皆誰もが誰かを利用している、誰もが誰かを無意識のうちに/または意識的に傷つけてしまっているんだとしたら、私たちはどう振舞うのが最適で、または合理的なんだろうか。
人は自分の思いがけない行動でなんらかの思いを振りまき、そしてその思いが各人に対して影響を与える。それが意識的であるにしろないにしろ、僕たちはその行為に対して、なんらかの責任を負うべきなんだろうか。
だが、それは無意識的であった場合において、その責任を取りようがない。責任を取りようがないからこそ、細心の注意を払って行動する、ということは重要なことであるのかもしれない。だが、それだけの細心の注意を払って行動したとしても、どうしても取りこぼしてしまう部分というのが出てきてしまうのではないだろうか。
それは致し方ないように思う。どうすることも出来ない。
では、人の優しさを利用しようとする行為は。
そこは難しい。完全なる悪意としてそれを利用するのはやはり良くないと思うが、ある種、それはそれで良いのではないだろうか。
その、人の優しさを利用しようとする行為を端的に「甘え」と呼ぶこともある。その「甘え」は時と場合によっては許されるのではないだろうか。
甘えるほうは意図的であるが、甘えられるほうは意図的でない部分もある。また、意図的であったにしろ、意図的でない部分に付けいれられてしまうこともあるだろう。
今回、友人が「ふられた」と言って、私と何度か遊ぶことがあった。
友人は友人で寂しかったのだろうし、こちらは一緒に遊びに行くことで楽しかった。
そして、そうこうしているうちにこちらが相手を好きになってしまった。
そして、思い切って告白してみたが、結局こちらがふられてしまった。
そして、それと同時に私自身にも寂しさがあり、他の友人に紹介してもらった人と何度か遊びに行くことがあった。
こちらとしては寂しかったし、それはそれで楽しかった。
そして、そうこうしているうちに相手がこちらを好きになってしまった。
そして、告白されたが、結局こちらがふってしまった。
自分が寂しいからといって、相手に甘え、相手に付け入る行為というのは果たして許されるのだろうか。
自分がされたから人にしても良い、という論理はあるのだろうか。
川上未映子『ヘヴン』では、主人公を苛めているグループの一人が、自分がされたくないからと言って人にしてはいいけないのは詭弁だ、世の中自らの欲望の実現のために生きている、と言った。
そう言われればそうかもしれない。
だが、それではいつか破綻を来すように思う。
今回、甘えてしまって思ったのが、私はやはり自分がされてイヤなことは人にしたくないということだ。
つまり、私は単純に人を傷つけたくないのだと思う。
自分が傷つけられる痛みを知っているからこそ、相手にその痛みを背負わせたくない、という思いがあるからだと思う。
何も、自分と同じような思いを他人がする必要はない。そのほうが心の平穏を保って生きることが出来ると思う。
なので、私はそのような行為(相手に甘える、ということ)をしないでいきたい、と思う。
「甘えずに生きていく」「甘えさせないことが自分にとっても良いことである」というのが最適解なのかもしれないと思う。
だが、その「最適解を実行する」というふうに言い切る心の強さもない。
そのような心の強さがなく、最適解を確実に実行することが出来ないのだとしたら、それは果たして最適解なんだろうか。
果たして、最適解とは一体何なんだろうか。