はてなキーワード: つのとは
たとえば『攻殻機動隊』の実写映画を見たときに一作目のアニメ映画を見たときのような未来感を感じることはなかったと思うんだよね。
「ようやく実写化できるぐらいには世界の理解が追いついたか」ぐらいの感覚だと思う。
確かにああいう「当時の技術では不可能だった映像化の実現」も面白いんだけど、それは当時の感動とは別物なんだよね。
でもさ、「ビールの一口目は一回しか味わえないんだから仕方ないんだよ」って言うには余りにも時間が立ちすぎていると思うんだよね。
こんなのにもいくつもの夜を超えた癖に一杯目の感覚をまた味わえないのはおかしいいと思ってしまうんだよな。
俺が思うにさ、リメイクされるような作品って当時においては画期的だったはずなんだよ。
でもリメイクするときにはそれが全部失われて陳腐化されていく。
「画期的だった何か」を見せられることに何らかの共感を得て気持ちよくなれてしまう人達がいるんだろうとは思う。
妖怪みたいに若作りしたベテラン俳優がなんだかんで少しずつ老けていくことに何らかの共感を得てしまうファンのような心理が。
それを消費させるためにリメイクは作られていくんだろうな。
でも俺は悔しんだよな。
そこに使うリソースで出来たかも知れない挑戦の機会が、かって挑戦した誰かの姿を借りて奪っていく連中がなんだか卑怯に見えるんだよな。
AI、というよりはChatGPTのようなデカくて応用力が期待されるLLMに向いてない。
LLMはあくまでも、データセットから学んだ情報を元に「与えられたテキストにはどんな言葉が続く可能性が高いか」で動く。
LLMは人間ではないので、自然言語をトークンという値に変換してから学ぶ。この場合、我々にとっての数字の1はLLMにとって数字の1ではなくなる。要は、1を1として認識してない。
だからChatGPT単体では正しくカウントできないことがあるし、計算や生年月日の他、細かい部分も間違うことがある。ただ確率に従っているだけで、自分が何を書いてるか分かってないから。
脳の中に色んな概念が重なり合っていて、その中から一つの可能性を選び続けているだけだと考えればいい。
この仕様で常に正しい情報を言うってことは、めちゃくちゃ学習して「この流れの時は99%の確率でこのトークンが続く!」みたいな状態にならないといけない。(Top PとTemperatureの調整で似たような状態は作れるが)
でもその状態になると、応用力がなくなるんだよ。例えばリンカーンについてめっちゃ学習したら、生成時にリンカーンという単語が入ってるとWikipediaを先頭からコピペしたような文章ばかり吐くようになる。しかもここで、間違って学習してたら目も当てられん。
画像生成AIのプロンプトに「モナリザ」と入ってたら、どう頑張っても額付きの「あのモナリザ」が生成される、みたいな状態だ。
それは従来のチャットボットの仕事。本来ChatGPTに求めることじゃないんだよ。
だから何かに特化したAIが求められる。LLMには教えてと聞くのではなく、パターン処理能力を活かす方向で使えといわれる。RAGとか。
ほぼほぼ同じような理由で三回目以降の接種をパスしたワイからしても、反ワクの人らの論拠がよくわからん。
https://news.yahoo.co.jp/articles/df45837124017ad5b90307b309b228e499e85b4c
この記事のコメント眺めると「利権のために厚労省が日本人を殺そうとしている」みたいなこと書いてる人が結構いて、さすがにそれは陰謀論が過ぎないか……?🤔ってなった。
投票に行けというやつのうち結構な割合で「投票率が上がれば自分が支持する候補・政党に投票するに決まってる」と言わんばかりの言動をする奴がいて、
んなわけねぇだろといいたくなることが多々
いつの間にか1歳増えてるやん😟
ちっ、しゃーねーな!
https://anond.hatelabo.jp/20240714225249#
↓
いつの間にか1歳増えてるやん😟
10年以上前の話、就活で病んで誰にも言わず最後の一年留年して、当時LINEやってなかったからそのまま人間関係ごっそり消失した。当時もっと恥を忍んで周りの友人に自己開示して相談すればよかったという後悔が漠然とうっすら続いていたけど、友人たちも人生かかった必死な時期だったし余計な負担かけられないというのも当たり前だった。みんな自分の人生に全力で向き合うために適度に周りをシャットアウトしていたし。それが正しかったと思う。
相談することでなんとかなったかの問題ではなくて、周りに友人と呼べる人がいたのに傷つくことが怖くて心を開かなかったことがなんてもったいなかったんだろうと、その後数年くらいの孤独感の中で悔やんでいたんだった。
と、このまえお盆に会う予定を立てて久しぶりに話して思った。
天使なんかじゃないの8巻で主人公の翠が高校3年生の夏、仲間たちがいつのまにかはっきり目標決めて邁進してる中で自分だけ何になりたいのかもわからず迷走し、それまで熱い友情や恋愛をかましあってた仲間たちにも深入り出来ず、仲がいい教員も本人が自分で乗り越えるしかないからと翠をやんわり突き放す、という局面がある。そんな空回りの時期の翠が、親が作り置いてくれたご飯を食べているとふいに涙が溢れて止まらなくなるというシーンがあった。
天ないは絵柄が変遷しまくっていたけど、絵だけで言ったら2、3巻頃が好き。
翠は美大の予備校では友達はつくらなくてなんとなく孤独感があって8/10の昼に予備校から帰ったときに親がいないから自分でコーンフレークを用意して食べてるとき孤独感が表面に出て涙が出てくるみたいな話じゃなかった?
このトラバが正しいです
これすごい分かる
なんでこだわりが強かったり、一つのことを何年もやってる人って気持ち悪いんだろうね
ただ感想言ってるだけの人に「それってあなたの感想ですよね」って突っ込んでも突っ込んだやつのほうがアレになるみたいな話だな
本当なら理論やら証拠やらが必要とされてるはずなのに感想言ってるだけの人に対してはそれ感想ですよねって突っ込むのは有意義になりえる
でもいまそれ感想ですよねっていうと100パーひろゆき連想されて煽ってるやつ認定されそうだから慎重に言わないとまずそうだけど
何を求めてるのかわからない
仲良くなりたいなぁって思うのに、いざ距離を詰められるとしり込みしてしまったり
個人的なことに関する質問してくれても、結局何も答えられなかったり
一応この人好きだなぁもっと仲良くなりたいなぁって思うのに、
いきなりすぎてテンパってそっけなくしてしまったよね
今でもかろうじて連絡とってるのって
私が誰かと本当に打ち解けるには長い長い年月が必要なのかもしれない
だけどたいていは、そうやって打ち解ける前にこの人とは合わないな…って離れていかれるんだと思う
あの人とはそれで終わりたくないな
めっちゃ後悔すると思う
だけどどうしたらいいのかわからない
一応多少仲良くはなっている
だけどそれ以上でもそれ以下でもない感じ
どう思われてるのかな
自分だったら異性とこんな風に接したりしないのに
相手はそうではなさそう…
量子力学の観測問題に関する理論は、ユニタリー宇宙論の枠組みにおいてエントロピーと観測の関係を新たな視点から捉え直したものである。
この理論では、宇宙を系、観測者、環境の3つのサブシステムに分割し、これらの相互作用を通じてエントロピーの変化を記述する。
この理論的枠組みにおいて、系のエントロピーは観測者との相互作用によってのみ減少し、環境との相互作用によってのみ増加するという一般化された熱力学第二法則が導出される。
これは、量子力学的な観測過程を熱力学的な観点から捉え直したものであり、量子測定理論と統計力学の融合を示唆している。
観測によるエントロピー減少の量子的メカニズムは、量子ベイズの定理を通じて厳密に記述される。
この定理は、量子状態の更新がフォン・ノイマンエントロピーの減少をもたらすことを数学的に示している。
具体的には、観測前の量子状態 ρ に対して、観測後の状態 ρ' のエントロピーが S(ρ') ≤ S(ρ) となることが証明される。
さらに、宇宙論的インフレーションによって生成される長距離エンタングルメントの効果により、観測されたビット数に対してエントロピーの減少が指数関数的に起こることが示されている。
これは、観測者の情報処理能力をはるかに超えてエントロピーを減少させることができることを意味し、量子情報理論と宇宙論を結びつける重要な洞察である。
この理論は、「インフレーションのエントロピー問題」に対する解決策を提供する。
インフレーションが無視できない体積で発生している限り、ほとんどすべての知的観測者が低エントロピーのハッブル体積に存在することが導かれる。
これにより、我々が低エントロピーの宇宙に存在することの謎が説明される。
この理論は、量子デコヒーレンスの概念とも密接に関連している。
デコヒーレンスは、量子系が環境と相互作用することで量子的な重ね合わせ状態が古典的な状態に移行する過程を説明するものであり、観測問題の理解に重要な役割を果たす。
この理論は、デコヒーレンスの過程をエントロピーの観点から捉え直したものと解釈することができる。
量子エンタングルメントと量子情報の関係性、特に量子測定理論における情報利得と擾乱のトレードオフなどの概念と密接に関連している。
これらの概念は、量子暗号や量子コンピューティングなどの応用分野にも重要な影響を与えている。
結論として、この理論は量子力学の観測問題に対して新たな視点を提供し、量子力学、熱力学、宇宙論、情報理論を統合する試みとして高く評価される。
この理論は、量子力学の基礎的な問題に対する理解を深めるとともに、量子情報科学や宇宙論などの関連分野にも重要な示唆を与えるものである。
いわゆるピュアオーディオ界隈
ネットでもよく話題にされるがある程度までは人間が体感できるレベルで良くなる
ただし途中からはどう考えても体感できないのに金だけが注ぎ込まれていく
スピーカーの台座に大理石を使ったり極太配線を使ったりコンセントを変えるぐらいはまだ許容範囲で
ハイレゾハイレゾと合唱してるが、なぜCDが44.1kHzなのか分かってるのか?ブラインドテストしたか?
もはや一眼レフ持って写真撮ってる奴はエセ科学分野に半身浸かってる意識を持った方が良い
iPhoneで十分綺麗な写真が撮れるしボケた写真が欲しければ画像処理すれば良い
性能も利便性も携帯性もiPhoneやスマホが圧倒的に上回って何年も経つのに馬鹿デカいレンズで何を撮っているのか
馬鹿デカいレンズをぶら下げて名前も知らない鳥を撮ってクチバシの先っぽにしかピントが合ってない写真でレンズの善し悪しを語ってる意味不明な集団
そもそも200mmでF2.8のレンズが何故存在するか分かってるのか?開放で撮ったら被写界深度2cmぐらいだぞ?
「ハンドルレスポンス」「ブレーキ感度」「吹け上がり」あたりを話し始めるとだいぶ胡散臭くなって
「剛性」「トレース」「意のままに操る」とか言い出すと末期症状
安定性がどうのこうのとか欧州車並とかいうワードで「分かる人にしか分からない」感を出す
アサクリ問題で「歴史が誤認される」 「文化盗用だ」って騒いでるけどさ。
いや、史実を基にしたってどんだけ言ってようがフィクションだからいいじゃん。
しかしこれに対して「フィクションじゃん」という反応の方が多かった。
つーか、ほぼそうだった。映画評論家ですらそういうことを言っていた。
実はアメリカの日本人コミュニティを中心にブレット・トレイン文化盗用問題は盛んに取り上げられていたが
この温度差がどこにあるかって言うとさ、日本で日本人に囲まれて生きてると
「文化盗用されたことで事実が誤認されても気にならない」っていう、そんだけなんだよね。
だって日本にいたら周りにいる奴はみんな「あれが間違ってる」ってわかってんだもん。
ブレット・トレインを見たアメリカ人から「日本ってあんな感じなんだろ」と平気で言われる。
本当の日本を見たことない奴らは普通にあの映画に登場する日本を日本だと思ってるよ。
そりゃ多少は誇張してるだろうなとは思ってるだろうけど、全部嘘!とは思ってない。
「ブラックサムライヒーローヤスケ」が実際の弥助と同じだと思ってるのと同じように。
ブレットトレインは当然フィクションだ。登場人物は実在の人物じゃないし、作品内で起こった出来事も全て事実じゃない。
だからと言って舞台である「日本」やそこに登場する「文化」まで全て事実じゃない、とはみんな思ってない。
俺たちが南アフリカや東南アジア、中東を舞台とした映画を見たときにそこに移ってるなんでもない市民の暮らし、市街や市場の様子のどこまでが事実で、どこまでが事実じゃないかを判断することが難しいように、外国人にとってフィクションの中の「日本」がどこまで事実でどこまで事実でないかを判別することは難しい。
俺たちがなんとーなくで知ってるつもりの海外は事実とは全く違うかもしれないよ?
フィクションの中で語られた「嘘」がいつの間にか本当のことのように誤認される恐れがあるから。
でも、問題なかったんだろ?
ハリウッドが描く、日本を小馬鹿にしたとしか思えないナンチャッテ日本で。
史実と言っていなければ許す?アホなのか。
巨乳と自分を比較して卑屈になる貧乳、処女いじりされて泣きそうな顔で耐える処女、ババアなのにJK制服とか着せられて「うわキツw」されるババア、みたいないじられて可哀想な女を消費するジャンルがあるけど
この種のやつHey! Say! JUMPというジャニーズグループの「ファンファーレ」という曲をカラオケでいじめで歌わされた地味な男子のこと思い出して本当に嫌な気持ちになる
いま調べたら2019年リリースだった、もうそんなに経つのか…コロナ前だから普通にカラオケ行ったんだよな…
曲の終盤で山田涼介(Hey! Say! JUMPのメンバー)が「忘れられないよ…」ってキメ顔で言うセリフの箇所があって
地味な男子に言わせてもそりゃキツいことになるよ、というかアニソンでもセリフパートって相当キツい感じになるものだし
それでいじめみたいに曲を入れさせてから「忘れられないよ…」まで言わせて爆笑していた冷酷な陽キャの女子のことも思い出して本当に震え上がるというか
なんのためにあんなことするのだろうサディズムというやつなのかな
共感性羞恥みたいな感覚で見てても本当にきつくて何度も思い出して背筋がぞわってなる
陽キャがみんな冷酷ってこともない
冷酷な人が陽キャとしてカースト上位に行けた場合、やりたい放題に人を操作できるので、そういう風になっちゃったコミュニティ本当にえぐい
オタク度合いが強かったらファンファーレ知らないしあのカラオケの場にもいない
いろいろな場所があったけど2軍と1軍の間みたいな場所の治安は結構きつくて、あの場所に長居するくらいだったらオタクグループに埋没したほうが安定してた
Hey! Say! JUMPや作曲者が悪いわけじゃないけどファンファーレトラウマ
確かに論破は相手を傷つけることがあるかもしれませんが、思考力や議論の技術を高めるための一つの手段でもあります。
誰かが正しいかどうかを確認するためには、意見の対立が避けられないこともありますし、それを法で禁止するなんて、表現の自由を侵害することになりますよね。
それでいいと思う人もいるかもしれませんが、そうじゃない人もいるんじゃないですか?
noteを見て俺も最後に区切りをつけようと思ったのでここに書く。
イラストレーターとしての俺のキャリアは、ここで終わりにしようと思う。
幼い頃から絵を描くことが好きで、気づけばそれが職業になっていた。
描いたイラストが人々の目に触れ、喜んでくれるのが俺の生きがいだった。
始めは俺も生成AIには反対だったが、次第に周りのAIに反対する声がヒートアップしていくに連れて
冷静になり、絵を描く事自体の喜びも次第に薄れていくのを感じるようになった。
最初に生成AIの存在を知った時は、ただの技術の進歩だと軽く見ていた。
でも、その能力に直面するたびに、自分の力が無力に思えてきた。
AIは驚くほどのスピードで、しかも精度の高いイラストを描き上げる。
俺が数日かけて描く絵が、AIの手にかかると数分で完成するなんて、まるで悪い夢のようだった。
俺が描くイラストは、どこかで見たようなものばかりで独自性が無いと。
自分のスタイルが時代遅れになっていることに気づかされた瞬間だった。
悔しかった。自分が長年積み上げてきた技術や感性が、時代の波に飲み込まれていくのを感じた。
でも、それ以上に痛感したのは、俺たち絵描き自身の限界だった。
技術の進歩に抗うことはできないし、それに感情的になって素早く適応できなかったのは俺たち自身の問題だ。
生成AIの登場が、俺たちイラストレーターにとっての終わりを意味するわけではないと思う。
でも、今の絵描き惨状は俺たち自身が撒いた種だ。新しい技術に対して柔軟に対応できなかった、
進化を恐れていた俺たちの責任だ。AIに他責するのは簡単だが、結局は自分の力不足だった。
俺はこの二年しばらくの間は仕事を続けたが、次第にその意味を見失っていった。
描くこと自体が楽しくなくなり、絵を描く手が重く感じるようになった。これでは本末転倒だ。
自分が楽しむために始めたはずの絵描きが、今や苦痛の種になってしまった。
だから、ここで決断した。イラストレーターとしてのキャリアを終えることにした。
悔しいし、寂しいけれど、これも一つの時代の流れなんだろう。技術の進歩を前に抗うのは愚かだし、無意味だ。
これからは別の道を模索しながら、自惚れていた自分と向き合って堅実に働いて行こうと思う。
捨て鉢にならず、前を向いて心を切り替えるのが俺のこれからの課題だ。
あなたたちのおかげで、俺はイラストレーターとしての人生を楽しむことができた。