はてなキーワード: 萌えキャラとは
これ、洋画しか見ないと言うならわざわざ「実写」なんてつけずに「邦画」を見ないと書くだろうから
アニメ映画は見てるって事だよね。
んで散々指摘されてるけど、統計を見ると「日本の男性はアニメ映画を見ている」のであって「日本の男性は映画を見ていない」のではない。
でも敢えて伏せた。そう書けば「アニメ好き男だってただ萌えキャラや声優しか興味なくてストーリーなんかどうでもいい低俗な連中だろ」と突っ込まれるから。
だから、自分とは関係ない「実写邦画が好きな男」を持ち出しつつ映画見る男の多数派であるアニメ好き男の事は伏せて
話を女叩きに持って行った、と。
実際は、増田が盾として用いた「日本の映画を面白くしたい、売れるようにしたい、海外で見てもらいたいとか思ってる、実写邦画が好きな男」
「日本の映画がつまらないのは、ストーリーなんかどうでもいいような低俗な客が多いからと思ってる男」は
アニメ好き男の事も嫌いなんじゃないですかね?
ここ十数年で「オタク」という言葉の意味はだいぶ変わってしまった。
オタクとは本来特定の事柄に凄まじい情熱を注いでいて、その事柄に対して並外れた知識を持っているものに使われる言葉だった。
しかし今でいうオタクとは、性的興奮を刺激するようにデザインされたキャラクター(いわゆる萌えキャラ)が出ているアニメやゲームを嗜み、SNSで群れるような低俗で薄っぺらい人間を指す言葉に成り下がってしまった。
言葉の意味が何かをきっかけで変わってしまうということはよくある。しかしこの場合、たちが悪いのは「今でいうオタク」たちが自分たちのことを「本来の意味のオタク」だと勘違いして選民意識まで感じていることである。彼らはアニメやゲームに嗜んでいる自分たちの好きなことを追及している高尚な存在だと勘違いし、それ以外の人たちは趣味も何もない流行に乗るだけのつまらない人間だと思っている。
それはまったくの間違いであり、流行りに乗りやすく自分を持っていないつまらない人間はオタクのほうなのだ。彼らの大半はミーハー気質であり、みんなが見ているからという理由ではやりのアニメを見、それを盲目的に称賛し、SNSで同じ仲間と群れる。しかし、その流行のアニメはストーリーがあってないようなものがほとんどで、オタクにとっては性的興奮を刺激する異性のキャラがいて、周りと共有できるアニメ(はたらく細胞然り)であれば何でもいいのである。彼らは好きなことを追及している高尚な存在では決してなく、ただの女好き(男好き)で、群れる仲間が欲しい人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。本来の意味を持つオタクという言葉と本質が最もかけ離れている。
それに加えオタクは声優にまで性的魅力を求める。最近のヒットしたアニメの声優陣を見ればわかる通り、実力よりも容姿で採用されたような人ばかり。声優のtwitterのリプライ欄をみればわかるが完全にアイドル化しており、グループを組んでliveをしたり音楽番組にまで出ている。本当にアニメが好きな人たちに謝ってほしい。
仕事の関係で宇都宮(栃木県)に住むことになった。本当にダサくてびっくりするくらいダサいので書き連ねたいと思う。
なんか嫌だなと思うことをたくさんいいます。
東京の真似をしてないですか?
おしゃれなデザイナーにイラストかかせたりして、都会を気取っている。どうあがいても田舎なので都会を気取らないで欲しい。田舎には田舎の戦い方があると思う。
おしゃれイラストレーターに絵を描かせても宇都宮はださいままです。
お店も同様で、都会のチェーン店を宇都宮に出してもださいままです。
宇都宮にしかないお店、餃子屋さんが思い浮かびますが本当にそんな行列してまで入らなければいけないお店?
当たり前だけど飲酒運転はできないので公共の交通機関を使うことになるんだけどどうしてもこれが弱くて遊ぶに耐えない。夜に空いているお店も宇都宮ならではではなく東京にもあるチェーン店多し。
宇都宮ならではってもんが本当にないんですよね
本当に餃子だけでいくつもりですか?
現地の人間に餃子有名ですよね!というと「あ〜、餃子ね笑」みたいな反応です。
現地の人間が「あそこのやつも食べてみて!」とならないなんてびっくりです。
まろにえーるという萌えキャラがいますが、それは本当に必要ですか?ドラゴンボール芸人に譲ったらどうでしょう?ファンに愛されるコンテンツとはなんぞや
東京の人間が餃子を食べに宇都宮に来ますがそれを本当に捌けていますか?
行列に次ぐ行列を経てもう一度きたいという観光客がいると思いますか?
宇都宮は子供はたくさんいるけれど大人は非常に少ない街のように感じました。
本当に楽しい場所がないというか、東京で替えがきく場所ばかりです。
東京の近くにある地方都市は大概こんな感じなのかな。餃子があるだけマシなのかな。
ツイッターで一部のワードで検索したら愚痴が流れていた。やれ解釈違いだ、やれそのキャラ像は間違っている。
そう思うことは自分もある。世間はきゃるるんのAが多いけれども自分の解釈は男前のA。
ならどうするか。自分の解釈で殴ればいい。世間がきゃるるんが多いなら、その中に男前のAの解釈をぶち込んでいけばいい。男前の小説が1件でも増えればきゃるるんが薄まる。解釈違いを叩きのめすには、自分の解釈で殴るのが一番だ。力こそパワー。
その場合桃太郎の「仲間をどんどん増やせるリア充なところが好き」「鬼ヶ島で鬼を倒す時の無敵なところが好き」「鬼を全滅させるまで追い込む鬼畜なところが好き」で、それぞれ見えているものは違ってくる。
自分が主張したいこと、見せたいものに合わせて見せたいシーンを決めたり書きたい部分を組み合わせたりする。
ここをミスると別解釈に取り込まれる!俺は!!!!!!無敵な桃太郎が見たいんだよ!!!!!!!きゃるるんが見たいんじゃねえ!!!!!鬼に媚びを売る桃太郎が見たいわけじゃねえ!!!!!!!格好いい桃太郎が好きなんだ!!!!!!己の解釈でぶん殴れ!!!!!!!!という気持ちを絶対に忘れない。
話の核部分が映えるように、前後を考える。
個人的には現状→事件が起きての変化→結果の物語が好き。現状と結果の違いが大きければ話が面白いってツイッターで見た。
例は雑だから本気で殴りつけるならもうちょっと考えたやつにして。
どうやってこの武器(シーン、核)を使えば一番効果的にクリティカルヒットを繰り出せるか?を考えながらプロットを作ったほうがいい。
詐欺だのせこいだの言われるけど、概念で殴る対象を増やすためには恋愛要素を入れろ。カプタグを使えるようにしろ。
カプなしよりもカプありのほうが絶対に見てもらえる(自分のアップした物の閲覧数調べ)。自分の概念を他人に押し付けるためにはまず人の目に映さなければ意味がない。そのためにはとりあえずカプにして恋愛要素をいれ、カプタグをつけろ。詐欺と言われようがキスだのしてたらそれはカプ。見てくれる人が増える。
いくら鬼の死体を踏みにじる桃太郎の話だろうが、道中で喧嘩売ってきた連中を燃やしていようが、途中で犬が絶対にあなたについていくと言いながら刀にキスのひとつでもしていればそれはカップリング。恋愛要素。
どんな方法だろうと目に止まれば誰かのなかに概念は刷り込まれる。それでジャンルに概念を少しずつでも刷り込んでいけ。
どうしても宗教的に入れられなかったり精神的に入れたくなかったりしたら、そのときはその時で頑張ろう!
自CP増えて。
詐欺だのせこいだの言われるような方法でもいいから自CP増えて。
のほほん可愛い女子×姉御肌女子なんて絶対萌えるのになんでのほほん女子が腹黒にされるんだよ!!!!!!これからも自分の概念で殴り続けるからな!!!!!!
フェミ界隈ではよくみかけるこういう人ね。
なんかこういう民族浄化を促す発言が野放しになってるの怖いよね
ゾーニングは臭いものに蓋をしているだけで、過激なポルノが蔓延し性犯罪を助長するので、ロリコンポルノは言うまでもなく、萌えキャラ(エロ・非エロ問わず)やAVが根絶やしになるまで闘わなくてはならない。
萌えキャラは女性性的搾取シンボルそのもの。— 出目金 (@demedeme2525) 2018年3月25日
男向け性的コンテンツが存在する以上、男の性犯罪を助長してしまうので、根絶やしにするしかない。
性犯罪や性暴力、誤った性知識を持った男も大幅に減り、街の景観も美化され良いことづくめである。— 出目金 (@demedeme2525) 2018年3月25日
ミソジニーの塊でポルノしか脳に無い、容姿も内面も醜い日本🍣と、人権意識を持っていて容姿も内面も優れている欧米白人男性で、日本🍣の方が性犯罪率が低いわけねーだろ。
現実見ろ。— 出目金 (@demedeme2525) 2018年3月25日
ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の原作者として
さまざまなインタビューで語られる通り
ここにきて過去の作品が見直され、知る人ぞ知る作品ではなくなっていることを
今回の復刊版の帯には「恋と多様性を描き続けて30年」のコピーがついた。
実際、この『回転銀河』はある高校を主な舞台としたオムニバス作品で、
一巻に収録されているのは、
姉と弟の恋に始まり、男子から男子への感情、女子から女子への感情…などなどさまざまだ。
その「多様性」という言葉の重さに、私個人は少し圧倒されてしまいそうになる。
姉と弟の恋、みたいな題材を扱っても、
なんとなく、いつも、地味だ。
姉と弟の恋のエピソードは、読者のおたより欄で
「そういうことはあるよなあ」と思ったところから始まったという。
そして「なんか地味」な原因でもあると思う。
姉から弟への想いも、
彼等はみんな、「私とは違うそういう人たち」として描かれない。
「そういうこと、あるよね」
そういう視点のまま進められる。
それは「多様性を描いている」といえば確かにそうかもしれないのだが、
「あなたと私は違う、そして認めあおう」という描きかたというよりは、
「私はたまたまそうじゃなかったけどさ、そういう感じになるの、あるよね」
という、まるで友達と雑談しているみたいな、とてもニュートラルな肯定だと思う。
多様性を祝ぐような派手さはない。
地味に、私たちの生活の地続きとして、また私自身のある選択肢として「多様性」はある。
そこに単純にある。
そういう描きかたをする作家だと思う。
そして、それこそが海野つなみという作家の稀有な美点であると思う。
(余談なのだが、2話目の主人公であるイズミという底抜けにいいやつな男子がいる。
めちゃくちゃ落ち込んで半泣きで家に帰って部屋に閉じ籠ってるのに、「にいちゃん!俺のじゃがりこ食べただろ!」と弟にキレられたりする。
そのごく短い家での場面で、隅っこの目立たないところに「ママは後妻」って書かれてある。
彼の家庭環境はそれ以降ぜんぜん話に絡んでこない。
けど、あ、わかる、と少し思った。
イズミという少年の優しさや性格の奥行きが育まれた背景があるんだ、とふと思わされる。
家庭環境が複雑な子は優しい、とか言うステレオタイプな話でなく、ただ、そこに地続きの「多様性」を思わされる)
あるじゃん、こういうこと、という感じで描く。
立ち向かうべき悪習としてでもなく、
陰惨ないじめとしてでもなく、
ただ、あるよね、こういうこと、として描かれる。
「美しき悪魔のような双子」という全然地味じゃないキャラクターが出てくる。
成績優秀冷静沈着、自分達以外に価値を認めない、少女漫画の萌えキャラ煮詰めたみたいなやつらだ。
けれど、彼等も結局この海野ワールドのなかの住人だなーと思ったのは、
彼らの行動はこのスクールカーストにえらく縛られているのだ。
それをしなければ、彼等は自分達の生活を守れないと感じている。
海野つなみはスクールカーストを「そんなのくだらない」と喝破したりしない。
あるよね、そしてそうやって自分を守る人もいるよね。
そこで繰り広げられるのは確かに主人公とヒーローの恋愛なのだけど、
いつもその片隅に、学校という生活のままならなさ、人が人と関わりながら生きていることを描いてきた人だと思う。
恋がすべてにはならないし、恋がうまくいけば生活すべてがうまく回りだしたりもしない。
そういう、どこか突き放したような距離感で描写してきた人だ(だから地味なのだが)(そして地味だから好きなのだが)。
それはたまたま彼女の描いてきたものにそういうメッセージを読み取ることもできたというだけだと思っている。
(めっちゃ細かいところではそれっぽいのあるけど、炊飯器をAmazonで買わないくだりとか)
するっとごくさりげなく描くことができる。
近視眼的ではなく一歩引いた距離で描くことができるだけなんだとおもう。
そこにはスクールカーストがあるし、
同性愛者もいるけど「同性愛ににている名前のつかない感情」もあるし、
男女の間にも恋に似ている恋ではない感情がある。
だって、いるのだ。そういう人は。いるじゃん。
ただ、いるよね、って描く。
それはわかる(『回転銀河』はアナログ時代の作画と思われるため、『逃げ恥』とはすこし感じが違うと思うが)。
けれど、もし海野つなみの絵が恐ろしく緻密な書き込みであったり、生々しく柔らかい描線であったら、
きっと「いるよね、こんな人」のようなある種心地のよい距離感はなかったと思う。
あのどこか生硬な絵柄だからこそ、すっと受け入れられるのだと私は思っている。
そして、あの絵柄だからこそ、時々ぎゅっと心を掴まれるような清潔でうつくしいコマがあることを言い添えたい。
【追記】
ごw本w人wにw見られたwwwww
(センセーショナルに、ことさらお話のために感情を煽り立てたりしない、地に足の着いた視点で描かれている、というようなことを伝えたかったのです)
kissの事情とロマンスのたまごと学園宝島と西園寺さんと山田くんとゴールデンデリシャスアップルシャーベットと豚飼い王子と小煌女が好きです…