はてなキーワード: ぼんやりとは
外見を磨こうともしないで素のまんま堂々としてる奴、上位10%レベルの若い美人に声をかける奴(自己肯定感モリモリのアグレッシブ男)がうようよいるのは、何故なんだろう。
外見に手をかけて少しでもマシにするのが当然、というのは女の発想で、男は違うのかもしれないけどね。
女視点だと、自分が普通未満のブサイクだと思ってる男は数%もいないように見える。むしろ、大部分の男が、内心「自分は、顔はまあ普通だが、(優しさ・賢さ・誠実さなど)中身があるのに、モテないんだよな。世の中おかしいよなあ…」「天使みたいな美少女に出会えれば、ワンチャン俺の良さを分かってくれるはず…」くらいに思ってるように見える。
そのままぼんやり「なんでかなあ……」「ワンチャンあればなあ……」と思い続けるか、「俺がモテないのは世間の女が悪い!」と先鋭化するかは、性格や環境に拠るんだろうが。
最初に言っておくが、私はミサンドリーを拗らせている。世の中の女性みんながこんな考え方をしてるわけでは全くないことは、大前提としてほしい。
そのうえで私の拗らせの話をするのだけど、本当に本当にぶさいくな男が嫌いで、憎い。なによりぶさいくな男が自分の同業者で成功していると、言いようのない嫉妬を覚える。
ぶさいくというのは、なんかやたら鼻がでかかったり、やたら身長が低かったり、へたれた犬みたいな目をしていたり、逆に目がやたらぎょろりとしていたり、似合わない坊主だったり、そういう類の男だ。チー牛みたいな男はそんなに憎くない、彼らはぼんやりした顔はしているがべつにぶさいくではないと私は感じる。あと年齢が20歳以上年上になるともうおじさんの枠に入るのでそんなに美醜が気にならなくなる。
とにかく同世代のぶさいくな男たちが嫌いだ。
彼らに対して私は仕事上にこやかに接するし、飲み会にだって呼ばれたら行く。仕事のためだから。でもそういうやつらが仕事で自分と同じように成功しているのをみると、なんとも言えないむかつきが胸を襲う。
ほんとは飲み会にもできるだけ行きたくない。交流もしたくない。笑顔なんて振り撒きたくない。でも仕事のためだから行く。そういう仕事のためになることをやらずに、彼らが成功しているのをみるとさらにむかつくであろうことは分かってるからだ。
彼らはやたらこっちに気をつかう。そういう態度も内心むかついてしょうがない。気を遣われることに吐きそうになる。
どうして見た目だけでこんなに嫌いになるんだろう、人を嫌いになることはストレスしか生まないのでできるだけ嫌いになりたくない、なんも思わないようになりたい、と心から思う。でもやっぱり彼らをSNSで見ると嫌な気持ちになる。
これは同業者でもなんでもないけど、youtuberでぶさいくな男が人気になってるのを見てもやっぱり嫌な気持ちになる。なんでこんなにぶさいくなのに人に人気があるわけ?って思う。
自分が見た目に対してコンプレックスだらけで、でもそれをどうにかしようといつもお金と時間をかけている。だからたぶん容姿に対して何もせず、人気や成功を獲得してる彼らが嫌いなんだろう。ダイエットしてる人がダイエットしてない人に苛立つみたいなやつかもしれない。
どうしたら彼らを嫌いにならずにストレスなく生きてけるんだろう。
この人のお話のポイント、「いつ」なのかが常に書いてないんだよな。
たとえばPS4のゲームの話なんだったら「PS4」って書いてなんら問題無いのにそこもぼんやりさせてる。
「そんなゲームねえよ」っていうのを絶妙に回避させるテクニックには長けてるとおもう。
まあバズったからおもしろかったってことにはなるんだろうけど、これおもしろかった?
いじめっ子が自分にものすごく執着しててわざわざ自分をモデルにしたゲームつくって自分に送りつけてくるってそんな自分が自分が自分がっての書いてる人は楽しいかもしれないけど、読んでる人はそんなにその人に興味ないから、「え?なんで?」としかならんわな。
一人暮らし歴もお互いに長く、それぞれに、それぞれの暮らしの習慣がある。
こういうのって、みんなどうやってひとつの家庭の習慣にならしていくんだろう。
私はけっこうおおざっぱなところがあって、彼はわりと細かいところにうるさい。
でも、私は高頻度で家事をこなしたくて、彼は週末の休みにまとめてやるタイプ。一緒に暮らしてからは、それすら危ういが。
ゴミを家においとくのがいやで、スーパーのリサイクルボックス利用したりしながら最小限のゴミにしていた私と、
ゴミをゴミ袋に放り込む以外の作業をするのはメンドウだし、ゴミの日かどうかよりもゴミ袋がいっぱいになってるかどうかで捨てる日を決める彼。
洗濯物の干し方とかにこだわりがなくてちょっと雑だけど天気にこだわらず毎日洗濯機を回したい・溜め込みたくない私と、
洗濯物は均一感覚で干したいしズレてるのもいやで生乾き臭にも敏感だけど、濡れたモノを含めて休日の週1回にまとめて洗濯をする彼。
こんな感じで、お互いにこだわったり、こだわらなかったりが全然違う。
彼から見れば、雨の日でも洗濯をする私は生乾き臭発生オンナだろうし、
私から見れば、濡れたものをそのまま洗濯カゴに入れて週末まで他のモノとちゃんぽんしている彼は生乾き臭発生オトコだ。
どちらが悪いとかいいとかじゃなくて、とにかくそれぞれの流儀がまったく違う。
みんな、これをひとつにどうやってしていくんだろうって、単純に気になったのだ。
私の実家は、母がすべての家事をこなしていて、父親は家事をしているのを見たことがない。
自分がお腹が空いたら料理だけは唯一するけれど、洗いモノはしない。洗濯も、お風呂掃除も、トイレ掃除も、雑誌や新聞の片付けも、
すべて母親(と私)がしてきた。母はそれが蓄積されて、今はもう家庭内で父親と一切話すことがない。
ある程度は時代もあるんだろうけど、きっと夫婦のコミュニケーションの取り方がよくなかったんだろうなとも思う。
もし、初動でどうにかできていたら、もっと違った夫婦関係があったんじゃないかなと思うのだ。
※まあ父親はでたらめな人なので誰と結婚してもうまくいかなかっただろうけれど
私は、彼とお互いに気持ちよく暮らせるようになりたいなと思う。
でも、サンプルが「母がすべてやって、影で父に嫌味をいい(昔は直接伝えたこともあったかもしれないが)、最後はすべて嫌になる」しかないし、自分はこれを見て育ってきたのでぼんやりしていると同様になりかねない。
私は、お互いに相手の流儀を尊重し合いながら、お互いに自分の流儀を妥協しあいがなら、私たちのやり方というのをつくっていきたい。
「これはイヤだ」「こっちの方が好き」「こうしたい」「ああしたい」となるべくお互い伝えてはいるし、
なるべく無理なく、ムリさせず、ひとつずつやっていければいいなと思っているけれど、
これがうまくいっている人たちというのは、何かコツとかあったんだろうか。
とりあえず、風呂掃除もトイレ掃除も掃除機をかけたりするのを今のところ1度も見てないので、時間はある程度かかってもいいから週1回ぐらいは自主的にやってくれるようになるといいなと思う。
増田とともにねこ一匹ひと一人の生活を送るねこは今月22歳になりました。パソコンの中に保存している写真を見直していると2003年ころの写真が出てきました。まだ全身まるみがあってふわふわしていて、明るいところではちゃんと瞳孔が細くなって瞳もぼんやり白く曇ってないみずみずしい若ねこの姿がそこにありました。今でこそ口内炎が痛くても食べていただけないかと顔色を伺いつつ、片膝をついておくちもとに捧げるように給餌している毎日ですが、当時はカリカリは一日中出しっぱなし、適当に買ったねこ缶を朝と夜に半分ずつ分けて出す……と今思えばかなりいい加減なお世話をしていました。でもねこも増田もいっしょに遊ぶのが大好きで、とくに先っぽのフェイクファーが取れてしまった残りの単なるプラスチックの棒をぐるぐる回りながらいつまでも追いかけて息を切らしてお水を飲むところまでを何セットも繰り返したり、あとはおせんべいの袋を綴じている金色のモールをくるっとひねったものを増田が投げて、ねこが取りに行って増田の手が微妙に届かないところまで持ってきて落とす。それを増田が取りに行ってまた投げる。を何セットも繰り返したりしていました。
そんな感じの日々が永く続いていたのですが、これまで登れていた場所に登れなくなったり、これまで好きだった猫ちぐらのなかに入れなくなったりと、変化に気がついたのが彼女が20歳になった頃。ちょうどリモート勤務が普通になり、毎日24時間観察可能状態になったこともあるのだと思いますが、なんとなくそれに気がついた記念として初めて増田にねこのことを書きました。そのときにいただいたブックマークコメントでとても印象に残っている言葉があります。
https://anond.hatelabo.jp/20200620124348
id:stygld “ひと一人ねこ一匹の暮らしなので、平日の日中は20年間ほぼ留守番させていたのだけど、” 良い…その20年の、ある夏の平日昼間を想像して、俺も猫になりたいと思った。
そうなのです。コロナが日常になる前つまりリモート勤務なんて存在していなかったころ、平日の日中のねこは非観測状態だったと言えます。そんななか増田は平日の昼間にねこが部屋で何をしていたのか、あまり考えようとしていなかったことに気が付きました。シュレーディンガー先生が語られていたようにねこは波動関数に沿って存在しているので、増田が職場で仕事をしていたあの日あの時何をしていたか特定しようとした途端、ねこの分布関数は無限大に発散してしまいます。つまりその瞬間、職場にいる増田と部屋で留守番するねこはある確率で重なって存在していたことになり、増田は孤独だったのではなく常にイマジナリーねことともに過ごしていたとも言えるでしょう。逆に言えば元増田さんの妄想のなかのねこもある確率で観察できない箱の中には存在しているのです。
ちょっと前にメッセージという映画がありました。増田は元の「あなたの人生の物語」が大好きなのですが、そのお話の中ではすべての時間で起こったことを俯瞰して一箇所に記述する異星人の言葉によって一人の人間の人生を表現することがテーマの一つになっています。私のイメージの中のねこは3歳であると同時に22歳であり、ブラッシングすると反対側によろよろ倒れそうになりながらもうっとり喉を鳴らすと同時に棒を追いかけてぐるぐる回っています。そして私の中では彼女が生を終えたあともおそらくそれぞれが同時に存在し続けるのではないかと思っています。こちらからは以上です。
ネットの皆さんのご意見だと「これがプロ意識」とかだそうでホへ~と思う。
本谷有希子の唯一観劇したのが2005年の「無理矢理」なんだけど、当時ポスト大人計画はこれ!
みたいな感じですごい期待されていたんだけど、
これがめちゃくちゃつまんなかった気がする。
群像劇がそのまま集約されずに終わる感じだったような気がする。
その強引なラストからタイトルが「無理矢理」となったなんて話を当時のネットでみた気がする。
そんなんだから元々プロ意識だなんて笑止!とディスりたかったけど
2005年の薄ぼんやりした記憶なのでディスるにもディスれずモヤモヤしてる。
ともかくその「無理矢理」を見て以来本谷有希子界隈には近づかないようにしている。
俺がみたその芝居以降にヒット量産しているしババひいた俺が悪いんだけど。
迫りる朝
眠れないことへの自責の念
将来への不安
生活の悩み
などなど…
ちっぽけなことが少しずつつ溜まって、
溜まったのを無視しているとある日突然、やつはやってくるんですよね。
希死念慮。
死ねばすべて解決する!という元も子もない論理を武器に、頭の中でありとあらゆるポジティブを抹殺してゆく…
残りの1割はNetflixでぼんやり眺めているアニメに食いついて、悩みがどうでも良くなったときだ。
つまり何が言いたいのかというと、なかなかの強敵だということだ。
戦うのには骨が折れる。
今日はどうしようかな…
こうやって文章を考えてる間に諦めて帰ってくれないかな…と淡い期待を寄せる。
八百万の神様。今だけは味方になってください。
理論面
・楽器は複数の音を同時に鳴らして和音を作るのが基本だと知った(これまでは一音ずつ順番に鳴らしてると思ってた。ドレミの歌的な)
・何拍子とか基本的なこと含めて楽譜読める(ただし雰囲気で弾けたりはしない)
実践面
・なってる楽器が何かなんとなくわかる
・↑とほぼ同じだけど歌の動画とか聴くと歌ってる人の息遣いに気が散るようになった(スゥッ…、ハッとか。言ってたんだねw)
これ中学ぐらいの時にたった1ヶ月学んでたら人生変わってたなー
学生時代に目瞑って音楽聴くだけの時間を毎日1時間とか作ってたぐらいなのにあまりに多くの音から耳を塞いでいたらしい…
勉強方法はDAWで初心者が作曲する方法動画、ブログをいくつか見た後、わからない単語の意味を調べて、関連する記事とか見てただけ
https://learningmusic.ableton.com/ja/index.html
https://jp.yamaha.com/services/music_pal/study/chord/index.html
内面の陶冶、成熟もそれまでの環境=家の太さとダイレクトに結びつくので今後NGになっていくと思う。顔と実家がいいやつがそうではない理由をつけてぼんやりと選抜されていく社会
その子は女の子達からは「尻軽」と蔑まれていたが、小柄で童顔でどんな男相手でも分け隔てなく対応する事から、割と男人気が高かった。
中学から顔なじみだった俺と小松は時々話す程度だった。中学の頃から小松が付き合うのは何故か俺の友達のイケメンとばかりだった。気の強いイケメンばかりだったので、小松と彼氏が二人でいるときは誰も二人に近寄らず、俺は用事があるときは二人がイチャイチャしてようが平気で話しかけていた。空気を読んだ同級生たちが寄り付かないので、逆に用事があるときはその方が話しかけやすかった。
俺は小松が誰と付き合おうが何とも思わなかったので、小松が俺の友達と別れた後も普通に接していた。高校の頃に一度だけ、小松と元カレが険悪な雰囲気になった時に一切フォローをしなかった俺が小松の女友達に責められた事があって、その時ばかりは流石に「め、めんどうくせぇ~~~」と思った。小松は俺には何も言わなかった。
小松は次第に俺の友達以外の、異性と縁がないようなインドアなアニメオタク達に囲われて付き合うようになり、小松の周りには引っ切り無しにグループが群がっていたので俺は小松と喋る頻度が減っていった。次第に男の中でも小松を悪くいう奴がぼちぼち出てくるようになったが、俺は別にそれに対してすら何とも思わず、時々小松と二人になると普通に喋っていた。
小松は段々と学校にこなくなり、俺は「まあ俺も学校好きじゃねえから気持ちはわかるわ」とだけぼんやりと思い、心配の連絡もいれず、結局小松は学校を辞めた。
通学の最終日だけ小松は登校してきた。なんか色んな男女に囲われて別れを惜しまれていたので、俺は小松に一言も声をかけずに家に帰った。その日小松からメールが届いた「本ずっと借りててごめんね」
翌朝、俺の机の中には小松に貸していた本が入っていた。
まあ、退学しても、いつかまた会うだろう、割と近所に住んでるし。そんなこんなで、もう、10年以上経った。小松と会うことは無かった。
元カレは3年ほど前に久々に小松と会ったらしく、飯だけ食べにいったそうだ。そこで小松は俺の話をしたらしい。どんな話をしたのか詳細は聞いてないが「そういえば小松が言ってたけど、増田はゲイなんだってな」と友人の口から聞いた。
最近、下の子が産まれて私と妻と子供二人の4人家族になりました。
しかし、上の子が未就学児なため、義母がフォローで我が家に滞在しくれています。
それはありがたいのですが、上の子は色々買ってくれたり連れて行ってくれる義母にべったりになり、
妻もそのことに対して良しとしているのかそのままにしているため、上の子から見たら義母>私になっています。
さらに、産まれた下の子の世話に関して私がうまくできず、義母と妻からお小言を頻繁にもらいます。
あくまで私の言い分としては、
やらなければ文句を言われ
という、やったら文句、やらなくても文句という矛盾に悩まされ、
何かしようとしても、本当に今か?やり方はあっているか?そもそもしていいのか?と堂々巡りになって
そのせいか、最近は家庭内でリラックスできるのは眠っているときか風呂かトイレ程度しかありません。
自分の主観では、もはや家庭内に居場所などなく、義母、妻、子供がソファでテレビを見ていても、
私は目が気になって椅子に座る事にすら「何か言われないか」と気にしてしまい、
下手をするとリビングの端の方でぼんやり立っているだけの時すら珍しくありません。
そんな状態ですから、スマホや漫画などの娯楽など手が出せるわけもなく、
ただぼーっと自分以外の家族が団らんしているところ見つめる毎日です。
「理不尽な上司(妻)」、「理不尽な役員(義母)」、「その取り巻き(子)」
かわいかった子供ですら、コミュニケーションの仕方を評価される要因に感じられてしまい、
勘違いだと思いたいのですが、義母が帰った後のことを私抜きで相談したり、
私との会話が必要最低限になったりと、義母と妻が私を居ない扱いにしているとさえ感じています。
先にも書いたように、あくまで私の主観であり、私に至らない点があるのだろうとは思います。
ですが、現状の義母、妻、子供達/私のような構成にはもううんざりです。
今までのような関係に戻りたいとはもう思っていません。
思い出したように文句を言うのなら、ちゃんと指示を出してほしい。
居ないように扱うなら、一貫してそのように扱ってほしいというのが望みです。
生きていなければならない理由が日々削れていく思いです。
この間はこっそり首吊りの真似事をして気を紛らわせましたが、
このままだとそう遠くない未来にうっかり実行してしまいそうです。
追記:
インベーダー世代ってガチのジジイじゃん。孫の面倒でも見てろよ。あ、遺伝子を残せないタイプの人種でしたか(笑)
ゲームの名前を全く上げてないことからも実際には全くプレイすることなく最近のゲームは・・・とか言ってるんだろうな。
100時間以上かかるなんていわゆる大作ゲームばかりだし、何十年もゲームをやっていてそういう最上部の上澄み以外に全く見識がないとか無能にもほどがあるだろ。
いや、去年のゲームオブザイヤーを考えれば上澄みですらないな。何も見てないし、何も考えておらず妄想だけで構築されたぼんやりとしたイメージを現実と思いこんでるんだな。脳が壊れてきてるから病院行ったほうが良いよ。
話題のエルデンリングなんかは100時間以上かかるけど、アクションゲームなのでストーリーがダラダラ続く昔のJRPGタイプよりずっとプレイ感は軽快。ヘヴィにみせかけて、30分だけプレイするようなライトなスタイルにもバッチリ適合している。つか増田はダクソシリーズすらやったことなさそう。
しかしはてなのゲームカテゴリですらsteamなんかの優れた小品がよく流れてくるのに、これだけ雑語りできるのは逆にすごい。尊敬するわ。
増田爺さんが子供の頃、ゲームなんてとバカにしていた大人を軽蔑していたろうに。わかったような口をきく分それよりタチが悪い真の老害になってしまうとは悲しいなぁ。
NHKでクラシック音楽(以下クラシック)の番組が放送されていたので、食事をしながらぼんやりと見ていた。私はクラシックをたまに聞くことはあるが、好みの曲はあるけどそれ以外の曲は皆同じに聞こえる、程度の浅さで楽しんでいる。つまりよくわかっていない。
NHKで放送されていたクラシックの番組は『クラシック音楽館「次世代の挑戦者たち」』で、次世代を担うであろう才能のある若手を特集していた。クラシック音痴の私は、若手が上手に演奏していてすごいのだろうなあとぼんやり見ていた。流れていた曲の良し悪しとか難易度とかはよくわからないけど、聞いていて不快ではないので食事をしたり薬を飲みながらなんとなく楽しんでいた。
ある若手ピアニストを紹介していたときだった。高校2年生のときにコンクールで挫折したが、その後大学で自分らしい表現を追求する楽しさを発見。翌年のコンクールで優勝した上で観客賞も受賞したという。
優勝したときの演奏のダイジェストが放送されたのだが、そのピアニストはノリノリで実に楽しそうに演奏していた。そのさまは終盤には顔にはっきりとした笑顔という形であらわれる。そして曲を終えた直後の満面の笑み。観衆が大喝采するなかで、礼をしながらやりきったという表情を浮かべるさま。
これはいい、とその時私は感じた。具体的に何がいいと感じたのかは、まだ言語化できないけれど。私にとって好ましく感じる何かが、今のこのシーンにありそうな気がする、と感じた。
それはもしかすると、自分らしさを追求して楽しくやり遂げることかもしれない。それはもしかすると、自分らしさを楽しく追求しながらどこかに向かっている人をサポートして一緒に喜びを分かち合いたいのかもしれない。それはもしかすると……なんだろうね。
ともかく、今回の気づきは迷宮に迷い込んでいる今の自分にとって、一筋の光になるのではないか、と思っている。まあ、脳が雰囲気に流されて勘違いをしただけかもしれないけれども。
うれしいです。
紹介してくれたものを参考にしながら、なんとなく同じような感覚の再来を探しつつ、一歩ずつ手探りで進んでみようと思う。無理のない程度で。