女性になったり、殺人の動機が単純になったり)、それでも原作が売れるようになる。ただしやり方を間違えると元からの原作ファンが立腹する可能性あり。ラノベのアニメ化もこれに含まれる。
「小節は読まないけどビジネス書は読む」「雑誌や新聞は読む」という人には有効。「もしドラ!」「チーズはどこへ消えた」「GOAL」など。ただ、これ「小説を売る」じゃなくて「書籍というパッケージを売る」というものだけど。難点はブームが去ればあっという間に著者が一発屋化すること。
ここ数年の流行。夏目漱石や太宰治に小畑健の絵をつけたり、サリンジャーやチャンドラーを村上春樹訳で発売したり。これもやり過ぎると陳腐化する。
去年辺りまで流行ってた。小説と言うよりもタレント本といったほうがいいのかもしれない。ただあれだけ話題になった劇団ひとりが2作目は全然売れてないし、水嶋ヒロも2作目が出る気配がない。その後も作家として活動しているのは辻仁成(辻はブーム前に出てきたけど)、川上未映子など少数。
皆誰もが誰かを利用している、誰もが誰かを無意識のうちに/または意識的に傷つけてしまっているんだとしたら、私たちはどう振舞うのが最適で、または合理的なんだろうか。
人は自分の思いがけない行動でなんらかの思いを振りまき、そしてその思いが各人に対して影響を与える。それが意識的であるにしろないにしろ、僕たちはその行為に対して、なんらかの責任を負うべきなんだろうか。
だが、それは無意識的であった場合において、その責任を取りようがない。責任を取りようがないからこそ、細心の注意を払って行動する、ということは重要なことであるのかもしれない。だが、それだけの細心の注意を払って行動したとしても、どうしても取りこぼしてしまう部分というのが出てきてしまうのではないだろうか。
それは致し方ないように思う。どうすることも出来ない。
では、人の優しさを利用しようとする行為は。
そこは難しい。完全なる悪意としてそれを利用するのはやはり良くないと思うが、ある種、それはそれで良いのではないだろうか。
その、人の優しさを利用しようとする行為を端的に「甘え」と呼ぶこともある。その「甘え」は時と場合によっては許されるのではないだろうか。
甘えるほうは意図的であるが、甘えられるほうは意図的でない部分もある。また、意図的であったにしろ、意図的でない部分に付けいれられてしまうこともあるだろう。
今回、友人が「ふられた」と言って、私と何度か遊ぶことがあった。
友人は友人で寂しかったのだろうし、こちらは一緒に遊びに行くことで楽しかった。
そして、そうこうしているうちにこちらが相手を好きになってしまった。
そして、思い切って告白してみたが、結局こちらがふられてしまった。
そして、それと同時に私自身にも寂しさがあり、他の友人に紹介してもらった人と何度か遊びに行くことがあった。
こちらとしては寂しかったし、それはそれで楽しかった。
そして、そうこうしているうちに相手がこちらを好きになってしまった。
そして、告白されたが、結局こちらがふってしまった。
自分が寂しいからといって、相手に甘え、相手に付け入る行為というのは果たして許されるのだろうか。
自分がされたから人にしても良い、という論理はあるのだろうか。
川上未映子『ヘヴン』では、主人公を苛めているグループの一人が、自分がされたくないからと言って人にしてはいいけないのは詭弁だ、世の中自らの欲望の実現のために生きている、と言った。
そう言われればそうかもしれない。
だが、それではいつか破綻を来すように思う。
今回、甘えてしまって思ったのが、私はやはり自分がされてイヤなことは人にしたくないということだ。
つまり、私は単純に人を傷つけたくないのだと思う。
自分が傷つけられる痛みを知っているからこそ、相手にその痛みを背負わせたくない、という思いがあるからだと思う。
何も、自分と同じような思いを他人がする必要はない。そのほうが心の平穏を保って生きることが出来ると思う。
なので、私はそのような行為(相手に甘える、ということ)をしないでいきたい、と思う。
「甘えずに生きていく」「甘えさせないことが自分にとっても良いことである」というのが最適解なのかもしれないと思う。
だが、その「最適解を実行する」というふうに言い切る心の強さもない。
そのような心の強さがなく、最適解を確実に実行することが出来ないのだとしたら、それは果たして最適解なんだろうか。
果たして、最適解とは一体何なんだろうか。