はてなキーワード: 川上未映子とは
日焼けした肌にフォーマルなスーツ、整った顔立ちにおかっぱパッツンの黒髪、
歳月を経て37歳をやはりかわいいと思うのは、かさぶたをはがす快感に似た戸惑いを感じる。
黒髪おかっぱといえば川上未映子もいい。自分的にストライク過ぎる。話しかけるとき声が震えるレベル、こちらが不審者扱いされるレベルだ。
自分と同じ意見の人はたぶん栗山千明様のことも大好きだと思う。
「『千明様に○○されたい』のガイドライン」が楽しみだったのに消えたのが残念すぐる。
ああ、千明様と公子様と未映子様に命令されたい。
小中高で好きだった女の子を横一列に集合させて、夜中に書いてしまった中二病日記を朗読させられたい。
そして家族全員が自分の書いた「あー、彼女だるい」なんていうウソウソ日記を黙って読むのをそばで目をそらさずに見てろと命令されたい。
未映子様には自分なりに良く書けたと思ったネタ記事を見せてと言われたい。
そして軽く、本当に軽く、とても薄く、かすかに鼻で笑われてよそ見されたい。
人が人として獲得してきた物語の歴史において、圧倒的に「事実を元にした」の方が多い。逆に言えば「フィクション」なんてのは近代的作者が発生して以降のごく最近の発明で。物語=作者の内面の発露、ではなく、物語=おもしろくて役に立つ現実、なわけ。
ってゆー。あれだな。私見だけどこいつは性善説。「このおもしろい話をしている人が、誰の得にもならない嘘をついているはずはない」っつー。
たとえば? そうねぇ。世界でもっともヒットした物語である聖書のことを考えてみればすぐわかる。
「聖書がリアルじゃない」って認識がひろまったのはつい最近だろ? まして「聖書が本当だったか検証しよう」「聖書の本当の作者は誰だ?」なんてのも。
で、そーゆー古い意味での物語は、近代以降地下に押し込められたとは言え、常に揺り返しを試みてきているわけ。巷間の昔話、民話。あるいは民俗学で言う「世間話」。ちょっと前だと『本当にあった怖い話』『学校の怪談』ブームとかな。
で、現在。なんか「リゾームと自我の分散」とか言いたくなってくるんだけど、なんだっけ、美嘉だっけ、彼女って「作家」じゃないでしょ。いろんな意味で。近代的作家ってゆーのは確固たる自我と思想と内面と教養があって、「物語」はその従属物ってのがふつーでしょ。最初の方に書いた図の不等号はそういうことなんだけど。たとえバカにされがちなラノベの作家だって、そう意味じゃ立派な「作家」だ。川上未映子は川上未映子でないと『卵と乳』書けないけど、美嘉ってのは誰でも良いでしょ。
そして「恋空」は「昔話」。
それを近代文学の文脈で把握/批判使用とするのは無為なんじゃねぇのかなぁ。と。
で、これと同じ話は報道に対する姿勢とも通底する。
あるいはWeb上のあらゆる情報に対する「釣り?」という反応とも。
両方とも性善説というか、人間の「フィクション許容量」に関する話なんだけどね。
まぁそんな話を途中まで書いたんだけど、あまりの陳腐さに吐き気がして止めて2週間。
スティッキーズに残ってたんだけど、次に書きたいことが出てきたから邪魔だしもういいやっ、で公開してみる。