はてなキーワード: 波動拳とは
カプコンのアクションゲームに胸を熱くさせ、任天堂で育った人間だ。
それでもまだまだ新作PVを見ては心ときめかせて、今はFF7Rを少しずつ進めている。
歳のせいか、リメイク版ではクラウドが可愛くて仕方ない。そんなゲーマーだ。
格闘ゲームを初めて触ったのは、ストリートファイター2だ。
幼少期、友達の家でわちゃわちゃ騒ぎながら対戦した。
波動拳を打つことができるTくんが猛威を振るったが、友達同士の対戦は無性に楽しかった。
負けるたびにコントローラーを交代して、みんなで打倒Tくんと、一丸となった。
キングオブファイターズ、ギルティギア、鉄拳やバーチャファイターなど、
ただ、どれもひとりで遊んだことはない。
友達の家や、ゲームセンター。あくまでも、その場で遊ぶだけの対戦ツールとしての楽しみ方だ。
だから、ひとりでうまくなるために一生懸命努力したことはなかった。
昔から勉強も、授業を聞いているだけでそれなりにテストの点は取れたから、
きっと、似たような感覚だったのかもしれない。
もちろん新作が出ると手を出して、オンラインで対戦したこともあったけれど、
画面の向こうの誰かの存在を感じることができず、
「昔遊んだ格闘ゲームとは、なんだか違うゲームだな」と首を傾げたりして、
それよりデビルメイクライでお手軽簡単なかっこいいコンボを試したり、
無双シリーズでバッタバッタとザコ敵を薙ぎ払うほうが、遥かに楽しくて、気持ちよかったのだ。
そんな折、『グランブルーファンタジーヴァーサス』という格闘ゲームが発売した。
ソシャゲのグラブルを題材にした、2D格闘ゲームだ。(ストリートファイター2みたいなやつだ)
格闘ゲームは自分にとって敷居の高いものだと思っていた私だが、
グランブルーファンタジーヴァーサス(以下GBVS)については、ちょっと手を出してみようかな、と思った。
理由は3点。
ひとつはネット上の付き合いのある友達が、何人かプレイすること。
近年はDiscordなどのボイチャ環境が整ってきたため、小学校の時のあの間隔を味わえるのではないか、と淡い期待を抱いたのだ。
これなら格ゲーの浅瀬をちゃぷちゃぷしていた自分でも、そこそこ戦いを楽しむことができるのではないだろうか。
3点目。これが大事だった。そもそもグラブルをやっていた自分にとって、
あのかわいいキャラを操ることができるのは、非常に楽しそうだったのだ。
ジータちゃんが最初から使えないことには憤慨したものの、それはじゅうぶん手を出すに足る理由だった。
プレイするたびにすぐ辞めるのが、いつもの私の格ゲーにおけるパターンだ。
今回もそうなるんだろうな、という予想が、どこかにあった。
ともあれ「またすぐ辞めてるw」と友達に冷やかされるのも、悔しいので、
続けるための努力はするべきだろう。
さて、始めるとなれば、キャラ選びだ。
これが大事であるということは、今まで数多くの格ゲーに挫折していた私は痛いほど知っている。
まるで永遠の伴侶を決めるかのように、慎重になるべきだった。
私はペルソナ4が大好きで、その格ゲーが出るということで、狂喜乱舞したことがある。
その際は、最愛の伴侶として千枝ちゃんを選んだ。千枝ちゃんと添い遂げようと思ったのだ。
けれど……私は、挫折した。
キャラ愛だけではどうしようもならない壁が、そこにはあった。
私は千枝ちゃんを愛することができなかったのだ。
その反省から、今回は好きなキャラにこだわるのはやめよう、と思った。
できるだけ気楽にお付き合いができるような、そんな人だ。
私は『カタリナ』という女騎士を選んだ。
本家グラブルにおいて、カタリナさんはそれほど人気の高いキャラではない。
女性キャラとしてはむしろネタ枠で、グラブル内で連載されている4コマ漫画でも散々弄り倒されている。
私自身も、ヴィーラさんは好きだったけれど、カタリナさん自身にはいい印象も悪い印象も、なにも抱いていなかった。
なので「まあ、ジータちゃんが追加されるまで、お付き合いをお願いします」という気分で、彼女の手を取った。
彼女はこんな不誠実な私にも、「よろしくな」と微笑んでくれた。
交際を始めると、カタリナさんは確かに動かしやすいキャラだった。
必要なパーツはなにもかも揃っている。炊事も洗濯も掃除もできて、さらに素直な性格だ。
実際、カタリナさんはどのプレイヤーからも「強いキャラ」と言われていて、
自分がうまくなればなるほど、誰にだって勝てるポテンシャルを秘めているらしかった。
一緒にゲームを始めた、格ゲーに詳しい友人は「君がカタリナを選んでほっとした」と言ってくれた。
間もなく、格ゲーにおいて、操作が簡単である、ということの重要性を私は初めて思い知ることとなる。
少し話は変わるけれど、
誰もがグー、チョキ、パー以外に、
ギョス、メランダ、ポポポチーノ、アラモ、ショポーリ、スイギョー(適当)などなど、
30個ぐらいの手をもっている。
スイギョー、ショボーリ、パー、ニャフ、など4つの手に勝てる。他の24個の手とはあいこだ。
こういったことを、毎瞬毎瞬、頭の中で考えながら、試合を進めていくゲームだ。
難しいのだ。
複雑なルールが覚えられない私にとって、カタリナさんは救世主だった。
カタリナさんは、グー、チョキ、パーの三つさえ覚えれば、だいたいなんでもできた。
他キャラが30個の手を使いこなしてくる中、カタリナさんの手は三つで足りた。
初めて見る相手に、「えっ、なにその技!? どうやって対応すればいいの!?」と度肝を抜かれる攻撃をされても、
自分で調べてみれば、「なるほど、これは実はチョキで勝てる手だったのか……」とすぐに答えが用意されている。
対戦して、一方的にやられて、自分で調べ物をして、そしてまた対戦をする。
すると今度は、相手のゾゾゾジゾという手に勝てるチョキを用意した私が優勢に戦える。
対戦相手も私がチョキを連発するようになると、そのチョキに勝つ手を用意してくる。
これを繰り返していくと、私はいつの間にか、さっきまで手も足も出なかった相手と五分に渡り合えるようになった。
楽しい。
楽しくて、毎日GBVSをやった。
昨日あれほどボコボコにされたフェリに対して、一晩練習しただけで、それなりに勝てるようになるなんて。
すごい。
どんなに強い相手でも、カタリナさんがいれば「いずれは勝てるようになるかも」という希望を抱いた。
今まで私は格闘ゲームを誤解していたんだ、と気づいた。
私は格闘ゲームはゲームの上手い人がやるゲーム、という認識でいた。
バイオハザードでゾンビに一度も捕まらないようにスイスイとプレイする人が遊ぶものだと思っていたのだ。
けれど、違った。
格闘ゲームというのは、非常に複雑なジャンケンで、相手の行動に対してこれをすれば勝てる、という手を用意しておくゲームなのだ。
こんなにシンプルなゲームだったのか……と目からウロコが落ちた。
もちろん、それを教えてくれたのは、カタリナさんだった。
「カタリナさん、本当に強いね」
「なあに、私を上手に操ってくれる、キミがいてこそだよ」
カタリナさん……。
いつの間にか、私にとって彼女はかけがえのない大切な存在になっていた。
よくよく見れば、顔もめちゃくちゃ美人だった。
(余談だが、先日本家グラブルにおいて開催された水古戦場においてカタリナさんが使えて嬉しかった)
私はカタリナさんとともに、反復練習、そして調べ物を続けた。
負けては調べ、負けては勝てる手を考える。
少しずつ成長していった。
共に初めた友人はSSランクというメジャーリーグみたいな場所に旅立っていったけれど、
私もAランクというマイナーリーグでそこそこ戦えるようになっていった。
なによりも、自分が徐々にうまくなっていくのが楽しかったのだ。
私の実力があがると、カタリナさんはますますその力を発揮し、期待に応えてくれた。
いや、違う。私がカタリナさんの期待に応えれるようになったのが、嬉しかったのだ。
私のそばでは「キミは日々強くなっていくな」とカタリナさんが微笑んでくれていた。
彼女は出会った頃よりわずかに……いや、明らかに綺麗になった。(私は強めの幻覚を見るようになった)
途中のバージョンアップでもともとの本命であるジータちゃんが追加されても、
私はカタリナさんのまま、GBVSを続けていった。
「本当に、私でいいのか……?」と恥じらうカタリナに、私は大きくうなずいた。
「当たり前だよ。私にとって、カタリナさんがグラブルなんだ」
社会人ゲーマーになると、とにかくゲームの時間を捻出するのが大変だ。
積みゲーもたくさん増えてきた。
そんな中、回転寿司のように、次々と新しいゲームに手を出してはクリアーしていくのが、私の最近のスタイルだった。
ストーリーのないゲームに時間をかけるのは、無駄だと思いこんでいた。
けれど、GBVSは違った。
それだけ多くの時間、私はカタリナさんと共に過ごした。
そして、4月28日。
バージョンアップの日がやってきた。
先に言っておくと、カタリナさんは確かに強かった。
「仕方ないさ。格闘ゲームというものは、バランスが大事なんだ」とカタリナさんは寂しそうに微笑んでいた。
だから、ある程度の弱体化が入ることについては、私も納得していた。
「しょうがないよね。調整ってよくある話だし」
といっても、これは『頭で』納得していた、というだけの話だ。
よく格ゲーでは「修正しろ」だの「弱体化はよ」だの、声が多く上がる。
実際に私も、スマブラDXで友人のフォックスに宇宙の果てまで蹴り飛ばされた際には「修正しろ!」と叫んでいた。
だけど、私は本当の意味での『修正』という言葉を知らなかったのだ。
なぜなら今まで、本気で格闘ゲームに向き合ったことなどなかったからだ。
カタリナさんが弱体化された。
私の顔はたちまち青ざめた。
唖然とした。
メインで使用する近Bがなによりも、破格の弱さになっていたのだ。
近Bという技は、どんな状況でも万能に使える最強のチョキであった。
多くの手に勝つことができて、コンボでも重要な役割を担う、カタリナさんの愛刀であった。
なによりもモーションがかっこいい。レイピアを高速で振り下ろすと、空気を切り裂くようにそのしなりが見て取れる。
カタリナさんの力強さ、そして剣に懸ける想いがこれでもかと伝わってくる、袈裟斬り。それが近Bだ。
その近Bが、死んでいた。
『硬直を増やしました』『認識間合いを狭くしました』というそのたったふたつの言葉で、
カタリナさんの手触りはまったく変わっていた。
私は震える声で問いかける。
「カタリナさん、カタリナさん、大丈夫……?」
するとカタリナさんは笑顔でこう言うのだ。
そう、気づいた。
たったひとつの技が弱くなったそれだけで、カタリナさんは、
私が2000試合も共に歩んできたカタリナさんは、
まったくの別物になってしまったのだ。
私の結婚したカタリナさんは、もうどこにもいない。
これからは近Lという、漫才のツッコミみたいに手の甲をぺちっと突き出して柄で殴る技を、メインに使わなければならない。
「近Bか? しかしあの技は、使ったところで仕方ないだろう」
このカタリナは苦笑いをする。
「ガードされて1フレーム不利だ。立ち回りで振るような技じゃない。私はそういう戦い方はしないんだ」
違う。私のカタリナさんはそういう戦い方をする人だった。
私のカタリナさんはどこにいったの?
ちょっとずつヒット確認ができるようになっていった遠Cが弱体化されたことなんて、どうだっていい。
色んな所からヘイトを集めているJUなんて、削除してくれたって構わない。
だから、近Bを、近Bを返してくれ。
せめて微不利じゃなくて、五分にしてくれ。
私のカタリナさんは、2000試合で少なくとも近Bを2万回以上は振り回した。
その技が、処刑されたのだ。
格闘ゲームの『調整』がどれほど恐ろしいものなのか、私は初めて味わった。
セーブデータが消えるんじゃない。自分が今まで積み上げてきた『努力』が無かったことにされるのだ。
ただ受け入れることしかできない突然の交通事故に遭ったような気分だ。
有名プロゲーマーが「なによりも調整を恐れている」という発言をした際に、私は「そういうものか」と思っていた。
弱くなったキャラを捨てて、すぐに強いキャラばっかり使う人のことを「キャラに愛着がないんだなあ」と思っていた。
バカだった。
私のカタリナさんは、間違いなく近Bを主軸に攻め込むカタリナさんだった。
だけどもう、そのカタリナさんはどこにもいない。
別物だ。
「でもどうせ弱体化されるんだろう」という想いを抱いて、遊んでいくのだろうか?
ただ、ひとつだけ言わせてほしい。
ありがとう、カタリナさん。
あなたのおかげで私は、強くなるために努力することの大切さを知りました。
あなたのおかげで私は、格闘ゲームの楽しさを初めて知ることができました。
あなたがいなくなったグラブルを愛せるかどうかは、まだわかりません。
もしかしたら別の恋人を見つけて、恥知らずにグラブルを続けるのかもしれません。
ありがとう、カタリナさん。あちらへいっても、元気に近Bを振り回してください。
まあいうて、新しいカタリナさんでも、それなりに戦えそうではあるんだけどね……。
操作感が変わる調整は、やっぱつれぇわ…………。
(ネタバレもあるんで一応注意)
すっごい良かった。一点以外は。
どこが良いって、怪獣のリアリティ、迫力が凄い。安っぽい部分が全くない。
シン・ゴジラも別に安っぽくは無かったが、あれは別物というか、生物というより無機質なキリングマシーンみたいな存在だったから、生物としての怪獣では本作が頂点と言える。ちょっと顔がブッサイクでくしゃみ我慢してるような顔つきがダサいけど、それは細かい話。
キングギドラとか、着ぐるみじゃない怪獣は良いよねえ。日本の怪獣は二足歩行型以外はもろ人形だもんな。
パシフィックリムと同様、ちょいと画面暗くない?辛気臭くない?全般的に灰色過ぎない?という部分は無いでも無いが、これはゴジラに限らず最近のハリウッド映画の傾向なので大目に見る。
監督がゴジラ大好きを自認するだけあって、ゴジラのブチ切れ方も割と出てて良かった。
特に良かったのが、ラストのバーニングな放射熱線で、それまでの青い放射熱線がイマイチ迫力ないというか、せいぜい波動拳程度の位置付けだったのが、一気にファイナルサイコクラッシャーくらいの火力に上がってて、ゴジラの放射熱線が何かというのを監督分かってる感が大きかった。
そう。あれは飛び道具じゃなくて「おんどりゃあ」って感じの怒鳴り声のような位置付けが正しい。怒鳴るついで殴る。これがゴジラの放射熱線。
とりあえずぶん殴る。怯んだ所に放射熱線をぶち込む。面倒臭くなっても放射熱線。急いでる時も放射熱線。イライラしても放射熱戦。ジャブからの黄金の右ストレートのような放射熱線。
それを監督はよく分かってた。
で、不満点なんだが、あれこれ綺麗にまとめちゃダメだと思った。
観るまではそんな事思ってなかったけど、観終わってから思った。ゴジラ映画(というか怪獣映画)は綺麗にまとめちゃダメだわ。
当事者の都合とか考えずに、何もかもぶっ壊す。後は野となれ山となれ。それくらい他人の迷惑を考えないのがゴジラの魅力であって、ラストシーンみたいに頂点に君臨しちゃダメよ。
細かい家庭事情とか人の感情とか回収しなくて良いから。そういうのが馬鹿馬鹿しくなってしまうのが怪獣の良いところだから。
希望としては、人間の出番は野球場での放送くらいで終わりにして、後は怪獣プロレスでギドラ爆破してラドンも爆破して、世界中から集まってきた怪獣も片っ端から爆破して、人間の秘密兵器もぶっ壊して戦意喪失した軍隊無視して海に消えていく、みたいな無責任な展開の方が良かったんでないかなー、と思った次第。
自分としては格闘ゲームはこの世の中で一番自由にキャラを動かす事ができるフォーマットだと思っているので、キャラ動かしてるだけで楽しいじゃんと思うんだけど、自分なりにつまらない理由を考えてみた。
自分も最初、ギルティギアというゲームでブリジットというキャラに萌えて使い始めた時コマンド操作は難しいとかなり思ったものだ。
いろんな初心者見てきたけど、236コマンド(いわゆる波動拳コマンド)、623コマンド(いわゆる昇竜コマンド)は単体でみればできる。ゲームが上手い人なら、呼吸を整えてやればレイジングストームが出せる人もいるかもしれない。
うまくなくても、今から波動拳出しましょう(3回以内に!)とか昇竜を連続して2回成功させましょうぐらいなら余裕でできると思う。
じゃぁ、何が難しいのかと言うと、コンボが難しいのだ。入力時間に猶予があるといっても、1秒あれば長い方で、難しいと感じた人たちがすることは、手にそのコンボをなじませるという反復練習をするというのは初心者のコースだ。
この反復練習をして、いくつかのコンボを覚えると、このコンボがパーツとなり「これつないだ後、こうやったら相手を壁の端にもっていけるんじゃないか」「これやったら立ち位置を変えて練習した最大ダメージコンボを叩き込みやすくなるんじゃないか」と考えて使えるようになっていくととてもおもしろいんだけど、ここまで来るのにはコンボを出す手の動きは考えなくてもできるようにならなければならない。
つまり、車を運転する時に、初心者ドライバーは「クラッチを少し踏んで、アクセルを踏んで、ギアを噛ませた後、ギアを上げていく」という事を周りの車のスピードを見ながら考えながらやっている時はとても疲れて大変なのだが、慣れてきて、ギア操作ぐらいは「今晩何を食べようかな~」と思いながら操作できるようになると一気にマニュアル運転の楽しさが広がる。
格闘ゲームも結局はこの反復練習で手に馴染ませた後が本番なのである。問題はこの手に馴染ませる全然前の段階で、対戦という公道に出ることができるのである。だから、操作技術がまだまだ未熟なのに操作になれた人が動かす相手と戦っても面白いはずはなく、このコマンド操作が難しいから面白くないという結論に達する。
(そして格ゲーメーカーはこのマニュアル操作が難しいことは理解しており、オートマめいたシステムを作るが、格ゲーマーの中流層が「オートマはねぇわw」といい威圧するので、自分で出した例えながら完璧ではないだろうか…)
これは仕方がない。格闘ゲームという仕様上、必ず2人に1人は敗者なのである。自分が勝てば勝つほど、その分誰かが負ける。そして運の要素が少ないのでビギナーズラックもないのではっきりと線が引かれた勝ち負けが存在するのである。
これはゲーセンの文化上仕方がないことなのだが、結局は強いやつは低クレジットで遊べ、弱いやつは(その強いやつと同じ時間遊ぼうとすると)高クレジットかけなければならないので、強くなるために練習するのである。(まぁ、今はアーケードでやってる層の方が珍しいか。)
「勝てないから面白くない」は究極の所「お金と時間を払った後の報酬が割りに合っていない」と思っているのである。実際は、負けても面白いゲームというのゲーセンにたくさん存在する。
例えば、8年だったか9年だったか連続で続いているボーダーブレイクというTPS(サードパーソンシューティング)があるが、このゲームが8年も続いているのは負けても「素材」という報酬が用意されているからだと自分は思う。つまり、負け続けても(勝ち続けている人より入手に金と時間はかかるが)好きなパーツで期待を組んで戦えるのである。それをただコツコツと8年間だったか9年間続けているのである。
もっと少人数な対戦ゲームに絞り込むと、露骨な報酬はないが、動物園と呼ばれているガンダムVSシリーズも「負けても楽しい」を巧妙に演出しているゲームであるといえる。無論、負けたら悔しいので騒ぎ回っているがゆえの動物園なのだが、巧妙に負けを隠され、負けた人間の殆どは敗北感を味わっていないのである。4人プレイのバトルゲームであるが、自分が最下位でなければ実質勝ちだと彼らは思っているのである。
例えばだが、「かなり上手いA」「中級のBとC」「クソ雑魚D」という4人がゲームをプレーした時、
A&D vs B&C の対戦で、A&Dが勝ったら、このゲームに敗者はいないのである。それはなぜか。AとDはもちろん勝者だが、BとCは「Dには負けてない」ので実質勝ち、勝利者しかいないのである。そして超理論と思われるかもしれないが、本当に彼ら個人をみていくとこうなのである。
逆にB&Cが勝ったとすると、B&Cは勝者として、Aは「Dに足を引っ張られた。俺は負けてない。」ので、結論して敗者はDのみになり、75%のユーザーが勝者なのであり、どう計算しても、50~100%の割合で勝者が存在する。あえて言うなら一番弱いDの人間が敗北を押し付けられ安いだけで、勝者を味わうことも可能である。こう考えてみるとスゴイゲームだなと思った。
しかし、1VS1の対戦アクションゲームはそうではない。先に上げたとおり50%は勝者で、残りの50%敗北で、そこに「実質勝ち」はない。だから、しっかりと出る勝率が間違いなく「自分の実力」の数値となってしまう。そして、1VS1の対戦アクションゲームというとやはりその殆どが格闘ゲームになってしまうのだ。