はてなキーワード: 性愛とは
今まで、自分の性根は真にクズであり、どうせ叶いはしないのだろうが、1つの理想として他人に寄生して生きていきたいのだと考えていた。
しかし、最近ほとんどの人間にとってめったに経験しないであろう出来事によってそれは否定された。
おそらくは、自分は完璧にはクズでないということが分かったというのは、喜ぶべきことであるように思うのだが、実際に起こってみると、そうではなかった。
なんだか自分のアイデンティティが否定されたような、夢が打ち砕かれたような気がした。
それだけではない、あの申し出を喜べなかったということだけが今までの自分を否定しているのではない。
あの申し出を事実上断ったということは、自分で、自分の認識している性愛の対象すら否定したということではないのか。
自分は同性愛者なのだろうか無性愛者なのだろうかと思案してみたが、少なくとも性欲があることは確かであって、本当に、何が起こったのか何をしたのか自分の行動が何を意味しているのかが理解できなかった。
いつも理性的に、少なくとも後付けであっても行動の理由を探すようにしているのであるが、今回に限っては、自分にも、"なんとなく帰り道を変えて散歩してみる"のと同じような、その程度の行動にしか見えなかった。
しかしおそらく帰り道を変えて散歩してみたくなるのにも、何かその日の日中にあった出来事によって気持ちに自分でも気づかない程度の微小な変化が起きているとか、あるいはテレビで散歩は健康に良いというのを見て決して影響されやすいわけではないがたまにはいいかと思ったとか、そういう何かしらの背景があるのであって、もっと言えば、あの申し出は別に、10秒以内にハンドルを切るか決断しなければ1人か5人が死んでしまう、といった合理的な選択が不可能になるような要因はなかったと思うのだ。
だから、自分がなんとなく嫌な気持ちになっていると感じたというだけで突発的に拒絶してしまったことは、自分というモノを自分からいきなり、完全に、遠ざけた。
何をしても楽しくないという気持ちが以前よりも高まったし、生きている価値はあるのかという所にまで至っている。
持論としてそのような思案には何の意味もなくて愚かだと今でも思っているのに、愚かであることをやめられない。
自分は、今までずっと、社会貢献や人類の利益のためになどという大きな大義のようなものによって生かされていると感じたことはないし、それは面接で答えるべき暗記単語であって、実際には、周りの人間への愛情のために生きていて、孤独であれば死んでもよいと考えていた。
しかし、それも間違っているというか、まあこのような信条に間違いもクソもないと思うのだが、もはや、それを信条として生きていけなくなった。
自分からの愛情すら分からなくなってしまったのに、自分への愛情など推し量られるものではないし、自分から自分への愛情など尚更である。
死ぬことへの不安と生きることへの不安が釣り合っているように感じる。
時が解決してくれ、天秤が、左へ傾くことを祈る。
宮台真司は、マニア・学者とオタクの違いとして、前者は(例えばマニアであれば切手収集、学者であれば恐竜の研究など)その趣味を好むこと自体には他者にとっても理解可能であるが、後者は(漫画・アニメの少女に欲情するなど)他者には理解不可能であるという違いを挙げている[17]。また別の説明として、マニアの没入対象には性の自意識が関係していないが、オタクの場合はそれが関係しているという点[注 1]を挙げることもできるという[19]。宮台の整理によると、1977年頃から若者の間で「オタク系とナンパ系の分岐」が発生しており、(魅力的ではなくなった現実を乗り切るために)現実を記号的に装飾し性愛に積極的にコミットするという方法(現実の虚構化)を選択したのが「ナンパ系」であり、逆に性愛から退却し虚構を駆使して現実から遠ざかる方法(虚構の現実化)を選択したのが「オタク系」となる[20]。
無性愛とかじゃないが、人を好きになったことがない。女も男も。
友達や親に「だれか好きな人はいないの?」ってよく言われてきたけど、
誰かを好きになった記憶がない。
相当お気に入りのAV女優が近くのポルノショップにドサ回りに来てるという情報を知っても
別にその本人に会いたいとは思わなかった。
風俗でも基本は一度しか同じ子は呼ばない。同じ金使うなら色んな子と遊んだ方がいいから。
学生時代まで顔や体つきには関心があっても、その人のことを知りたいとか、そばに居たいと思ったことがない。
人を好きになる感覚を理解できずに、白髪まじりの大人になってしまったが、
経済的にも人間関係的にも大きな問題はなく、大きな悩みもない。
その勇気や覚悟に心を動かされると同時に、己を振り返ってみたのだが
そもそも、私は、自分が異性愛者か同性愛者かそれ以外か、断言することができないな、と思った。
友人としては決して嫌いではなかったのに、その好意はまったく嬉しいと思えなかった。
多分、私は、友人が私に対して、恋愛的な好意を持った瞬間がどこだったかを知っている。
一瞬「あれ、いま、変な雰囲気になったな?」と思ったのだが、疑ったりへんに距離を置くことは友人として失礼だと思ったため
意識的にスルーして、友人として付き合い続けていたのだ。その数ヵ月後に告白されるに至ってしまった。
告白はすぐさま断った。そうしたら、もう友人としてさえ話せなくなった。
それ以来、「あれ、いま、変な雰囲気になったな?」を感じ取ったら、その男性からは離れるようにしている。
その気もないのに好かれるのは重荷だし、応える気もないなら早めにはなれるべきだと思ったからだ。
もともと友人だったり同僚だったり、恋愛以外の関係性を築いてきた人から
恋愛対象として見られるのがすごく苦手だ。
そんな風に思わせてしまった己に問題があったのか、とどこかで自分を責めてしまう。
それでも、何度かは男性と付き合った。
「人と一対一で付き合うってことから逃げちゃいかん、人生の中で必要なことだ」と己を鼓舞し、
たとえば昔の同級生であったり、ライブなどに出かけた先で知り合った人であったり、
付き合っても別れても周りに一切影響が出ない人を選んで付き合った。
そういうとき、「好かれる」ことは嬉しいことだなと一瞬だけ思えた。恋愛の高揚らしきものもあった。
けれどもその後は、ただひたすらに面倒で、性的な接触が気持ち悪くて、
3ヶ月と耐えることができなかった。
かといって、同性愛者なのか、と考えるとそれもそうは思いがたい。
尾篭な話で申し訳ないが、ではお前には性欲がまったくないのかと言われると、あるにはある、とは思う。
でも、別に、そのためにお金を使う気はしないし、相手を探す気もしない。一人でひっそりと処理できる程度のものだ。
アセクシャルという言葉を知ったとき、わたしはそれかもしれないと思った。
けれど、アセクシャルは性欲自体がないのだという。そうとも言い切れない。
なにより、「私は無性愛者だ!この先恋愛もしないし結婚もしない!」と言い切るのは不安だ。
もしかしたら、精神の成長がどこかいびつなだけかも知れないし、
性嫌悪や何か別の要因があるのかもしれない。
誰かを好きになるならば同性でも異性でも両性でも言えてしまうのだろうが、
「だれも好きではない」状態がいつまで続くのか、これは性志向の問題なのか、それがわからない。
結婚なんてしないよ、恋人なんていなくてもたのしいよ。今のところは、そういって笑っていられる。
けれど、自分の性志向について、いつまでもブラックボックスのようなものが足にまとわりついている。
きっとこのブラックボックスは、これから年齢を重ねるとともにその存在感を増すだろう。
どう向き合っていけばいいのか、未だに覚悟を決められずにいる。
ペドフィリア、つまり小児性愛は、同性愛や両性愛や無性愛と並ぶ、ひとつの立派な性愛の形である。
それは精神障碍や「異常」ではない(無性愛がそうではないように)。「治療」されるべきものではない(両性愛がそうではないように)。性愛を持っているだけで犯罪化されるべきものではない(同性愛がそうではないように!)。
これがわかっていない論者は、残念だが小児性愛に関してはいっさい信用に値しない。性差別反対を高らかに掲げ実際にそのように振る舞う社会正義の戦士たちが平気で小児性愛を差別する、そんな光景を何度見てきたことだろうか。もちろんこれがわかっているひとは大勢いる。だがわかっていないひともまた、大勢いる。
ことだけだ。成人の異性愛者は成人の異性と合意の上でセックスできる。成人の同性愛者は同じく同性と。しかし小児性愛者たちにそれは許されていない。仮に同意がほんとうにあったのだとしても、それは法的には同意ではないし、子どもと大人のあいだの圧倒的な力関係を考えると倫理的にも同意と認めることはできない。
ゆえに、小児性愛者たちは、自らの性愛の対象と性的関係を持つことはできない。それが禁止されるべきなのは、当然だ。そして少なくとも日本やアメリカや欧州の多くの国ぐにでは、子どもと性的関係を持つことは性愛に関係なく法で禁止されている。これは差別ではない。
だが、逆に言えば、それ以外のすべての権利は、彼らに認められるべきだ。
差別されない権利。白眼視されない権利。小児性愛者という理由で職を奪われない権利。住居から追い出されない権利。パレードで歩く権利。胸を張って堂々と生きていく権利。
日本ではあまり聞かないが、アメリカなどでは小児性愛者は立派なヘイトクライムの対象だ。小児性愛者という理由で近隣住民から嫌がらせを受け転居に至る事例なんて数知れない。たとえ彼らが実際に子どもに手を出していなくても、だ。
子どもに手を出した大人は、小児性愛者かそうでないかにかかわらず、厳しく罰せられるべきだ(男をレイプした男がそう扱われるべきであるように――同性愛者だろうがそうでなかろうが、レイプは厳罰に処されなければいけない)。でも、犯罪に手を染めていない無辜の小児性愛者をいじめていい道理がどこにあるというのか?
なぜ小児性愛者のことをそんなに配慮しないといけないか? かれらはわたしたちの中にいるからだ。人口は少ないが、それでも一定数、常に存在しているからだ。そしてかれらの多くは、自分の秘密を、暴露したら自分の身を破滅させかねない秘密を隠したまま生きている。
まあもう一年くらい経つけど、twitterでゲイだと友達にバレて罵倒された人のLINEがでまわってきたんで今更思い出した。
区内でもとびきりシャレオツパリジャンなことで有名な喫茶店で明石焼き食ってたら、急になんか切りだされた。
フツーにふわふわモテカワ小悪魔処女ビッチ系の人。ていうかビッチだと思ってた。穴に肉棒が入った回数が x 回以上の人間は男も女もゴリラもみんなビッチだくそったれ。
まあしかしなんてーか、そういうのって背が高くてショートでサバサバ系(?)に固まるもんだってなんとなくのイメージを持っていたもんで、
畳み掛けるようにして「こういうの急に言われて迷惑だよね。ごめんね。これからも友達でいてくれる?」と
早口で訊ねてきたのでこっちも勢いで「お、おう」的なしどろもどろな返事を最大限テンションという名のオブラートに包んで返送した。具体的に何を口走ったかは憶えてない。とにかく一時でも笑顔を切らしたら泣かれると思ってあらんかぎりの表情筋を出血大セールで総動員した。あのときの私は親やお客様がたにさえ見せたことのない日本ナンバーワンのスマイル、マックで出したら金取れるレベルの笑顔を見せていたと思う。その必至の努力のかいもあって見事に、
泣かれた。
私のことを「一番の親友」と呼び、「嫌われたらどうしようと思って辛かった」と彼女は号泣した。
今でも表面的には友達をやっているわけであるが、つきあい方は微妙に、ほんの微妙に変わった。
以前だってよく話していたわけではないが、性愛や恋愛に関する話題(一般、個別両方)がゼロになった。
近況のうちに入る話題なので、気になるといえば気になるのだけれど、なんだか「そこ」は踏み入ってはいけない領域であるような気がする。
いや、頼めば彼女は気軽にあがらせてくれるかもしれない。きっと、あがらせてくれるだろう。
でも、あがらせてもらった私のほうの居心地が悪くなるのだ。
彼女は私にとって初の同性愛者(少なくとも私の知る限りでは)の知人だ。私は彼女の陣地のどこに地雷が埋まっているのかを知らない。私は知り合いの女たちの地雷のありかを、男たちの地雷のありかを、なんとなく知っているような気がする。そう思い込みつつコミュニケーションができる。
地雷を踏んでしまうのが怖い。傷つけてしまうのが怖い。傷つけることで自分が傷つくのが怖い。
色恋以外の分野でもふとした瞬間に「あ、これ以上はふみこんじゃいけないんだ」って自制がちょくちょく働いてしまう。
その遠慮を相手に気づかれるのが怖い。
もう気づかれているのかもしれない。
カミングアウト以前の彼女は身の回りに起こった出来事をなんでも私に報告してくれるピクミンのような存在だった。でも本当は「なんでも」ではなかった。
選んでいたのだ。選んで、こちらに伝えていたのだ。
そういう繊細なコミュニケーションを計れる人間が、どうしてこちらの情報の取捨選択の微妙さに勘付かないでいられるだろう。
いや、きっと気づいてる。
絶対に気づいている。
私は私の彼女に対する遠慮を知られて、彼女が傷つくのを恐れている。
彼女が傷ついて、私が傷つくのを恐れている。
私は正しくない人間だ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160221-00010000-bfj-pol
T当事者です。
この議員さんの発言は各方面配慮が足りなすぎて困ってしまいますが、概ねTをその他と別けて何とかしろって意見には賛成です。
最近のLGBT関連の動きは家族制度の改革と性愛対象による差別の撤廃を目標に動いていてそれはとれも良いことだと思います。
このまま行けば性愛対象は本当に好みの問題の範囲にまで持っていける方向に進みそうですし。
でも、T、性同一性障害は何も解決しないんんですよ。
LGBは外観を変える必要が無いけど、Tは(現状)戸籍変更に性別再指定手術が必須で、QOLのためには継続的なホルモン治療と性器以外の整形等、医療行為が必用です。
ただでさえ働く事にハンディキャップが有るのにその上治療にお金と時間を取られていくので差別の撤廃だけで満足されてもこっちの受ける恩恵なんてほとんど無いんですけど。
なろう小説をいくつか読んでみたんですが、なんでハーレムものばっかりなんでしょうか。
しかもちゃんと結婚はする、っていうのも多くて、不思議だなあ、と。
と、これは若者の間にポリアモリー的な性的指向が普及しつつあることの表れなのではないかと考えています。
複数の異性と付き合うというと浮気っていうのは昔からありますが、あれは背徳感だったり托卵だったりとちょっとネガティブなイメージが付きまといますが、ポリアモリー、要するに多夫多妻制はお互いがオープンなのでどちらかというとポジティブなイメージです。
その中で、宗教観も薄い日本の若者は日本古来というか人類古来の性愛の形に帰りつつあるのではないでしょうか。
これが善いとか悪いとかではないのですが、今後流行る作品とかのテーマになったりとか、社会制度を見直さないといけないだろうなとか、いろいろ考えたりします。
随分長いこと旦那とは付き合ってる。
土日は二人共映画や買い物や温泉や旅行で遊びに。疲れていたらぐっすり寝る。
それ以上でもそれ以下でもない。
この人と遊べなくなったら寂しいなぁと思うので離婚はしないし、結婚しておいたほうが一緒に住むのにいろいろ言われることもないから結婚した。
だからたまに「子供は?」と聞かれても「なんで?」という回答しかできない。
子供産むために結婚したわけじゃなく、単に一緒に遊ぶ相手として楽しいし、長いこと一緒にいられるとおもったから結婚しただけ。
そもそも子供がほしいという感覚自体が生まれて一度も持ったことがない。
「本当に好きな人に出会ったら、その人の子供が欲しくなるよ。思わないなら、旦那さんのことそこまで愛してないんだよ。」と言われたけども、
子供をほしいと思わないと相手のことを愛してないことになるんだろうか。
子供をほしいという感情は私には全くわからない感情だけど、その感情が愛情の一つの形としてこの世に存在しているのはわからなくもない。
けど、愛情の形はそれだけではないだろうし、そう思わないからといって愛してないということはないと思うのだが。
恋愛感情を持たない無性愛者という方が世の中にいるのは知っている。
それに該当するのか?と思いきや一応性欲はあるのでセックスレスではない。
けれど子供をほしいと思わないと愛していないと言われるのなら、子供をほしいと思ったことが人生で一度もない私は無性愛者なのだろうか。