はてなキーワード: 有用とは
その自動化をノーコストで実行でき、有用であり、従業員がそれに対応するコストがゼロならすぐにでもやるべきですが、実際にはそうではありません。
・自動化により作業手順が変更になった場合は、変更後の手順の習熟
また、以下の点も重要です
・今でも足りない人手から、そのコストを払う必要がある(つまり、その間作業効率は下がる)
当然であるが、深刻な病気で不安になっている患者や家族に効果のないものを効果があるように付け込むのは詐欺であり、場合によっては殺人や傷害といえる行為にであることは言うまでもない。
Wikipediaによれば「帝京大学の大野智は、科学的に有効性が裏付けられた医療は通常医療に組み込まれるため、代替医療という言葉自体に矛盾があるのかもしれないと指摘している。日本でも一部の漢方薬は通常医療に取り入れられている。」とあり、現在の通常医療に絶対的な正しさがあるわけではなく、現在は代替医療とされているものが通常医療に取り入れられることもある。
難しいのは、将来に通常医療として認められる可能性がある程度には有用であるかどうかの判断ができないところであり、「不安に付け込んでくる詐欺師」という判断をどこですべき線を引けないところだ。
さすがに「薬は身体にとって悪であり、自然な状態が人間の免疫を高める」みたいな通常医療の否定については知識をつけることで自衛できるのだが、漢方に近い健康食品などは本当に効果がないと言い切ることは難しい。
こういった事はどのように考えたらいいんだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20170510211032
いやでもね、ベロベロに酔っ払ってゲロを撒き散らしたパートナーを担いで帰ったことが最近あって、すごく迷惑したんですよ。楽しく過ごすためのお酒を体調崩すまで飲むなんて本末転倒ですよね?と反論したら結構ガチめのテンションでお説教をくらったよ。
とかなんとか、マンスプレイニング感パワハラ感、あと詭弁に満ち満ちたいい感じのやつでした。
あの時はてめえにすすめられた酒を断りきれなくてベロベロになってたんだけどな。件の飲食店でも盛大にゲロしてたから店の人にも迷惑かけたし、飲食店の利益って言うなら食べ物でもソフトドリンクでも良いわけですよ。
などと、言いたいことは色々あったけど、パートナーの取引先の人だったんで飲み込んだ。尚、このタイプへの伝家の宝刀「男の人って大変なんですねー」を繰り出したところ、相手の溜飲は下がった模様。
ところで、“マンスプレイング”って言葉を聞くと“種付けプレス”を連想しちゃうんですけどなんとかなりませんか。
意味合い的にも案外近いような、そうでもないような。
読書しない人は、外部より情報や知識を得る手段を持たないため(情報や知識を手に入れても分析する能力や理解力が乏しい)自分の経験に基づいた事しか話せない。主に過去を引っ張り上げて話すのだが、自分の過去を客観視することが出来ない為に、都合良く美化されている事が殆どだ。そして、語彙力が足りない為、どんな有用な経験談も陳腐な思い出話になる。
そして過去の美しい時代に取り込んだ情報、思考に固執しがちである。
また、想像力も欠如しているため未来についての話しが出来ない。そんな人が多い。
その一方で、外部の情報や知識が遮断されている為、自分の考えに確固たる自信を持っていることが多い。そして、それは時に人を惹き付けることもある。そんな人もいる。
読書ばかりしている人は、情報過多で頭でっかちになり、実際に経験していないのに想像で経験した気になる。そして、経験をするのが億劫になり、さらに情報に固執する。成功もしないが失敗もしない。いつしか情報は、臆病なプライドを守る砦と化してしまう。雄弁だが、実態は無い。経験の無さを突っつくと嫌な顔をする。そんな人がいる。
その一方で、知識が豊富な為、多様な考え方を持つ人もいる。新しいことに抵抗なく吸収するため、次の事、未来の事を創造することが出来る。そんな人もいる。
読書とは知識のメンテナンスなので続けていかなければ、頭が柔らかい時に取り込んだものしか理解できなくなる。
また、経験をしてその上で得た知識と照らし合わさなければ、頭でっかちな臆病者になる。
経験も知識と照らし合わせて検証しなければ陳腐な思い出話になってしまう。
そんな事をふと思った。
もうイライラばっかりしているけれど、まずは自己紹介しておく。
わたしは今年度からの新入社員。研修やらを終え、ここ数日エクセル使う仕事をやってみていた。
ちなみに今までエクセルの経験値はほぼない。これまでも、なんとなくエクセルに嫌悪感を感じていて、なるべくエクセルを避けていたし、これまではそれでなんとかなってきた。しかし今般、エクセルを業務で触っていて、今まで何に嫌悪感を感じていたのか、その理由がはっきりしてきた。
今回ここにその理由を記録しておこうとおもう。
なお、事前に断っておくが、エクセルが有用かつ重要であることは認識している。
・入力と閲覧が一緒
もう色々クソすぎて何が重要なクソ加減かを理解するのに時間がかかったけど、おそらくここが最大にして最悪のクソなポイントではないだろうか。
今回、とある共有フォルダ(社内NAS)を参照していた。そこに置いてある某かが作成したファイルを参照しながらデータ作成の作業しなければならなかったからだ。ウインドウ並べたりするのにさえ難儀しながら、やっとこさデータを作成し終えた時、参照していたファイルの一部を書き換えてしまっていることに気がついた。慌てて☓ボタンを押して消したものの、ファイルは書き換えられたままになってしまっている。
…なんということだ。こんなことが起こるのか…。唯一の救いだった CTRL+Z さえ、ウインドウを消してしまった今はもう使えないではないか。
記憶を頼りに、なんとかデータを復旧させておいたが、他にも何かデータを書き換えてしまっていないか気が気ではない。
どーしてこんなクソ仕様になってしまっているのだ。理解不可能だ。
なんなのだこの汚いタブやらアイコンだらけのインターフェイス。おえー。
テレビのリモコンかよってくらい並んでるやんけ。何より統一感がなさすぎる。上に、下に、ポップアップに、右に左に。
アップル製品のように直感的に操作できるように!!とまでは言わないけど、せめてインターフェイスのルールの数は減らすべきではないのか?おかげで、シートの枚数が他にもあることに気が付かなかったじゃないか。
・機能を充実させすぎ
子供の頃、10得ナイフに憧れて、買ったはいいけどプラスドライバー以外全く使わなかった事を思い出した。この機能てんこ盛り!!もりもりさせればいいってわけじゃなくないですか?機能の取捨選択とか、そーいうのじゃないのですか??
そして何より私にとって問題なのは、それらの機能がONの状態で始まること。あらら〜突然グラフが出てきたり、あらら〜入力した小数点以下が勝手に表示されなかったり、困っちゃうじゃないか。これの何が問題かって、ONの状態で始まるということは、「知ってなきゃいけない」ってこと。学習コストが必要で、新規参入の障壁をとても高くしている。もちろんその機能の分だけインターフェイスは増えてぐちゃぐちゃになるしね。データを閲覧、参照したいだけの人も知っていなければならないルールになっている。オフィス検定含めたトータル商法かよって。
変化がわからない
セルにはいろいろな数式やら書式やらで書かれているが、そのセル自体を参照してじっくり見ないと何がどう変わっているのかわからない。変化の具合を一つ一つのセルを見なきゃいかん。具体的には結局そのセルの挙動を見なきゃいかん、あるいは、変な挙動したセルに「ん?」っと思って調べなければならない。これはなんだか、広い砂浜で一粒一粒の砂の形を確認しているような気分にさせられる。
この線は印刷されるのかされないのか、この非表示領域のデータはコピー範囲に入ってるのかいないのか、ほうほう、こんなA列の左の線はちゃんと入ってるのか。そしてなぜ私はエクセルの挙動テストをしているのか。
もうイライラばっかりしているけれど、まずは自己紹介しておく。
わたしは今年度からの新入社員。研修やらを終え、ここ数日エクセル使う仕事をやってみていた。
ちなみに今までエクセルの経験値はほぼない。これまでも、なんとなくエクセルに嫌悪感を感じていて、なるべくエクセルを避けていたし、これまではそれでなんとかなってきた。しかし今般、エクセルを業務で触っていて、今まで何に嫌悪感を感じていたのか、その理由がはっきりしてきた。
今回ここにその理由を記録しておこうとおもう。
なお、事前に断っておくが、エクセルが有用かつ重要であることは認識している。
・入力と閲覧が一緒
もう色々クソすぎて何が重要なクソ加減かを理解するのに時間がかかったけど、おそらくここが最大にして最悪のクソなポイントではないだろうか。
今回、とある共有フォルダ(社内NAS)を参照していた。そこに置いてある某かが作成したファイルを参照しながらデータ作成の作業しなければならなかったからだ。ウインドウ並べたりするのにさえ難儀しながら、やっとこさデータを作成し終えた時、参照していたファイルの一部を書き換えてしまっていることに気がついた。慌てて☓ボタンを押して消したものの、ファイルは書き換えられたままになってしまっている。
…なんということだ。こんなことが起こるのか…。唯一の救いだった CTRL+Z さえ、ウインドウを消してしまった今はもう使えないではないか。
記憶を頼りに、なんとかデータを復旧させておいたが、他にも何かデータを書き換えてしまっていないか気が気ではない。
どーしてこんなクソ仕様になってしまっているのだ。理解不可能だ。
なんなのだこの汚いタブやらアイコンだらけのインターフェイス。おえー。
テレビのリモコンかよってくらい並んでるやんけ。何より統一感がなさすぎる。上に、下に、ポップアップに、右に左に。
アップル製品のように直感的に操作できるように!!とまでは言わないけど、せめてインターフェイスのルールの数は減らすべきではないのか?おかげで、シートの枚数が他にもあることに気が付かなかったじゃないか。
・機能を充実させすぎ
子供の頃、10得ナイフに憧れて、買ったはいいけどプラスドライバー以外全く使わなかった事を思い出した。この機能てんこ盛り!!もりもりさせればいいってわけじゃなくないですか?機能の取捨選択とか、そーいうのじゃないのですか??
そして何より私にとって問題なのは、それらの機能がONの状態で始まること。あらら〜突然グラフが出てきたり、あらら〜入力した小数点以下が勝手に表示されなかったり、困っちゃうじゃないか。これの何が問題かって、ONの状態で始まるということは、「知ってなきゃいけない」ってこと。学習コストが必要で、新規参入の障壁をとても高くしている。もちろんその機能の分だけインターフェイスは増えてぐちゃぐちゃになるしね。データを閲覧、参照したいだけの人も知っていなければならないルールになっている。オフィス検定含めたトータル商法かよって。
変化がわからない
セルにはいろいろな数式やら書式やらで書かれているが、そのセル自体を参照してじっくり見ないと何がどう変わっているのかわからない。変化の具合を一つ一つのセルを見なきゃいかん。具体的には結局そのセルの挙動を見なきゃいかん、あるいは、変な挙動したセルに「ん?」っと思って調べなければならない。これはなんだか、広い砂浜で一粒一粒の砂の形を確認しているような気分にさせられる。
この線は印刷されるのかされないのか、この非表示領域のデータはコピー範囲に入ってるのかいないのか、ほうほう、こんなA列の左の線はちゃんと入ってるのか。そしてなぜ私はエクセルの挙動テストをしているのか。
関係ないはずなのに日本で導入すると決めたのは男女共同参画局なんやで…
イ 男性の暮らし方・意識の変革に関する専門調査会(家本会長)
・専門調査会において、男性の家事・育児等への参画等を促進するための施策について調査
検討しており、委員からは、「選択肢を増やすことは重要である」、「安心感を持つ方も
多いなど、日本製の製品が普及されるとよい」、「災害時にも有用」、「育児の負担軽減
につながるなど、メリットは大きい」といった意見が出されている。
・育児の面では、男性が参画していくことについては男性自身の気持ちの中でいろんなハー
ドルがある。こうしたハードルを解決する上では、具体的に液体ミルクというところがあ
ると考えている。
https://matochan.net/th/1176770
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170318-00010002-bfj-soci
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170326-00016672-kana-l14
なんで日本人は学歴を軽視するかというと表題のような考えでいるからだとか説。
賢さは漠然とした定義の言葉だが、頭がいいっていうことには一般的には平均より深く理解していたり思考していたりするってことだ。
他人からはその人がどれだけ理解できていて思考できるかわからないから試験で少しでも測る。
もしくは書いたものや言ったこと、アウトプットから推測するしかない。
あれだけ平等な大学試験で自分が解けなかった問題を解けてた学歴の高い人間をなんで賢くないっていうやつがこんなにいるんだろうかと考えると表題のようなこと考えてるからなんだよね。
例えば賢い人は分かりやすい説明をするとかね。それ以外は賢くないとかね。賢い人がその人に分かりやすく説明する利益0かもしれないのに。
職場で役に立たないってのもそうだよね。
有用と知能は全く別物で、日本人の手にかかるとアルキメデスやニュートンは完全なバカで。
才能を見出されるということもなかっただろうね。
なんで日本人は学歴を軽視するかというと表題のような考えでいるからだとか説。
賢さは漠然とした定義の言葉だが、頭がいいっていうことには一般的には平均より深く理解していたり思考していたりするってことだ。
他人からはその人がどれだけ理解できていて思考できるかわからないから試験で少しでも測る。
もしくは書いたものや言ったこと、アウトプットから推測するしかない。
あれだけ平等な大学試験で自分が解けなかった問題を解けてた学歴の高い人間をなんで賢くないっていうやつがこんなにいるんだろうかと考えると表題のようなこと考えてるからなんだよね。
例えば賢い人は分かりやすい説明をするとかね。それ以外は賢くないとかね。賢い人がその人に分かりやすく説明する利益0かもしれないのに。
職場で役に立たないってのもそうだよね。
有用と知能は全く別物で、日本人の手にかかるとアルキメデスやニュートンは完全なバカで。
才能を見出されるということもなかっただろうね。
仕事が出来る人が価値ある人だとしたら出来ない人は価値の無い人って事なのかな。
自分は今いる場所でソコソコ頑張れてて中の上くらいで踏ん張ってるけども、ちょっと気を抜くとスグに似たような位置にいる人と比べられ出し抜かれて転落しかねない。それが嫌なら結果を出して誰かを追い抜くしかない。そうしなければ今の自分の在り方を維持できない。だから踏ん張って来た。
でも自分が抜き去った人は自分より価値の無い人間なのかな?自分にはそうだとは思えない。そこには別に人間としての差なんて存在しない。なんなら自分より立派だと思える人だって追い抜いて来た。結果として自分はまあまあの評価をもらっているが、そんな事には大した意味なんかない。
いつまでこんなこと続けりゃいいんだ。自分の有用さを主張して他人を追い抜く為の努力を続けるモチベーションなんて保てない。仕事自体は楽しいのになんでいちいち競争しなけりゃならないんだ。
自分は単純に自分の仕事に黙って打ち込みたいだけなんだ。順番とか価値とかどうでもいい。そんな事気にもしたくない。なんかもうつかれた。
社会の苦しみというものを教える機会と言うものが実在するらしい。
数少ないこのような機会を持つために、「伝統」「校風」を掲げることがある。某沿岸の高校は長期の航海を通じて人格を育てたり、某県の多くの高校は新入生にバンカラ式応援歌練習で伝統に根ざした自己を確立させたり、はたまた某都市の進学校は新入生の合宿でその高校の校風に染め上げるというように、「伝統」「校風」を盾にグレーゾーンを突っ走っていたりする。このようなある種の人間教育は、世界の不条理さを伝える有用な手段として存在するとは思うのだが、一方で宗教的性格や自我の崩壊の危険性といった世間の批判を浴びてもいる。それぞれの学校も、校風によって執り行われる祭事を時代に合わせて少しづつ変化させているようだ。
一方で、正式な教育、すなわち行政機関が決定した教育方法では、人を教育する上で不条理さ・不便さを生徒に感じさせることを拒んでいる気がする。無駄が多い割に必要なことが省かれている「理系科目の教科書」や、出版社の意志がそのまま内容を歪めかねない「文系科目の教科書」、著者の都合や時代の移り変わりによって無駄に改定される「語学の参考書」などの教育という観点から見たらあまりに合理性に欠ける教材という不便さはある。しかしそういうものではなく、人間関係においてしばしば生ずる特定個人に対する「人格の完全否定」など精神的な問題に出会うことはめったにない(ただしいじめを除く)。
精神的な不条理さを解決して総て人間を尊重できる社会を目指す礎を築かせるという点において、苦しみを体験することによる不条理な世界の理解というものは、地球規模化する社会のリーダーとしての素質を育てるためには必要だ。ところが、その体験が、グローバルとはかけ離れた、「伝統」「校風」という宗教的性格を持ちかねないきわめて異常な手段でしかなされない、という奇妙な問題があるように感じるのは、たぶん私だけだろう。
江戸しぐさが道徳の教科書に載っている。この江戸しぐさというのはざっくり言って嘘だ。そんなものは江戸時代に存在したりしなかった。
でもそれはダメなんだよ。嘘は嘘だと言わないと災禍を招く。
例えば従軍慰安婦。これは嘘だった。でも、戦争の『悪さ』を強調するのにはとても有用な作り話だった。
それが今韓国との間でどうなっているのかはご存じの通りだろう。
日本の良さを強調する話だろうと、日本の悪さを強調する話だろうと、嘘なのに本当のこととして教えてしまうのは非常に問題がある。
なぜなら、それは人々の分断を招くからだ。
私たちには社会というものがあり、自分が知っている社会と他者が知っている社会がある程度同一のもなのだ、ということを前提に私たちはコミュニケーションをとっている。その社会は本当のことをベースに出来上がっていないと、人々の間の社会の同一性を阻害する。
社会に対する認識が違う人同士のコミュニケーションは困難だ。このことは、ある種の宗教を信じてしまった人とのコミュニケーションが困難であることからもわかる。
我々は今、グローバリズムの波にさらされている。それは国際化というだけの話ではなく、今まで違う社会に生きてきた人々が接触し始めるという話だ。つまり、人々のコミュニケーションのベースとなる社会が再構成されつつある。
我々は世界中の人々と対話をするために、ファクトベースの社会を作っていかねばならないのだ。その社会の汎用性を高めるためには、嘘の入る余地など無い。
たとえ嘘でもいい話、などという小さな判断で、これから我々が体験したものよりもさらに大きな社会に出て行く子ども達の未来を閉ざしてはいけない。