はてなキーワード: 2chとは
2chが騒動で流れてきてんじゃねえの?
入学式や入社式を終えて、新しい環境でスタートを切った人も多いだろう。
期待と不安に包まれる4月、ネット上では「ぼっち」という言葉がバズワードとなっている。
twitterや2chでは「早速ぼっちになってしまった」「どうすればぼっち回避できるの?」といった投稿が目に付くし、
ブログやまとめサイトでは「ぼっちには絶対なるな」「ぼっちにならないための◯つの方法」なんてエントリがブックマークやいいねを集めている。
ぼっち=コミュニティにおいて孤立することは望ましくないことであり、忌み嫌われる。
会社において、より円滑な業務遂行のためにも孤立は避けるべきだろうし、経験上私もそう思う。
それでも同時に、孤独によって得られる時間がかけがえの無いものであることも、理解している。
このエントリではとりわけ大学という場においての孤独の価値を書きたい。
私自身の大学入学後にクズとつるんだ経験と、別大学への編入後のぼっち経験の両方から、タイトル通りの主張をしたい。
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漫画やアニメ、最近では動画投稿サイトに上げられた他者の作品を一方的に大食らいし、
自分と違う人(生産的で積極的な人)を見ては馬鹿にする、茶化す人のことだ。
(クズという呼び方は的外れかも知れないが、まあ呼び方はこの際何でも良い。)
クズとつるむことの何が問題か。
コミュニティに所属する人々の思考が平均化されるのは、至極自然の作用である。
特に大学というのは高校よりも遥かに大きなコミュニティであり、他者からの影響力が大きい。
入学したてともなれば、どのように大学生活を送って良いのか分からず、友達グループの他者を見て真似ることが多いだろう。
真似る対象がクズ、もしくは最初はニュートラルだったが後にクズ化する人だった場合、あなたのクズ化も始まる。
授業が面倒なのでサボる。ダルいダルいとアピールし不要なことは極力やらない。
自分と違う人間を馬鹿にしたりツッコミを入れるのも、それが楽で楽しいからだ。
読んでいる人の中にも心当たりのある人がいるだろう。
そんな何もしない人間がかっこ良く見えるのは漫画やアニメの主人公だけだ。
本人はかっこ良いつもりかも知れないが、周りから見たらクズはクズなのだ。
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こういったクズな人達とつるむくらいなら、自ら進んでぼっちになろう。
理想的には、生産的で積極的な人達とつるむのが良いのだけれど、大抵どの大学でもそんな人間は中々いるものではない。
ぼっちは悪いことではない。
孤立を怖がるのは生物としての心理的防衛本能が働くからで、そもそも良い悪いの尺度で図れるものではない。
ぼっちになるとどんなチャンスが得られるか。
孤独になることで、思考と試行をするための膨大な時間を確保できる。
他者に邪魔されない時間が手に入るのだ。これを大いに活用しよう。
読書をして知識と思考を深めるのも良いだろう。
適度にアルバイトをしつつ外国語を勉強して、海外を旅してみるのも良いだろう。
簡単ではないが、専門科目で苦戦するクラスメイトを尻目に、教授が驚くほどの専門知識を身につけてしまっても良い。
大学内でぼっちでいても、大学外で同じ趣味の人や気の合う人を見つけたって良いのだ。
独自の視点で作品を作って、動画投稿サイトに上げてみるのも良いだろう。
インターネットを通じて世代を超えた交流が生まれることもある。
クズは挙って馬鹿にするだろうが、生産的で積極的なあなたの行動をあなたは誇って良いのだ。
クズはクズのままである一方で、あなたが得た経験、知識、スキルはやがてあなたの自信となるだろう。
以前こんなエントリを書いた。
悪い面を過度に強調した釣り記事で酷い自分語りではあるが、これも私に孤独な時間があったからこそ体験できたことの一例である。
「ニコニコ動画で有名になっても良い事がなかった話」
http://anond.hatelabo.jp/20130124181650
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こんな反論があるだろう。
「友達付き合いもしながらも、1人の時には努力すれば良いじゃん。」
しかし、私を含めた多くの人は、多大な影響を他者から受けてクズ化してしまう。
周りの人達が口を揃えて明日の1時限目はサボると言えば、自分もまぁ良いかと思ってサボってしまうのだ。
周りの人達のTOEICスコアが450点だったなんて聞いてしまえば、自分は500点だったからまぁ良いかと思ってそれ以上の努力はしないのだ。
大学生なんてそんなものだ。私は大学編入を機にこの状態から抜けだしたが。
別の反論としては、
他人と違うことをやってきたこと自体は就活でアピールできるだろうが、
入社後、他人と考え方が違うことで摩擦を生む可能性は十分にある。
これはぼっちとしてやってきたことによる代償とも言える。
他人とうまくやる能力に関しては、クズ同士つるんで画一化された人と比べて劣っていると認めた上で、
多少の歩み寄りが必要かも知れない。
これも悪い面を強調してあるが、私自身入社後に苦労した体験から書いた記事である。
http://anond.hatelabo.jp/20130324133313
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大学時代をぼっちとして過ごす人は独自の経験と思考と価値観を武器にできる可能性がある。
昔、こち亀か何かであった「塀の上にある空き缶」の話が印象に残っている。
ある家の塀にはいつも空き缶がいくつも置かれて(捨てられて)いた。なぜそこに捨てるかというと、トラックの運転手が信号待ちしている時に、丁度良い高さの塀だからそこに放置するという理由だった。しかし、他にも理由があった。それは「他の人も捨てているから」だった。
空き缶が1つ置いてあるだけで、2つ3つと増えていく。1つも置かれていない状況だと、罪悪感があってなかなかそこに捨てられなくても、既に捨てられている(他人が罪を犯した)状態だと、自分もそれに便乗しやすい。自分の罪悪感も薄れるといったわけだ。
この話を思い出したのは、某掲示板(2chではない)で俺の投稿に批判レスが複数付いていたからだ。俺はあくまで質問者に対して自分の意見を投稿しただけだが、質問者から否定されるならともかく、外野から批判された。しかも、一言レス「だからなんだよ」だ。そいつのレスを皮切りに、俺の投稿には俺の考え方を否定するのではなく、単なる一言罵倒レスが続いた。
これも空き缶現象と同じではないだろうか。1人が批判コメをすることで、それに釣られて便乗してしまうという。はてブでもよく見かけるが、なんとも嘆かわしい心理だ。
なんと2ch.netに書かれた書込みを全部2ch.scに自動で転載するという謎行為を実行中。
書込み内容だけではなくIDや時刻まで一緒にしているので、運営側がやっていることは間違いない
http://tomcat.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1397241132/597
587 :風吹けば名無し@転載禁止:2014/04/12(土) 05:18:10.27 ID:m9zeF6wt
状況がよく分からんのやけど今俺がスレ立てたら自動で向こうにも立つの?
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1397241132/599
599 :風吹けば名無し@\(^o^)/:2014/04/12(土) 05:18:10.27 ID:m9zeF6wt.net
状況がよく分からんのやけど今俺がスレ立てたら自動で向こうにも立つの?
2ch.netの所有権はひろゆきにあるので、2ch.netへの書込みを2ch.scに全転載したとしても問題無いという理屈らしい。
次に見るべきメディアはなんだろう?
昔のはてブコメントは、なるほどと思うものがちらほらあったのに。
金曜日に送って来てくれたらいいのに。
お気に入りのブロガーをRSSで追っていくのがいいのかと思うけど、
有料コンテンツか、そうでなくてもクローズドな空間へ移行する人がどんどん増えている気がする。
取得する情報は選別しなければならない。
愚痴の多かったり、騙そうとする人を避けるように。
ガンガン便乗値上げされてて、2chの試算では実質16%の負担増。まあこれは2chソースだから実際そこまでひどくないにしても消費税以外に色々上がってるし、正直辛いと思うんだけど。
日本では物事をメリットとデメリットの両面から考えることを子供の頃から教わらず、教科書などには公正さを期するため物事の良い点悪い点の両方が書かれていることがあるとはいえ、そうした両面的な考え方が身についている子供が多いとは言いがたい。受験勉強にしたって勉強内容の公正さに対して疑問を持つことなく丸暗記に近い勉強ばかりしている有様である。
これが社会に出ると丸覚えは機械的作業を行うだけの底辺労働者にしか通用せず、高い結果を出すには学習内容の公正さを疑う視点が求められてくる。ここに至ってメリットだけでなくデメリットも考えねばならないことをようやく教わるのである。曰く、おいしい話には裏がある。「これはいける!」という新しい策を導入する時にはちゃんと悪影響の可能性も考えましょう。物事の悪い部分ばかり見て手を拱いていてはいけませんぞ、などなど。
一方、欧米では子供の頃から学校でディベートやライティングをしっかり教わり公正な思考力を鍛えられるし、家庭でも社会の暗部を見せられさまざまな視点からライフプランを考えるように促されることが多いというのは、アメリカかぶれの評論家が口を揃える有名な話である。ディベートでは政策(やそれに類するもの)に対して賛成と否定の両派に分かれて激論が酌み交わされる、いや取り交わされる。本心は賛成派でも否定派のチームに入れられることやその逆のパターンも多い。こうして賛成にも否定にも回れるような柔軟で両面的な思考法が身につく。さらに1980年あたりから欧米では多民族国家であることや同性愛問題の表面化などを背景にdiversity(多様性)を尊重する思潮が強まり、民族や性や思想の多様性を学校でも明確に教わるようになった。最近Mozilla CEOが性差別的法案を支援して問題になった件で「Mozilla Statement on Diversity」という声明を出したのは記憶に新しい。このように物事の両面性・多面性を重視する風潮・思考法になっている。
ttps://blog.mozilla.org/press/2014/03/mozilla-statement-on-diversity/
日本人の多くは社会に出ると「国際社会だし欧米のように多面的思考をしないといけない」と耳が痛いほど聞かされ、その一環としてメリットデメリットを考えることが大切なんだなと学び成長していくわけである。そしてメリットデメリットさえ考えてれば多面的思考法が出来ていると勘違いしてあぐらをかいている人も多い。
1つには可変性である。例えば、自社の管理システムに新製品を導入する時には導入するメリットとデメリットを考えてメリットが大きいと判断されれば導入するという単純な思考プロセスで問題ない場合もあるが、新しい人材を取り込む時には必ず成長性を考える必要がある。ある分野が得意だからってさらに伸びるとは限らないし、ある分野が苦手だからって苦手克服できないとも限らない。人材ならまだ分かりやすいが、管理システムの場合はどうか?システムが時代とともに適応していけるような柔軟性を備えているか、また経験にしたがってブラッシュアップしていけるような成長性を備えているか。そうした可変性も加味しなければならない場合が多い。
子育てや学校教育においても、長所を伸ばすという聞こえのいい古い考え方が未だに蔓延しているが本当にもっと伸びるのかと言いたくなる。得意分野だと成功体験を積みやすい?いやいやそれは他人と比べるからで、比べなければ得意で伸びにくいものより苦手でも伸びやすいもののほうが伸びしろがあるため成功体験を積みやすいのは明らかだろう。大切なのは成長の楽しさが得られるかどうかであって、得意なものをやるよう押し付けることではない。そのためには得意でもどれが伸びてどれが伸びないのか、苦手でも伸びるものがあるのではないか、伸びるとしてどれくらい伸びるのか、といった一段階緻密な検討を経て合理的に判断をしないといけない。なんでもかんでも得意分野を持て囃すような風潮はもう終わりにしよう。
これまで見てきたように良い所と悪い所だけ見て両面的に考えてるぞとドヤ顔する風潮は打ち破られるべき悪しき因習と言える。逆に言えばこれからの熾烈を極める国際社会競争においてきちんと可変性を加味した多面思考ができる人間だけが生き残るとも言える。
メリットデメリット分析の2つ目の落とし穴はもっと根本的なもので、定性分析である点である。分析と名前がついているから数理的な分析だと勘違いしやすいがそうではない。多くの場合、メリットデメリット分析は定性的な分析、つまり物事の良し悪しに関わる性質を列挙しているに過ぎない。だからメリットとデメリットを量的に比較するのは難しく、比較できたとしてもそれはこじつけになりがちで、結局「メリットのほうが多い」「デメリットのほうが多い」といういい加減な形で分析結果を利用されてしまいやすい。たまたまメリットのほうが多く思いついただけかもしれないし、数え方の問題で多いだけかもしれないし、数が多いだけで重要度の低い項目だらけかもしれないのに。
実はこれは、賛成派(メリット)と否定派(デメリット)が戦う競技ディベートにおいてもしばしば問題となる点である。ディベートの勝敗はディベート経験のある審判が理屈をつけて決めているに過ぎない。論拠の数が多いから説得力があったとか、質問されて答えに窮したから説得力がなかったとか、おおよそ論理とは無関係な価値判断で決まることが多いのだ。
ディベートだけでなく2chの信者VSアンチの論争にも言えることである。それが偏った事実の寄せ集めであるかどうかにはお構いなくとにかく論拠の数を沢山用意しておき、次々と論拠を提示しては主張を繰り返して圧倒し、反論・質問された時にも用意した論拠で即レスするようにすれば、たいていスレの風潮を支配できるという、あの荒らしまがいのやり口を思い出してほしい。この手の荒らしが手強いのは殆どの場合において定量的に擁護または叩きを行うためのデータが存在しないか少ないからだ。そんな時は膨大な定性データを粘着的な調査力で収集して印象操作で圧倒するのが比較的容易である。
facebookとlineはやっていないがtwitterはやっている。
職場関係の人間と関係性は恐らく普通であるがプライベートでの付き合いはほぼないし、
リアルにおいて自分の趣味が漫画アニメゲーム歴史と同人創作及びフィギュア収集だなんて言えるわけが無い。
(ジャブをかまして同類を見つけソイツと友達になるなんて芸当が出来る術を身につけていたらリア充になれたろうに!)
つまり自分にとってのリアルで趣味に没頭できるのは自室のみのオンリーワンということになる。
でもやっぱり趣味について話をしたい!・・・うん、結局それに尽きる。
かといってお互いの人格を把握した上で語るとなるとどうしても相手を意識して言論を控える。
となるとfacebookとlineはほぼリアルでの人間関係になってしまうから自分みたいな人間には端から論外のツールで
ある程度匿名性が保たれるとはいえ、twitterも会話は@を飛ばす一対一になりがちで
所謂学級会のように不特定多数が一箇所に集まってガヤガヤ一つのテーマを語り、色んな相手と無節操に会話できるのは
まとめ民はまとめとそのコメント欄で自分の意見を肯定されたと満足を得るのだろうけども
まとめでは熱気をはらんだまま語れないし。
專スレだとノイズもさほどないし、気になるなら專ブラや2chmateであぼんすればすっきりする。
そんな訳で自分にとって唯一自分の立場を気にせずに多数と語れる場は2chしかないので2chを使ってる。
(話はそれるが)
自分はネラーだが世間でザ・2ch!の代名詞に掲げられるようなケンモだのvipだのニュー即だの使ったことがない。
あそこはネラーでも自己顕示欲が強い人間ばかりにしか見えないし、あんなところより専門板專スレの方が情報集約されてる。
無断転載問題といわれても他のサイトソースをそのまんま持ってくるってのは上で上げたザ・2ch!代名詞の話であって
自分の常駐場所だとうpった写真が転載されて・・・ってのが酷かった。
スレまとめwikiがあるだけに、それがアフィに使われる事への不満たるや。
jimとひろゆきの騒動はひろゆきの訴訟回避故に会社を売って~から起因しての金銭トラブルっぽいけど
旧運営のようにアフィブログ経由して利潤をホウボウに提供する土台になる「転載元ソース2ch」ってのはいやだな。
2ch運営のまとめブログなりwikiで2chスレをまとめて2ch内で帰結し
そのポエムって「そこそこ良い(人によってはすごく良い)」程度のもんで、インパクトや突き抜け具合がちょっと足りなかったんだろうな。
ネットでとある有名な詩人が優れたポエムを書いていた。それを某2chで紹介した人がいたんだよね。
自称プロポエマーの俺から見てもそのポエムは凄いもので、「はああああああ、こんな凄い詩があったのか!」と感激した。この感動をみんなと分かちあいたい。さあお前ら絶賛したまえ。そんな気持ちになった。
ところがどっこい、これがもう酷評の嵐だったわけよ(笑) 代表的な感想が「痛い」「アイタタタタ」。
どないなっとるねんこの世の中ァ!もうこれはポエムとしての出来どうこうじゃなくて、ポエムというもの自体に「痛い」「厨二的」といったレッテルが貼られてる。
そういう時代なのだな、特にネットはそういう身も蓋もない文化なのだな、と衝撃を受けたと同時に納得した。納得したらポエミーな笑顔がこぼれた。
で、ここで考察を終えては建設性がない。なぜ痛いのか?そこを考えてみたい。ポエマーなそこのお前は必見だ。
私見では「痛い」の思想は、日本古来の恥の文化なんだよね-。正確にいうと恥の文化から派生したのが「痛い」の文化。
つまりどういうことかってーと、ポエムがここにあったとするわな。それを自分が書いたと想定するわけだ。そして「うわ!これはハズい!」と思う。これが「ポエムが痛い」って感覚。
日本語を学んでいる外国人よ。これが日本の「痛い」の文化だ。分かったかね?
この感覚の強烈さは日本特有だと思うよ。海外でもあるけど、外国人は日本人みたいに自虐的な人少ないから。だから自分が書いたと想定しても、「うわはずっ!」にはならず、「痛い」が分かりにくい。
もちろん外国人といっても様々だ。中には自虐的な国とか自虐的な個人もいるだろう。そういう人は日本の「痛い」の文化に造詣が深いと言える。
いや、言えないけど。素質はある。少なくともぷにぷにぽえみぃがカブトボーグなど比べものにならぬ位の黒歴史アニメだということは痛いほど理解できるだろう。
さて。ここまででだいたい、厨二とかポエムとかが日本でことさら「アイタタタ」扱いされる理由(わけ)が分かったろう。そうだろう。
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続いては自虐という心理について解剖してみよう。現代人は自虐という病理に突き動かされて日々過ごしていると言っても過言ではぬわーい。じつに根深いものなのだ、自虐というものは。
だもんで、当然現代人特有の「痛い」とも密接に繋がってくる話だ。
手始めに「自虐風自慢」という学術用語があるな。これは自虐という体(てい)で堂々と自慢しようという魂胆よ。と思いきや、そうじゃない場合もあって、ほんとに自虐していることもある。
例えばイケメンがその容姿と少しでも関連する(と解釈できる)自虐をしようものなら、立ちどころに自慢と捉えられてしまう。かやうなる現象も「自虐風自慢」だ。
で、問題となるのは前者だ。なぜ自慢するのに自虐のフリしないといけないのか。自虐の構え(ポーズ)してるだけで実質自虐してないのはミエミエなのに、
なぜ人々は自虐の構えが免罪符(エクスキューズ)として通用すると思ってしまうのか?これらの問いに答えるにはたった1つのことが分かっていればいい。
オタクと対照的な扱いをされる文化圏のことを指してると思ってた
テラスハウスを視聴するモチベーションがあるような、恋愛に意欲のあるタイプの人たち
先日テラスハウスを毎週楽しみにしてる知人と少し話した
しかし口から出る言葉は「恋人と倦怠期でうまくいってない。空いた時間でネットばかり見てる。リア充になりたい」
知人の言うリア充とはどんな状態だろうか
それともさらに男女混合で週末遊びに行って思わせぶりな異性とおいしい展開になるトレンディドラマのようなイベントが欲しいのか
はてなや2chで充実しようがヲタイベントで充実しようが本人は実在してるんだからリアルだろ
「生活に充実感がある」状態がリア充なんだったら艦これのイベント攻略編成考えてるときなんか最高に楽しくて充実してるわ
恋愛や仕事だけがリアルだというなら、生まれてこのかたリアルが充実したことなんてない
こういうのはリア充に入るのか入らないのか分からないが、「リア充になりたい」「爆発しろ」とか言ってる奴よりは精神安定できてるんじゃないかと思う