はてなキーワード: ハラスメントとは
親ガチャ失敗や毒親というのは問題であることは当然ではあるが、そうまで謗りを受けてまで親になりたがるのだろうか私にはわからない。
まあ、よく働き詰めだった老人はもっと子育てに参加すればよかったと後悔を語ることが多いのだから、
事実として子供は作り育てるというのは素朴に強い欲望なのだと思う。それはわかる。当然だろう。
ただし、山上を見ても子供は一生親に従って生きるものだ。たとえ、それがカルト信者の悪魔であろうと。
子供は人形ではない。魂を抱いた人間であるのだが、ただ生殖本能に突き動かされ産み落とされている。
そして後はどうとでもなれとまでは言わないが、最低限、生殖さえ達成できてしまえばそれで良いという思想が透けてみえる時が
十中八九といったところだ。
また、日本では自己責任だといえば責任放棄しても罰せられたりはしないのだから、家庭内ハラスメントは法的にも看過されてしまっている。
こんな状況では人間の尊厳は守られ得ないであろう。そして、尊厳を傷つけられた人が、他者をも傷つけることは造作も無いことである。
Humanity humanity humanity...
あなたの為を思ってとか、そういうのはもう要らない。
「お客様は神様です」について
https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html
「三波春夫」といえば、『お客様は神様です』というフレーズがすぐに思い浮かぶ方が少なくないようです。印象強くご記憶いただいていることを有難く存じます。
ですが、このフレーズが真意とは違う意味に捉えられたり使われたりしていることが多くございますので、ここにちょっとお伝えさせて頂きます。
三波本人が生前にインタビューなどでこのフレーズの意味を尋ねられたとき、こう答えておりました。
『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。ですからお客様は絶対者、神様なのです』
歌手として歌を歌う、「セリフ入り歌謡曲」や「長編歌謡浪曲」で歴史上の人物や物語を歌い語る、その折の三波春夫の心構えを表現した言葉であり、お客様に歓んでいただくことを歌手人生の第一義として追及して生きた、三波春夫らしい心情を表したものでした。
また、三波春夫の舞台をお客様が楽しみにお越しになり、三波も一所懸命に舞台をつとめるといった、楽しさや高揚感がいっぱいの、歓び合う場での思いを表したものでした。
そしてその始めは、「お客様は神様です」という型にはまった言い方ではありませんでした。いきさつについての本人の著述を最後にご紹介いたしますが、“お客様を神様とみる”という心構えであることを舞台の上で話したことが始まりで、それは芸能生活としては22年目、歌手デビューから数えると4年目の1961(昭和36)年のことでした。
その後、漫才トリオのレツゴー三匹さんが「三波春夫でございます。お客様は神様です」という表現を流行させて、「お客様は神様です」という言い方が世の中に定着したというのが経緯です。
三波にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。また、「お客様は神だから徹底的に大事にして媚びなさい。何をされようが我慢して尽くしなさい」などと発想、発言したことはまったくありません。
しかし、このフレーズが真意と離れて使われる時には、「お客様」は商店、飲食店、乗り物のお客さん、営業先のクライアントなどになり、「お客様イコール神」となります。
例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?」という風になり、クレームをつけるときなどには恰好の言い分となってしまっているようです。店員さん側は「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」と嘆かれています。
また、クレーマーやカスタマーハラスメント問題を取り上げている番組などでは「“お客様は神様です”というのがありますからね」と、真意を紹介することなく引き合いに出されることもあります。
このようなフレーズへの誤解は三波春夫の生前から有りましたが、言葉や文章などでの短い説明ではこと足りないと思うのは、生前の三波春夫も、現在の私もです。説明となるものを挙げるとしましたら、三波春夫のライブをご覧いただいて心意気を感じ取っていただくことだったのかもしれません。
“雑念を払って澄み切った心で歌う”というような心構えに至ったのには、三波春夫のそれまでの人生経験が土台としてありました。
16歳で初舞台を踏んだ浪曲の世界は、芸がまずければ「下手くそ! 聴いてられないぞ!」と、お客様が舞台に上がって来てサッサと幕を引いてしまわれるような、目や耳の肥えたお客様ばかりでした。幸いに途中で「やめろ!」と言われたことはなかったそうですが、舞台に立つ時は常にお客様との真剣勝負でした。
20歳では応召して陸軍に入隊することとなり、戦場を駆け巡り、終戦後はシベリアで捕虜となり、4年間の抑留生活を送りました。
抑留中、絶望の中にある仲間を励ますために、また自分自身が希望を持って生きるためにも、時間を見つけては一所懸命に浪曲を語って聞かせ、皆で演劇も創りました。藝で、いかに人に喜んでいただけるかを徹底的に追及し始めたのは、このときからでした。
戦後は浪曲の世界に戻り、33歳で歌謡界に転向して歌手となったのですが、プロとして藝を向上させるには自分自身の心を磨き、鍛えてゆかなければならないと思い、“求道者”と言われるほど真面目に生きました。男性歌手初の和服の歌手であり、歌手が座長の芝居と歌謡ショーの大劇場の1ヶ月公演の一番手であったことを始め、前例が無いなどということは恐れずに、「常に新しい藝を、新しい作品を」をモットーにしておりました。
永六輔さんは三波春夫のことを「歌う学者」と呼んでくださいましたが、酒タバコは嗜まず、空き時間は本を読み、作詞やエッセイ、歴史本を書くために原稿用紙に向かっている人でした。
笑顔がトレードマークのようでしたが、いつも人に笑顔を向けられる自分であるようにと、心がけていました。日常、腹の立つこともありますし、不愉快な思いもしますが、そのまま仕事に入ってしまっては良い舞台はつとめられません。ですから、心の持ち方のスイッチをいつでも切り替えて笑顔が出来るように、と努力していました。
これらは、若い時に先輩から「普段の暮らし方が舞台に出るんだよ」と教えられたことを心におき、より良い舞台をつとめられるように、お客様に歓んでいただける歌手であるために、の切磋琢磨でした。
三波春夫が藝一筋に生きた姿勢は、DVDなどでお目にかける舞台などに表れているかと存じます。ご興味がおありになりましたら、どうぞご高覧くださいませ。
最後に、三波春夫自身が「お客様は神様です」について著述している文章をご紹介させていただきます。
三波春夫著『歌藝の天地』
(1984年初刊 2001年文庫化 いずれもPHP研究所)より
「お客様は神様です」の発端
お客様は神様です」という言葉が流行ったのには、びっくりした。よく、この言葉の真意はどこにあるのかと聞かれるが、私も、その答えに困ることがある。テレビなどで、短い時間で喋るには、うまく説明が付かない。
皆さんのほうでは、面白がって、「お客様は仏様」だの「うちのカミサンは神様です」とか、「選挙民は神様じゃ」などといった言葉になって広まっていった。いやはやどうにも賑やかなこと。
そのあげくに、「こんなふうに言われるのは、どう思います?」とくる。
しかし、振り返って思うのは、人間尊重の心が薄れたこと、そうした背景があったからこそ、この言葉が流行ったのではないだろうか?
私が舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない―――と私は思っている。つまり、私がただ単に歌を唄うだけの歌手だったらならば、きっとこんな言葉は生まれなかったと思うのです。浪花節という語り物の世界を経てきたからではないだろうか。
つまり、浪花節の台詞の部分は「瞬時のうちに一人で何人もの登場人物を的確に表現」しなくてはならない。そうしなければ、決してドラマは語れないのである。
われわれはいかに大衆の心を掴む努力をしなければいけないか、そしてお客様をいかに喜ばせなければいけないかを考えていなくてはなりません。お金を払い、楽しみを求めて、ご入場なさるお客様に、その代償を持ち帰っていただかなければならない。
お客様は、その意味で、絶対者の集まりなのです。天と地との間に、絶対者と呼べるもの、それは「神」であると私は教えられている。
あれはたしか、昭和三十六年の春ころ、ある地方都市の学校の体育館だった。
司会の宮尾たかし君と対談の際にこんなやりとりがあった。
「!?」
「こんないいところへ、何故もっと早く来なかったんたろう、と」
ここで、お客様はどっと笑ってくれる。ここまでは、昨日通りの対談内容。
すると、宮尾君はたたみかけて、
ウワーッと客席が歓声の津波!私ははっとしたが、宮尾君もびっくり。客席と私の顔を見比べて、
「カミサマですか」
「そうです」
「なるほど、そう言われれば、お米を作る神様もいらっしゃる。ナスやキュウリを作る神様も、織物を作る織姫様も、あそこには子供を抱いてる慈母観音様、なかにゃうるさい山の神・・・・・・」
客席はいっそうの笑いの渦。その翌日から、毎日このパターンが続いて、どこもかしこも受けまくった。宮尾君は、お父さんが落語家であり、本人も研究熱心だから、司会者としても一流。漫談もうまい。
こうして、このやりとりを続けて全国を廻るうちに、レッツゴー三匹が舞台を見て、おおいに流行らせたのである。
追記:
“翌日から、毎日このパターンが続いて…”とありますが、三波と宮尾さんが自発的にしたのではなかったのです。山陰地方を廻るツアー中のこの出来事でしたが、”三波春夫が、お客様を神様だと言う面白い場面があるよ”という評判がすぐに広まり、各地の主催者さんから「あの場面、必ずやって下さいね。お客様も待っていらっしゃいますから」と言われ、連日この2人のトークの場面をやらなければならなくなった、というのが真相です。
問題を切り分けるべきだろ。
問題A:自分の作ったゲームに卑猥な単語が含まれているのがどうしても許せなかったのでNGワードリストから削除した。
問題B:「卑猥な単語を許せない人」に卑猥な単語をリストアップさせて書かせた。
問題Aについてはそりゃあ削除した奴が悪い。しかし、本人もNGワードの意義を理解していないわけではなく、叱ってどうにかなる問題ではなさそうなので、その人をNGワード関連の業務から外して対応するしかない。
問題Bは明らかにハラスメント。卑猥な単語から引き離すべきなのに、なんで逆に卑猥な単語に触れさせようとしてんだよ。どうしてもどの単語が削除されたかを示さなきゃならないなら別人が代筆するしかない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/hirox246/status/1563480695594315776
ケガが怖いなら格闘技もスポーツもやれないし、労災が怖いなら工事現場では働けない
意図的ではない通常のプレーやお仕事の範囲内であっても、結果的にリスクや障害を負うことは、残念ながらそう珍しくもない
ハラスメントというと常に悪意があって、悪意さえなければ絶対に防げるんだあああ!!! みたいな人も多いけど
大抵の奴は反則にしても「うっかりやらかす」わけじゃん
そしてもちろん「悪気はないからセーフ」というわけでもない
しかもどこの誰とぶつかっても強さが同じなら同じケガになるであろうフィジカルと違って
家族の都合があって急に休んだりすると
めっちゃキレられるよ
シフト管理してる連中が低学歴でハラスメントとかコンプラとか知らないからなあ
本部は流石にまともそうだが。
何を言おうが言葉狩り警察が発動する時点でまともな言葉が使えなくなってるんでしょ。
結婚して子供を育てるのが幸せなんて時代はもう古い!と言われて随分経つが、それでも未だに「子供欲しくないの?」と聞かれることはたまにある。その度に私は「子供苦手なので」と返してきた。
実はこの「子供」と「苦手」の間には色々な思いが込められている。
書き殴ったので読みづらいし整理もできていないのだが、読んでいただけるとありがたい。
子供を育てると言うのは本当にお金がかかる。全部公立の安い学校に入ってくれ〜!と頼み込んでなるべく安いルートを辿った場合でも2000万円は普通に超える。そしてその2000万円をかけて育てた子供は平気で「誕生日にswitchほしい♡」とか「今日友達と出かけるから1万円ちょうだい」みたいなこと言ってくるのだ。怖すぎる。私のような低所得者からしたら恐怖の対象でしかない。
②子供の将来性が苦手!
子供には将来の夢というものがある。無邪気に「ピアニストになりた〜い!」とか「野球選手になる!」とか言ってくる。ふざけるな。どんだけ金がかかると思ってる。しかもこれの怖いところは、金をかけても才能が昇華しない場合があることだ。半端に才能があったせいで私立の名門野球部に推薦で行き、ハチャメチャな金を湯水のように使った我が子が誇り高く応援席に座る姿!!を観に行く甲子園…という夏が来るかもしれない。しかもその後、散々周りを巻き込んで打ち込んできた野球を我が子は嫌いになっちゃって一生触れないかも…というおまけまでついてくる。怖い。せめて楽しかったとか言ってくれ。
将来性とかいうあやふやなものを信じて金と時間をたっぷり使って得られるのは辛そうな我が子の姿、なんて目に遭いたくない。本当にマジで。
③子供の将来性が苦手!その2
世の中に蔓延る殺人鬼や性犯罪者やその他諸々やばい人達は何も無から湧いて出たわけじゃない。人間である以上生みの親がいる。そして産んで育ててる時、将来この子がどんな大人になるかなんて分からない。自分が良かれと思ってやってきたことが子供を無意識に苛んでいて、子供が大犯罪を犯したあとに「親に復讐しようと思った」なんて言った日にゃあもう目もあてられない。子供の恐ろしいところは自分の個性は尊重してほしいのに悪い部分は親の育て方のせいにしても許されるところだ。
子供を育てると、子供を持たない人間には分からないことがたくさん起こる。私は子供を持ったことがないので分からないが、世の中にはPTAとかいうのがあって無償で子供のために学校運営に協力しなさいよとか言われたり、学校とか言うのがあってその中で子供が他所の子供と起こした問題で民事裁判に発展したり、習い事とかいうのがあって保護者が交代で送迎したりそういう怖いことがたくさんあるんですよね…?子供のせいで人生のタスクがガン増えしていくこと、恐ろしさしかない。人生経験と言ってしまえばそうかもしれないけどでも死ぬときに「あのPTA会議の時間でもっと好きなことできたよな〜」とか謎の後悔しそうで嫌〜〜!!!
⑤子供が苦手!
子供、本当に怖い。何が怖いかというと、奴らは愛情というものを信じている。相手が自分に対して刃を突き立てることなどないと信じているあの傲慢さが本当に苦手。年齢と可愛さのせいで許されてるけど成人に言わせたら単なるハラスメントだろ…という発言も平気でしてくる。本当に怖い。
乳児期の怖いところはこっちの愛情を信じて泣くだけで自分の要求が全て通ると思ってるところだ。幼児期の怖いところはこっちの愛情を信じて超音波で泣き喚いても良いと思ってるところだ。反抗期の怖いところはこっちの愛情を信じて「親ガチャ失敗」「クソババア」と言っても殺されないと思ってるところだ。怖すぎる。こっちが狂人だったらどうするんだ。生きてられないぞ。
もちろんかつて自分が子供だったことも理解している。両親には頭が上がらない。よく私をここまで生かそうと思ったものだ。
トプコメの
『全くの善意で送った褒め言葉がハラスメントと受け取られ拒絶される事もありうる』ってのは男性→女性のコミュニケーションで随分前から言われてる事で、逆方向の話が着目されるまで時間がかかり過ぎと思うくらい。
が本当にその通り過ぎた。
同じフロアでやめてって何度お願いしても「かわいい^^」っておっさんに絡まれてるの想像しようよ。
それで発狂した女の子が「もうおじさん死ね!!!」って叫んだときいうべき言葉は
「何もしてない自分までまとめて死ねと言われたみたい傷つく」じゃなくて、同性として恥ずかしい同性の行動を注意するか、できないなら自分はこれからもちゃんとしよう・目の前で困ってたら助けようと意識を強める・余計なことはせずに静かに応援する
それしかなくない?
過度のストレス状況に置かれた人間にこれ以上なにを叩きつけたいんだ
推しが苦しんでるのわかってる?
それは男が痴漢の冤罪を異常に怖がる心理とおなじで「女は絶対に自分を悪者にする!」「冤罪がこわくて電車にのれない!」に重なるとても恥ずかしい主張だよ
### 前置き
二次元の都合の良い見た目・人格しか愛せなかった自分には無縁の世界だと思っていたが、結局ハマった。
そのうち二次創作がしたくなった。
アニメキャラと何が違うねん、なんでnmmnとして扱わなならんのだ、と初めて人間を好きになった性欲モンスターが考え続けた結果、人によって人格の依代が違うなと思ったので簡単に説明する。
#### 人格の依代が「本人」にある(ように見える)場合と「キャラクター」にある(ように見える)場合がある。
人はこれを世界観と呼ぶのだろう。
そのまま現実の本人として活動する人もいれば、架空のキャラクターを作りそれに成りきる人もいる。
さらに架空のキャラクターに成りきる人にも温度差があり、設定のみを持つ人、キャラクターとしての人生(物語)を持つ人、明確に声優という立場の人などがいる。
当然後ろにいくほど人格はキャラクターにある(架空である)ように見える。(普通のアニメキャラに近いということ)
これは完全に余談だが、自分が二次元の人間として興奮できるのは最後の2つであり、他は存在が生々しくて食指があまり動かなかった。そんなことあるんだ。
これに関してはもしかすると知ってるキャラで抜けない理論と関連があるかもしれないが、無いかもしれない。かに○ま先生はすごい。
なぜキャラクターとしての人生があると人間判定の外に出てしまうのかも不明である、というか本当にただその人間との相性がいいだけかも知れないのでこの余談全体が眉唾ものである。
ここでの懸念事項
nmmnのマナーについては1年ROMったがよくわからなかった。とりあえず本人の目につかなかればよさそう、という認識。
→ センシティブタグってどこまでがセーフなん?というか無い場合は描くなってこと?
本来は相手が人間でなくても慎まれるべきなんだろうが、そういう性癖なのでこればかりは本当にごめんなさいという気持ち。ごめんなさい(各方面に土下座)。
具体的には成人男性の男性向け表現が大変に好み&夢見がち……で、余計に自治や外野の罵倒が怖い。後者は特にルールを守っても晒されるリスクが大きい。
表現の自由とハラスメントと界隈アンチと自治厨の間で一生気持ちが揺れ動いている。
#### というか別に作るだけなら公開しなくて良くない?
似たような欲求を持った飢えた人間がいるはずなんだ。未来の友達が危篤なんだよ(未来の友達も飢えてる暇があったら作ってくれ)。
二次創作はFAと違って宣伝にも寄与しなければ、本人に見せられるような綺麗なものでもない。
でも、見たいものがたくさんあったらお互い幸せだろう。これは限界集落の福祉なんだ。
大麻が吸いたければ国外に行くように、二次創作がしたければ風評被害を避けるためにそれ用のインターネットに籠もりたいんだ(本人が見なきゃ無いのと同じ理論)。
ここまで長々と言い訳をし続けたが、人間が難儀であることしかわからなかった。
先日の某事務所の出来事(多すぎてわからん)もあって本当にnmmnで二次創作をすることはなんらかの罪にあたらないか不安になったので、ちょっと考えをまとめた次第だ。