はてなキーワード: 改善とは
トップの OpenAI 以外はみんな OSS にして OpenAI に対抗しようとしてるぞ。
OpenAI の GPT を凌ぐ大規模言語モデルが出てくるとしたら、それは OSS だろう。
いまもっともその位置に近いのは Meta の Llama2 だ。
OSS だからみんなが寄ってたかって高品質なものを作り上げるだろう。
Stable diffusion が OSS でリリースされたら一気にどんどん改善されて画像生成 AI で重要なポジションをゲットしたのと同じ流れだ。
全盲者でもシステムの改善次第で格闘ゲームをプレイし、健常者に勝つこともできるようになったというのは一つの福音だと思う。
これを他の部位の障害でも実現できるよう、叡智を結集していければと思う。
知的障害の場合、視覚障害の全盲に相当するのは重度ということになるだろうが、素晴らしい勉強法、あるいは学習技術が開発されることが望ましい。
「デマをその場ですぐに確実に訂正したい」をすぐにではないにせよ、一番目立つ場所にぶら下げることができるから『マイルド』って表現したんだけどね。
普通にツイートとかブログに書くよりどっちが効果的かは異論はないでしょ?
ちなみに、どこら辺が過激なの?
女性がキャリアか出産かの2択に追い込まれる現状……って、本気で言ってんの?
今の女性はキャリアか出産かの2択を迫られる事なんてまずありません。
あるのはキャリアと出産の両取りが出来る恵まれた女性と、そのどちらも得られない底辺女性のどちらかだけだよ。
女性の中でワーママの雇用環境「だけ」は劇的に改善され、育児休暇や時短勤務が整備されて保育園の待機児童も殆ど聞かれなくなったというのに、
何故未だにこんな認識の人がいるんだろうか…
公務員や大企業正社員の女性には結婚も出産も容易く、中小や非正規底辺女性はそうではない、それだけの話。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4740296606578719503/comment/btoy
どこの会社が開発してるのかとか、何社くらいあるのかとか、あまり真面目に考えたことないけど
このシステムが出始めた頃は全然UIの出来がよくない店もあって
ひどいな、これは流行らんだろうなと思ってたんだけど
色々な店舗で見かけるようになってきてて
そもそもメニューが店によってバラバラだし、柔軟なオーダーに対応できないから
本来は全国チェーンの大手店舗が導入するのが望ましいのだろうけど
そういうところは資金力があるからバイトも雇えるし各席にタブレットも置けるし
QRのシステムは資金力がないところを営業ターゲットにしてるだろうから
メニュー数が少ないところはこんな面倒なことしなくて食券制の方が早いし
スマホの画面でメニューの文字の羅列を見せられるだけで、ちまちま見てると注文意欲をなくすし
案外、紙のメニューのフォント感とか、文字と文字の間や行間の広さとか、一見して把握できるところとか、
そういうメリットがあったんだなとか
タブレットを用意しているところも、従来のメニュー表をそのまま画面にしたみたいなのが多いのも
そういうなんかがあるんだろうなとか
埼玉県内のセブンイレブンでおにぎりにゴキブリ混入というニュースを聞いた瞬間「わらべや日洋大宮工場」だと確信したが案の定。
今見たらgoogle mapsから丸ごと消えてる(吉野原ってとこにあったはず)。俺の口コミもあったのに。
とうとうゴキブリさんが天誅を下した。誰がどうしようとも改善できなかったあの最悪の現場に、ゴキブリさんが引導を渡したのだ!!!!
底辺労働してる時行ったことあったけどここは本当に凄かった。社員同士連絡もできてない、毎日同じような作業してるはずなのに、毎日段取りができてない、それでキレてクソ毎日怒鳴ってる若手がいた。上役?っぽい連中は事務所で澄ました顔してて、助けてやればいいのに何もせず。
社員全員異常に非協力的ですごかった。感じ悪いの最上級。話しかけたら100%損する。だから話さなくなるし最低限の連絡ができなくなる。
俺が行ってた時もおにぎりを711の指示通り作ってなくて、勝手に工程端折ってるのがバレて711から査察が入ってる時だった。
普段意識して練習してないやつが急に振られたハモリのゲームでグダるのと、クラスでおそらくは月単位で取り組んできてるはずなのに明らか本人にやる気がなく練習する意思もないからいつまで経っても改善しないのとは根本的に違うだろ
有能なやつは早い段階から無能な上司からあれこれ仕事を割り振られ、相応にこなしていくことで早く昇進する。
そうすると無能な上司は「昇進したのだから…」とさらに仕事を割り振り、自身の無能っぷりを加速させていく。
「有能なやつのところに仕事は集まる」とドヤ顔で語る様の滑稽さは筆舌に尽くしがたい。
有能に仕事が集まるのではなく、無能が何もできないまま有能に丸投げしているだけの話にすぎない。
こうして有能な若手はキャパオーバーになり、どこかで限界を超えると次々と辞めていく。
残された無能な上司は何もできず、また次の丸投げ先を探すことに終始する。
※丸投げ以外の解決策を思いつけない、実行できない。
よいターゲットが見つかれば、また同じことの繰り返し。
最も考えやすいのは「何かを入れたら、どれだけ出てくるか」というinput-outputモデルで考えることができる。
おそらく一部の人はinput=労働人口, output=生み出した収益、として計算したいと言うだろう。要するに「人間よ、生産的に働け」と言いたいようだ。
しかしもっとシンプルなモデルとしては、inputとoutputの次元を一致させるために、input=投入金額(¥), output=生み出した利益(¥)として計算できる。
productivity = output ÷ input = ¥/¥ = 無次元量
無次元量であるので、割合と同じ意味合いを持つ。投入金に対して、生み出した利益はどのぐらいを占めるのか、である。
このように、inputを労働人口よりも¥に換算することで、例えば金融を正当化することはできるかもしれない。
inputを労働人口で考えた場合「より少ない人数で利益を沢山生み出すのが良い」ということになり、人件費が考慮されていないことになる。しかも労働以外の技術要素などが考慮されていない。
確かに国民の幸福という観点でみれば、inputは分配されなければならない。
input = 労働者にかかるコストA + それ以外のコストB = ¥
もしinput一定とすると、AとBという生物が資源を奪い合って争っているような形になる。
outputが向上しないなら「人工知能を使えば生産性が上がる」ということはない。むしろそれは、最大限Aを投資しても、まだinputに投資できるときに人工知能などのBに投資するという話が出てくる。
国民が働けるように環境を作るのであれば、AとBの争いが生じた場合に、Aを優先できるような仕組みが要るのではないか、とおじさんは思いました。
追記1: あるいは投資Bによって生産性が極めて上がったけど、失業者が出たと言うなら、パレート改善という観点から見て失業者に手当を出すべきでは。
追記2: ここに資本主義の妙があると思う。金が金を生むということを言っている。本当に何かを生産するスキルのある人 (例.コーヒー豆農家) は奴隷のようになり、金を動かしている人が得をするような状況になっている。
発達障害者は意図せず健常者の地雷を踏み抜き、しかもそれを容易に改善できないからこそ「障害」とみなされているのであって、発達障害者の言動で誰も困らないならそれは障害ではない。
健常者が意図せず発達障害者の地雷を踏み抜き、しかもそれを容易に改善できないというなら、その健常者も障害者とみなされるべきだな。
月ノみんとは不正をしたの?故意だったの?嘘をついてたの?という「大元の議論」に、「評価システムに不備があることを批判すべきで月ノみんとを批判すべきでない」と口を出すのは完全に論点ずらしで、「システムに不備があったとしても月ノみんとは免罪されないだろ」「システムの改善議論はまたこんど別にやりましょうね〜」というだけで反論は終わりじゃん。
違和感の正体に気づいたわ。
社会がコンプラを意識するほど、なぜこんなにも仕事が大変になるのか。
残業を減らせと言われた結果が、なぜ休日出勤サビ残という最悪の形になるのか。
その答えが今さっき閃いた。
結局今の日本社会の「コンプラ」って経営者が法的に有利になるためにしか用いられてないんだ。
下っ端が必死に業務改善して減らしたコストが、会社の利益にもワーク・ライフ・バランスにも還元されず、経営者の保身のためでしかない「コンプラ」に吸い上げられ続けてるんだ。
必死に仕事を早く回せるようにするたびに「じゃあバックデート処理を今度から禁止にするよ」「今度からは事前発注は全面禁止だよ」「事前の資料作成は事前発注とみなされるから禁止だけど、他社が勝手に事業の持ち込み提案したときの資料ならセーフだよ。でもウチがいらないものを持ち込まれても困るからその辺はうまく話し合ってね」みたいなことが繰り返され、何故か仕事はドンドン忙しくなっていく。
この矛盾の答えに辿り着いたんだ。
「従業員が減らしたコストは、経営者が保身のためのコンプラ改善にどんどん付け替えるから、頑張るほど仕事は増えてそのくせ給料は変わらずに休みだけが減り続ける」
これが答なんだ。
苦しみなんだ。
これを社会に強要する政府もまた日本という国の経営者サイドなんだ。
俺達のことなんて本当はどうでもいいんだ。
もう嫌だ。
働きたくない。
こんな徒労のために頑張れない
私はアメリカ在住のハーフなのだが、この前書いた日記を書いた時に「日本人的な感覚がある自覚があるなら日本に行きゃあ良いじゃないか」と指摘されたり、ついでに「弱者男性だな」とか言われたりしたので、自分なりに何故そんな奴が日本に行かないのか書いてみる。
ただ、結構色々な気持ちが混ざり合った故の結論なので、かなり自分語りをさせてもらう。
まず、私は大学に入るまで家庭的に日本に行ける様な環境ではなくて、それが変わった大学入学当時はアメリカ社会に馴染めず結構病んでて自分は英語のコミュ力がないと勝手に思い込んでいた。
今思うと、周りに日本人がいない状態でアメリカのテレビやゲームに全く興味を示さずにただひたすら日本のメディアを堪能していたわけだから、他人と趣味が全く被らずこうなるのは必然だった気もするが、当時は日本ツイッターのオタク文化に感化されて自分の好きなものに正直に向き合うのが正義というメンタリティーだったのである。
このオタクの方向性が深夜アニメとかだったらまだWeeb(日本かぶれ)と話が合うのに、私の場合は藤子不二雄とか主に任天堂系のレトロゲームという日本でも同世代じゃ結構珍しい趣味をしていたので、この方向に突き進めば突き進むほどアメリカ人と何の話をすればいいか分からなくなっていった。
別に趣味が合わなくても話術で話を合わせる事は全然可能なのに、当時の自分はそれがわかっておらず、勝手に遠慮して勝手に世間から孤立していた。
高校時代の私の陰キャっぷりの凄い簡単な例をあげると、ある時ウメ星デンカの文庫版(おすすめです)を授業の自由時間に読んでいたら、向かいの女子に
「それなんの漫画なの?」と聞かれ、私はこんな英訳もされてないクソマイナーな漫画をどう紹介すればいいんだとテンパり、あと読むの邪魔すんなって感じで
ちょっと不機嫌気味に「50年前の漫画だ」と言ってそこで会話が終わった(笑)。我ながらこんな奴と絡んでしまった彼女が気の毒である。
今なら「これは凄い昔の漫画なんだけど、今読んでも結構面白いんだ。君も漫画とか読むの?」という感じで、上手くはなくても最低限のコミュ力と礼儀は取れるが(まず前提として公の場でウメ星デンカなんて読まないが)、この当時の私は本当に自分から周りを突き放すダメダメな奴だったのである。
そんな感じで生活していると当たり前だが友達もあまりできず、自分は既存の日系人の友人数人としか自然に話せないコミュ障なのだと思っていた。
そして、その少ない友人等を失うのが怖くてどこか遠い場所に行く留学に対する勇気も夢も抱けず、実家から車で20分程の距離にある州大へ入学した。
こんな感じの入学経緯だったので、学業自体は真面目にはやっていたが、コロナ禍もあり大学デビューのチャンスもなく、ただ無気力に生活していた。
が、去年の春にコロナ禍授業が終わり、冬に日系人サークルが自分の大学にできて私の大学生活は大きく変わった。
このサークルの人とあっという間に仲良くなれた事で自分は日本語ならマジで誰とでも喋れるって事がわかり、そこから皆と頻繁に飲みに行ったり、春休みに男女グループで旅行したりと普通の大学生に少し近づけた。
後に、出会った時はそういう目で見てなかった女子に気づいたら初恋を抱いたりしていて、最終的には(告白したら本人如く半年後に日本に引っ越すという理由で)振られたけども一緒にデートも何回か行ったりした事で無気力が結構改善されて、人生もっと頑張ってみようとか思えた。
大した事ないかも知れないが、この学期の前学期に「おお、俺女子と普通に喋れてるよ」と思ってたレベルのヤバイ奴だったので、そう考えるとこれでも大躍進なのである。
それ以外にもちょくちょく日本に行っては普通にリアルな日本人とかと知り合って楽しんだりしているので、今の自分なら日本に留学したり一人暮らしする勇気は全然あるしその方が楽しい気もすると思うんだけど、決定的に今の自分に日本はまだ早いと思える出来事があった。
それは、この前彼女を含んだ大きなグループで英語を話すことになって、その時に全く参加できないのはカッコ悪いなって理由で自然と話す勇気が出て、その時に自分は英語ができないという思い込みの呪縛から抜けられたのだ。
そして、その時に私はこのまま日本に行ったらそれは英語ができないダメな奴のままな自分から逃げる事になると解釈し、ここで終わっては勿体無いと思えたのだ。
こういう理由から今の私は日本には行かずに、呪縛も解けたしで、アメリカでもう少し頑張ってみようって感じなのである。オール英語のバイトでも周りとカジュアル面である程度馴染めているし、大学は今夏休みなので何もないが、過去の自分にはできなかった、「大学が楽しみ」という感情まである。
それに、留学するなら日本という慣れている所ではなく、中国とか韓国とかに行って語学留学した方が辛かろうがよっぽどタメになりそうだ。
最近の趣味は語学勉強と読書で、過去の趣味はまだ普通に好きだが実質卒業したと言っていいくらい触れてない。
そして、これはあくまでも個人なりの解釈だが、私はもうオタクではない。
本当のオタクは趣味の分野が取り上げられたり禁止になったら死ぬ程抵抗するという認識だが、私は必要ならば趣味を切り捨てられる。
娯楽は自分のアイデンティティ自体では無いし、それよりも私の心を動かすものがある事を知れたからだ。
最後に、世間一般から見れば私は所謂弱者男性に該当するのだろうが、私としてはだったら強くなれば良いという考え方だし(そもそも今の私は強者とはいかずとも自分を弱者だとは思っていない)、無気力ながらこれまで真面目にやってきたおかげで積み上げる為の土台はしっかりしている。それに、世間からそう思われているからという考えを言い訳にして行動を躊躇していたら何もできない。
ネット上での批判が増えていることに気づきましたか?あるテーマが取り上げられ、一斉に批判が始まる。でも、ここで問いかけてみたい。その批判の本質は何なのでしょう?
本来、批判は誤りを指摘し、改善を促す手段となるべきです。しかし、感情に任せ、他者を攻撃し、自分の立場を高めるために批判が用いられることがあります。
このような状況は、人々に絶望感をもたらすかもしれません。なぜなら、言葉遣いや批判の表現はその人の価値観を映し出すからです。だからこそ、我々は真剣に議論が行われているのか、自問自答するべきです。
確かに、絶望感は否応なく湧き上がるものです。しかし、その絶望感から一歩踏み出し、社会的な問題について真剣に考えることが求められます。それこそが、我々一人一人、そして社会全体の理解と進歩につながるのです。
批判の行為を通して、我々は何を学び、どのように考えるべきなのでしょうか。それは一つの問いとして、あなたに投げかけてみたい。ぜひ、意見を聞かせてほしいです。
何が求められているのか、求職者は面接でどういう返答をしていけばいいのか俺は何もわかっていない。
過去の業務の成功体験?なんだそれは。こちとら誰でもできる仕事を、それっぽくやっているだけで
なにも成功しているわけじゃない。業務の改善とかそういったものが、非正規の末端職員から出てくると思うな。
自分の強み・弱み?なんだそれは。弱みしか見えてねえからこんな仕事や就活に苦労しているんだろ。
職場内のコミュニケーションも最低限しかできない、そんなんだから偶にかかってくる電話応対もゴミ以下。
誰かに媚びへつらわないと心の安寧が保てないから、後輩のミスも指摘せずに自分が黙って修正をし続ける始末。
強みや弱みがわかるほど客観視できてたら若いうちにどこでもいいから入っているわ。馬鹿か。
最後は、ハロワの面接練習で「エピソードが具体的じゃない」「成功体験とかないとかお前は自己認識が高すぎる」とかそういう風に詰められて
その場ですぐに返答できないで、こうやって増田に陰口を書いている卑怯な精神性。
そしてこういう増田を書くことで同情を集めようとする腐った根性。
それがそっくりそのまま面接本番で出て、落ち続ける滑稽な人間性。
ある程度いい感じに喋れたと思ったら、案の定落ちてやんの。自己認識も悪すぎて笑えないわ。
これが一番気に食わねえ。俺、死んでくれ。