社会の苦しみというものを教える機会と言うものが実在するらしい。
数少ないこのような機会を持つために、「伝統」「校風」を掲げることがある。某沿岸の高校は長期の航海を通じて人格を育てたり、某県の多くの高校は新入生にバンカラ式応援歌練習で伝統に根ざした自己を確立させたり、はたまた某都市の進学校は新入生の合宿でその高校の校風に染め上げるというように、「伝統」「校風」を盾にグレーゾーンを突っ走っていたりする。このようなある種の人間教育は、世界の不条理さを伝える有用な手段として存在するとは思うのだが、一方で宗教的性格や自我の崩壊の危険性といった世間の批判を浴びてもいる。それぞれの学校も、校風によって執り行われる祭事を時代に合わせて少しづつ変化させているようだ。
一方で、正式な教育、すなわち行政機関が決定した教育方法では、人を教育する上で不条理さ・不便さを生徒に感じさせることを拒んでいる気がする。無駄が多い割に必要なことが省かれている「理系科目の教科書」や、出版社の意志がそのまま内容を歪めかねない「文系科目の教科書」、著者の都合や時代の移り変わりによって無駄に改定される「語学の参考書」などの教育という観点から見たらあまりに合理性に欠ける教材という不便さはある。しかしそういうものではなく、人間関係においてしばしば生ずる特定個人に対する「人格の完全否定」など精神的な問題に出会うことはめったにない(ただしいじめを除く)。
精神的な不条理さを解決して総て人間を尊重できる社会を目指す礎を築かせるという点において、苦しみを体験することによる不条理な世界の理解というものは、地球規模化する社会のリーダーとしての素質を育てるためには必要だ。ところが、その体験が、グローバルとはかけ離れた、「伝統」「校風」という宗教的性格を持ちかねないきわめて異常な手段でしかなされない、という奇妙な問題があるように感じるのは、たぶん私だけだろう。