はてなキーワード: 学説とは
秋の静けさが漂う東京の一角で、異様な緊張が走った。歴史学者、宮内敬一と考古学者、佐伯真一の変死体が発見されたのだ。二人は、かつて共に百済本紀の存在を追い、その謎を解き明かそうとしていたが、彼らの研究は突如として闇に葬られた。
警察による初動捜査は、外部からの侵入の形跡がなく、殺人であることを示す証拠はほとんど見つからなかった。二人の遺体には目立った外傷もなく、死因は心不全とされたが、その背後には疑念が残された。まるで何かを隠蔽するかのように、彼らの死は「自然死」として処理されることとなった。
宮内と佐伯が追い続けていた「百済本紀」は、二人の死と共に消え去り、今やその存在すらも「無いもの」とされた。学術的に重要であったはずの資料も、調査に使用されていたすべての記録は抹消され、百済本紀の存在を証明するものは、どこにも残されていなかった。
「なぜ二人は殺されたのか?」
その疑問は、学界のごく一部で囁かれるだけであり、公にはまったく注目されることはなかった。二人の研究は、韓国や日本の学術界ではタブー視され、まるで百済本紀という存在そのものが、二人の死を消し去るかのように扱われた。
宮内と佐伯が見つけた百済本紀――それは、朝鮮半島南部がかつて倭人の支配下にあったことを証明する決定的な証拠だったかもしれない。しかし、その真実は深く闇に葬られ、二人の死によって全てが消えた。そして、世間は彼らの死を追うことなく、ただ静かに時が過ぎていった。
その後、韓国の学術界では新たな説が次第に台頭し、支配的な理論となっていった。朝鮮半島南部に点在する「前方後円墳」――それは、かつて日本との関係を示す重要な遺跡と考えられていたものだったが、韓国の考古学者たちによって「方墳の誤解」だという新説が唱えられ、広く支持されるようになった。
「これは、単に方墳が重なり合って造営されたものに過ぎない。倭人の影響を示すものではない」とする学説が一般化し、朝鮮半島南部における日本との関係性は次第に曖昧なものとされた。
韓国のメディアや教育機関でもこの説が広まり、前方後円墳が日本由来であるという主張は「誤り」であるとされるようになった。この新しい歴史認識は、韓国社会において広く受け入れられ、かつての日本との関係を強調する要素は薄れていった。
そして、その流れはやがて日本にも影響を及ぼす。
日本国内でも、宮内と佐伯の死後、百済本紀にまつわる話は完全に封印され、朝鮮半島に関する歴史的議論は一切なされなくなった。むしろ、日本は再び「謝罪するだけの国」としての立場を強化し始める。歴史問題については、韓国や他の近隣諸国に対して従属的な姿勢を示し、過去の過ちを認める方向へと舵を切っていった。
朝鮮半島における日本の歴史的な関与については、批判的な論調が強まり、過去の征服や影響についての議論は「日本の侵略」という一面的な見方に統一されていった。日本国内でも、戦前の行いに対する反省と謝罪が繰り返され、歴史認識をめぐる議論は沈静化した。
百済本紀に関する研究は「なかったこと」とされ、二人の学者が追い続けた真実は、学会の表舞台から消えてしまった。
宮内と佐伯が命をかけて追い求めた「百済本紀」は、表向きには消え去った。しかし、その存在が完全に忘れ去られることはなかった。わずかながらも、彼らの研究に触れたごく一部の者たちが、裏でその真実を守り続けようとしていた。
日本国内の地下の一部では、失われた資料の断片を手に入れようとする者たちが密かに動き始めていた。彼らは、百済本紀が消えた理由を探る中で、政府や国際的な影響力を持つ陰謀の存在を疑い始めた。そして、宮内と佐伯の死が、単なる偶然ではなく、何らかの計画的な犯行であった可能性が高まっていると考えていた。
この裏で動く影たちは、「なぜ彼らは殺されたのか?」という疑問に取り憑かれていた。
彼らの手に渡る断片的な資料は、百済本紀に書かれていた可能性のある、朝鮮半島南部が倭人――つまり日本人の支配下にあった事実を示唆するものだった。もしその真実が公にされれば、日韓関係、さらには東アジア全体の歴史認識が根本から揺るがされるだろう。しかし、誰かがそれを望まなかった。
「前方後円墳が倭人の影響を示すものだと証明されれば、朝鮮半島南部は日本の故郷だと認識される。だが、それは今の世界秩序にとってあまりに危険な真実なのかもしれない…」
彼らの声は、闇の中で囁かれるのみだった。
宮内と佐伯の死の真相は今も解明されていない。百済本紀は闇に葬られ、朝鮮半島南部の前方後円墳はただの方墳として再解釈され、失われた倭人の故郷は再び歴史の深淵に埋もれてしまった。
だが、どこかでその真実を求め続ける者たちがいる。彼らは、いつか再び歴史の光の中に百済本紀を取り戻し、宮内と佐伯の死の意味を解き明かそうとするだろう。
だがその日はまだ、遠い未来の話だった。
自然食品(手作り調味料無添加)、○○心理学(心理学ではない)、EM菌みたいなの、宇宙の偉大なる母的な方への信仰、ブラックホールなんちゃら理論(母の延長?)とかなんとかやって生還した
幸い医学で横道(横道でない認識でもまだ不安要素残ってて疑いもつのも仕方ないのも混じってるんだろうが、それを言い出すと入口なので…)逸れたのは、普通に市販薬には頼らない(自然免疫を高める、ただし高め方に癖がある)とか、ぐらいで、主に精神的な寄り道だった
10年以上はどっか行っちゃってたけど、そこの界隈が無茶な金集めしたかなんかでぶっ壊れたので、正気に戻った
壊れてた時は、先生の言うことが正義で疑うやつは敵って感じだったので、反論がすべて無効だった
まだマシな時は、話聞きながら、それはわかる、実はこういう学説(そこまで学説的なものではなく単に聞きかじった実験結果から得た推測とかの雑学)あるし、とか言ってたら、
先生と考え方が似てる判定貰ったりして、多分未だに、先生の役に立つところ(気の持ちようとか、ある程度効果ありそうで、否定もされてないやつ)は取り入れながら暮らしてなさる
ダメだこりゃって思ったのは、何か芯になるところ(嫁でいう先生)が揺らぐと自分が全否定されたって思ってしまってヒスるのと、そもそもギリギリ義務教育習って覚えきってないから、嘘言われでも気づけないし、データ読んだり、論理的に話を進めていけないのよね。それこそ地頭は悪くはないとは思ってたから、初手ヒスが原因の大部分だったのかもだけど。そうなった状態とかそれに近い状態で懇切丁寧に説明するの難しいし。(途中ででも先生は! って言われて何度もはじめっからになったりするので)
朝晩はだいぶ涼しくなってきたみたいなんだけど
こういう時に油断して風邪引きがちたがりな感じにもなっちゃうので油断は大敵だわ。
いつも夜中ずーっと空調エアコンやってるんだけど
夜中に暑くて目が覚めるってことは避けたいので、
まあ温度は高めの低めってので設定しているのだけれど
強めの中火とか弱めの中火とか少し強い弱火とか
このような事態が発生するのよね。
たぶんそれはコンロのメーカーによってサジ加減が違うからなんとも難しい調整の仕方だと思うので、
数値で示せたらいいじゃない!って思うの。
でもそれを明確にした電子レンジもレシピの決められた具材でワット数と時間とか設定するけど
なんかどうも火入れが甘いような気がするのよね。
強めの中火とか弱めの中火とかの調節は超絶難しいのかも知れない。
色と音をそのサウンドを聞かなければそうそこで耳を澄ませばなのよ。
お料理番組でその焼き色が入っていく段階と途中でお肉などが弾ける音のサウンドが変わってくる瞬間はやっぱり
強めの中火とか弱めの中火とかいっても
決まったとおりにはいかないので、
目で見て判断しなくちゃいけないのよきっと。
電子レンジで決まったワット数と時間とでやっても同じようにできません!って質問があって、
そこまで言われないと分からないのかしら?ってちょっとマニュアル化した社会の弊害だと思うけど
電子レンジの窓が湯気で曇ってきたらチャンス!って言ってたのをなるほどーって思ったの。
まさに秋の祭典スペシャルよ!
あとやっぱり電子レンジとは言え
微かに電子レンジのファンから吹き出してくるその香りもキャッチしてリリースしなくてはいけないの。
その難しさを垣間見たわ。
電子レンジ便利調理器具を使ってそのままのレシピで時間電子レンジチンしても
上手くいかないのは様々な個々の影響が重なり合って
例えば機械のクセだとかもあるんじゃない?
あと微妙に量とか水分量とかも素材の味を引き出す加熱に大きな影響を与えるんだって。
へー!って
私もテレビを観ながらその電子レンジ調理名人の研究家の画面を見ながらなるほどボタンを連打した秋の祭典スペシャルだったわ。
私はそれでも電池レンジで焼けない秋刀魚のフェアーを定食屋さんが始めの合図を開始するのを待ちに待っているんだけど
なかなか今年の秋刀魚のフェアの開催をお知らせするチラシが商店街に貼り出されてないので
ちょっと緊張しているわ。
だって秋のシーズンの開幕戦ダッシュは焼き秋刀魚って相場が決まってるでしょ?
だから一刻も早く私は華麗なスタートダッシュを決めなければならないの。
焼ホッケではだめ!
やっぱり秋刀魚じゃなきゃ!なのよ。
本当に心待ちにしているのよね。
秋刀魚だけに!って
なにもかかってないけれどね
焼き秋刀魚にあうぴったりな大根おろしにかけたいのは味ぽんよ。
うふふ。
なんか具のパートが薄いような塗りだと思うんだけど、
これは具を食べるというよりパンを食べるという方が味わえる方向の転換が必要かもと思わせる具のゾーンの薄さよね。
秋の空は高いのに
いろいろな世界情勢がこのサンドイッチにも活かされているのよきっと。
サンドイッチで知る世界情勢面を私はその今朝の新聞で読みながらそう思ったわ。
一時期何故か人気だったのか品薄ルイボスティーだったけど、
解消されつつあるみたいで店頭に並び再び目にすることが多くなったので元通りなのかもね。
まだまだ冷たいの行けるけど
それが夏の弱りの原因の一つにもあるんだって
だから極端な冷たいものよりも温かいものも飲んだ方がいいって学説もあるようよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ここ数日X上の「弥助問題」を追いかけてきたが、いろいろと乱れている中でふと疑問に思った事がある。
何名か学者の先生も参加して諸説諸々披露して下さっているが、どんな方でも必ず「根拠」を述べる。
次に、断定しない。あくまで自分はこうであると思うという私見に留める。
論文の査読や各種討論が「正しい学説」を導くものだとご存じだからだと思う。
そして、それが故に「自身の投稿を拡散して欲しい」と言う事はあまりないし、自身でwikipediaを編集したりもしない。
最終的には論文が世に出て、正確な歴史を紡いでいくことが一番だと考えておられるのだと思う。
これらの例を考えると、ロックリー氏のやっている事は「学者」の行動様式からは著しく外れているものに見える。
根拠の真偽に頓着せず、自身の説が正しいという事を流布する為に動き回り、喧伝していく仕草はむしろ各種活動家等の動きに近いと感じる。
まず自分ら日本人は彼を学者・創作者扱いせず、活動家扱いするべきではないだろうか。
※追記
本日は、チャールズ・サンダース・パースのプラグマティズム、特にその認識論的基盤と論理学的側面に焦点を当てて考察を深めた。
パースのプラグマティズムの核心は、彼の提唱した「プラグマティックな格率」(pragmatic maxim)にある。この格率は、"Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object."(我々の概念の対象が持つと考えられる、実践的な影響を持ちうる効果を考察せよ。そうすれば、これらの効果についての我々の概念が、その対象についての我々の概念の全体となる)というものだ。
この格率の重要性は、その認識論的含意にある。パースは、概念の意味をその実践的帰結に求めることで、形而上学的な思弁を排し、経験的に検証可能な知識の基盤を提供しようとした。これは、ウィーン学団の論理実証主義に先駆けるものであり、20世紀の科学哲学の発展に多大な影響を与えた。
パースの論理学への貢献も看過できない。彼の提唱した「存在グラフ」(Existential Graphs)は、命題論理と述語論理を視覚的に表現する革新的なシステムであり、現代の計算機科学におけるグラフ理論の先駆けとなった。また、パースの「関係論理学」(Logic of Relations)は、フレーゲの述語論理と並んで、現代論理学の基礎を築いたと言える。
さらに、パースの「アブダクション」(abduction)の概念は、科学的発見の論理を解明する上で極めて重要だ。アブダクションは、演繹や帰納とは異なり、新たな仮説を生成する推論形式であり、パースはこれを「驚くべき事実の観察から出発し、この事実を説明しうる仮説を形成する」過程と定義した。この概念は、後のハンソンの「発見の論理」やクーンのパラダイム論にも影響を与えている。
パースの記号論(semiotics)も、彼のプラグマティズムと密接に関連している。特に、彼の提唱した記号の三項関係(記号・対象・解釈項)は、意味の生成過程を理解する上で革新的な視点を提供した。パースは記号を、"Something which stands to somebody for something in some respect or capacity"(ある観点や能力において、誰かに対して何かを表すもの)と定義し、この定義は現代の記号論研究の基礎となっている。
また、パースの「連続主義」(synechism)の概念も注目に値する。これは、実在を連続的なものとして捉える形而上学的立場であり、量子力学における波動関数の連続性や、現代の複雑系科学における創発現象の理解にも通じるものがある。
パースのプラグマティズムは、後のジェイムズやデューイらによって発展させられたが、パース自身は晩年、自身の思想を「プラグマティシズム」(pragmaticism)と呼び直し、他のプラグマティストたちとの差異を強調した。特に、パースは真理の客観性を重視し、単なる有用性や成功に還元されない真理概念を追求した点で、ジェイムズらとは一線を画している。
今日の考察を通じて、パースのプラグマティズムが単なる哲学的学説にとどまらず、論理学、記号論、科学哲学、認識論など、広範な領域に及ぶ包括的な思想体系であることを改めて認識した。明日は、パースの思想と現代の認知科学、情報理論、複雑系科学との接点について、さらに掘り下げて考察を進めたい。
これ実は「西洋文明をそのまま移植して日本にうまく接続できない」話も混ざってそうだなと思った
ときどき適当に本をつまみ食いしてると「フランスで流行してる学説だからそのまま持ってきちゃえ」みたいなのって定期的に発生してるなと思うんだけど
学説を持ってくるとき「欧州のこういう学説があって」ってちゃんと言及してるのもあるんだけど、持ってきてるのを明示しないで使っちゃうこともよくあるよね
たぶん引用に使おうとして、うまく接着できなかったりして、しょうがないから黙って使っちゃうんじゃないか
そうすると国内で見てると連続性がないから「なんでその発想になる?」ってのが今ひとつわからなかったりするんだけど、
「たぶん海外のあのへんの学派の真似をしたいんだろうけど、そのまま日本の事例に適用できるってとこまで説明できないから強引にやっちゃったな」って想定するとわりと読めてしまったり
日本の学問、定期的に「海外の最新だからとりあえず持ってきました」をやっては、
そこで以前からの繋がりがよくわからなくなっちゃうのを放置しがちなので、
その学問の外部から見ると何がどうなってそうなるのか意味不明に見えるっていう
一方でそれを外部から批判する側も「海外では~」論法で批判するんだけど
うーん不毛