はてなキーワード: ブーメランとは
まだ逮捕に至ってないと言い訳されるかも知れないが、被害届が受理され捜査されている案件だ。ジャニ案件は告発はあれど警察沙汰にすらなっていない。
以下、山川が2軍落ちとなった件について、各社ごとの扱いをまとめる。
民法各社は一斉にこのテイタラク。NHKですら「コンディション再調整」大本営発表をなぞっているだけ。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230512/amp/k10014065711000.html
日刊スポーツは「トラブル」、スポニチは「女性問題」、報知は「総合的判断」など、かなりぼやかして報道。サンスポは記事の中に「暴行」の文字があるのでまだマシな部類だが、記事タイトルで使うのは避けている。
ジャニーズ性被害の過ちが早速繰り返されている日本はとても美しい。プロ野球の場合は掘り下げたらブーメランになる可能性が高いのでそれを避けたいのかも知れないが。なお、その最たる例が「黒い霧事件」だったりする。(読売系列が西鉄の八百長疑惑を掘り下げたら、後に疑惑が巨人にまで波及した)
神ゲーってなんなのか知らないで生きてきたんだぜ?
アクションゲームは横スクロールの決まりきった道のりを進むだけだと思ってたんだ。
ゲームの物語はスタッフの用意した一種類だけで、それぞれの物語なんて無いと信じて。
でもゼルダが全部壊したんだ。
フリーシナリオの自由自在な世界を、自分の物語として切り開いていけるって教えてくれた。
それまでのゲームは多少の誤魔化しはあっても実質的に一本道だった。
無数のサブクエストをどの順番で遊んだかがそれぞれのストーリーになった。
物語がゲームに押し付けられるものからプレイヤー毎のものになったんだ。
可愛そうだよな。
それがまだ始まる前の、押し付けられた世界でひたすら正解を当てさせられ続けるだけの作業をゲームと呼ばされてたゲーマーはさ。
これは「こいつって誰だよいつもって何の話だよ」とか突っ込んだらブーメランと言われる罠
(自己紹介:絵描き&物書き&AIエンジニア(画像系ではない)。アタリをAIに通して下描きの助けにするのがめっちゃ便利で使い倒してる。)
・AI絵で金を稼いでる奴が嫌
ってところですか。
嫌だと思う人の数や声のデカさによっては今後何らかの対応(法律なりシステムなり)があるかもしれませんので、声を上げること自体は大事だと思います。
…で、一応聞きますけど、そういう人ってまさか何も考えずGoogleとかTwitterとか使ってたりしないですよね?
絵どころか写真やら文章やら個人情報やら、なんでもかんでも学習素材になってますけど。何年も前から。
今どきインターネット使ってて「学習素材にするな」は正直かなり無理があると思いますよ…。
(良いか悪いか好むか好まざるかはともかくとして、あくまで実態として)
そしてそれによって、誰しも普段意識すらしていないところでAIの恩恵を受けているはずです。
AI技術がここまで進んできた現代で、絵だけは収集するなっていうのはだいぶ無理があるんじゃないでしょうか。
著作権や作風がと言う方もいらっしゃいますけど、それ、別に絵にしか発生しないものではないですし…。ほんとになんで今更?しかも絵だけ?
すみませんが正直、これが嫌って言ってる方のことは「これだから絵師は自分を特権階級だと思ってるとか言われるんだよ…」という目で見てます。
「絵だけは収集するな」と同義の意思表示が大半ですもん。絵以外の著作物は軽視されてるな、という印象です。
嫌だと感じる気持ちを否定する気はありませんが、もうちょっとAIのことを理解した上で嫌ってほしいです。
これは本当に嫌すぎる。わかる。
ただ、オールドインターネッツな時代から何故か勝手に絵を改変する輩はいました。
あくまでAIはただのツールであって、それを叩くのはおかしいのではないでしょうか。
「アナログ画材で苦労して改変」「デジタルのフィルター乗せてパパっと改変」「AI通して改変」に違いあります?
アナログで頑張ってくれるなら自由に改変オッケー!とはなりませんよね?
個性のなさとか手指が変とか癖(へき)が感じられないとかいろいろ聞きますけど、まあそこは好みの問題なので嫌なら見るなですね。
好きだと感じている方々がいらっしゃるからこそ、↓の問題もあるわけで…。
>AI絵で金を稼いでる奴が嫌
他人の絵を改変したもので稼いでる奴についてはギリ死なない程度の不幸に見舞われないかな~と日々祈っていますが、
自分でプロンプト組み立てて生成した絵については別によくないですか…。
アレ、思ったような絵を出力するのは結構難しいですよ。さらっと出せたけど?って方は一種の才能があると思います。
何度か挑戦してみましたが全っっ然自分の癖に刺さるものが出てこず、結論は「自分で描いた方が爆速な上にシコい」でした。
正直、普段見かけるAI絵は「こんなの出せるのかすごいな~!!」と感心して拝見しています。
自分で描くのもプロンプト組み立てるのもそれぞれ別の技術だと思いました。
そもそも絵を描く方でも絵師という呼称が嫌いなケースもありますし、名乗りたいもので名乗ればよくないですか…
この先自動車に自動運転(=AI)の導入が進んでいって、タクシーにも組み込まれて、とはいえ完全自動はまだ怖いのでってことで人間が運転席に座っているとします。
その人はほぼハンドルに触らないとしたら運転手さん(AI運転手さん?)とは呼ばないってことですか? わざわざ新しい呼び名作らなきゃだめです?
…ところでTwitterで「作曲界隈でのボカロPみたいに独特の呼称があったら受け入れられやすかったかもしれないな~」的なツイートをお見かけしてなるほどと思ったのですが、
作詞作曲歌指導って明らかに一般的なプロデューサーの仕事ではないですし、これは逆にだいぶ慎ましい呼び名ですよね。もっと自己主張してもいいのよ。
それは今更すぎる
ただ、「具体的にどうしてほしいのか」を一切言わずただただ叩き続ける人は一旦落ち着いてほしい
で。
そういう『嫌だと思うポイント』が人によって違うのに、論点違う同士の謎口論がそこかしこで見られてきっついな…というのが最近の感想です。
それがエスカレートして、AI憎しで滅茶苦茶言ってる奴やAIなんでもかんでも正当化する奴が出てくるし。
もうちょっと冷静になれないものですか。お互いに。議論になってないのが大半。お気持ちバトル。
…で、そのお気持ちバトルTwitter会場にうっかり乱入しかけたので、ここで自戒というか、自分に特大ブーメランぶっ刺して去ります。
どの項目も「絵描きで物書きでAIエンジニアの自分」からのお気持ち表明なので、別にどれが正しい正しくないと言う気はないし、全部嫌だと思ってる人もそれはそれだと思うのですが、
でも性格の破綻度合いとデブ度合いはかなり比例傾向にあるように思う。
確かにデブで滅茶苦茶いい人はいるんだが、そういう人は自分から見ていい人に感じる方向に人格が破綻している感じがする。
ガリにも似たような傾向はあるにはある。
ガリはせいぜい標準体重-40kgぐらいで生命の危機を迎えてしまうが、デブは+100kgでも糖尿病の薬を飲みながら普通に生きていたりする。
おおむね標準体重から±30kgぐらいから人格のブレが個性で片付けられない領域に突入しだすので、結果としてデブには無数の異常者が存在し、ガリの異常者は極めて貴重となる。
デブによくある特徴として自分に対しての客観的視点のなさがある。
ブーメランを平気で投げまくるし、自分は別に何もおかしい人間でないと信じがちだ。
そもそもそうじゃない人間は異常なデブになりだした所で、これはマズいと動き出すわけで、デブであることが自身に対しての客観性のなさを証明していると言って良い。
つまり、デブは自分を客観視出来ないとは、自分を客観視出来ないからデブになった人は自分を客観視出来ないというトートロジーなのだ。
もちろんこれはガリにも言えるが、先程も言ったようにガリは自分を客観視できなくなり始めると急激に命が危うくなるので、病院送りになって世間から消えるか、現代医学の力で体重のドーピングが開始される。
デブだって体重が標準+30kgとかになれば医者から痩せろと釘を刺されるが、命の危機を感じるわけではないため「は?医者の感覚がおかしいだけだが?」でスルーする。
というか、ここでスルー出来るデブだけがデブであり続けるというトートロジーだ。
医者よりも俺が正しいと言えば反ワクチンなどのニセ科学にかかる連中だが、デブはおおむねこういった人種と同じ思考回路を持つ。
カルトに引っかかりやすく、かつ自分自身の認識に対してカルト的な信仰心を持つ自分教の信者が多い。
自分教の信者たちは自分こそを絶対神だと信じているので、自分が他人を裁くのは正義であり、他人が自分を批判するのは冒涜だという確信の中で暮らしている。
もしもその自分が偶然にも善性を帯びていれば、それを批判しない限りはその恩恵に預かれる善なる神となるが、もしも本質が悪であれば紛れもない邪神となる。
善良なる神であってもその存在に触らぬ神に祟りなしと言わせるほどの厄介さがあるのは多くの物語で語られる通りであり、デブというものは得てして普通の人間にとって厄介な隣人であるのだ。
(おっ ブーメランか?)
結婚して子供を産むのが正しいの、生まないのが正しいのでケンカしてる光景はインターネットでザラだ。
そんなもの正しいと思ってる人には正しいし、そうでない人にはそうでないだけの話で。意味があると思ってる人にはあるし、無いと思ってる人には無いだけ。
当然の話で、人が生きるのも、社会に参加するのも、生物が種を残すのも、理詰めで言えば何の意味もない。存在の話ではなく当為のそれなんだから。
大人の義務や責任?どこから湧いた?生産性?何の為の?社会の維持?何の為に?人権思想?何の為に?生きるため?なぜ?
子供を作る事に限らず、人の営みはリンゴが上から下に落ちていくのと本質的には何も変わらない。
現実的な議論としては、人権思想が公理であり土台となっていて、そこで一旦は打ち切られる訳だけど。それにこれはあくまで「お気持ち」や「主観」から離れた場合の理屈だ。
まあ人権という公理から導き出される規範も一義的なものではなくて、それぞれの解釈が対等だからまた言い合いになるんだけど。
その対等な言い争いは民主主義と呼ばれて割と尊重される。しかし人権を認めるのであれば、人に結婚出産をするな、しろと強要できる道理はどこにもない。
そもそも社会を生き長らえさせる意義を感じていない人間に対して、子供を持つ事がいかに社会の持続に必要かを説いても無駄。
人生に先立った苦しみなどなく、行い次第で如何様にも幸せになれる。と信じている人間に対して、辛く苦しいだけの生を生み出す残酷さを熱弁するのも然り。
前提が揃っていない段階で話をしてもボタンの掛け違いになっている。
共通認識を揃え、対等な異なる意見を持ち寄って考えを深める事はあっても、最終的にどちらに転ぶかは自分の納得の問題だ。
全ては無意味、と言うとすぐ冷笑と抜かす人間がいる。無意味を開き直り、さらに他人を巻き込もうとすればそうかもしれない。
しかし規範において、理詰めで言えば無意味である事実は変わらない。
それを歪めるのは不誠実な物の考え方ではなかろうか。いくら生活の為にはある程度の忘却や思考停止が必要と言ったって。
ともかく、無意味とはいっても自分の中で実感や確信に基づいて意義を見出す事は可能だし、多くの人がそうしてきて、今もそうしてる。
そもそも意味などを問う以前に、まず生きる事そのものが価値のある、というよりあまりにも当たり前のものだと思っている人も少なくないんだろう。
むしろその方が多いかもしれない。もっともそれにしたって、意識的であれ無意識であれ生を肯定する規範、信仰、納得を持っている訳だけど。
世界に元々用意された意義なくて、そこに「正解」を用意したらそれは宗教だ。
別に宗教が悪いとは1ミリも思わないけれど、それを押し付けるのがいかにグロテスクかは歴史を見れば明らかで。
他者の生き方に口出しをしてかくあるべしというのは、自分の選択に腹の底から納得できていないじゃなかろうか。これは理屈の話と言うよりは邪推だけれど。
一度きりの人生、自分の選択が、価値観が「間違い」だなんて思いたくはない。そんな疑問が浮かびもしないほどの実感と納得がある生き方をしたいもんだ。
でもそう強い人ばかりでもない。自分の選択に自信がないが、自分の中に納得の源泉がない。だから外部にそれを求める。他人に肯定してもらいたい。
同じ意見を持つ人間と集まって、互いに肯定し合う。あるいは単純化した二項対立の上、自分の対岸にいる者を「間違い」だと断罪し、そして自分は正しいんだと思う。
そうした正当化が健全か不健全かは知る由も無い。が、考えの異なる者同士、互いに説教や罵倒を受ける道理は無い。
視野狭窄、知識が足りていないように見える人間に対して「こういう見方もあるよ」と助言する事はあるかもしれない。教育とは、学びとはそういうものだ。
しかしそれが強く押しつけがましく攻撃的で否定的、あるいは過剰に肯定的なものですらも、そこには自分と同じでない他人への苛立ちがあるのかもしれない。
社会の利害調整を問うなら互いに言い分もあるだろうけれど、生き方の問題に口を出すのはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)だ。
その点、受け売りの胡散臭い政治思想とアイデンティティや価値観が悪魔合体している人は非常に厄介という事になる。
まあ上から目線で説教する道理もなかろうけど、なかった所で誹謗中傷やらにならない範疇で批判をするのも勝手だ。
よしんば中傷じみた人格攻撃でも、そんなもんネットに溢れてるし、それで捕まるのも稀だ。という事を踏まえて平気でやる人間がいるのも事実としてある。
悲しいね。
等しく無意味な人生に価値を見出せるのは自分だけだ。上手い飯を食うでも、芸術を愛でるでも、ギャンブルに狂うでも、何だっていい。
愛に囲まれ他者から存在を肯定してもらうのも、神様を信じてみるのもいい。それは一見外部の他者が価値を与えてくれるように見える。
しかし結局それによって得た納得が湧き出るのは自分の心の中だ。
「敵」を罵り「仲間」と慰め合って拵えた後ろ向きの納得よりも、内から発される声に対して真摯に耳を傾け、それに従った方が良い、ような気がする。私は。
まあ私だってきっと自分の考えに腹の底から納得できていないから、こんなサイトに長々と文章を書いているのかもしれない。
勿論意味など最初から問わない、忘却するという選択肢だって大いにあり得る。今際の際に蓋していたものが頭を過るのが怖くて私は出来ないが。
人をブチ殺して回りたい、それが私の納得する生き甲斐だ。こう思うのだって非難される、というか過剰に誹られる謂れはない。
なんなら思うだけではなく、法だの人権だのがいくら殺人はダメと言った所で、別に実行する事は可能なのだ。現に殺人事件は一定的に発生している。
出来るからやって良いなどとは言っておらず、可能な事実があると言っているだけですからね。
当然我々が恩恵を受ける司法や人権思想のもと、社会によってしばかれるだけだが。バレなきゃしばかれないけど。
茨の道が待っていると知った上で尚もその納得、価値観を手放さないというのなら、私は敬意すら覚える。当然自分が殺されるのは御免で、それはまた別の話だが。
個人主義、民主主義社会の範疇における多様性とはそういう事なんだろう。
お気持ちがどうとか主観がどうとかいった言葉を使って何か言った気になってる人がいるけど、事実でなく規範を語るなら感情論で当然なんだよね。
絶対的な真理、善、正義を信じる本質主義者なんで、と言われたらそれまでだけど。
金持ちがネオリベにかぶれるのも貧乏人がその逆になるのも当然だろうし、いくら事実と論理を積んだ所で最終的には感情論。
勿論ノブレスオブリージュを語る金持ちも、支配者への忠義が大事だと思う貧乏人だっているかもしれない。
それもまた価値観や納得に基づいたものであって、どちらに転ぶか、必然性はない。
「ブーメラン」はロジカルを自負するインターネットマンの口癖だけど、言行不一致は理屈ではなく感情の問題だ。
殺人犯が「人殺しはダメ」と言ったらどの口が言うかって話だけど、言ってる事は間違ってない。
でもやっぱりコミュニケーションにおいて心象というものは無視できないので、お気持ちのない、ポジショントークでない意見など神様にしか言えない。
まあいくら社会性に則った無難な話をした所で、「こういうヤツ、バカですw」みたいな強い言葉を使った話にばかり注目が集まるのも悲しい事ですね。
悪口好きなんだけど、最近ブーメランも多くて聞きにくくなった。あと言ってる側のバカさが目について共感しにくくなることも増えた。全部はてぶのせい。
この時期は悪口系愚痴が増えてワックワクなんだけど、よくおしゃべりする人の愚痴が心が狭すぎてどうしようかと思ってる。
可能な限り避けたい。ヤツの求める人物像は入社直後にベテランと同じ業務スキルと業務知識とお察し能力を求めるもので、それを求めりゃそらイライラするだろうと。イライラしすぎてクビにしろと言い出し兼ねないので、共感(肯定)したくない。
・嗜める
正論ハンマーする。うるせーバーカ!死ね!となる事請け合い。まぁ正面から「うるせーバーカ!」って言うならストレス発散にもなろうが、実際は次から話してくれなくなるだけなので避けたい。
・話題を変える
ネットで検索するとこればっか出てくるけど、変えられる側としてはあからさまで分かる。愚痴を言うことでストレス発散をしてるんだけど、「させない」ってされたのが分かるとストレス発散どころか追加でモヤモヤする。そもそも自分は聞くの自体は苦じゃないし。
という訳で、向こうのストレスを発散させつつ、実際悪口言われてる人の評価は下げない(言ってる人に過剰な自信を付けさせない)いい落とし所があるといいんだけど、どーやって話聞けばいいんだろう?